第1会場◆

  

鎌倉期禅僧の浄土教観―とくに円爾弁円を中心として
東北大学大学院  東海林 良昌
 今回取り上げる円爾弁円(一二〇二〜八〇)は東福寺の開山として多くの門弟を擁し鎌倉時代の禅宗を語る上で欠かせない存在である。にも関わらず彼の思想研究は驚くほど進んでいない。その理由としては、まず著作が少ないという史料的な制限があったことと、もう一つは密教的修法をも併存させた彼の仏教理解が兼修禅として消極的に評されてきたことなどがあげられる。

 しかし近年、兼修的と評される円爾の思想が、実は諸宗に優越して禅宗の教理を位置づけていたことや、顕密僧とは立場を異にする僧として貴顕の尊崇を集めていたことなどが明らかにされ、彼の思想に再び光が当てられている。今後円爾の思想は宗派史の枠組を超えて、その中世仏教・社会史上の意義を問われていくことになろう。

 さて、私が本発表で考察を試みるのは、円爾の浄土教理解である。これまで円爾の説く禅宗の教理や、顕密僧に対峙する禅僧としての特性が明らかにされている。しかし、彼らに先んじた新興の専修念仏教団との差異化をいかように図っていたのかに観点を置いた研究は見られない。かかる差異化に関する課題は、すでに専修念仏の教義を受容していた当代の貴顕と円爾との交渉において、特に克服せねばならなかったと私は推察する。それを明らかにすることによって、当時まだまだ日本で知られていなかった「禅」という新しい仏教教理の伝達過程の複雑さに迫ることができると思う。



 
明恵の密教思想
日本学術振興会特別研究員  前川 健一
 明恵の思想に於いて、密教は重要な部分を占める。出自の上から言っても、明恵は神護寺に所属する密教僧として出発したのあり、生涯にわたって、密教との関わりが見られる。しかし、従来の研究では、特定のテーマのみが取り上げられており、明恵の密教の全体像が問題とされることは少なかったように思われる。

 明恵自身の著作では、密教が直接の主題とされることは必ずしも多くないが、弟子達による聞書類では、広く教相・事相にわたる明恵の所説が記されている。本発表では、『真聞集』『栂尾御物語』『高山随聞秘密抄』の三書を中心として考察を試みたい。

 伝記などの記述からすると、明恵は上覚や興然から受法し、仁和寺に於いて教相を学んだとされる。しかし、明恵の密教に対する知識の範囲はこれだけにとどまるものではなく、聞書類の記述では慈円との接触や台密との関わりも示唆される。

 明恵の生きた鎌倉初期、密教の事相は多くの流派に分かれ、教相に於いても平安時代末以来活発な研究が続けられてきた。こうした状況の中で、明恵は何か既定の教説を受容したというよりも、しばしば通説を批判し自らの見解を示すという姿勢が見られる。それは、華厳教学の受容とも共通するものであり、こうした明恵の基本姿勢から、彼の顕密にわたる思想の在り方を統一的に考察できるのではないかと考える。



 
東北における時衆の受容
国府台女子学院教諭  古賀 克彦
 時衆というと、主に一遍智真を想い浮かべるであろう。確かに彼は、『一遍聖絵』によれば、弘安3[1280]年秋、白川[河]関を越え、奥州へ赴いた。平泉を経て江刺郡にある祖父河野通信の墳墓を詣で、上饅頭を囲んで21人の僧尼が座している。肉親を捨て果てた一遍にも、「承久の変」で流罪となった河野一族の菩提を弔う意向があったのだろう。この墓は「聖塚」と呼ばれ、今も岩手県北上市稲瀬町水越にある。翌年春には、一遍は同行18名と共に(先年より減っている)、雪に覆われた江刺から、平泉や松島一帯を賦算・教化し勿来関を経て常陸に入っている。その後も、一遍後継者である歴代の他阿弥陀仏が遊行した為であろう、東北地方では今でも少なからね数の「時宗」寺院がある。また、宮城県登米郡南方村にある、五十余人の結縁衆が四八日のあいだ踊り念仏を修した事を記した「正安二[1300]年閏七月十五日」銘を持つ板牌があることも、当地での受容を物語ろう。

 だが、特に山形では、一遍と並んで、代表的な遊行の時衆聖である一向俊聖の影響も見逃せない。1996年に発見された、山形県天童市高野坊遺跡発掘の墨書礫により、それまで伝承に過ぎなかった一向の存在が俄に現実性を帯びたのである。また『天童落城並彿向寺縁起』や『一向上人血脈相承譜』には、法然の弟子である金光の事績(学牛の往生寺)を取り入れた記述もあり、慈恩寺に一向派末寺があった事も考察しなければらないだろう。



 
『平家物語』における運命観の変容―延慶本と『源平盛衰記』
東北大学大学院  岩井 千恵
 栄華から滅亡へ向かう平家一門の流転を、『平家物語』では様々な思想的要素を用いて説明している。その諸要素は多層的構造をなしているが、なかでも重要な位置を占めているのが運命である。先行研究では諸本それぞれの特徴を個別的に扱っているものが多く、諸本間における思想的相違については論ずる余地があるように思う。運命を考察する場合、諸本間の相違を見過ごすことができないのである。

 本発表では、延慶本と『源平盛衰記』を取り上げ、両本の運命観の性質の違いを検討する。延慶本は鎌倉中期の成立で古態を残す本と言われており、『源平盛衰記』は南北朝期の成立の最後出本とされる。どちらも読み本系に分類される本である。成立年代の異なる同系統の二つの本を比較し、運命観の変容を考察することで、それぞれが成立した時代の思想の一端が見えてくるのである。『平家物語』は諸本成立当時の思想を取り入れながら再構成されてきたことを示すことができると考える。

 延慶本における運命は最も根元的な思想的要素であって、いかなるものにも規制されない。それに対して『源平盛衰記』では、人間の悪行への応報として運が尽きるという構図がみられ、倫理的応報の観念がより強く打ち出されている点が特徴的である。本来不可避・不可測的なものであったはずの運命が、応報の観念の枠組みに組み込まれていったと言える。

  以上のような点に注目しながら、延慶本と『源平盛衰記』における運命観の内実を明らかにし、運命観が変容していった意味を問い直したい。



 
心を付けて感ずべし―『等伯画説』の一節
学習院大学  田村 航
 『等伯画説』は十六世紀末に成立した画論である。絵師等伯の語録を中心に、本法寺の僧日通がまとめたものである。

 この書物にはよく言及される一節がある。梁階の「柳ニ鳥ノ絵」を、堺の茶人水落宗恵が「鳴呼しづかな絵で有御座」と評価する一節である。「しづかな絵」というこの評語は『等伯画説』の眼目とされ、さらには等伯自身の作品にまで適用されるようになった。

 従来のこうした理解はいささか訂正されるべきかも知れない。日通が自らの感想として「しづかな絵」「いそがわしき絵」などの評価を「心を付而可感事也」と括るからである。これは個別・具体的な評語を、鑑賞方法という次元でとらえかえしているのである。問題の一節で重要なのは「しづかな絵」よりも、むしろ「心を付而可感事」ではないか。

 では、「心を付而可感」とは如何なることなのか。水落宗恵が津田宗及のサロンに属し、そこで「しづかなる」「いそがハしき」の評語が頻出するところから、茶道と深くかかわっていよう。茶道では「心」による主客の一致を目指し、これはそのまま鑑賞者と絵画世界の関係にもあてはまる。「心を付而可感」は鑑賞者の絵画世界への没入・両者の融合を意味し、茶道のみならず中世芸道論と理念を共有する。

 本報告では、以上を確認したい。
 



 
パネル・セッション 『麗気記』にみる中世ー神道思想研究の新たなる視座を求めてー
〈コーディネーター〉大正大学 三橋 正
〔趣旨〕

 中世神道思想が日本思想史研究の重要なテーマであることは誰もが認めており、一九七七年には日本思想大系の一冊として『中世神道論』が刊行されている。しかし、中世前期の神道書の多くは、その成立過程すら明らかでなく、内容の検討も十分になされていない。両部神道(真言神道)の代表的な書とされる『麗気記』もその一つで、本書について研究し、思想史的な位置付けをすることは重要である。

 『麗気記』は伊勢神宮(内下両宮)の歴史・社殿・神宝・神体などについて説明したものである。『日本書紀』や『神道五部書』を基にした部分もあるが、すべての巻に密教的解釈が盛り込まれ、その内容は難解である。すでに『弘法大師全集』と『神道大系』(真言神道・上)に活字化されているが、いずれの校訂も不十分で、それによって正確な『麗気記』像が描けるとは考えられない。そこで、私たちは一九九四年に「神仏習合研究会」を結成し、『麗気記』の読解を試みはじめた。底本に尊経閣本(旧金沢文庫剱阿手沢本)を用い、他の中世の写本と校合して校訂本文を確立するだけでなく、それぞれの訓をも比較検討しながら書き下し文・注釈を作成し、さらに現代語訳を付していった。そして今年、その前半(上巻)の作業を終了し、刊行する運びとなったのである。

 ここでは、私たちの成果の一部を示しながら、『麗気記』の構成・言説・図像・注釈などについて分析し、そこから明らかになる中世神道思想の発生と展開について論じてみたい。



 
『麗気記』世界の生成―その構造を読み解く―
大正大学  三橋 正
 全十八巻からなる『麗気記』は、金沢文庫の剱阿(一二六一〜一三三八)手沢本があり、また度会家行(一二五六〜?)の『類聚神祇本源』に引用されるなど、鎌倉末には成立・流布していたと考えられる。

 全体の構成は、前半六巻((1)「二所大神宮麗気記」、(2)「神天上地下次第」、(3)「降臨次第麗気記」、(4)「天地麗気記」、(5)「天照皇大神宮鎮座次第」、(6)「豊受大神鎮座次第」)と後半八巻((7)「心柱麗気記」、(8)「神梵語麗気記」、(10)「万鏡本縁神霊瑞器記」、(11)「神号麗気記」、(12)「神形注麗気記」、(13)「三界表麗気記」、(14)「現図麗気記」、(15)「仏法神道麗気記」)、そして「神体図」四巻からなり、前半六巻と後半八巻では性質を異にすることがわかる。また、それぞれの巻の間で重複する部分がありながら、必ずしも内容(言説)が統一されてはいない。つまり『麗気記』は、別々に成立した巻の集成であり、それらが緩やかな関連を持ちながら全体を構成しているのである。

 本報告では特に、前半六巻について内容を分析し、一つ一つの巻がいかに形成されたかを再現することによって、中世神道の発生について考えてみたい。



 
『麗気記』の図象学 ―中世神道のイメージとシンボル―
いわき明星大学  門屋 温
 『麗気記』全十八巻には、「神体図」と称する図像のみの巻が四巻含まれている。そこに描かれた図像が何を意味し、『麗気記』全体の内容とどういう関係にあるのかについて、まともに取り組んだ研究は、今のところないと言ってよい。また「神体図」以外の巻でも、(2)「神天上地下次第」、(3)「降臨次第麗気記」、(6)「心柱麗気記」、(11)「神形注麗気記」、(12)「三界表麗気記」、(13)「現図麗気記」にはそれぞれ図が描かれており、それらの図はそれが描かれている巻の文章だけではなく、他の巻の記述とも密接に連関しているらしいことが、前半六巻の解読を通して、次第に明らかになってきた。おそらくは、これらの図像の持つ意味を明らかにすることが、『麗気記』全体の構想を解き明かすうえでも重要であると思われる。

 また『麗気記』以外でも、『両宮本誓理趣摩訶衍』・『日諱貴本紀』・『天照皇太神遷幸時代抄』等、両部神道書の中には図像を含むものが少なくない。このことは、中世の両部神道説にとって、図像の果たす役割が決して小さくないことを意味する。言説が先か、図像が先か、という問題を常にはらみつつも、両者は互いにリンクしながら、神道説の展開を支えていると思われる。たとえば三種の神器や心御柱といった、実在はするが不可視のシンボルをめぐる様々な言説が展開するのもまた中世であるが、それらのイメージを支えるものとしての図像の機能も見直す必要があるだろう。

 本報告では、『麗気記』前半六巻における図像の果たす役割を中心に、後半および「神体図」解読の見通しを述べたうえで、さらに中世神道説における図像をどうとらえるべきかという問題提起ができればと考えている。



 
『麗気記』と〈註釈〉―中世註釈学の言説世界から―
早稲田大学  原 克昭
 中世にはじつにさまざまなかたちで〈註釈〉という営為が行われた。『麗気記』もまた例外ではない。中世の『麗気記』註釈書としては、『麗気制作抄』が比較的流布したらしく、『日本書紀私見聞(春瑜本)』『神宮方并神仏一致抄』に抄録されているほか、神宮文庫蔵『鹿米抄』(「鹿米」は「麗氣」をもじった書名)も同書という。さらには、浄土宗第七祖の聖冏著『麗気記私鈔』『麗気記拾遺抄』『麗気記神図画抄』、比叡山学匠の良遍述『麗気聞書』『麗気記抄』などがあり、おなじく良遍の講述にかかる『神代巻私見聞』巻下(第三五条〜)は『麗気記』の〈註釈〉に宛てられる。

 本報告では、中世における〈註釈〉のありようをみとどけたうえで、『麗気記』にまつわる〈註釈〉の諸相を概観することにしたい。きわめて難解な『麗気記』を現代の文脈で読むのではなく、中世という時代にあって『麗気記』がいかに認識され解釈されてきたか、中世註釈学の言説世界からさぐりあてる試みである。



 
埋没する『麗気記』世界―〈校訂〉する近世―
宗教情報リサーチセンター研究員 森 瑞枝
 近世の『麗気記』は、元来は一つの巻のタイトルであった『天地麗気記』と総称された。(4)「天地麗気記」は、内容的にも総論にふさわしい(1)「二所太神宮麗気記」に替わって、巻頭に配置された。その経緯は今後の課題であるが、(4)「天地麗気記」が『麗気記』全体を代表するにふさわしい呼称と認められたのである。『天地麗気記』と総称されたことで、(4)「天地麗気記」以外の巻は、『天地麗気記』に包括され、それぞれの独自性を弱めることになった。

 『天地麗気記』は、特定の法流に連なる僧侶や限定された神社の神職を超えて知られていた。その時、『麗気記』は、もはや一つの独立した世界を形づくる教説ではなく、「習合神道」のあまたの重要資料の一つであり、図像や儀礼から遊離した、文字テキストとしての側面に偏った受容であった。

 さらに、「習合神道」は「神道」の一流派であり、その文献は、習合以前の神道からの派生もしくは改変と考えられた。そのため『麗気記』の外部に『麗気記』の根拠が求められた。近世の写本(国会図書館本、京都府立図書館本、天理図書館本)は、巻の編成だけでなく、本文・訓点の細部にわたって、中世の諸本とは明かに異なる特徴がある。それは共通の祖本にもとづくためというよりは、合理的な正しい本文・訓点を施そうとする、校訂意識によるものと考えられる。本報告では、近世写本の考証学的態度が、「本来の姿」に近づけようとして、かえって元の姿をかき消してしまったことを示したい。
 


◆第2会場◆

 
李朝後期知識人の他者像―姜の『看羊録』・朴趾源の『熱河日記』から反映された他者
広島大学大学院 金 仙照
 1597年、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際、日本に連行されてきた李朝の知識人姜(1567〜1618年)は、2年8ヶ月の日本抑留生活を基に『看羊録』を著した。従来、姜に関する研究の多くは主に姜の藤原惺窩に対する思想的影響の側面が強調されてきた。充分とは言えない研究状況とは裏腹に「日本に朱子学を伝えた」という言説は一つの「姜伝説」を形成していると言えよう。『看羊録』の価値の一つは、「野蛮」な倭によって捕らえられるという屈辱を経験をした「文明国」李朝の知識人が、日本をどのように認識し、それが自意識どのように反映されたかという点にある。

 『熱河日記』は1780年、乾隆帝の70歳を祝賀する使節の一員として北京・熱川に赴いた朴趾源(1737〜1805年)の旅行記である。朴趾源は北学派の巨頭と言及される人物で、彼に関する研究は約400に及ぶが、北学思想形成に対する影響や文学者たる側面の分析が主とされてきた。そこでここでは約5ヶ月間の経験が詳細に描写されている『熱河日記』を通じ、従来の分析対象となっていなかった彼の清(王朝)という「他者」を通して現れる自意識に注目したい。

 朱子学の世界観の範疇内に生きていた李朝の知識人にとり、外の世界で出会う他者はいかなる意味を持つものであったのか、またその具体的対面を通じて彼らの自意識にどのように反映されたのか。そしてこのような分析が、今日のわれわれにどのような意味を与えているのかについて、検討を加えてみたい。



 
熊沢蕃山の『周易』解釈における独自性―「陰陽」をキーワードに
閻 
 熊沢番山の『周易』解釈は一見朱熹のを敷衍しているように見えるが、実際は重要な概念解釈においては異なっていた。たとえば「陰陽」解釈である。朱熹の「陰陽」は「善悪」を特性とし「相尅」「相勝」を相互関係とし交錯しての「推行」を運動形式とした。「善悪」とは法則に従っての確率の高低によっての「陽」の「善」と「陰」の「悪」のことであり、「相尅」「相勝」「推行」とは、相反する性質を持つ「陰」と「陽」が交錯して相手に変ることによって、反撥しあっての運動をすることである。これに対して、蕃山の「陰陽」は、「皆善」を特性とし「不相害」―「相求」「相生」―を相互関係とし「並行」を運動形式とした。「皆善」とは「陰」と「陽」が双方ともに価値あるものであること、「不相害」とは「陰」と「陽」が互いに敵対しないこと、「並行」とは「陰」と「陽」が「車」の「両輪」のように同時に存在して働くことであった。この蕃山の「陰陽」は「命」と結びつけられて宿命論の人生観を合理化する観念となった。すなわち「陽」とされる「富貴」の「士」と「陰」とされる「貧賤」の「民」という「順命」と「逆命」の境遇は、生得されるものとして「皆善」だから、とくに「逆命」の「貧賤」の「民」が「順命」の「富貴」の「士」に敵対することなく、自らの「逆命」を価値あるものとし「順命」のものとともに社会を構成する部分として働かなければならないという人生観であった。



 
熊沢蕃山の天皇観―雅楽観の解明を通じて
東北大学大学院 大川 真
 和辻哲郎が叙述した「尊王」思想史においては、文化共同体の統一の象徴体として天皇が一貫して自覚されてきたことを提示することがモチーフとなっている。そのモチーフに相応しい「尊王」の起源の一つに、熊沢蕃山の天皇観が挙げられている。和辻によれば、蕃山は、特殊日本的な「道」の実現を、皇室の伝統に内に求めた思想家とされる。和辻以降に熊沢蕃山の天皇観に部分的に触れた研究はいくつかあるが、こうした和辻の理解の妥当性を検討するまでには至っていない。

 蕃山は、「礼楽」を朝廷が保持してきたからこそ、日本が文明国たり得たと述べ、「礼楽」の内の「楽」、特に雅楽を、教化政策において重要なものとして考えている。蕃山は、当代の日本の儒学者たちは、一様に、宋明学を「格法」的に受容して、道を見失っているとし、宋明学による教化(「理学」「心法」)は、道なき時代の教化法であり、理想とする教化法とは程遠いとする。それとは対照的に、日本の朝廷の雅楽による教化は、古代中国で行われた理想的教化法であり、演奏する人・聞く人の双方ともに、「不知不識」に「堯舜」「武王」という中国古代の聖王の治世にいるような気持ちにさせて、教化すると言う。蕃山が、朝廷の雅楽に託したものは、特殊日本的な道の発見ではなく、中国・日本に普遍性を持った「道」を人々に知らしめることであった。



 
荀子と徂徠学
東京大学大学院  韓 東育
 荀子は、徂徠学の〈祖型〉と言われている(井上哲次郎、岩橋遵成など)。同時に、それが徂徠学と「決定的な相違」が存するという正反対の議論もあった(丸山真男など)。たしかに、たとえば徂徠が荀子的性悪説を取らない点は看過してはならないが、しかし彼が荀子とまったく異なるということは到底無理だと思われる。ここでは、両者の思想を対照しながら検討し、〈荀子は徂徠学における祖型の一部である〉ことを明らかにしたい。

 徂徠学を形成論的にとらえるとき、次のことを指摘できる。(1)『読荀子』は「中歳の作」ではあるが、荀子は晩年定論した徂徠学の構築に、きわめて重要な役割を果している。(2)徂徠学は『六経』を中心とするが、「世人荀子を知らず、何を以て能く六経を讀まんや」という徂徠の話が示したように、その際荀子は根本的な位置にある。(3)徂徠学は、〈脱儒入法〉の傾向を明らかに含んだのは、荀子が韓非子への「架橋」になっているからである。(4)「気質不変化」説は、荀子の「人性論」から韓非子の「人情論」への変容によるものである。

 思想の内容から言っても、荀子と徂徠学との「決定的相違」を言うことは困難で、より深く見ると、両者の類似点が浮かび上がってくる。(1)たしかに荀子は(徂徠学と異なり)修身と治国を「連続している」。しかし、荀子の修身的標準は畢竟先天的道徳ではなく、「礼」である。(2)たしかに、徂徠は「人性論」が「無用」だと言っている。しかし、詳しく見れば、彼は実質的に荀子・性悪説に似た近いものを持っている。(3)荀・徂「聖人論」は必ずしも相違しない。荀子の「道の極」の考えにはじつは「聖人に為る」ことは容易ではないという示唆が内包されている。(4)荀子は「公・私」未分化と言われる。しかしじつは荀子は「公義を以て私欲に勝つ」と言っている。この「公義」への強調は「政治優位論」であり、その意味で私と分化させて公を立ち上げる側面を含んでいる。



 
賀茂真淵における自然観と政治思想
宮城教育大学  本郷 隆盛
 徳川思想史における国学的思惟の登場は、徳川思想史においてのみならず、日本の思想史においても最大の事件の一つである。

 なんとなれば、それは、徳川時代において体系的に受容された儒学を総体的に批判し、それとは異質な世界像を形象化してみせたからであり、さらにまた、そこで獲得された思惟の枠組みは、それ以後の思想展開に大きな影響を与えるとともに、近代日本のイデオロギー的支柱となり、いまなお日本の社会を内側から拘束しているかにみえるからである。

 その思惟の枠組みは、一方では、人間や社会の自然の発見によって儒教の規範主義、道徳的リゴリズムを「人作」として批判し、人間の欲望を人間の自然として解放するものであったが、他方では、日本の古典を典拠として“日本の自然”を読み出し、人々の意識と行動を、日本的自然(=天皇制)の中に囲い込もうとするものでもあった。

 そこでこの報告では、国学的思惟の先駆者である真淵を対象としてそこで読み出された人間・社会及び日本の“自然”の実態を明らかにしつつ、それとどのように向き合うか、真淵によって批判された儒学への回帰ではなく、国学的思惟自体を相対化する観点とは何かを考えてみたい。



 
本多利明の「他者」認識
中央大学大学院  宮田 純
 本多利明(寛保三〜文政三)は、近世後期の思想家であり、「重商主義」的経済政策と全世界的視野を盛り込んだ経世論を唱えた人物として知られている。今回の報告で主題とするのは、利明の経世論を構築するにあたり必要不可欠である「他者認識」である。常に日本国と日本人の将来のありかたに対しての提言を著述の中に表現していく姿勢の外側には日本国、日本人以外のすべてを相対化するという作業を行い、さらに相対化したものの理解するという方法論がとられている。以上の過程を経て、日本国の将来のあり方が示唆されるのである。これらを前提に日本国、日本人以外の「他者」をどのように認識しているかという命題に対峙することによって利明の経世論を読み解くことが可能となる。具体的には「土人」等のキーワードを中心に、どのような文脈で表現され、どのように理解され、将来の日本のありかたへの理論的根拠の一要素になっていたのかどうかを考察するものである。

利明の経世論の世界的展開を「植民地開拓」を目的としたものであるとすると、征服さるべき「他者」とはいかなる存在であったのか、どのような理由づけをもとに日本人と「他者」との差異を認識していたのかなどが報告の中心となる。さらに理想とした「他者」=西洋(西域)の利明にとってのありかたも、征服される「他者」にどのように関連してくるのかにまで踏み込めればと思っている。



 
頼山陽における経学と史学
東北大学大学院  玉田 典子
 頼山陽(安永九・一七八〇〜天保三・一八三二年)年は、江戸時代後期に活躍した歴史家・詩人である。山陽の歴史思想についての先行研究では、主として『日本外史』や『日本政記』にみられる「天」の観念や「勢」の観念に着目して、その関係性を考察し、史論の特色を規定付けることが試みられてきたと言える。

 しかし、山陽の思想を明らかにするためには、史論の内容を問題とするのみに止まらず、山陽がなぜ史学に志したのか、また史論の執筆にどのような意義を見いだそうとしていたのか、という学問的態度についても詳細に検討する必要があるだろう。従来この点について、十分な考察がなされてきたとは言い難く、山陽の父・春水から山陽へという世代交代を「経学から史学へ」という図式で捉え、山陽が経学を拒み、史学に志したとする見解が提示されるに止まっている。だが、幽居中の書簡で史学に志した経緯を確認すると、山陽は経学を重視しており、その後も一貫して経学と史学を兼修すべきことを主張している。

 では、山陽は経学に対してどのような見解を持っていたのであろうか。この問題を解明することは、史論の執筆にどのような意義を見い出そうとしていたのか、という史学の問題に関わる重要な鍵となると考えられる。

 本発表では以上を踏まえて、未だ十分に考察されていない経学についての見解は、『孟子』の経文解釈を用いて考察することにする。



 
吉田松陰と後期水戸学の距離―「安政三年八月」をめぐって
東北大学大学院  桐原 健真
 「向に八月の間、一友に啓発せられて、矍然として始めて悟れり。従前天朝を憂へしは、並夷狄に憤をなして見を起せり。本末既に錯れり、真に天朝を憂ふるに非ざりしなり。…」(「又読む七則」)

 一八五六(安政三)年一一月に著されたこの「又読む七則」は、吉田松陰の強烈な自己批判を表明する文書であり、そこには国防論(海防論)から尊王論への「コペルニクス的転回」(源了圓氏)を見ることが出来ると言われ、さらにこの「転回」の思想的内容は兵学から水戸学への「転回」として把握されることが少なくない。しかしこの「転回」をもたらした「一友」すなわち安藝の一向僧黙霖が後期水戸学に対して極めて批判的な人物であつたことを考えると、問題はそう単純ではないことがわかる。

 本報告では黙霖との書簡論争や、投獄・幽囚期における松陰の読書録である『野山獄読書記』に現れた同時期以降に劇的な変化を見せるその読書傾向などを検討することで、「八月」における「転回」の解釈を改めて問い直し、さらに松陰の尊王論の性格を把握することを主題とするものであり、同時にこのことは幕末期における尊攘論が倒幕論へと展開していく過程を明らかにすることに資するものとなろう。



元三大師御籤注解考
愛知県立大学  大野 出
 おみくじの代名詞とも言える元三大師御籤であるが、この一番から百番までの全てを一冊に纏めたものが、江戸時代にはあった。書名も装丁も多種多様であるが、これらを総称して元三大師御籤本と呼んでいる。現存するものも甚だ多く、当時いかに多くの人々が買い求めていたかが分かる。

 多種多様な元三大師御籤本であるが、そこに記された一番から百番に対応する百首の漢詩については共通している。そして、この百首の漢詩から運勢が導き出される。この運勢について詳しく解説した注解が、大半の元三大師御籤本には記されている。

 この注解を詳細に比較してゆくと、多くの古典がそうであるように、元三大師御籤本も注解によって幾種かの系統に類別できることに気づく。その中の一つに、『天保新選永代大雑書万暦大成』以降、当時の家庭百科とも言える大雑書に合刻され続けていた元三大師御籤本の系統がある。

 この系統の元三大師御籤本の注解は、大雑書を通しても多くの人々に読まれていたことになるが、ここには、運勢とは変えることのできない決定づけられたものなのではなく、おみくじを抽いた者の倫理的行為の如何によって、吉にも凶にも大きく転換するという興味深い思想が展開されている。

 本発表では、その思想史的意義および背景についても、合わせて考えてみたい。



 
武士をめぐる語りと「武士道」
愛知県立大学  樋口 浩造
 本報告は、「武士道」という素材を、「江戸」と「近代」との往還の中に置くことを通じて、歴史、あるいは歴史表象の問題を思想史的に考えてみようとするものである。

 近代からの呼び出しについては、井上哲次郎と、和辻哲郎及びその後継を二つの時代の武士道の呼び出しとして取り上げていく。まず井上が行う武士道の伝統化が帝国の立ち上げの時期に語られるのに対し、和辻たちは総力戦期の武士道を形象化するという時代的コンテクストを確認し、と同時に、いかに和辻らが井上を批判(「本当の武士道」を提示)し、井上の武士道論を見るべき価値のない亜流にしていったのかについても考えてみたい。

 さらに、では江戸期における武士道とはどのような文脈で理解されるべきか、戦後の一連の葉隠解釈を参照しながら考えてみたい。そこでの方法的課題は、「本当の武士道」が、和辻以後繰り返し提示される在り方を問題化することを企図している。

 その上で、江戸期の武士の社会的在り方をめぐる語りを、いったん近代的な呼び出しの枠組みから引き離し、武士の在り方をめぐる当該期のディスコースの中に置いてみることが重要であると考える。あらかじめ士道と武士道に棲み分けられていたわけではない江戸期の武士の在り方をめぐる諸表象を、その混在の在り方の中に差し戻すことを心がける中で、方法的課題と学説史的課題への応答が交差する地点を模索していきたい。


◆第3会場◆

 

西田哲学に見る宋学的伝統
関西大学  井上 克人
 近代日本における西洋哲学の受容は、日本の〈知〉の歴史において、きわめて重大な意味をもつものであった。それは、これまで伝統的に培われてきたわが国の学問・思想のあり方に根本的な反省を促すものとなったからである。

 ところで、明治期における思想的伝統を考える場合、もちろん仏教や国学の存在は無視できないにせよ、人々の生活様式のなかにもっとも直接的な体験として培われていたのは何と言っても儒教的素養であったことは否定できない。明治五(1872)年の「学制」発布後、近代的な小学校が創設されていくなかで、近世からの生き残りの儒者たちは自ら漢学塾を開き、当時の子供たちに漢学の教養の手ほどきをしていたのである。つまり少なくとも明治初期に生まれ育った思想家たちの殆どが、程度の差こそあれ、その思考の発想の原点に宋儒学の影響が濃厚であったことは念頭に入れておくべきであろう。明治三年生まれの西田幾多郎(1870〜1945)もその例外ではない。

 従来、西田哲学における東洋的伝統といえば専ら臨済禅、もしくは大乗仏教の面ばかりが取りざたされ、主客未分の「純粋経験」論およびそれを踏まえた宗教哲学にのみ限局されて理解される嫌いがあったが、本発表では上記のような視点に立って、いわゆる禅をもその内に含む宋儒学的伝統を、西田の思考様式の内に見ていきたい。



 
「内村鑑三不敬事件」再考
宮城学院高等学校  今高 義也
 一八九一(明治二四年)一月九日、第一高等中学校嘱託教員内村鑑三は、同校の教育勅語奉読式において、その〈宸署〉に対する敬礼が足らなかったとして非難され、事実上の解職となった。研究史上残されている問題は、″この日あえて出席した内村(他のキリスト者教員二人は慎重を期して欠席)の覚悟如何″である。はたして「奉拝」を拒否する決意を固めて式に臨んだのだろうか。「全く心の準備がなかった」との内村自身の告白からしても、むしろ内村は天皇を敬愛し勅語の精神を奉じる「愛国的キリスト者」としての〈良心〉から、自分なりの〈敬礼〉をなすつもりで式に参列していたのではないか。しかし、式が進行する中で、「仏教や神道の儀式で祖先の位牌の前でするようになっている同じやり方で」頭を下げなければならない(「礼拝的低頭」)という、内村にとっては予想外の「奉拝」理解が教頭から示されたことによって、この「奉拝」は「自分のキリスト教的良心を傷つける」ことになるとの咄嗟の判断が働き、内村は「低頭」を「躊躇」することになったのである。確かに「事件」の前日、自らの属する札幌教会退会を親友の宮部金吾に宛てて通告している(理由には触れず)のは、札幌教会に累を及ぼすまいとの配慮からだろう。しかしそれは翌日の勅語奉読式に向けての覚悟というよりも、天皇神格化を認めるわけにはゆかない自分に近い将来迫害が加えられることは避けられないであろうとの、いわば〈中長期的な覚悟〉を示しているのではなかろうか。



 
志賀重昂の儒教教育主義批判
ボンド大学  ギャビン・まさこ
 明治20年代、言論界は条約改正をめぐりこれまでにみない活発な論争を展開した。近代西洋式教育を受けた明治期の第二世代の知識人は、政府の西洋列国に対する軟弱な態度を強く批判した。志賀重昂はこの様な体制批判をした一人で、国粋主義者、また徳富蘇峰の知的ライバルとして知られている。また志賀は地理学者でジャーナリストでもあり、当時には珍しく南洋を訪れることのできた思想家の一人であった。

 志賀と徳富は、日本の工業化に関していろいろな共通した考えをもっていたにも関わらず、志賀は「保守的」、徳富は「革新的」とみられてきている。この「保守」、「革新」二分説のために、志賀は当時も今も「保守主義者」とみられることが多い。志賀自身は「保守主義者」と呼ばれるのを嫌い、明治30年に教育勅語が発布されると、勅語を編纂するのに影響力を持っていた「保守主義者」特に儒教主義を強く批判した。(*ここで「儒教主義者」というのは教育勅語を編纂するのに影響力を持ち、また明治43年以降国民道徳運動を推進した学者、特に井上哲治郎を指す。)

 また明治43年以降儒教主義者が国民道徳運動を日本全国に推進しようとした時も志買は強く批判した。にもかかわらず、国粋提唱がよく知られている反面、志賀の儒教主義者批判や、教育に関する考えはあまり研究されていない。この研究では、明治43年以降、国民道徳運動を推進した儒教主義者を志賀が強く批判した時に焦点をあて、志賀の批判を分析することで次の二つの点を明らかにしたい。一つは、儒教主義者は志賀の知的活動のライバルであったこと。もう一つは志賀は新しい日本の教育の在り方を深く懸念した思想家であったということである。

 志賀は、南洋で西洋文明の退廃した部分を目撃したために無差別的西洋文明の採用には反対で、急速に変化する世界情勢において日本の生存と諸外国からの信用は教育のみに期待できると信じた。そして、世界情勢を理解するために地理学を教育の必修科目に取り入れることは大切であると考えた。そのためには教育機関を通してだけでなく、ジャーナリズムを通して一般国民を啓蒙することも必要だと信じた。このように、教育論は志賀の思想活動を理解するのに重要な分野である。この研究では、これまで詳しく研究されなかった志賀の教育上の見解に特に焦点をあてたい。



 
三宅雪嶺における「個」の問題
同志社大学  長妻 三佐雄
 本報告は、三宅雪嶺の「個」の捉え方を主に日露戦争後の彼の時論を通して考察することを目的とする。日清戦争、さらには日露戦争の勝利によって、国家的独立を確保するという民族的な危機意識が弛緩した結果、明治維新以来の国是であった「富国強兵」路線が民心の求心的原理として十分に機能しなくなり、とりわけ青年層の間では国家に対する忠誠心が希薄化し、個人的生活に強い関心を寄せる傾向が見られた。「我とは何であるか」について苦悩し、内向的で精神的価値を探究する「煩悶青年」、それに通俗的で物質的な価値を優先する「成功青年」が日露戦争後に数多く登湯した。

 三宅雪嶺は「慷慨衰えて煩悶興る」という文章を発表して青年層に見られた「煩悶」の流行に敏感に反応し、さらに『実業之世界』などで処世訓や青年論を繰り返し発表して、青年たちの「成功」への憧憬こついて言及した。雪嶺は内面的な世界に閉じこもろうとする「煩悶青年」を叱咤し、また、自己の経済的利益のみを目的とする「成功青年」に対しても手厳しく批判した。だが、その一方で、政府が教育勅語の指導を徹底化することで国民精神を強化しようとしたことに対しても、真っ向から反対したのである。この報告では、雪嶺の時論を検討することで、彼の「個人主義」観、さらには個人と国家・社会の問題について雪嶺がどのように考えていたのかを明らかにしていきたい。


 

初期政教杜にみる帝国日本の意識―1889年条約改正における対応を手がかりに
大阪大学大学院  水野 守
 本発表の目的は1880年代後半から90年代前半期における政教社の思想を「世紀転換期」という世界史的な同時代性・相互関連の中から明らかにしようとするものである。列強諸国による世界的膨張が引き起こした労働力移動、移民や内地雑居問題、あるいは西洋思想や文化の流入が日本の知識人にいかなる影響を及ぼしたのかを念頭に置きつつ、日本の「国粋」を立ち上げることで帝国としての日本を語ろうとした政教社の知識人の思想の一端を明らかにしたい。そこで明らかになるのは、西洋に対する後進帝国日本としてのコンプレックス、当時東アジアで強大なプレゼンスを持った清国への怖れ、あるいは社会進化論に根ざした人種主義と差別といった錯綜した自/他認識の有り様である。今回特に注目するのは、1889年大隈重信外相による条約改正交渉をめぐる政教杜の条約改正反対の主張である。条約改正反対が不平等条約をめぐる西洋諸国への反発だけでなく、労働力として流人すると怖れられた中国人への反発でもあったことは、同時に世界を席巻していた中国人労動者問題が同時代的な問題として日本の知的空間を規定したことを意味するであろう。そして、最終的にはかかる状況で語られる自/他認識を示すことによって、日清戦前期=「健全」と位置づけられてきた当該期の思想を、西洋の諸帝国の似姿たろうとしてきた帝国日本の思想として位置づけ直すことが目標となる。



 
茅原華山の西洋経験
筑波大学大学院  水谷 悟
 日露戦争終結間もない一九〇五(明治三十八)年九月、茅原華山(一八七〇〜一九五二)は、『万朝報』海外通信員として、約五年にわたる欧米外遊の途に就いた。日露戦争の勝利により、日本は「一等国」の仲間入りを果たし、国民は国際的同心を強めたが、一方、開国以来の念願であった国家的独立の実現は、戦後の新状況に対応すべき次なる国家的課題の設定を要請していた。このような状況下で、茅原は、二十世紀初頭の世界情勢をいかに実見し、何を獲得したのか。本発表の課題は、この外遊期における経験が、帰国後の彼の思想と行動を規定する大きな要因であったと評価し直すことである。右のような課題に対して、本発表ではまず、『万朝報』に寄せられた海外通信記事の分析を通じ、茅原の西洋経験を検証することで、日露戦後において日本の将来的な方向性がいかに模索されたかを明らかにする。次いで帰箇の後、彼が「民本主義」を早期に提唱して、日本の社会状況に対応していく契機を、外遊中に獲得した東西文明に関する認識や「生活問題」への関心に着目しながら考察する。日露戦後における外遊の思想史的意義をさぐることは、「大正デモクラシー」期にあって、「益進主義」鼓吹のもと、雑誌『第三帝国』を創刊し、国民の実生活に根差した立憲政治の実現を唱導した茅原の思想の中心構造を解明することにつながるとともに、当該期の思想史研究において一つの新しい展望を開くことができよう。



 
竹越与三郎における「自治」と「人民」
筑波大学大学院  大村 章仁
 日清戦争後に刊行された『世界之日本』の主筆であった竹越与三郎は、一九〇一年に、「国体、政体、人民に関する概念の確固たるもの」を教えるべく『人民読本』なる著作を世に問うた。列強による中国分割が進むこの時期に、竹越も日本が列強と伍する帝国へと上昇転化する意識を鼓舞していた。

 しかし、この著作は帝国日本を支える国民の一体性を生み出すことのみを目的としたのではなく、「人民」の政治的参加の拡大に基礎づけられてこそ、明治憲法によって造出された国家が内実を持ちうるということを示さんがために、出版されたものであった。竹越は、この著作の題言において、「日本国は己に立てり、是より日本人民を作らざるべからず」と「人民」創出への焦燥感を示していた。

 このような竹越の思いは、彼が一八八五〜八七年に前橋に滞在し、上毛青年の「自治」のエネルギーを日のあたりにすることにより、内面的に醸成されたものであると考えられる。群馬県は、一八八七年前後において、自生的に青年会が組織され、廃娼演説会なども盛んに展開された地である。そこで、本発表では、日清戦争以前の時期に焦点をあて、竹越が上毛の地での原体験に即して、いかに平民主義を理解したのかを明らかにしたい。さらに、彼がこの地で抱いた「人民」創出という課題意識が、一八九一〜九二年に執筆した『新日本史』における維新のとらえ方に関わっていたのかについても論じたい。



 
世紀転換期日本の思想
神戸大学  宇野田 尚哉
 徳富蘇峰は、いわゆる「転向」後の著作『時務一家言』(大正2〔1913〕年刊)において、「今日の平民主義」につき、およそ次のように述べている、。「今日の平民主義」は、かつての「個人的平民主義」ではなく、「穏健なる社会主義を含蓄する」「社会的平民主義」でなければならない、そして、「内に社会主義を行ふは、外に帝国主義を行はんか為め」である、と。蘇峰におけるこのような思想的立場の変化―彼自身の言葉によるなら「進化」―は、通常、“平民主義から帝国主義への「転向」”と理解されているが、この理解は、もう1つ“社会主義”という要素を組み込むかたちで、再考される必要がある。

 私がこの点を強調するのは、“蘇峰は日清戦争を契機として平民主義から帝国主義へ転向した”という単線的な理解では、 同時代の欧米の社会帝国主義思想の受容という、彼の思想的立場の変化を強く規定していたはずの契機が見えなくなってしまう、と思われるからである。本報告では、イギリスをはじめとする欧米諸列強の国内外の政治情勢・思想状況との関係を重視する立場から、蘇峰における思想的立場の変化という問題について再考し、さらには日清戦後における平民主義の行方という同席についても―蘇峰の個人史に還元してしまうのとは異なったかたちで―考えてみたい。このような作業は、世紀転換期の世界的同時代性のなかで近代日本の思想的展開を捉え直す作業となるはずである。



 
植民地主義と「学知」―台湾先住民に関する法学的言説を中心に
愛知教育大学  松田 京子
 「…畢竟、生蕃は化外の民のみ、我領土を横行する野獣のみ…」(安井勝次「生蕃人の国法上の地位に就て」、一九〇七年)。

 一八九五年、日清戦争の「戦利品」として割譲された台湾。その、いわば日本帝国初の「本格的」な植民地の経営にあたって、人類学、歴史学をはじめとした人文社会科学諸分野の「学知」が動員されていくことになる。

 論理性と合理性を基調とした、いわば「理性」の言語を操る法学的知もまたその例外ではなかった。一方で、厳格な法文解釈というスタイルをとりながら、他方でその解釈のあり方の中に、植民地・台湾および植民地住民をめぐる当該期の思考のあり方が刻まれているといってよい。

 本報告では、世紀転換期に対象時期を設定し、当時、「生蕃」と呼ばれた台湾先住民に関する主に法学的知に支えられた言説のあり方を批判的に論じていきたい。その際、個々人の思想の探求に努めるというよりはむしろ、一見、相反する見解という様相をとる様々な意見が、総体としてどのような言説空間を構築しているのかの解明に、分析の力点を置くことによって、植民地主義と「学如」の関連に関する一つの範型を提示することができると考えている。



 
保田與重郎の「転向」―中野重治と小林秀雄のあいだ
愛知教育大学  渡辺 和靖
 高校時代の保田が、なんらかのかたちでマルクス主義の影響を受けたことは早くから知られている。一方、初期の保田が厳しくマルクス主義を批判するようになるのも事実である。それを「転向」と呼ぶかどうかは別として、そこに明らかな思想転換があったことは否定できない。

 マルクス主義への支持を表明した「短歌はどこへゆく?」(『R火』一九三一年一月)は圧倒的な中野重治の影響のもとで執筆された。同時に保田は、『思想』一九三〇年十二月号に公募論文として掲載された早川鮎之助の「批評は何処へゆく?」を参照している。早川論文は「様々なる意匠」で登場した小林秀雄をいち早く擁護したものであり、早川論文を通じて保田は小林の思想に触れていた。

 一九三二年三月創刊の『コギト』第一号に掲載された保田の「印象批評」は習作「短歌は何処へ行く?」と強い共通性によって結ばれている。「印象批評」では中野論文がいくつか参照されている一方で、さきの早川論文がここでも参照され、加えて小林秀雄が直接参照されている。一九三一年一月から一九三二年三月までの間、保田は一貫して中野重治と小林秀雄のあいだで彷徨していたことがわかる。
 



 
戦後の日本思想史の前提―「実学」
岩手大学名誉教授  藤原 暹
 戦後の日本思想史研究の一つの流れは、丸山真男氏「福沢に於ける実学の転回―福沢諭吉の哲学研究序説―」(昭二一・三)に端を発する。以後源了圓氏の実学思想研究、杉本勲氏の実学史研究、佐藤昌介氏の洋学史研究…(福沢自体の研究を一応別にして)は何等かの形で丸山論文を前提にしたものと考えられる。丸山論文は少なくとも二点を指摘した。

 一は、福沢の「実学」観には、江戸時代(封建制、アンシャン・レジーム)の「実学」の在り方が明治開化期において倫理中核の実学から物理中核の実学へと革命的転回を示した事。

 二はその学問の担い手を生活人に置き、「生活と学問との結びつき方」が「自然秩序との完全な合一」から「自然科学的学理による生活領域の開拓」をもたらす「奮闘的人間(理念型市民)」への革命的転回であるという事。…

 つまり、新実践的学問(新倫理学)の形成という面も持っていた。この「福沢に見られる転回」は前時代に前提を持ったのか否かの検証が戦後始まり、同時にこの検証は明治開化期後の第二の開化とされるまでの前提的検証をもたらした。「実学・実業型インテリゲンチィア」の分析もその現れであろう。こうした思想史の検証上で改めて昭和前期を問いたい。素材料の一つとしては丸山論文にも引用された西晋一郎著『東洋倫理』を取り上げてみる。(本発表は関係してきた実学資料研究会が二十周年を迎えることをも意識している。)
 


 シンポジウム 「東アジアの儒教−21世紀の思想史研究」 
 
 
 


中国における宋明理学研究の方法、視点とその趨向

北京大学  陳 来 
―、  日本の学界と違って、中国の学会では普通、「儒教」ではなくて「儒学」や「儒家」の名称を以って孔子が開いたその思想の伝統を指していう。馮友蘭以来、「新儒家」を以って宋代以後の儒家の思想を指していう使い方がだんだん増えてきたが、多くの学者は依然、慣用として「理学」または「道学」の名称で宋明時代の主流の儒家思想を呼んでいる。中国の教育と研究体制の中で、儒家と儒家思想に聞する研究の多数は、大学の哲学学部や哲学研究所の中で行われている。よって、中国の儒学研究と「儒学」に対する理解は、内容においては主にその「思想」を重視し、研究方法においては「哲学」的方法論が主導である、ということがいえる。

二、  二十世紀後半の50年間に、「文化大革命」に終りを告げることを境目として、中国の研究者は前後二つの違う時代を経験してきた。前半の毛沢東時代においては、イデオロギーの立場から儒字が歴史化・宗教化され、儒家の思想も革命の阻害と見做されたので、儒家思想と宋明理学は厳しい批判を受けていた。それがゆえ、儒家思想と宋明理学に対する学術的な研究も影響を受けていた。ポスト「文革」時代以来、儒学に関する研究の様子が変わった。つまり、儒学に対する態度は全面批判から弁証法的肯定となり、儒学についての研究は「哲学の研究」から「文化の研究」に拡大し、儒学
を「外在的に捉える」ことから「内在的理解」へと深めてきた、ということである。

三、  唐宋以来の中国社会の特質及びそれが宋明理学との関連という問題に関しては、歴史学者の意見は一致しない。私個人としては次のように考えたい。つまり、中唐以降、貴族荘園制経済が中小地主と自耕農が中心とする経済形態に転じ、中小地主と自耕農階層出身の知識人が科挙制度を通じて「士大夫」の主体となった。社会の変遷と文化の方向転換と連動して、これが新儒家出現の歴史的背景となった。さて、歴史解釈上の機械的歴史唯物論の失敗を経て、中国の研究者の多くはミクロ歴史に対する「大叙述」への追究を放葉し、大きいけれども使い物にならぬような討論を避けようとした。現在の儒学研究者は「思想」自身に対する細緻な研究をより重視し、思想家の精神上の追求、価値の理想、哲学的思考、人生の体験などを重く見ている。また、儒家の経典解釈としての伝統や徳性倫理としての伝統を重視し、儒家と社会集団の倫理との関係、儒家と世界(グローバル的)倫理との関係を重視している。更に、これらの研究に基づいて、西洋の哲学者や神学者との対話を求めている。

四、  中日韓などの東アジアの国々に、歴史上にかつて儒学があって朱子学や陽明学があったといえども、それぞれの国にあった儒学の間に大きい違いがあったかも知れない。また、各国の儒学はそれぞれの社会における地位も相違する。精緻な比較研究が必要とする。日本の儒学と韓国の儒学を研究する際、中国の儒学を十分理解できなければ、日、韓儒学の特質とその発展を真に了解できない。同じことで、日韓の儒学を知らないと、本当の意味での中国儒学の特質が把握し難い。日本の学者は東アジアの文化について広く研究してきた。これに比べると、中国の研究者は日本と韓国の歴史
上にあった儒学に対する研究はまだ足りない。この面の研究が力強く進めていく必要があると思う。


 

韓国社会と儒教
韓林大学校韓林科学院日本学研究所  池 明観


  なぜ朝鮮は伝統的に儒教的文官社余であったのか。新羅統一(668年)以降朝鮮は文が優位を占める社会へと転換し始めたと思える。それについて大きな理由として二つ上げることができるのではなかろうか。         

 この二つは相関連していることはもちろんであるが、ひとつを地政学的な理由とし、もう一つは地政文化な理由といってもいいであろう。巨大な中国の周縁で生き延びるためには、中国にとって軍事な脅威であってはならない。そして朝鮮は中国に文化的にアイデンティファイしようとしたということである。

1393年、朝鮮王朝が始まってからは、朱子学が支配イデオロギーとして君臨した。しかし朱子学一辺倒とはいっても少なくともその社会が支配層と民衆に分裂し、対立しがちであリ、儒者たちも仕官する者と、在野の者とに分裂しがちであったことに注目しなければならない。在野の儒者たちが政権批判の立場に立ったときは、民衆が呼応したことはいうまでもない。

 朝鮮期末期に近づくにつれて、朱子学的伝統に立っていても改革的政策輪が特に在野の儒者のあいだでは盛んであった。やがて外国の侵略か押し寄せてくると抵抗的な攘夷論または救国論が強くなった。しかし文治社会において富国強兵の政治権力と国民的組織を生み出すことは容易なことではなかった。

 こうして近代への対応において朝群は失敗したといえるが、伝統的な儒教的エートスというのは節義を掲げた抵抗には強いものであった。それは韓国の現代史までも貫いているてといっていいであろう。それが21世妃においてはどのような道をたどるであろうかというのは大きな思想史的課題である。

 もしも東アジアという枠組みで考えるならば、少なくとも思想史的な観点からすると、20世妃は武が優位を占めた時代であった。それはまた従来の華夷秩序を根こそぎ破壊するものであった。21世紀はそれをまた逆転させ、文の優位を求め、しかも縦の秩序ではなく横の秩序を構築しようとするのではなかろうかと思われる。それに果たして儒教か現代的意味を持ちうるであろうか。



 
21世紀における新儒教研究
東洋大学  吉田 公平
 21世純に東アジアの新儒教を如何に研究するのかというのが、発表者に課せられた課題である。このことを論議する際に、新儒教を次のように定義しておきたい。儒教の歴史は原始儒教・新儒教・新儒家の三期に区分できる。通時代的に儒教は(1)経学(2)形而上学(3)心性論(4)宗教儀礼(5)政治思想を内容とする。新儒教を集大成した朱子学は性善説を中核とする心性論と政治思想を二焦点とするところに特色があるが、経学・形而上学・宗教儀礼についてもまとまった言説を遺している。もともとこの朱子学は、在野の時代批判の哲学思想であったが、明代以降に科挙の正統教学になり狭隘な解釈が流通すると、性善説の再生を意図して陽明学が登場する。陽明学は心性論を中心に朱子学を批判しているが、その儒教理解は多くを朱子学に依存している。新儒教思想運動の周辺には、朱子学・陽明学に包摂しきれない儒教徒群がいるが、今は朱子学・陽明学を新儒教の双璧として代表させることにする。

 この新儒教は中国の宋代に仏教・道教に対抗して、展開された復古運動の成果である。この新儒教思想は清代末期に科挙制度が廃止されるまで公許の教学であったから、旧中国の知識人の思考様式に深刻な影響を与えた。朝鮮半島の李氏朝鮮では科挙の教学として排他的に活用され生活の思想として実践された。日本では本格的に受容されたのは江戸崎代以降である。但し、武士が文官の役職を世襲した日本では科挙は実施されなかったので、中国や朝鮮のように、朱子学が教学思想として機能することはなかった。

 中国・朝鮮・日本における新儒教については、陳来氏・池明観氏・前田勉氏の発表にあるので、わたしは、日本における新儒教研究史の特色について述べた後に、私見を述べたい。

 日本における新儒教の研究史は、三期に区分される。

 21世紀の課題。(1)20世紀の研究が等閑視してきたことを再検討して研究の基礎を固めること。(2)哲学資源として活用できるものがあるか否かを検討すること。



 
「武国」日本のなかでの朱子学の役割
愛知教育大学 前田 勉
 中国・朝鮮・日本の東アジア地域は儒教文化圏とよばれる。そのなかで、日本はユニークな位置を占めている。一時もてはやされた「儒教ルネッサンス論」においては、日本は儒教文化圏の最先進国・模範国として論じられる一方で、「儒家の道徳教は、古往今来曾て我が国民の道徳生活を支配したことが無かつた」(津田左右吉『儒教の実践道徳』)とされ、日本が儒教文化圏に属すことすら否定されるからである。こうした相反する主張が可能なのは、そもそも儒教文化圏のなかでの日本の特異な性格に起因しているだろう。今は、事柄の一面をイデオロギー的に強調するのではなく、日本が儒教文化圏の一員としてどのような共通性をもち、また反対に儒教の国として自他ともに認める、たとえば李氏朝鮮とどのような点で相違しているのか、同と異の両面をあわせて見ることが求められている。

 本報告ではこの差異については、近世日本に独特な自国自民族優越意識である「武国」観念に注目したい。日本は中国や朝鮮のような読書人官僚の「長袖の国」ではなく、二本差しの侍の支配する武威の国である。それゆえに儒教の徳治主義は現実政治には役に立たないし、また武士の勇壮な「大和魂」にも反する。さらに神功皇后の「三韓征伐」や豊臣秀吉の朝鮮出兵の壮挙こそが「武国」の証しであって、日本にはそのような海外に雄飛するに足る絶大な軍事力があるという、「徳川の平和」のなかで醸成された一種の幻想である。こうした「武国」観念が儒教文化圏に属しながらも、そのなかに全面的に包みこまれることを拒否する思想的な根拠になっていたことは看過してはならないだろう。

 また報告では江戸時代の儒教、ことに栄子学の果たした積極的な役割についても考えてみたい。それは科挙制度のない「武国」日本のなかで役たたずの「遊民」と見なされかねない儒者が、自己の卑小さを踏まえながら生み出した思想的な可能性である。具体的には朱子学を真剣に学ぶ者は自力救済的な「性善」説と普遍的な原埋を掲げることによって、抑圧的な国家である「武国」との間に一定の緊張関係をもっていたことを論じてみたい。

 本報告では、このように「武国」のなかでの朱子学の普遍的原理としての可能性を論ずることで、中国や李氏朝鮮との同と異を考える手掛かりを提示してみたい。