北大学大学院文学研究科
博士学位論文

 

論文タイトル:対話化されたモラル
サルトルの演劇作品における「対話」を巡る考察
 
提出者:翠川 博之
東北大学大学院文学研究科文化科学専攻
専攻分野 フランス語学フランス文学


指導教官:東北大学大学院文学研究科
齊藤征雄 教授
阿部 宏 教授
今井 勉助教授
Yann Mével外国人教師
 


論文内容要旨


1. 研究主題,研究対象,及び方法論        1
2. 論文構成,及び要旨                    3
3. 結論                                  8
 


1. 研究主題,研究対象,及び方法論


本論考の主要目的は,サルトル( Jean-Paul Sartre, 1905-1980 )の演劇作品を題材とし,戯曲を構成する「対話」の分析を通じて,全く独自の視点から可能な存在論的倫理としての「対話化されたモラル une morale dialoguée 」を提起し,これを明確に定義することにある.「倫理」とは主体的立法でも,所与の絶対的規範でもなく,現実,より具体的には「状況 situation 」という,個人と他者との共同の場において,相互行為を通じて創出されるべき価値であるという立場をわれわれは終始論考の準拠としてきた.この方向性は, サルトルが1945年から50年頃にかけて構想した「存在論的倫理」の鍵概念を,死後出版された『倫理学ノート Cahiers pour une morale 』(1983)から抽出し,同時期の『文学とは何か Qu’est-ce que la littérature? 』(1948)に著された倫理的概念と比較検討した上で導出し,受け継いだものである.
サルトル自身は結局,「自由の相互承認」を基礎原理とするこの「倫理」を哲学的著作として纏めることを断念してしまったが,それは,「存在論的倫理」の 構想の出発点となった『存在と無 L’Être et le Néant 』(1943)が(存在論的概念としての)「他者」に対して,「自由としての主体」の概念を過度に偏重していたことから生じる理論的矛盾に由来するものと 考えられる.一方,われわれは「可能な倫理」の探求の場を,彼の哲学的言説にではなく,常に具体的な「状況」において,具体的な「他者関係」を提示する彼 の演劇テクストに求めている.実際,構想された『倫理』のための断片的記述に含まれる倫理的概念は一概に哲学的であるとは断言できない側面を持っており, 『ノート』に記されたいくつかの主要概念は『文学とは何か』で公にされたサルトル独自の文学論のなかに,文学において目指されるべき理念として結実してい る.とりわけ,広く知られた「アンガジュマン( engagement )としての文学」という理念は,「自由」を唯一の価値とする主客相互のコミュニケーションを実現する媒介として文学を捉える点において,文学空間を倫理的 に特権化するサルトル独自の倫理思想の方向性を如実に示している.「アンガジュマンとしての文学」自体は,主に小説という文学ジャンルを念頭において思惟 されたものであったが,サルトル自身は1950年以降,文学活動の中心を演劇の創作に移している.したがって,われわれが失われた倫理としての「存在論的 倫理」の可能性を考察するのは,劇作家としてのサルトルが最も多産であった時期,すなわち1950年代の戯曲においてである.われわれはそこに彼の文学理 念の完全な実現を見ることができるだろう.同時期に行われたある対談で,サルトルは,演劇という形式こそ「行為中の人間 homme en acte 」を提示するのに哲学以上に適した形式であると述べているが,他者との対立に起因するそれぞれの困難な状況を,これに直面する登場人物がいかに乗り越えて 行くのかを明らかにしつつ,われわれが探求する倫理とは,哲学と次元を異にする,人間のより具体的な「行為」,「活動」の相から捉えられるものとなる.特 に注目しなければならないのは,彼の演劇において提示された何人かの登場人物達が,あるタイプの「対話」を通じて,主客の相克関係を乗り越えた協調的関 係,さらには一種の道徳的関係を築き上げていることが観察されるという事実である.倫理というものが,他者との価値の共有可能性を是非視野に入れて構築さ れるべきものであるとするならば,他者との具体的な関わりにおいて,個人的行為の意味が行為者自らによって見出されて行く演劇作品の分析を通じて,われわ れはより具体的かつ直接的に倫理の方向性を模索することができるのである.「相互性」の基盤の上に構築されるべき倫理に関する,具体的かつ実践的モデルを 演劇的「対話モデル」を通じて再構築するために,われわれは考察において戯曲の「対話分析」という方法を選択している.
「サルトルの倫理」を可能な方向性において考察するにあたり,さしあたりその探求の起点とすべき「サルトルの存在論」に固有の,倫理探究の困難さを指摘 しなければならない.「サルトルの倫理」の導入概念は,『存在と無』で示された,「対自存在( être pour soi )とはいかなる本質によってもあらかじめ定義されない自由である( être libre )」という思想に集約される.対自が存在様態の基本構造において,いかなる本質的属性にも回収されない「自由そのもの」として把握されるならば,その「自 由」が明晰に意識されることこそ対自にとって本来的( authentique )である.「自由」を明晰に自覚する存在は,「自由」を唯一の価値として,「自由」の実現を目指して行為することになるが,ここに倫理構想の難題が生じる のである.サルトル理論が存在の自由以外の外的価値を認めない以上,その倫理が一般的に予想されるような所与の外在的かつ普遍的行動規範を導出し得ないこ とは明らかである.さらに,サルトルにおいては「対自の自由」の対立項を先ず「他者」に置き,その関係の本質を相克に見るために,倫理を概念化するために は,「自由」として記述される対自相互がいかに倫理的に共存可能かという問題をどうしても乗り越えなければならない.また倫理とは立法であり,ひとつひと つの規則が行為の指導原理として要請され受容される法則を意味するものである以上,それが必然的に主体の自由に一定の拘束を加えるものであることも考慮し なければならない.「自由な存在」はこの準則をいかに受容可能かという問題の解決は,実に倫理構想の大前提をなしていると言って過言ではないのである.
以上の困難な要件を満たし,可能な倫理を構想するために,一体どんな理論モデルを用いることができるだろうか.われわれがそこで採用するのが,「遊戯/ 演戯 jeu 」のモデルなのである.われわれは「遊戯」を「他者との相互承認に基づいて,自由に同意される規則を創出する,それ自体自由な活動」として定義することが できるだろう.「遊戯」は様々な様態を取り得る活動であるが,われわれは先ず,「相互的遊戯活動」をモデルとして「対話」における遊戯的形態についての考 察を戯曲の「対話分析」を通じて進め,そこから「対話化されたモラル」としての「遊戯的対話」の概念を提起する.さらに,『倫理学ノート』で構想され, 『文学とは何か』で展開された「呼びかけ( appel )としての文学」という問題系の枠組みから,パロール( parole )で構成されている演劇そのものが,劇場において実現する「遊戯的/演劇的対話」を詳細に検討し,それが実際,倫理的問題を「賭金/争点 enjeu 」とする,それ自体ひとつの対話的モラルを体現していることを実証する.


2. 論文の構成,及び要旨


第 I 章 不可能な「対話」
『存在と無 L’Être et le Néant 』(1943)の存在論から相互的倫理を構想することの困難を具体的状況において確認するために,相互性構築の障害となるところのものを戯曲『蝿 Les Mouches 』(1943)及び『出口なし Huis clos 』(1945)の分析を通じて明らかにする.
I 戯曲『蝿』における受取人不在のメッセージ,あるいは「迷走する言葉」
『存在と無』における「対自存在」にあっては,「為す欲求」,「持つ欲求」が「在る欲求」の動機をなしている.この「対自存在」の隠喩として描かれた 『蝿』の主人公オレステスの他者関係においては,彼の「自由」の実現に伴う所有への意志,「我有化 appropriation 」が他者との間に避けがたい相克関係を惹起する.所有物に対する専制的かつ恣意的権利を要求する「自由な主体=オレステス」の行為は他者関係に所有を巡る 力の影響関係,すなわち「権力関係」を構築し,そこに必然的に「所有するもの−所有されるもの」の相克を形成するのである.この相克関係は本作品におい て,「見るもの−見られるもの」という視覚的相克を示す「眼差し regard 」の対向関係に象徴されている.相克関係にある他者との相互性形成の不可能性は,『蝿』の対話分析を通じ「対話行為」の不可能性として顕在化していること が明らかとなる.
II 戯曲『出口なし』における主体の自己同一性の問題
「眼差し」に象徴される他者との相克関係,相互的対話行為を不可能にする立場の非対称性は,「我有化」を目指す「自由な主体」が構築する「権力関係」に 起因するものであった.しかし一方で,この関係にある限り「自由な主体」はその自己同一性の確認,維持を他者との関わりを通じて実現することが不可能とな る.「権力関係」における主体の自己同一性の危機という問題は,『存在と無』で詳述された「対他存在」の存在様態を具体的に表現したものと見做される戯曲 『出口なし』の分析を通じて明らかになった問題である.特に性的な意味で他者の所有を目指し,任意の所有物とする他者の「眼差し」を通じて,自己同一性の 回復を図ろうとする三人の死者たちは,邪魔な一人を排除することで目指す相手の所有を企てるが,三者が互いに牽制し戦略的に振る舞うことで,いずれも望み を果たすことができない.作品の対話分析が明確にするのは,相互の思惑が絡むこの三竦みの関係において,主体は常に他者が欲する未知の第三者の役割を演じ ることを余儀なくされ,主体の語る言葉はその都度,第三者の「言葉」にすり替えられてしまうという事態である.
第 II 章 「遊戯的/演劇的対話」の諸形態
構想された「存在論的倫理」の主要概念を検討し,可能な「対話化されたモラル」の理論的準拠を確定する.その方向性の延長に,「遊戯的対話」という対話構造を発見し,その諸形態を具体的分析において確認する.
III 構想された存在論的倫理 1945-1950
サルトルが構想した「存在論的倫理」の骨子をなすものとして,『倫理学ノート』の断片群,及び,『文学とは何か』の関連項目から抽出した鍵概念に基づき,われわれが「倫理的対話モデル」の必要十分条件と考えたのは以下の諸項目である.
1. それが,主客の「自由の相互承認」を含むこと.
2. それが留保のない「相互性」によって遂行されること.
3. 言葉による「呼びかけ」が,呼びかけが行われる場,すなわち巻き込まれている状況を露にするものであると同時に,呼びかけられた者が呼びかけた者の行為を引き継ぎ,対称的に呼びかける者の状況をもまた露にするような「相互的行為」であること.
4. この行為が所与の連帯ではなく,構築される連帯において遂行されること.
5. このとき行為とは「言葉」によって媒介されたものでありながら,可能な限り直接的な関係においてなされること.
以上の要件を満たす「相互行為」としての「倫理的対話モデル」は,1950年以降の戯曲において,作品主題として提起される倫理的と見做し得る諸価値との関連性を考慮しつつ探求され得る.
IV 戯曲『悪魔と神』における「ダブル・バインド」と「遊戯的対話」
『悪魔と神 Le Diable et le bon Dieu 』(1951)の主人公ゲッツは,他者の「眼差し」によって客体化された「私生児」,「裏切り者」という像に自己の像を一致させることを自己の絶対原則と し,この原則によって自己を疎外している.この自己疎外の苦悩から逃れるために,彼は神の倫理である「絶対的純粋善」を人間の身ながら実践しようと企てる が,この実践も挫折に終わっている.自己と他者の相互承認に基づかない絶対的規範の独善的遵守は,結局,他者との関係性をも疎外する事態を招くのである. この事実をわれわれはゲッツと彼を愛する二人の女性の対話分析を通じて明確に裏付けることができる.自己の行為を絶対の原則から導くゲッツの言動は相互コ ミュニケーションにおける「暴力」を生む.ゲッツのこの「暴力」は言語的メッセージと,メッセージそのものについての論評を構成するメタ・メッセージの故 意の混同によって生じるものであると分析できるが,コミュニケーションにおいて暴力的なパラドクスを引き起こすこの「ダブル・バインド double bind 」は彼らの愛情に関わる非対称的関係,「権力関係」に由来するものである.
ところで,サルトルが自らの演劇作品の制作に適用する「廻転装置tourniquet 」は「ダブル・バインド」と同様の構造を持っている.しかし,ゲッツとハインリッヒの対話はこの「廻転装置」によって構成されたものでありながら,彼らの 間では対話が「暴力」とはならず「暴力」の演技を含んだ「遊戯」となっている.パラドクスを孕む彼らの対話において,彼ら対話者が相互に「対等」であると いう条件の下で,メッセージに混入されたメタ・メッセージは矛盾なく相互了解されるのである.表層の対立関係に深層の共感が維持されたこの関係を,われわ れは「遊戯的関係 relations de jeu 」と呼び,立場の対立を仮構し,際立たせ,維持するための協働が相互に意識されたこの対話を「遊戯的対話 dialogue de jeu 」と名付けた.「遊戯的関係」に基づく「遊戯的対話」を通じて,他者との対等な関係性の具体的なありかたを体得したゲッツは,農民戦争という状況を前に 「アンガジュマン」へと導かれる.サルトルが『文学とは何か』で提起した「アンガジュマン」とは,実際,他者との「遊戯的関係」に基づく「遊戯的対話」に 等しい構造を持ったものであることが確認される.そこでは,自らが巻き込まれた( être engagé )状況において,自己が果たすべき「役割」が他者との関わりにおいて明晰に自覚され,その「役割」を主体的に引き受け,演じる行為が絶対的規範によってで はなく,他者との対話を通じて創出される共同の価値によって律せられるのである.
またこの作品の分析におけるわれわれのもう一つの着眼点は,主人公ゲッツが自らの行為の意味を明晰に意識化するまでのプロセスにあった.主体における反 省作用は自己同一性維持の危機に陥っている主体の意識においては,無限の自己言及となり,有効に機能しないことがある.われわれはそれを「善」の実践に挫 折したゲッツの,行為の解釈を巡る自問,「私は嘘をついている」に観察することができるのである.しかし,その行為の「意味」は「遊戯的対話」の「間主体 的な場」,「共同の現在」において把握され,明晰に意識化されるに到る.自己同一性とは主体的意識においてではなく,他者との具体的な関わりのなかで回復 されるものであることがゲッツとハインリッヒの「遊戯的対話」の分析を通じてまた明らかにされるのである.
V戯曲『キーン』における「遊戯/演戯」する意識の問題
行為する人間が,「行為者」であると同時にまた果たすべき役割を負った「役者」であるとするならば,他者によって期待される「役割」の交錯のうちに自己 の「行為」についての明晰な自覚を失った人物がその状態をいかに克服し得るかについても当然その道筋を検討しなければならない.われわれがサルトルによる 脚色『キーン Kean 』(1953)において考察の対象としたのはまさにその点であった. 
役者キーンが自己の「行為」との区別を見失っているところの「演技 jeu 」と,「遊戯的対話」における「遊戯 jeu 」を区別することは形式的には不可能である.「遊戯」においては,また「演技」する活動においても,主体は常に自己が置かれ,活動している状況に対し明晰 な自覚がなければならない.さらに言えば,主体は自らが「自由である」ことを意識し,自らの「自由」に基づいて演じ,遊んでいることを常に自覚しつつ活動 しなければならないのである.自己の「自由」また「自由」に基づいて選択された「行為」についての自覚を欠く活動,またその状態に陥っている事態をサルト ルは『存在と無』で「自己欺瞞 mauvaise foi 」と呼んでいた.演じられるべき役柄を自己の「行為」と取り違える役者キーンは,したがって,「自己欺瞞」に陥っていたと言うことができるのである.しか しながら,キーンはアンナという対話パートナーとの「遊戯的対話」を通じて,演じ,遊ぶ行為において不可欠な,遊戯活動の参加に関する構造的な自意識を回 復してゆく.遊戯活動に自己を拘束する自由を主体は持っているが,また他者もその自由な意志に基づいて共通の遊戯に参加していることを主体は同時に認めな ければならない.したがって,遊戯においては遊戯への自己拘束が自覚されている限りにおいて,他者の自由の承認が必然的に包含されていると言うことができ る.遊戯においては自由が共同形式のもとで実現される.そして,そこで実現された自由の具体的発露となるものこそ,遊戯において協働的に創出される遊戯の 規則,すなわち,協同価値なのである.
第 III 章 「遊戯的対話」というモラル
「遊戯的対話」の分析を踏まえ,これを「対話化されたモラル」の実践モデルとして提起し,原理を提案する.これを「現実的」なモデルとして提起するため に,「遊戯」の「非現実性」,現実的価値の「非生産性」という定義上の問題を戯曲の分析を通じて解決することを試みる.
VI 戯曲『アルトナの幽閉者』における「対話」の可能性としてのモラルの問題
『存在と無』において「対自存在」は「自由」によって定義づけられると同時に「自由」を実現するための「我有化」する意志によっても規定されていた.し かし,われわれは『アルトナの幽閉者 Les Séquestrés d’Altona 』(1959)において,「対自存在」におけるこの「所有」と「自由」の関係を根本的に見直す機会を得るのである.
造船会社の所有者として養育された主人公フランツは,オレステスと同じく,「所有権の行使」をその行動原理としている.彼が築く他者関係にもまた権力の 非対称性に由来する相克関係が構成されており,彼と彼の幽閉を助ける女性達との間で交わされる対話には,この関係性に由来するコミュニケーションにおける 「暴力」,「ダブル・バインド」が観察される.われわれが一連の対話分析を通じて明らかにしたところとは,他者との正常な関係の構築を妨げるのは権威主体 による専制的な所有権の行使であり,換言すれば,「権力関係」においては他者とのいかなる相互性も形成不可能であるということであった.この関係にある限 り,権力において劣位にある者は「暴力」に曝され続け,また一方で優位にある者も他者との相互性を築くことなく,ついに自己についての真性の意識に到達す ることはできないのである.「拷問」に手を染めたことに罪の意識を抱きつつも,狂人の「ふり」をしながら暗に免責特権を求め,行為の真の意味を自問し続け ていたフランツが直面していたのもまさにこの事態である.しかしフランツには彼と唯一「対等な関係」を築くことができる彼の父親の存在があった.彼は父親 との「遊戯的関係」に基づく「遊戯的対話」を通じて,自らの行為の意味を自覚的に把握して行く.常に「現在」を基点に展開される「遊戯的対話」においてフ ランツの過去の行為は,父親との「共同の現在」において再現され,この文脈において再解釈されるのである.自由意志によって自己拘束し,他者の自由を承認 しつつ,共同の価値を探求する相互的活動,すなわち「遊戯的対話」に導かれ,所有物に対する専制的権利を行使することが,戦後世界においてはもはや無益で あることを悟った二人の「所有者」は,共に命を絶つという選択をする.「対自」における「我有化」の否定は本作品において,「所有者=権力者」の死の選択 という消極的な形でしか提示されていないが,われわれは,「遊戯的対話」を通じて,「死」さえ共有し得るような強い連帯を築いている二人の関係性から, 「共生すべし」の逆命題を引き出すことが可能である.以上の考察から,対自存在の「自由」はもはや「我有」において実現されるのではなく,「相互的共生」 において実現されるべきものであると結論することができるのである.
他者との相互性において「自由」を実現する「相互的共生への意志」が「我有への意志」,及びこの意志が必然的に惹起する他者との相克関係を乗り越え,可 能な「存在論的倫理」の方向性を示唆するものであるとすれば,われわれは,「対話」の倫理的可能性としての,「遊戯的関係」,「遊戯的対話」をその実践的 モデルとして提起することができるだろう.主体は他者の自らに対する「対等性」を認めることで,「遊戯的対話」という相互的活動に自己拘束することができ る.活動に参加する主体は「自由」であるが,その「自由」は他者との相互的関係性を構築することへの意志において実現される.「対等な関係」を前提として 開始される「遊戯的対話」において,主体は他者との関係において自らが果たさなければならない役割に自己拘束し,そこでこの活動は主客の絶対的対立がもは や問題とはならないような「間主体的な場」を創造する.そこで主体は,相互的対話の自己目的性,自立性に導かれ,主観性という主体的意識の限界を乗り越え てゆくのである.「遊戯的対話」が生成する「共同の現在」において,いかなる独善的立法,超越的規範の介在もなしに,対話の場で創出される共有可能な価値 によって,主客の行為は再定義され,新たな行為へと方向づけられて行く.この相互的活動において主体の行為に対する責任は,主客の「共同責任」となり,か くして,行為の規範としての「倫理」は他者と共に創出され,共有される価値,また共有される責任において定義されるのである.
VI 『トロイアの女たち』が示す「世界」
しかし問題は,「存在論的倫理」の実践モデルとしての「遊戯的対話」が前提とする他者との「対等な関係」がそもそもいかに実現可能かという点にあるだろ う.これはまた「現実的」なものとして提起されるべき「遊戯的対話」を規定する「遊戯」の「非現実性」という定義上の矛盾をいかに解決すべきかという問題 と共に,是非とも考察されなければならない問題である.サルトルが最後に手掛けたエウリピデスの同タイトルの悲劇の脚色『トロイアの女たち Les Troyennes 』(1965)においてわれわれが考察したのはまさに以上の問題であった.
現代では既に信仰されていない神々が登場するギリシア悲劇という形式をあえて選択し,脚色に独特の詩的対話体を採用することでサルトルがそこに提示した のは,「遊ぶ主体のない遊び」としての「世界像」だったのである.言語を媒介とする一切の合理的思惟,日常的かつ現実的価値によって把握されない,「偶然 性」としての,あるいは「不条理」としての「世界」を,別の人間を演じる人間,神々を演じる人間,非現実的枠組みにおいて世界内存在を再現し遊ぶ人間の 「遊戯/演戯」に反照させることで,人間はその世界連関を直観することができるのである.そこで,人間は,日常性,あるいは現実性を構成する「内世界的存 在物」から超出し,「世界」においては自らがいかなる「本質」によっても規定されず,「自由」を宣告され,「自由」のなかに投げ込まれて在ることを再認識 する.「遊戯/演戯」という日常的価値の生産性に規定されない「非現実」を通じて「世界」を直観し,この世界直観を経由して,固定化された「現実」に回帰 する実存は,「世界的」視野から展望された目指されるべき未来の「現実」へ向けて自己の行為を選択し,自己を投企する.かくして,「遊戯」の「非現実性」 とは世界を開示し了解しつつ世界内に存在する実存にとって,世界認識において「現実」と相互補完的な関係を構成するものであり,「遊戯」とは「現実的行 為」に対し,世界的視野から「行為の契機」を与える活動であり得ると考えられるのである.また「遊戯」を通じて「世界」を直観する実存においては,自らと 等しく「自由」のなかに投げ出されているものとして,「対等」な立場にある他者の「自由」を承認することが可能である.
以上の考察を通じて,「遊戯的対話」は優れて現実的であるために,非現実的要素を包含していなければならず,世界直観を可能とする非現実性を定義として 受け容れることによってのみ,「自由」と「自由の相互承認」が可能になることが確認されたのである.「倫理」とは主体的立法でも,所与の絶対的規範でもな く,現実,より具体的には「状況」という,個人と他者との共同の場において,相互行為を通じて創出されるべき価値であるという観点に立つとき,われわれの 「遊戯的対話」とは,「現実」の次元において,「現実」に存在する人間が,共同性のうちに,一定の価値を探求する活動であることによって,「倫理」であり 得るのである.


3. 結論


以上の論考を経て,われわれは,「遊戯的対話」を可能な「存在論的倫理」の実践モデルとして,その原理を「遊戯」の定義(8項目)に沿って提案すること ができる.われわれがサルトルの演劇作品の対話分析を通じて提起する「対話化されたモラル」としての「遊戯的対話」の諸原理の要諦(「遊戯」定義8項目の うち7及び8に含まれる原理)は以下のようなものである.
1. 自由な活動.(細目省略)
2. 対等な活動.(細目省略)
3. 未定の活動.(細目省略)
4. 規則のある活動.(細目省略)
5. 隔離された活動.(細目省略)
6. 不可逆的活動(細目省略)
7. 虚構の活動.
7.1. 「遊戯的対話」において,「日常的活動としての対話」に対し「非現実」として意識され,「非現実」を維持するために必要な枠組みを提供する要素とは,遊戯の定義1?6の下位に列記された以下の諸原理を指す.
[3.1.] あらかじめ決定された前提,漠然たる常識,理想といった外的基準を持ち出さないこと,同時に対話を通じて獲得される共通認識以外の外的基準への収斂を目指さないこと.
[4.1.] 言葉の背後にある関係ではなく,語りだされる言葉そのものだけが拘束力を持つものであること.
[4.2.2.] 争点における相手との対立を明確に自覚し,対立を利用して対話を活性化させること.
[4.2.3.] 対話における言葉の交換そのものに対称性,規則性が見出され,対話者が対話の場で創出する一定の規則性に沿って対話が展開されること.
[5.1.] 対話を特権化する限定された時と場において,言葉のみを介する限りなく直接的な関係がその隔離された状況において維持されること.
[6.1.1.] 対話の自立性に負って,発言された内容が先の発言に矛盾するとしても,発言が絶えず変化する可能性に対して開かれていること.矛盾が批判の対象とならないこと.
7.2. 以上の諸原理が「遊戯的対話」の「遊戯的」,すなわち「非現実的」枠組みを対話の場に与えることにより「遊戯的対話」の参加者は日常的価値に拘束された 生,及び現実の一義性を脱し,対話を通じて自律的に定められる演戯的役割において,存在と価値の多義性を獲得する.「遊戯的対話」における存在と価値の多 義性の獲得は根源的多義性としての世界直観に通じ,包括的視野から「根源的自由」が再把握されることで,普遍的世界に包摂される個別的世界内存在の「自 由」が「対等な関係」において相互承認される,これは「対等な活動」としての遊戯を内側から支える根拠となり,「遊戯的対話」における以下の本質的原理を 根底において支持する.
[1.1.1.] 対話への参加,対話の維持,すなわち対話への「自己拘束」は対話者の自由な意志に基づくものであること.
[1.2.] 対話の参加者においては相互の自由が承認されること.
[2.1.1.]「対話」が「対話の場」以外の身分や立場に拘束され,「権力」によって影響されないこと.
8. 非生産的活動.
8.1 原理7により,「遊戯的対話」は現実的な諸価値からの脱自的活動として規定される.したがって原理3 「未定の活動」に含まれる諸原理を支持する.
[3.1.] あらかじめ決定された前提,漠然たる常識,理想といった外的基準を持ち出さないこと,同時に対話を通じて獲得される共通認識以外の外的基準への収斂を目指さないこと.
[3.2.1.] 対話の自立性に負った形で対話行為が導かれる,対話行為そのものにおいて次の行為が方向決定されること.
[3.2.2.] 対話の自律性とは相互性に基づく創意の具体的発露であること.
8.2. 「遊戯的対話」は世界直観に通じる( 原理 7.2.)が,しかし人間的理性を超越した「世界運動」そのものではなく,あくまでも世界内存在による内世界的活動であることによって,完全な不条理に還 元されることはない.したがって,「遊戯的対話」は,現実的価値に依拠しないことによって「遊戯」的であるが,遊戯の枠組みにおいては,自律的な目的,意 味といった「現実」とは別の次元での諸価値を必然的に創出しつつ展開される( 原理 4 「規則のある活動」 ).「遊戯的対話」において創出された諸価値は,「遊戯」と「現実」の相補性に基づき,現実的次元で遂行される現実の超出に向けた「行為」に一定の「契 機」を提供する.したがって「遊戯的対話」は,定義により,それ自体現実的価値の生産によって規定されないが,現実の次元に留まっては到達されず,しか も,現実的行為の枠組みにも移行可能な,いわば遊戯的価値を創出する潜在性を内包している.
 
さて,常に「論争的 polémique 」な状況を提示するサルトルの演劇作品は,それが内蔵する「廻転装置」によって,演劇空間としての劇場を「遊戯的関係」によって維持される「共同かつ現在 的な場」へと変化させる可能性を持っている.劇場において演劇の虚構性を暴く「廻転装置」は「虚構」に対する批判的な距離を創出し,これによって役者,観 衆(=聴衆,public )が作者と「対等な立場」から,作者が提示する問題を共有し,関わることができるのである.演劇の虚構を暴く「矛盾」とは,遊戯における「これは遊戯であ る」というメタ・メッセージに相当する,劇場空間に「遊戯的対話」の場を現出させる意志を持つ作者からの「呼びかけ」なのである.われわれはサルトルの演 劇作品にこそ,その「呼びかけとしての文学」の本領を見るのであるが,作者からの「呼びかけ」に応答するためには,それを聞き逃さない「注意深い耳」がな ければならない.「対話化されたモラル」が成就するためには,他者からの「呼びかけ」に常に身構えている「注意深い耳」が必要なのである.他者を「化石化 する眼差しregard pétrifiant 」がサルトルの初期の演劇作品群において「相克関係」を象徴するものであったのに対し,われわれは,われわれの考察の帰結として,「注意深い耳 oreille attentive」を「相互性」の象徴として提起する.「遊戯的対話」の構築を形式からではなく,内的に支持するのは,他者の「呼びかけ」に対し「応 答」することを誓う,他者と現実に対して開かれた個人の自由な選択そのものなのである.