桜井先生より一言

 二千五百年ほどの歴史を有する仏教は,その故郷インドを飛び出して広くアジア全体に広まりました。そして人々の宗教思想は言うに及ばず文化芸術から生活慣習に到るまで幅広い影響を与え,各土地土地での固有の文化とも溶け合って多様な色彩を織りなしてきたことは周知のことです。

 そのような長く深い背景を有する仏教のうち,私達の研究室では特にインド亜大陸内と東南アジア(スリランカやタイ等),及びチベット文化圏で信仰され学ばれていたものを,残された経典や解説書などの読解,言い換えれば文献学的手法を用いて考究しています。

 そのためにサンスクリット語・パーリ語のような仏教文献の原典を記しているインドの言語,及び原典の翻訳テクストの言語であるチベット語や古典漢文に習熟する必要があります。また欧米での研究成果(学術論文)に目を通すために英語のほか,少なくともドイツ語・フランス語の知識が必要ですし,扱う内容によってはイタリア語や現代中国語が分かると便利な場合もあります。脳細胞が新鮮で幾らでも新しい知識を受け入れられる若い内に,出来るだけ様々な言語に親しんで下さい。

 さて,私(桜井)自身が専門としているのは仏教の最後に出来した「密教」或いは「タントラ仏教」と呼ばれる分野であり,インドとチベットが地域上のフィールドとなります。その際にインド密教の研究を進めて行く上ではサンスクリット原典の手書き写本を,またチベット密教を考察する際には「蔵外文献」と呼ばれる木版刷りの古文書をそれぞれ基本資料として用います。いずれも私達が見慣れている「書籍」とは形態が大きく異なり,扱いに慣れるまで多少の時間を必要としますが,生の一次資料だけに当時の人々の肉声を直接聴くことに似た醍醐味もあります。

 どのような分野のテクストであれ,先ずはそれらを構成している一つひとつの「言葉」に徹底的に拘ってみて下さい。そして,何が分かっていることで何が未知なることなのかを意識する「文献に対する真摯な態度」を常に持ち続けながら,自分なりの興味と疑問を明確にすることが出来れば,初めは迷宮に思えるかも知れない文献の殿堂が,やがて何物にも代え難い宝庫であることに気付く筈です。

 みなさん自身の手で,その殿堂の鍵を開けてみませんか。