しかし近年、兼修的と評される円爾の思想が、実は諸宗に優越して禅宗の教理を位置づけていたことや、顕密僧とは立場を異にする僧として貴顕の尊崇を集めていたことなどが明らかにされ、彼の思想に再び光が当てられている。今後円爾の思想は宗派史の枠組を超えて、その中世仏教・社会史上の意義を問われていくことになろう。
さて、私が本発表で考察を試みるのは、円爾の浄土教理解である。これまで円爾の説く禅宗の教理や、顕密僧に対峙する禅僧としての特性が明らかにされている。しかし、彼らに先んじた新興の専修念仏教団との差異化をいかように図っていたのかに観点を置いた研究は見られない。かかる差異化に関する課題は、すでに専修念仏の教義を受容していた当代の貴顕と円爾との交渉において、特に克服せねばならなかったと私は推察する。それを明らかにすることによって、当時まだまだ日本で知られていなかった「禅」という新しい仏教教理の伝達過程の複雑さに迫ることができると思う。
明恵自身の著作では、密教が直接の主題とされることは必ずしも多くないが、弟子達による聞書類では、広く教相・事相にわたる明恵の所説が記されている。本発表では、『真聞集』『栂尾御物語』『高山随聞秘密抄』の三書を中心として考察を試みたい。
伝記などの記述からすると、明恵は上覚や興然から受法し、仁和寺に於いて教相を学んだとされる。しかし、明恵の密教に対する知識の範囲はこれだけにとどまるものではなく、聞書類の記述では慈円との接触や台密との関わりも示唆される。
明恵の生きた鎌倉初期、密教の事相は多くの流派に分かれ、教相に於いても平安時代末以来活発な研究が続けられてきた。こうした状況の中で、明恵は何か既定の教説を受容したというよりも、しばしば通説を批判し自らの見解を示すという姿勢が見られる。それは、華厳教学の受容とも共通するものであり、こうした明恵の基本姿勢から、彼の顕密にわたる思想の在り方を統一的に考察できるのではないかと考える。
だが、特に山形では、一遍と並んで、代表的な遊行の時衆聖である一向俊聖の影響も見逃せない。1996年に発見された、山形県天童市高野坊遺跡発掘の墨書礫により、それまで伝承に過ぎなかった一向の存在が俄に現実性を帯びたのである。また『天童落城並彿向寺縁起』や『一向上人血脈相承譜』には、法然の弟子である金光の事績(学牛の往生寺)を取り入れた記述もあり、慈恩寺に一向派末寺があった事も考察しなければらないだろう。
本発表では、延慶本と『源平盛衰記』を取り上げ、両本の運命観の性質の違いを検討する。延慶本は鎌倉中期の成立で古態を残す本と言われており、『源平盛衰記』は南北朝期の成立の最後出本とされる。どちらも読み本系に分類される本である。成立年代の異なる同系統の二つの本を比較し、運命観の変容を考察することで、それぞれが成立した時代の思想の一端が見えてくるのである。『平家物語』は諸本成立当時の思想を取り入れながら再構成されてきたことを示すことができると考える。
延慶本における運命は最も根元的な思想的要素であって、いかなるものにも規制されない。それに対して『源平盛衰記』では、人間の悪行への応報として運が尽きるという構図がみられ、倫理的応報の観念がより強く打ち出されている点が特徴的である。本来不可避・不可測的なものであったはずの運命が、応報の観念の枠組みに組み込まれていったと言える。
以上のような点に注目しながら、延慶本と『源平盛衰記』における運命観の内実を明らかにし、運命観が変容していった意味を問い直したい。
この書物にはよく言及される一節がある。梁階の「柳ニ鳥ノ絵」を、堺の茶人水落宗恵が「鳴呼しづかな絵で有御座」と評価する一節である。「しづかな絵」というこの評語は『等伯画説』の眼目とされ、さらには等伯自身の作品にまで適用されるようになった。
従来のこうした理解はいささか訂正されるべきかも知れない。日通が自らの感想として「しづかな絵」「いそがわしき絵」などの評価を「心を付而可感事也」と括るからである。これは個別・具体的な評語を、鑑賞方法という次元でとらえかえしているのである。問題の一節で重要なのは「しづかな絵」よりも、むしろ「心を付而可感事」ではないか。
では、「心を付而可感」とは如何なることなのか。水落宗恵が津田宗及のサロンに属し、そこで「しづかなる」「いそがハしき」の評語が頻出するところから、茶道と深くかかわっていよう。茶道では「心」による主客の一致を目指し、これはそのまま鑑賞者と絵画世界の関係にもあてはまる。「心を付而可感」は鑑賞者の絵画世界への没入・両者の融合を意味し、茶道のみならず中世芸道論と理念を共有する。
本報告では、以上を確認したい。
中世神道思想が日本思想史研究の重要なテーマであることは誰もが認めており、一九七七年には日本思想大系の一冊として『中世神道論』が刊行されている。しかし、中世前期の神道書の多くは、その成立過程すら明らかでなく、内容の検討も十分になされていない。両部神道(真言神道)の代表的な書とされる『麗気記』もその一つで、本書について研究し、思想史的な位置付けをすることは重要である。
『麗気記』は伊勢神宮(内下両宮)の歴史・社殿・神宝・神体などについて説明したものである。『日本書紀』や『神道五部書』を基にした部分もあるが、すべての巻に密教的解釈が盛り込まれ、その内容は難解である。すでに『弘法大師全集』と『神道大系』(真言神道・上)に活字化されているが、いずれの校訂も不十分で、それによって正確な『麗気記』像が描けるとは考えられない。そこで、私たちは一九九四年に「神仏習合研究会」を結成し、『麗気記』の読解を試みはじめた。底本に尊経閣本(旧金沢文庫剱阿手沢本)を用い、他の中世の写本と校合して校訂本文を確立するだけでなく、それぞれの訓をも比較検討しながら書き下し文・注釈を作成し、さらに現代語訳を付していった。そして今年、その前半(上巻)の作業を終了し、刊行する運びとなったのである。
ここでは、私たちの成果の一部を示しながら、『麗気記』の構成・言説・図像・注釈などについて分析し、そこから明らかになる中世神道思想の発生と展開について論じてみたい。
全体の構成は、前半六巻((1)「二所大神宮麗気記」、(2)「神天上地下次第」、(3)「降臨次第麗気記」、(4)「天地麗気記」、(5)「天照皇大神宮鎮座次第」、(6)「豊受大神鎮座次第」)と後半八巻((7)「心柱麗気記」、(8)「神梵語麗気記」、(10)「万鏡本縁神霊瑞器記」、(11)「神号麗気記」、(12)「神形注麗気記」、(13)「三界表麗気記」、(14)「現図麗気記」、(15)「仏法神道麗気記」)、そして「神体図」四巻からなり、前半六巻と後半八巻では性質を異にすることがわかる。また、それぞれの巻の間で重複する部分がありながら、必ずしも内容(言説)が統一されてはいない。つまり『麗気記』は、別々に成立した巻の集成であり、それらが緩やかな関連を持ちながら全体を構成しているのである。
本報告では特に、前半六巻について内容を分析し、一つ一つの巻がいかに形成されたかを再現することによって、中世神道の発生について考えてみたい。
また『麗気記』以外でも、『両宮本誓理趣摩訶衍』・『日諱貴本紀』・『天照皇太神遷幸時代抄』等、両部神道書の中には図像を含むものが少なくない。このことは、中世の両部神道説にとって、図像の果たす役割が決して小さくないことを意味する。言説が先か、図像が先か、という問題を常にはらみつつも、両者は互いにリンクしながら、神道説の展開を支えていると思われる。たとえば三種の神器や心御柱といった、実在はするが不可視のシンボルをめぐる様々な言説が展開するのもまた中世であるが、それらのイメージを支えるものとしての図像の機能も見直す必要があるだろう。
本報告では、『麗気記』前半六巻における図像の果たす役割を中心に、後半および「神体図」解読の見通しを述べたうえで、さらに中世神道説における図像をどうとらえるべきかという問題提起ができればと考えている。
本報告では、中世における〈註釈〉のありようをみとどけたうえで、『麗気記』にまつわる〈註釈〉の諸相を概観することにしたい。きわめて難解な『麗気記』を現代の文脈で読むのではなく、中世という時代にあって『麗気記』がいかに認識され解釈されてきたか、中世註釈学の言説世界からさぐりあてる試みである。
『天地麗気記』は、特定の法流に連なる僧侶や限定された神社の神職を超えて知られていた。その時、『麗気記』は、もはや一つの独立した世界を形づくる教説ではなく、「習合神道」のあまたの重要資料の一つであり、図像や儀礼から遊離した、文字テキストとしての側面に偏った受容であった。
さらに、「習合神道」は「神道」の一流派であり、その文献は、習合以前の神道からの派生もしくは改変と考えられた。そのため『麗気記』の外部に『麗気記』の根拠が求められた。近世の写本(国会図書館本、京都府立図書館本、天理図書館本)は、巻の編成だけでなく、本文・訓点の細部にわたって、中世の諸本とは明かに異なる特徴がある。それは共通の祖本にもとづくためというよりは、合理的な正しい本文・訓点を施そうとする、校訂意識によるものと考えられる。本報告では、近世写本の考証学的態度が、「本来の姿」に近づけようとして、かえって元の姿をかき消してしまったことを示したい。
『熱河日記』は1780年、乾隆帝の70歳を祝賀する使節の一員として北京・熱川に赴いた朴趾源(1737〜1805年)の旅行記である。朴趾源は北学派の巨頭と言及される人物で、彼に関する研究は約400に及ぶが、北学思想形成に対する影響や文学者たる側面の分析が主とされてきた。そこでここでは約5ヶ月間の経験が詳細に描写されている『熱河日記』を通じ、従来の分析対象となっていなかった彼の清(王朝)という「他者」を通して現れる自意識に注目したい。
朱子学の世界観の範疇内に生きていた李朝の知識人にとり、外の世界で出会う他者はいかなる意味を持つものであったのか、またその具体的対面を通じて彼らの自意識にどのように反映されたのか。そしてこのような分析が、今日のわれわれにどのような意味を与えているのかについて、検討を加えてみたい。
蕃山は、「礼楽」を朝廷が保持してきたからこそ、日本が文明国たり得たと述べ、「礼楽」の内の「楽」、特に雅楽を、教化政策において重要なものとして考えている。蕃山は、当代の日本の儒学者たちは、一様に、宋明学を「格法」的に受容して、道を見失っているとし、宋明学による教化(「理学」「心法」)は、道なき時代の教化法であり、理想とする教化法とは程遠いとする。それとは対照的に、日本の朝廷の雅楽による教化は、古代中国で行われた理想的教化法であり、演奏する人・聞く人の双方ともに、「不知不識」に「堯舜」「武王」という中国古代の聖王の治世にいるような気持ちにさせて、教化すると言う。蕃山が、朝廷の雅楽に託したものは、特殊日本的な道の発見ではなく、中国・日本に普遍性を持った「道」を人々に知らしめることであった。
徂徠学を形成論的にとらえるとき、次のことを指摘できる。(1)『読荀子』は「中歳の作」ではあるが、荀子は晩年定論した徂徠学の構築に、きわめて重要な役割を果している。(2)徂徠学は『六経』を中心とするが、「世人荀子を知らず、何を以て能く六経を讀まんや」という徂徠の話が示したように、その際荀子は根本的な位置にある。(3)徂徠学は、〈脱儒入法〉の傾向を明らかに含んだのは、荀子が韓非子への「架橋」になっているからである。(4)「気質不変化」説は、荀子の「人性論」から韓非子の「人情論」への変容によるものである。
思想の内容から言っても、荀子と徂徠学との「決定的相違」を言うことは困難で、より深く見ると、両者の類似点が浮かび上がってくる。(1)たしかに荀子は(徂徠学と異なり)修身と治国を「連続している」。しかし、荀子の修身的標準は畢竟先天的道徳ではなく、「礼」である。(2)たしかに、徂徠は「人性論」が「無用」だと言っている。しかし、詳しく見れば、彼は実質的に荀子・性悪説に似た近いものを持っている。(3)荀・徂「聖人論」は必ずしも相違しない。荀子の「道の極」の考えにはじつは「聖人に為る」ことは容易ではないという示唆が内包されている。(4)荀子は「公・私」未分化と言われる。しかしじつは荀子は「公義を以て私欲に勝つ」と言っている。この「公義」への強調は「政治優位論」であり、その意味で私と分化させて公を立ち上げる側面を含んでいる。
なんとなれば、それは、徳川時代において体系的に受容された儒学を総体的に批判し、それとは異質な世界像を形象化してみせたからであり、さらにまた、そこで獲得された思惟の枠組みは、それ以後の思想展開に大きな影響を与えるとともに、近代日本のイデオロギー的支柱となり、いまなお日本の社会を内側から拘束しているかにみえるからである。
その思惟の枠組みは、一方では、人間や社会の自然の発見によって儒教の規範主義、道徳的リゴリズムを「人作」として批判し、人間の欲望を人間の自然として解放するものであったが、他方では、日本の古典を典拠として“日本の自然”を読み出し、人々の意識と行動を、日本的自然(=天皇制)の中に囲い込もうとするものでもあった。
そこでこの報告では、国学的思惟の先駆者である真淵を対象としてそこで読み出された人間・社会及び日本の“自然”の実態を明らかにしつつ、それとどのように向き合うか、真淵によって批判された儒学への回帰ではなく、国学的思惟自体を相対化する観点とは何かを考えてみたい。
利明の経世論の世界的展開を「植民地開拓」を目的としたものであるとすると、征服さるべき「他者」とはいかなる存在であったのか、どのような理由づけをもとに日本人と「他者」との差異を認識していたのかなどが報告の中心となる。さらに理想とした「他者」=西洋(西域)の利明にとってのありかたも、征服される「他者」にどのように関連してくるのかにまで踏み込めればと思っている。
しかし、山陽の思想を明らかにするためには、史論の内容を問題とするのみに止まらず、山陽がなぜ史学に志したのか、また史論の執筆にどのような意義を見いだそうとしていたのか、という学問的態度についても詳細に検討する必要があるだろう。従来この点について、十分な考察がなされてきたとは言い難く、山陽の父・春水から山陽へという世代交代を「経学から史学へ」という図式で捉え、山陽が経学を拒み、史学に志したとする見解が提示されるに止まっている。だが、幽居中の書簡で史学に志した経緯を確認すると、山陽は経学を重視しており、その後も一貫して経学と史学を兼修すべきことを主張している。
では、山陽は経学に対してどのような見解を持っていたのであろうか。この問題を解明することは、史論の執筆にどのような意義を見い出そうとしていたのか、という史学の問題に関わる重要な鍵となると考えられる。
本発表では以上を踏まえて、未だ十分に考察されていない経学についての見解は、『孟子』の経文解釈を用いて考察することにする。
一八五六(安政三)年一一月に著されたこの「又読む七則」は、吉田松陰の強烈な自己批判を表明する文書であり、そこには国防論(海防論)から尊王論への「コペルニクス的転回」(源了圓氏)を見ることが出来ると言われ、さらにこの「転回」の思想的内容は兵学から水戸学への「転回」として把握されることが少なくない。しかしこの「転回」をもたらした「一友」すなわち安藝の一向僧黙霖が後期水戸学に対して極めて批判的な人物であつたことを考えると、問題はそう単純ではないことがわかる。
本報告では黙霖との書簡論争や、投獄・幽囚期における松陰の読書録である『野山獄読書記』に現れた同時期以降に劇的な変化を見せるその読書傾向などを検討することで、「八月」における「転回」の解釈を改めて問い直し、さらに松陰の尊王論の性格を把握することを主題とするものであり、同時にこのことは幕末期における尊攘論が倒幕論へと展開していく過程を明らかにすることに資するものとなろう。
多種多様な元三大師御籤本であるが、そこに記された一番から百番に対応する百首の漢詩については共通している。そして、この百首の漢詩から運勢が導き出される。この運勢について詳しく解説した注解が、大半の元三大師御籤本には記されている。
この注解を詳細に比較してゆくと、多くの古典がそうであるように、元三大師御籤本も注解によって幾種かの系統に類別できることに気づく。その中の一つに、『天保新選永代大雑書万暦大成』以降、当時の家庭百科とも言える大雑書に合刻され続けていた元三大師御籤本の系統がある。
この系統の元三大師御籤本の注解は、大雑書を通しても多くの人々に読まれていたことになるが、ここには、運勢とは変えることのできない決定づけられたものなのではなく、おみくじを抽いた者の倫理的行為の如何によって、吉にも凶にも大きく転換するという興味深い思想が展開されている。
本発表では、その思想史的意義および背景についても、合わせて考えてみたい。
近代からの呼び出しについては、井上哲次郎と、和辻哲郎及びその後継を二つの時代の武士道の呼び出しとして取り上げていく。まず井上が行う武士道の伝統化が帝国の立ち上げの時期に語られるのに対し、和辻たちは総力戦期の武士道を形象化するという時代的コンテクストを確認し、と同時に、いかに和辻らが井上を批判(「本当の武士道」を提示)し、井上の武士道論を見るべき価値のない亜流にしていったのかについても考えてみたい。
さらに、では江戸期における武士道とはどのような文脈で理解されるべきか、戦後の一連の葉隠解釈を参照しながら考えてみたい。そこでの方法的課題は、「本当の武士道」が、和辻以後繰り返し提示される在り方を問題化することを企図している。
その上で、江戸期の武士の社会的在り方をめぐる語りを、いったん近代的な呼び出しの枠組みから引き離し、武士の在り方をめぐる当該期のディスコースの中に置いてみることが重要であると考える。あらかじめ士道と武士道に棲み分けられていたわけではない江戸期の武士の在り方をめぐる諸表象を、その混在の在り方の中に差し戻すことを心がける中で、方法的課題と学説史的課題への応答が交差する地点を模索していきたい。
ところで、明治期における思想的伝統を考える場合、もちろん仏教や国学の存在は無視できないにせよ、人々の生活様式のなかにもっとも直接的な体験として培われていたのは何と言っても儒教的素養であったことは否定できない。明治五(1872)年の「学制」発布後、近代的な小学校が創設されていくなかで、近世からの生き残りの儒者たちは自ら漢学塾を開き、当時の子供たちに漢学の教養の手ほどきをしていたのである。つまり少なくとも明治初期に生まれ育った思想家たちの殆どが、程度の差こそあれ、その思考の発想の原点に宋儒学の影響が濃厚であったことは念頭に入れておくべきであろう。明治三年生まれの西田幾多郎(1870〜1945)もその例外ではない。
従来、西田哲学における東洋的伝統といえば専ら臨済禅、もしくは大乗仏教の面ばかりが取りざたされ、主客未分の「純粋経験」論およびそれを踏まえた宗教哲学にのみ限局されて理解される嫌いがあったが、本発表では上記のような視点に立って、いわゆる禅をもその内に含む宋儒学的伝統を、西田の思考様式の内に見ていきたい。
志賀と徳富は、日本の工業化に関していろいろな共通した考えをもっていたにも関わらず、志賀は「保守的」、徳富は「革新的」とみられてきている。この「保守」、「革新」二分説のために、志賀は当時も今も「保守主義者」とみられることが多い。志賀自身は「保守主義者」と呼ばれるのを嫌い、明治30年に教育勅語が発布されると、勅語を編纂するのに影響力を持っていた「保守主義者」特に儒教主義を強く批判した。(*ここで「儒教主義者」というのは教育勅語を編纂するのに影響力を持ち、また明治43年以降国民道徳運動を推進した学者、特に井上哲治郎を指す。)
また明治43年以降儒教主義者が国民道徳運動を日本全国に推進しようとした時も志買は強く批判した。にもかかわらず、国粋提唱がよく知られている反面、志賀の儒教主義者批判や、教育に関する考えはあまり研究されていない。この研究では、明治43年以降、国民道徳運動を推進した儒教主義者を志賀が強く批判した時に焦点をあて、志賀の批判を分析することで次の二つの点を明らかにしたい。一つは、儒教主義者は志賀の知的活動のライバルであったこと。もう一つは志賀は新しい日本の教育の在り方を深く懸念した思想家であったということである。
志賀は、南洋で西洋文明の退廃した部分を目撃したために無差別的西洋文明の採用には反対で、急速に変化する世界情勢において日本の生存と諸外国からの信用は教育のみに期待できると信じた。そして、世界情勢を理解するために地理学を教育の必修科目に取り入れることは大切であると考えた。そのためには教育機関を通してだけでなく、ジャーナリズムを通して一般国民を啓蒙することも必要だと信じた。このように、教育論は志賀の思想活動を理解するのに重要な分野である。この研究では、これまで詳しく研究されなかった志賀の教育上の見解に特に焦点をあてたい。
三宅雪嶺は「慷慨衰えて煩悶興る」という文章を発表して青年層に見られた「煩悶」の流行に敏感に反応し、さらに『実業之世界』などで処世訓や青年論を繰り返し発表して、青年たちの「成功」への憧憬こついて言及した。雪嶺は内面的な世界に閉じこもろうとする「煩悶青年」を叱咤し、また、自己の経済的利益のみを目的とする「成功青年」に対しても手厳しく批判した。だが、その一方で、政府が教育勅語の指導を徹底化することで国民精神を強化しようとしたことに対しても、真っ向から反対したのである。この報告では、雪嶺の時論を検討することで、彼の「個人主義」観、さらには個人と国家・社会の問題について雪嶺がどのように考えていたのかを明らかにしていきたい。
しかし、この著作は帝国日本を支える国民の一体性を生み出すことのみを目的としたのではなく、「人民」の政治的参加の拡大に基礎づけられてこそ、明治憲法によって造出された国家が内実を持ちうるということを示さんがために、出版されたものであった。竹越は、この著作の題言において、「日本国は己に立てり、是より日本人民を作らざるべからず」と「人民」創出への焦燥感を示していた。
このような竹越の思いは、彼が一八八五〜八七年に前橋に滞在し、上毛青年の「自治」のエネルギーを日のあたりにすることにより、内面的に醸成されたものであると考えられる。群馬県は、一八八七年前後において、自生的に青年会が組織され、廃娼演説会なども盛んに展開された地である。そこで、本発表では、日清戦争以前の時期に焦点をあて、竹越が上毛の地での原体験に即して、いかに平民主義を理解したのかを明らかにしたい。さらに、彼がこの地で抱いた「人民」創出という課題意識が、一八九一〜九二年に執筆した『新日本史』における維新のとらえ方に関わっていたのかについても論じたい。
私がこの点を強調するのは、“蘇峰は日清戦争を契機として平民主義から帝国主義へ転向した”という単線的な理解では、 同時代の欧米の社会帝国主義思想の受容という、彼の思想的立場の変化を強く規定していたはずの契機が見えなくなってしまう、と思われるからである。本報告では、イギリスをはじめとする欧米諸列強の国内外の政治情勢・思想状況との関係を重視する立場から、蘇峰における思想的立場の変化という問題について再考し、さらには日清戦後における平民主義の行方という同席についても―蘇峰の個人史に還元してしまうのとは異なったかたちで―考えてみたい。このような作業は、世紀転換期の世界的同時代性のなかで近代日本の思想的展開を捉え直す作業となるはずである。
一八九五年、日清戦争の「戦利品」として割譲された台湾。その、いわば日本帝国初の「本格的」な植民地の経営にあたって、人類学、歴史学をはじめとした人文社会科学諸分野の「学知」が動員されていくことになる。
論理性と合理性を基調とした、いわば「理性」の言語を操る法学的知もまたその例外ではなかった。一方で、厳格な法文解釈というスタイルをとりながら、他方でその解釈のあり方の中に、植民地・台湾および植民地住民をめぐる当該期の思考のあり方が刻まれているといってよい。
本報告では、世紀転換期に対象時期を設定し、当時、「生蕃」と呼ばれた台湾先住民に関する主に法学的知に支えられた言説のあり方を批判的に論じていきたい。その際、個々人の思想の探求に努めるというよりはむしろ、一見、相反する見解という様相をとる様々な意見が、総体としてどのような言説空間を構築しているのかの解明に、分析の力点を置くことによって、植民地主義と「学如」の関連に関する一つの範型を提示することができると考えている。
マルクス主義への支持を表明した「短歌はどこへゆく?」(『R火』一九三一年一月)は圧倒的な中野重治の影響のもとで執筆された。同時に保田は、『思想』一九三〇年十二月号に公募論文として掲載された早川鮎之助の「批評は何処へゆく?」を参照している。早川論文は「様々なる意匠」で登場した小林秀雄をいち早く擁護したものであり、早川論文を通じて保田は小林の思想に触れていた。
一九三二年三月創刊の『コギト』第一号に掲載された保田の「印象批評」は習作「短歌は何処へ行く?」と強い共通性によって結ばれている。「印象批評」では中野論文がいくつか参照されている一方で、さきの早川論文がここでも参照され、加えて小林秀雄が直接参照されている。一九三一年一月から一九三二年三月までの間、保田は一貫して中野重治と小林秀雄のあいだで彷徨していたことがわかる。
一は、福沢の「実学」観には、江戸時代(封建制、アンシャン・レジーム)の「実学」の在り方が明治開化期において倫理中核の実学から物理中核の実学へと革命的転回を示した事。
二はその学問の担い手を生活人に置き、「生活と学問との結びつき方」が「自然秩序との完全な合一」から「自然科学的学理による生活領域の開拓」をもたらす「奮闘的人間(理念型市民)」への革命的転回であるという事。…
つまり、新実践的学問(新倫理学)の形成という面も持っていた。この「福沢に見られる転回」は前時代に前提を持ったのか否かの検証が戦後始まり、同時にこの検証は明治開化期後の第二の開化とされるまでの前提的検証をもたらした。「実学・実業型インテリゲンチィア」の分析もその現れであろう。こうした思想史の検証上で改めて昭和前期を問いたい。素材料の一つとしては丸山論文にも引用された西晋一郎著『東洋倫理』を取り上げてみる。(本発表は関係してきた実学資料研究会が二十周年を迎えることをも意識している。)
二、 二十世紀後半の50年間に、「文化大革命」に終りを告げることを境目として、中国の研究者は前後二つの違う時代を経験してきた。前半の毛沢東時代においては、イデオロギーの立場から儒字が歴史化・宗教化され、儒家の思想も革命の阻害と見做されたので、儒家思想と宋明理学は厳しい批判を受けていた。それがゆえ、儒家思想と宋明理学に対する学術的な研究も影響を受けていた。ポスト「文革」時代以来、儒学に関する研究の様子が変わった。つまり、儒学に対する態度は全面批判から弁証法的肯定となり、儒学についての研究は「哲学の研究」から「文化の研究」に拡大し、儒学
を「外在的に捉える」ことから「内在的理解」へと深めてきた、ということである。
三、 唐宋以来の中国社会の特質及びそれが宋明理学との関連という問題に関しては、歴史学者の意見は一致しない。私個人としては次のように考えたい。つまり、中唐以降、貴族荘園制経済が中小地主と自耕農が中心とする経済形態に転じ、中小地主と自耕農階層出身の知識人が科挙制度を通じて「士大夫」の主体となった。社会の変遷と文化の方向転換と連動して、これが新儒家出現の歴史的背景となった。さて、歴史解釈上の機械的歴史唯物論の失敗を経て、中国の研究者の多くはミクロ歴史に対する「大叙述」への追究を放葉し、大きいけれども使い物にならぬような討論を避けようとした。現在の儒学研究者は「思想」自身に対する細緻な研究をより重視し、思想家の精神上の追求、価値の理想、哲学的思考、人生の体験などを重く見ている。また、儒家の経典解釈としての伝統や徳性倫理としての伝統を重視し、儒家と社会集団の倫理との関係、儒家と世界(グローバル的)倫理との関係を重視している。更に、これらの研究に基づいて、西洋の哲学者や神学者との対話を求めている。
四、 中日韓などの東アジアの国々に、歴史上にかつて儒学があって朱子学や陽明学があったといえども、それぞれの国にあった儒学の間に大きい違いがあったかも知れない。また、各国の儒学はそれぞれの社会における地位も相違する。精緻な比較研究が必要とする。日本の儒学と韓国の儒学を研究する際、中国の儒学を十分理解できなければ、日、韓儒学の特質とその発展を真に了解できない。同じことで、日韓の儒学を知らないと、本当の意味での中国儒学の特質が把握し難い。日本の学者は東アジアの文化について広く研究してきた。これに比べると、中国の研究者は日本と韓国の歴史
上にあった儒学に対する研究はまだ足りない。この面の研究が力強く進めていく必要があると思う。
なぜ朝鮮は伝統的に儒教的文官社余であったのか。新羅統一(668年)以降朝鮮は文が優位を占める社会へと転換し始めたと思える。それについて大きな理由として二つ上げることができるのではなかろうか。
この二つは相関連していることはもちろんであるが、ひとつを地政学的な理由とし、もう一つは地政文化な理由といってもいいであろう。巨大な中国の周縁で生き延びるためには、中国にとって軍事な脅威であってはならない。そして朝鮮は中国に文化的にアイデンティファイしようとしたということである。
1393年、朝鮮王朝が始まってからは、朱子学が支配イデオロギーとして君臨した。しかし朱子学一辺倒とはいっても少なくともその社会が支配層と民衆に分裂し、対立しがちであリ、儒者たちも仕官する者と、在野の者とに分裂しがちであったことに注目しなければならない。在野の儒者たちが政権批判の立場に立ったときは、民衆が呼応したことはいうまでもない。
朝鮮期末期に近づくにつれて、朱子学的伝統に立っていても改革的政策輪が特に在野の儒者のあいだでは盛んであった。やがて外国の侵略か押し寄せてくると抵抗的な攘夷論または救国論が強くなった。しかし文治社会において富国強兵の政治権力と国民的組織を生み出すことは容易なことではなかった。
こうして近代への対応において朝群は失敗したといえるが、伝統的な儒教的エートスというのは節義を掲げた抵抗には強いものであった。それは韓国の現代史までも貫いているてといっていいであろう。それが21世妃においてはどのような道をたどるであろうかというのは大きな思想史的課題である。
もしも東アジアという枠組みで考えるならば、少なくとも思想史的な観点からすると、20世妃は武が優位を占めた時代であった。それはまた従来の華夷秩序を根こそぎ破壊するものであった。21世紀はそれをまた逆転させ、文の優位を求め、しかも縦の秩序ではなく横の秩序を構築しようとするのではなかろうかと思われる。それに果たして儒教か現代的意味を持ちうるであろうか。
この新儒教は中国の宋代に仏教・道教に対抗して、展開された復古運動の成果である。この新儒教思想は清代末期に科挙制度が廃止されるまで公許の教学であったから、旧中国の知識人の思考様式に深刻な影響を与えた。朝鮮半島の李氏朝鮮では科挙の教学として排他的に活用され生活の思想として実践された。日本では本格的に受容されたのは江戸崎代以降である。但し、武士が文官の役職を世襲した日本では科挙は実施されなかったので、中国や朝鮮のように、朱子学が教学思想として機能することはなかった。
中国・朝鮮・日本における新儒教については、陳来氏・池明観氏・前田勉氏の発表にあるので、わたしは、日本における新儒教研究史の特色について述べた後に、私見を述べたい。
日本における新儒教の研究史は、三期に区分される。
第二期・明治・大正・昭和前期。時代思潮の主役の座を洋学思想に譲りながらも、国民を臣民化する教育制度の中で新儒教が国体論がらみで浸透した。
第三期・昭和後期以後。儒教思想が旧封建社会を支えた思想の一つであると糾弾されて、公教育の場からも「進歩的」思想界からも追放された。個人的に教養として学ばれた。
本報告ではこの差異については、近世日本に独特な自国自民族優越意識である「武国」観念に注目したい。日本は中国や朝鮮のような読書人官僚の「長袖の国」ではなく、二本差しの侍の支配する武威の国である。それゆえに儒教の徳治主義は現実政治には役に立たないし、また武士の勇壮な「大和魂」にも反する。さらに神功皇后の「三韓征伐」や豊臣秀吉の朝鮮出兵の壮挙こそが「武国」の証しであって、日本にはそのような海外に雄飛するに足る絶大な軍事力があるという、「徳川の平和」のなかで醸成された一種の幻想である。こうした「武国」観念が儒教文化圏に属しながらも、そのなかに全面的に包みこまれることを拒否する思想的な根拠になっていたことは看過してはならないだろう。
また報告では江戸時代の儒教、ことに栄子学の果たした積極的な役割についても考えてみたい。それは科挙制度のない「武国」日本のなかで役たたずの「遊民」と見なされかねない儒者が、自己の卑小さを踏まえながら生み出した思想的な可能性である。具体的には朱子学を真剣に学ぶ者は自力救済的な「性善」説と普遍的な原埋を掲げることによって、抑圧的な国家である「武国」との間に一定の緊張関係をもっていたことを論じてみたい。
本報告では、このように「武国」のなかでの朱子学の普遍的原理としての可能性を論ずることで、中国や李氏朝鮮との同と異を考える手掛かりを提示してみたい。