シンポジウム 大正思想史の諸問題


大正思想史とアジア・ナショナリズム

大東文化大学  和 田  守 
 二〇世紀の開幕とともに日本は、日露戦争勝利によって帝国主義的国際秩序の担い手に参入し、韓国併合(一九一〇年)、関税自主権の確立(一九一一年)、そして第一次世界大戦(一九一四〜一八年)において連合国の一員として参戦し、大戦後に成立した国際連盟では常任理事国の地位を占めるにいたり、五大国の一つとして国際政治における発言権を強化するにいたった。強硬な帝国主義論者徳富蘇峰によると、日清戦争が日本国民の「帝国主義国家として覚醒したる時期」であったとするならば、日露戦争は「帝国主義国家として世界より承認せられたる時期」であった。

 他方、日本帝国主義にとって利権拡張の最大の対象であった中国では一九一一年に辛亥革命が起こり、共和制中華民国が成立する。袁世凱独裁体制を経て軍閥間の内乱が続くが、一九一九年の五四運動を契機に国民革命の潮流が発展してゆく。この中国ナショナリズムをどのように受けとめていたのか、日本帝国主義にとってはその侵略に大きく立ちはだかる中国民衆の覚醒であったが、日中二国間の問題だけではなく、国際的に見れば、一方で日本が西洋諸列強に牛耳られてきた帝国主義的国際秩序の一翼に参入すると同時に、他方ではアジア諸民族、なかんずく中国ナショナリズムの進展によって帝国主義諸列強の手による国際秩序に新興民族国家が参入しはじめたことを意味している。パリ講和会議は英・米・仏・伊・日の五大国を中心に運営されたが、中国も連合国側の一員として参加し、その代表団は外交総長陸徴祥を主席とし、顧維鈞ら米国の大学を卒業したヤング・チャイナの代表たちによって構成されていたことは象徴的なことであった。ロシア革命の成功のことはとりあえずふれないとしても、第一次大戦後の国際秩序の形成にあたって、帝国主義諸列強のみではなく、被抑圧民族の代表も発言権を行使しはじめたという重層的構造が生まれつつあったことは、たとえそれがいまだ大きな力になってはいないとしても、重要な転換期になっていたといえよう。

 大正デモクラシー期の思想潮流が、このようなアジア・ナショナリズムの動向をどのように受けとめたのか、そしてその受けとめ方と国内改革の主張とどのように連関しているのか、本報告では当時の主要雑誌『中央公論』や『改造』などに登載された論説を取り上げながら検討してみたい。


大正期無政府主義者の思惟構造の変化

                 山形大学  板 垣 哲 夫
 石川三四郎(一八七六〜一九五六)の無政府主義思想自体ではなく、石川における、無政府主義思想をも含めた多面的な思想の基底をなす思惟構造を、内在と超越との連関、離反の視角から検討する。石川の思惟構造は、大正二年のヨーロッパへの脱出に至る前期とそれ以降の後期とでは変化している。物象化(人間が作為した国家、社会、法律、道徳、科学、習慣等が人間から乖離し、逆に人間がそれらに束縛されること。内在における超越からの離反、超越における内在からの離反)と虚無化(欲望が物象化したところの欲望の「蔭」、物象化した国家、社会、法律等から脱却し、「虚無の霊光」に照し出され、本来的自然に帰還すること)との対抗を認識し、虚無化を志向するに至る過程である前期は、自己と世界の破滅、破壊を志向する虚無的傾向(超越から離反している内在)と他者との結合の希求(超越に連関している内在、及び内在に連関している超越)との対抗のうちから次第に後者の内在と超越との連関への志向に向っていく過程であり、また内在に連関している超越よりも超越に連関している内在の比重が大きく、超越よりも内在に傾斜している過程であった。これに対し後期は、「虚無的精神」が、自然状態における赤裸々な支配、暴力を制御すべき制度、習慣、科学等を合理主義的追求が創造することの放棄をもたらすこと(超越から離反している内在)の発見を拠点として、内在内部の分裂構造、超越内部の分裂構造を認識していく過程であると考えられる。すなわちアナーキズムにおける本来的自然としての無政府社会(超越に連関している内在)と暴力に対する歯止めの欠如(超越から離反している内在)との分裂、日本人、中国人を含む東洋人における自主共同のアナーキズム的伝統(超越に連関している内在)と主体的自我の欠如(超越から離反している内在)との分裂、歴史のみかたにおける、環境への適応(超越)に連関している本能への内在に依拠したみかた(超越に連関している内在)と進歩史観(超越から離反している内在)との分裂、制度、習慣、科学等における、社会における具体的機能の遂行(内在に連関している超越)と物象化の進行(内在から離反している超越)との分裂、歴史のみかたにおける、本能への内在に連関している環境への適応(超越)に依拠したみかた(内在に連関している超越)と進化論(内在から離反している超越)との分裂が認識されていったのである。以上のような石川の思惟構造において、内在と超越との連関と、内在と超越との離反との対抗が認識されているのみならず、前者における超越に連関している内在、内在に連関している超越、後者における超越から離反している内在、内在から離反している超越の四方向への分裂が認識されている。連関と離反との対抗のみならず、連関、離反のそれぞれにおける内在と超越との分裂も認識されているのである。この認識のありかたは、連関が肯定すべき方向とされ、離反が否定すべき方向とされる当為を包摂しているが、離反を事実としての傾向、そのようにあらざるをえない事実存在としてとらえているのであり、四方向の分裂の全体が事実存在としてとらえられているのである。当為を包摂しつつ、当為よりも拡大された、当為よりも根底的な存在の次元に到達しているのである。以上のような、内在、超越の連関、離反による思惟構造の分析を他の様々な思想に適用することによって、石川を含めた諸思想の思惟構造レベルにおける比較、連関が可能になると考えられる。


大正デモクラシーと大山郁夫

                 静岡大学  黒川 みどり
 いわゆる大正デモクラシー期は、その時代を生きた知識人にとって、個々人によって受けとめ方の程度の差はあれ、高揚する民衆運動といかに向き合うかということが、ほとんど避けて通ることの出来ない課題として眼前にあった。そのなかにあって大山郁夫は、その問題を最も正面から受け止めた知識人の一人であったといえよう。

 日露戦争後の「一等国」ナショナリズムから出発して、国家的結合を内側から維持することを目的とし、その手段のために国民の能動的精神を引き出すことに着目した大山であったが、民衆からの問いかけを受けて、しだいに彼の目的は、最も虐げられた存在と彼の目に映った労働者の人間性を回復することそれ自体に変わっていく。そのための手段として試みられたのが「民衆文化」論であり、群闘争説による政治学であったが、最後に彼が到達した唯物史観についても、個々人が「環境の奴隷」とならないための彼なりの理論的解釈が施されねばならなかったのであり、それが彼いうところの「無産階級倫理」なのであった。そのように刻々と思想が変化をする一方で、終始一貫していたのは、「道徳」あるいは「倫理」ということばをつうじて民衆の共同性を希求し続けたことであり、それは第一次世界大戦後に「社会改造の根本精神」と題して発表された論文のなかでいわれている、「民衆の自由なる協調」によってなる社会を実現することにほかならなかった。またそれは前述したように、知識人と民衆の世界をいかに架橋するかという課題との、彼の格闘の証でもあった。

 国家を相対化し、「社会的協同」の場としての社会を構想する学問的営みは、同時期に長谷川如是閑らによっても提示されており、報告では、まず第一に、当該時期に現れたそのようなデモクラシー論や「社会改造」論との比較のなかで、大山の思想を位置づけてみたい。

 第二に、大山自身がシヴィル・リバティーからポリティカル・リバティーへの主役の交代の必要を説いていたように、大山は、民衆の共同性を追求することに性急である一方で、国家からの自由という観点は弱かった。その傾向は大正デモクラットたちに共通する問題でもあり、福沢諭吉が「一国の独立」のために力説した国民一人一人の主体的自由の精神は、日本社会に根づかないまま葬り去られていったのである。それゆえ、敗戦を経て知識人の言論活動が再開されたとき、戦前の思想の枠組みを再現しようとした大山らは第一線からの退場を余儀なくされ、「近代的思惟」にもとづく自由なる主体を確立するための知的営為は、新たに台頭した知識人集団に委ねなければならなかった。そうしてそれは、いまなお実現すべき課題として我々の前にある。この問題を、主として大山に即しながら考えてみたい。


パネル・セッション

第一会場(文大教室)・「思想の学と書物の学と」

北里研究所東洋医学総合研究所   町 泉寿郎
 皇学館大学 高 倉 一 紀
東北大学 高 橋 章 則
 江戸時代後半の学芸を考える時、同時代の中国をはじめとした諸外国の影響は無論小さくないが、一方で閉鎖系社会内で温醸された文化的な成熟も考慮されてよい。その成熟を如実に物語るのが、「書物」享受の多様なありかたである。

 例えば医学の場合には、本来の実用の学としてのあり方に加えて、諸種の文献を校勘するという学問傾向(校勘学・文献学)を高度に発達させていった。幕府医学館の学風はまさにその典型である。その医学館内にあっては、校勘学の前提としての書物そしてテキストを歴史的に相対化し、たんなる学説間の対立や折衷を脱した、書物享受・思想構築の新たな展開がなされていたのである。従来の思想史研究において、こうした日本の校勘学・文献学の歴史的な実態への照射は十分になされていたであろうか。

 同様に、近年研究領域の拡大をみた国学研究にあっても、思想の担い手や享受された書物群に視点を据えつつ、学問的な営為を跡付ける努力を欠くことはなかったであろうか。例えば、鈴屋学最大の担い手であった鈴門商人層の蔵書及びその関連資料を精査すると、そこには心学書・仏書・漢籍等を含む、思いの外多様な書物の、潤沢な集積が確認される。即ち、この事実はイデオロギーとしての国学が、鈴門商人層の蒐書活動を限定するものではなかったことを意味し、同時にそれは彼らにおける国学享受の内実を示唆するものといえるのではないか。

 書かれたテキストの意味の読解のみならず思想形成の基盤をなす書物のモノとしての側面へのアプローチを思想史研究に導入すべきであるという提言がなされて久しい。しかし、そうした提言も、思想と書物が交差する具体的な場に踏み込み、幅広く検証することなくしては理論的・方法的な有効性を云々できない。思想史研究の新たな場の構築が不可欠なのである。

 本報告では、思想が形成される場を書物の享受をキーワードとして可視化し考察する。そのなかで、新たな思想史研究の方法を模索したいと考える。なお、考察に際しては、主として医学史研究との関連を町が、国学史研究との関連を高倉が、地方史研究との関連を高橋が担当する。 


第二会場(文教大教室)・津田・村岡・和辻の「天皇」論

 
津田左右吉 東海大学 田 尻 祐一郎
村岡典嗣 東京工業大学 畑 中 健 二
和辻哲郎 日本大学 田 中 久 文
コメンテーター 東京大学 苅 部   直
 「日本思想史」という学問は、近代日本の学問編制の中で、必ずしも自立的なものではなかった。そのこと自体が、自らの伝統との対決という点での近代日本の特質を象徴しているということは、よく言われる通りである。だが今日、状況は変わりつつある。一つには、日本の思想事象についての研究の蓄積が諸方面からすすみ、研究方法の模索も競合的に展開している。「日本思想史」は、ある意味で市民権を獲得しつつある。他方、近代の学問編制そのものが批判的に見直される中で、「国民の物語」という性格を生まれながらに刻印された「日本思想史」の在り方が、厳しく問われている。

 二十一世紀に日本人がどのような歴史意識を(内外において)共有しあえるのかという大きな課題とも響き合うものとして、私達は「日本思想史」という学問を、その成立の時点に戻りながら未来志向的に考えたい。先達としての津田左右吉・村岡典嗣・和辻哲郎が、それぞれの描く「天皇」の中にどのような「国民」像を込めたのか、そこから描き出される共同性・公共性の特質がどのようなものであり、何を批判・克服しようとしたのか、そこで隠され、消されてしまったものが何だったのか―こういう問題に接近できればと思っている。


研究発表


第一会場(文大教室)

世阿弥伝書における時間性の概念―『花伝第七別紙口伝』を中心に―

筑波大学大学院  佐々木 香織
 『花伝第七別紙口伝』では因果の花を知ることが究極であり、また「時分をも恐るべし」という世阿弥の構想が展開されている。これは世阿弥の伝書群に通底する構想だと考えられるが、この構想を時間という観点で考察することが本研究の意図である。

 世阿弥は『花伝第七別紙口伝』において、立合勝負を決定する要因を男時・女時という時間性に仮託し、それら人力では如何ともし難い時を認識し手立てせよと説いているが、これは陰気・陽気に二分された「時の調子」を心得ることを説く『風姿花伝第三問答条々』と相対する。通常『風姿花伝』と総称される伝書の内、応永二十五年奥書の『別紙口伝』は、いわゆる『四巻本風姿花伝』『古本別紙口伝』の記述を根拠として、応永七年奥書の『問答条々』が書かれた時点での成立が想定されており、この時間性の構想も早い時期から存在したと考えられる。さらに中期作『花鏡』では「天の調感ここに移りて通ずる折を時の調子とは申すなり」とし、楽書『残夜抄』『竜鳴抄』等と同様、演能は天の時と感応してせよと説いている。これは、人知の及ばぬ時が存在し、その時に応じて活動せよという『別紙口伝』の構想を引継いでおり、男時・女時を「天の調感」と捉え直したものと考えられる。このように、能を天の時との関係で捉える世阿弥の時間性の概念は、伝書相伝当初から構想され、中期作において理論的に再認されていると考えられる。


中世における『先代旧事本紀』の受容

学習院大学大学院  林  東 洋
 聖徳太子の撰とされる『先代旧事本紀』(以下『旧事紀』)は実際には九世紀に成立したと考えられるが、成立以降多くの神祇関係書に引用され、神道思想の形成に大きな役割を果たした。『旧事紀』がどのように受容されていったかを見ることで、神道思想の発展とその重要点について理解できるだろう。『旧事紀』が引用される場合、使用される部分はほぼ一定している。中世の神道書に焦点を絞って見てみると、『旧事紀』からの引用および『旧事紀』を拠りどころとして論じられていると思われる記述は、大別して以下のように分類できる。@『旧事紀』が聖徳太子の著だとされること、『古事記』『日本書紀』よりも古いとされること。A天地開闢の記述と、天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊について。B巻第一神代系紀の天神七代の神系譜。C巻第三天神本紀・巻第五天孫本紀の饒速日尊の記述。D饒速日尊に従って葦原中国に降臨した三十二神について。E十種の神宝に関する記述。以上の六点である。これらのうち度々引用される部分はその文献における重要な主題に関わると考えられ、またその記述が『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などに見られぬ『旧事紀』独自のものである場合、その主題において『旧事紀』の果たす役割は大きいといえるだろう。本発表では、慈遍の一連の著作と卜部神道書を例にとりながら上記の点を確認し、中世神道思想への理解を深めたい。



普寂の戒律観
東北大学大学院  西 村  玲
 近世中期の代表的な学僧の一人である、徳門普寂(宝永四・一七〇七〜天明一・一七八一)は、性相学・華厳学に通じた浄土宗僧であり、ことに華厳学では同時代の鳳潭と並び称された。普寂は、その実証的な文献学的方法から、富永仲基との類似が指摘され、近代仏教学の先駆とされている。

 また彼の実践行は、念仏・戒律(天台安楽律)・禅(曹洞宗)にわたっており、近世の戒律復興運動の中では、浄土律僧の一人として位置づけられる。その戒律観の特徴は、大乗戒より声聞戒を重視すること、浄土宗義である一向念仏を認めないこと、天台の性悪法門を許さないことであり、すでに同時代の浄土宗の大我より、これらの点について批判された。

 従来の研究では、これらの特徴は当時の復古主義の影響であると説明されるが、普寂の思想全体の中でどのような意味を持つかということは考察されていない。本発表では、当時の戒律復興運動の中で論争されていた絹衣の問題から、いわゆる小乗戒である声聞戒を重視する普寂の戒律観について、彼の思想全体との関わりの中で探る。

 近世仏教における復古主義の思潮は、僧侶のどのような内面の欲求によって生み出されていったのか、について明らかにしたい。


   
手島堵庵による石門心学の「創出」

京都大学大学院  高 野 秀 晴
 本発表は、石門心学の「創始者」とされる石田梅岩の教学を、弟子の手島堵庵がどのように受け止めることによって、自らの教学を形成したのかを明らかにするものである。

 これまで石門心学をめぐる研究は数多くなされてきているが、多くは石田梅岩の思想に関する研究に偏っている。しかし、心学が地域を越えて大きな広がりをみせはじめたのが、梅岩の死後、手島堵庵の活躍した時代であったことを思えば、これまでとは異なる視点から堵庵の思想に改めて焦点をあててみることが必要だと思う。

 わずかの例外を除けばこれまでの研究は、梅岩を心学の「創始者」としてあらかじめ特別視し、梅岩以降の心学思想史を梅岩思想の変容過程として描くのが常であった。しかし、「創始者」として高く評価すべき石田梅岩、というイメージは、実は堵庵によってつくられたものなのだと本発表ではとらえる。梅岩を特権化することにより堵庵は自らの教学を形成した。このことはとりもなおさず、「石門」心学の「創出」なのである。また、堵庵の時代において心学が普及していく理由の一端はここにあったことも明らかにしてみたい。

 本発表は、これまでの梅岩像を前提とはせず、梅岩像がつくられる局面にこそ注目する。その結果、これまでとは異なる堵庵像、ひいては心学像が浮かび上がってくるであろう。



工藤平助「国益思想」の再評価―『報国以言』を中心に―
関東学院大学  矢 嶋 道 文
 工藤平助(球卿、周庵、一七三四〜一八〇〇、享保一九〜寛政一二)は、紀州藩医長井常安太雲の三男として出生し、一〇代はじめに江戸詰仙台藩医工藤丈庵の養子になり、第六代藩主重村のもとでは「小姓頭」に任ぜられている。知られるように平助は、田沼政権下における蝦夷地調査、対ロシア交易への献策と影響を与えた一人でもある(「蝦夷地一件」)。そのため、従来、平助についての評価では、天明元年・同三年起草の『赤蝦夷風説考』(上、下巻)にみる北方への彼の関心が常にクローズアップされてきた。しかし平助は、また一方において、天明三年には老中田沼意次宛上書とされる『報国以言』を起草し、長崎貿易の是正(銅相場の統一化、抜荷の厳重取り締まり)を強く訴え出ている。従って、田沼期における平助の思想と行動は、一方における『赤蝦夷風説考』(松前口・対ロシア政策)への評価と同時に、他方での『報国以言』(長崎口・対オランダ政策)を等しく評価した上に把握されることが必要であると思われる。

 報告では、かかる『報国以言』の内容に焦点をあて、同書にみる平助の幕府宛献策を整理紹介し、『赤蝦夷風説考』のほか同時期における他の経世家の論著とも比較しながら、この時期における平助の「国益」思想を改めて評価しておきたいと考える。なお、報告史料(『報国以言』)は、古河歴史博物館所蔵写本(寛政五年、三五丁)を用い、『通航一覧』第八(刊本)を併せて参照する。



幕末における固有と普遍―吉田松陰を中心に―
東北大学大学院  桐原 健真
道は天下公共の道にして所謂同なり。国体は一国の体にして所謂独なり。君臣父子夫婦長幼朋友、五者天下の同なり。皇朝君臣の義万国に卓越する如きは、一国の独なり。(『講孟余話』)

 一八五六(安政三)年六月に著されたこの『講孟余話』の一文は、吉田松陰(一八三〇〜一八五九)が「道」の普遍性に対して「国体」の固有性を主張し、後者の前者に対する優越を唱えたものとして理解されている。このような固有性を主張する松陰を、「道は天地の間一理にして、其の大原天に出づ」と論じ、「道」の普遍性をもって反駁したのが、朱子学者の山県太華(一七八一〜一八六六)であった。

 この論争は「明治・大正・昭和とつづいたさまざまな形の国体論争の中でも、もっとも生彩あり、情熱のこもったもの」(橋川文三氏)と評価され、この松陰の固有性の観念に関する先行研究も少くない。しかし、松陰は必ずしも「道」の普遍性を全否定したのではない。松陰は、あくまで「天地間に一理」しか存在しないことに対して反駁したのであって、天には一理を認めつつ、地における多様性を主張することこそがその主眼とするところであった。

 本報告では『講孟余話』における山県太華との論争を中心として松陰の固有と普遍をめぐる観念の存在形態を明らかにすることを目的とする。このことは単に「理」をめぐる形而上学的問題だけではなく、幕末維新期という世界史的状況の中で、「日本」という固有性を「国際社会」という普遍性に対して、いかに位置づけたかを考察する一助ともなろう。


第二会場(文教大教室)


西周の宗教論―明治前期の宗教論―
東京大学大学院  菅 原  光
 本報告の目的は、明治前期の功利主義的思想家として知られる西周の宗教論を、その功利主義的政治観を補完するものとして捉え直すことにある。

 西の宗教論は主に「教門論」(明治七年)において展開されたが、『百一新論』(明治七年)において"moral"のことであり"religion"とは区別されるとしていた「教」が"religion"として語られている点に注目したい。何故、西は一方で"religion"を語らずとしながら、他方で"religion"を語ることにしたのだろうか、あるいは語らざるを得なかったのだろうか。 

 第一に、明治前期という時代が、宗教が公的に語られ議論される場が成立し得たという点に非常に大きな特徴を持つ時代であったということ、第二に、道徳の退廃状況、国民国家の統合ということが問題化していたという点、このような同時代状況との関係があるだろう。 

 西において人間の内面の問題には関わらずに外形面のみを整えるものとして位置付けられた政治の問題に、宗教論はどのように関係するのだろうか。また、西の思想全体の中での宗教論の位置づけ、明治前期の宗教論の中での西の宗教論の位置づけ、この二つの問題を考察していくことにしたい。



陸羯南の「地方」論―草創期「国民主義」における政治主体としての 「地方」―
              東北大学大学院  鈴 木 啓 孝
 明治二〇年頃に相次いで成立したとされる「明治ナショナリズム」。その担い手である「明治の青年」たちの合言葉が「藩閥打破」だったことは夙に知られている。戊辰戦の勝者たる藩閥人によった国政は「明治の青年」たちが断固拒否したものだった。国政を担う者の意志は特定地域のそれに偏るべきではなく、常に「日本」という全体領域が考えられるべきであったのだ。しかしここで、彼ら「明治の青年」たちの背後にも、彼らの父祖及び幼少期の彼ら自身が属していた旧藩の影響があったことが確認されねばならない。そもそも旧藩のために彼らは藩閥から阻害されたのだ。「明治の青年」各個人においても、出身藩がそのアイデンティティーの拠り所だったことに変わりはないはずだが、であるからこそ、旧藩に対して彼らの中で愛憎の両感情が渦巻いていただろうことが予想される。そしてその葛藤が、「ナショナリズム」という新たな思想の形成を促したのだ。ここに、「明治ナショナリズム」における「地方」論を考察し、その位置づけを明確にすることの意義を見出すことができる…。本発表は、以上のテーマに基づいて、「津軽」出身の陸羯南(一八五七〜一九〇七)に着目し、その論説を考察するものである。羯南には、彼個人に特殊な事情から故郷「津軽」をめぐる特殊な葛藤が存在していた。その葛藤に着目することによって、彼において極めてユニークな「地方」論の形成を認めることができるのである。



内村鑑三、三度目の回心
京都大学大学院  川 端 伸 典
 内村鑑三に関するこれまでの研究は膨大な数にのぼる。詳細は省くが、代表的なものとして内村の弟子筋による伝記的研究があげられるだろう。内村の実像を後世に残すため、あるいは近接していては看過されがちな思想的・人間的な側面を再現し再評価するために今日もなお研究が行われている。また、戦後は内村の興した無教会キリスト教の非戦論が注目され、思想史の観点から内村を再評価する動きが盛んになった。

 しかし、内村の実像と思想史的把握、言い換えれば、内村のキリスト教信仰(思想)と日本の歴史的・社会的な連関は、必ずしも中立な立場で――聖人視せず、非戦論を先取りせず――把握されたとは思えない。

 そこで本発表では、内村の三回にわたる回心に着目し、その意味と思想的構造を明らかにしたい。内村自身述べているように三度の回心とは、一度目は札幌農学校での回心(入信)、二度目は米国留学中での回心(福音信仰)、三度目は内村五十歳代半ばでの再臨信仰である。なお、一度目と二度目の回心については「内村鑑三の回心をめぐって」(日本哲学史フォーラム編『日本の哲学』第二号、昭和堂、二〇〇二年)で述べたので、今回は三度目の回心の信仰と思想の特徴と意義を発表する予定である。具体的にはキリストの死による贖罪についての内村の理解とそこから派生する思想を検討する。



日露戦争期の風刺画の文化比較分析
広島市立大学  ミハイロバ・ユリア
 二年後一〇〇周年目となる日露戦争は、帝国主義時代の戦争の一つであり、日露両国の嫌悪感をもたらした歴史的事件として現在よく知られている。けれども、当時の人々はこの戦争及び相手の敵対国をどのように見たか。すなわち、この戦争はロシア人の「他者」としての日本、また日本人の「他者」としてのロシアのイメージの形成にどのような影響を与えたか。私はこの問題の理解のために、日露戦争期の風刺画の文化比較分析は役に立つと思う。日本では、日露戦争の風刺画についてかなり多く研究があるが、それらは社会的、政治的コンテキストの中にその風刺画を考察した。文化的分析が足りないと感じる。ロシアの風刺画の研究はロシアでも、日本でもまだ行われていなかった。この発表はロシアを中心にして、日露戦争期の風刺雑誌と民衆版画を考察しながら、それらの絵のメインテーマ、冗談の源泉、滑稽さの民族特徴などを調べている。また、その風刺画は一般ロシア人によってどのように受け取られ、日本人についてのどのようなステレオタイプを創ったかを考察する。ロシアのプロパガンダ努力にもかかわらず、日露戦争期には、日本に対する敵対的イメージは形成されていなかったと思う。その原因を風刺画で示しながら説明する。同時に、『風俗画報』の臨時増刊『日ポン地』の風刺画、滑稽話しなどを分析し、ロシアの風刺画と比較し、両国民のユーモアの特徴を検討する。その分析に基づいて、後の日本人が持っていたロシア観について幾つかの結論を提案する。



「原理」か「経験」か―西田幾多郎「純粋経験」概念再考―
大阪外国語大学  水 野 友 晴
 『善の研究』の鍵概念が「純粋経験」にあることには疑問を差し挟む余地はないであろう。西田幾多郎はこの概念のもと実在論、倫理学、宗教論などを体系化し、純粋経験こそが唯一実在であり、あらゆる現象は唯一実在たる純粋経験が「自発自展」することによって現れると主張した。

しかしながら根源的統一力の自発自展によって世界が形成されるとする立場は一人西田のみに特徴的なものではない。そのような思想家の一人としては、たとえば英国理想主義哲学者グリーンの名が挙げられよう。グリーンは精紳原理spiritual principleという概念を根底に据え、この原理に従って実在界、意識、道徳的義務といったあらゆる事柄が生じることを主張した。

ところがグリーンがすべてを生み出す根源的統一力を精神「原理」の名で呼ぶのに対し、西田は純粋「経験」の語を使用する。ならば、西田がグリーンに従って「原理」の語を使おうとせず、なぜあえて「経験」の語を使うのか、両者の根源的統一力ヘの視座にどのような相違が認められるのかという問いが必然的なものとして提出されることとなるであろう。

 本発表ではこのような理由から西田の純粋経験概念を、グリーンの精神原理に加え、ロック、ヒュームらイギリス古典経験論、ジェイムズの純粋経験概念などと比較し、西田が「純粋経験」という用語のもとで何を想定し、どのような理由から「経験」の語を根源的統一力の呼称として採用したのかを解明することにしたい。



九鬼周造『「いき」の構造』に於ける「移植」と「回帰」
東北大学大学院  池 上 隆 史
 九鬼の主著『「いき」の構造』の成立は、一九二六年、パリで脱稿した@草稿「「いき」の本質」にまで遡ることが出来る。本稿をもとに、帰国後の一九三〇年一・二月、紙数を大幅に加えたA「「いき」の構造」が『思想』に発表され、同年末修補の上B刊行へと至っている。

 これら三つの形態をめぐっては、文化の「移植」について論じた結論(@・A)が、Bでは削除された点が注目され、そこにある変化をどのように解釈するかが問題とされてきた。

 文化現象の「移植」の実例を、九鬼はジャポニズムから得たと思われるが、そのような「移植」を否定したかのようなBについて、坂部恵氏は、「決定稿は、もはやその〔東西の〕二元的な緊張を失って、むしろ(ショーヴィニズムといわぬまでも、それへの耐性の極めて低い)閉鎖的な文化特殊主義ないし単なる文化的ナショナリズムへの傾斜をあきらかに見せる」(『不在の歌』、一〇二〜一〇三頁)という解釈を示している。

 本発表では、従来の議論が、本来長期に渡って行われたはずの「いき」の「修補」を、その間になされた著述などから切り離して比較考察してきたのに対し、特に、@からA(約四年)の間に行われた著述との関連に於いて、同書の変化の意味を考察してみたい。


第三会場(法3教室)


近世政治思想史における文武両道論
東北大学大学院  大 川  真
 日本近世の支配層を担っていた武士にとって共通の政治理念とは何であったのか。近年注目されてきたのが、前田勉氏によって提示された兵学思想と若尾政希氏によって提示された「太平記読み」の思想である。両者の刺激的な研究に対する反響の大きさはここで述べるまでもないだろう。しかしながら兵学思想や「太平記読み」の思想に代わり得る新たな見解を我々は得たわけではない。前田氏の研究では、兵営国家である日本近世国家において、大陸の朱子学が持っていた「自由」や「平等」の原理が不適合であった面が解明されたが、為政者層の儒学に対する需要に関しては解明されていない。若尾氏の研究では、総合史としての思想史の可能性が追求され、支配者と被支配者の間における関係意識が解明されたが、支配層たる武士が、政治常識の形成の際に依拠したテキストの全体像に関しては解明されていない。本発表は以上のような問題点をふまえ、日本近世の武士における政治理念であった文武両道論についてその史的意義を解明するものである。

 従来の研究において通俗的な道徳として十分な検討がなされなかった文武両道論であるが、武家諸法度をはじめとする法令や家訓、さらに藩校精神や往来物に取り入れられ、近世の武士層の政治理念として根幹的な位置を占めていた。さらに文武両道論は「頂点」思想家によって、近世日本国家の権力構造論に発展されるのである。



近世武士道における刃傷事件の思想的位置―赤穂事件を手掛りとして―
東北大学大学院  中 嶋 英 介
 元禄十五年(一七〇二)三月十四日、赤穂藩の浪士達が吉良邸に討ち入ったいわゆる赤穂事件の発端は、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に仕向けた刃傷であった。赤穂藩士達はそれを当然のごとく喧嘩として受けとめた。しかし幕府はこれを喧嘩とせず、浅野は即日切腹、吉良上野介はお咎めなしという判断を下した。すなわち松之廊下での刃傷事件を両成敗として片付けず、一方的に内匠頭を処分したのである。この処分に対して当事者の赤穂藩士はもちろん、外部の諸士からも「片落」とまでに評されたわけだが、そこには浪士達の捉えていた喧嘩の見方と幕府の喧嘩の捉え方に決定的な違いがあった。

 まず幕府の裁断でポイントになったのが、江戸城内という公の場所で刃傷事件をおこした内匠頭の失態である。幕府は「時所をもわきまへず」に刀を手にした浅野を処罰する一方で、浪士達の両成敗に処すべきという抗議は聞き入れなかった。では幕府と浪士の間のズレは何を意味するのか。彼らは何を以って「片落」とし、何を以って喧嘩としたのか。

 このズレを明らかにするには喧嘩の定義を明らかにした上で、松之廊下の一件をなるべく同じ条件に即した刃傷事件と比較検討することが必要となるだろう。今発表では公の場でおこった他の刃傷事件を通して、喧嘩両成敗がいかなる形で適用されるかを確認し、松之廊下での刃傷を検証したい。 



『六諭衍義』関連諸本の思想史的考察
 同志社大学  和 田 充 弘
 室鳩巣は『六諭衍義大意』(享保七)の跋文において、すぐれた教化を行うためには「学問」とは別に「教道」を立てて「浅近入り易きの言」で「馴致」するてだてを考える必要があると説いている。儒教の通俗化とは一般にテキストの簡略化や文章表現の平易化、あるいは挿絵や注釈の採用による読みやすさの表面的な工夫を指すものと考えられているが、それのみに止まらない。学者のための本格的な学問トレーニングとは異なる回路で、日常卑近な道徳の必要性をいかに懇切丁寧に納得させ、ひろく実践にみちびかせるかという独自の思想的課題を内容に含むものでもある。近世社会における『六諭衍義』の多様な普及については東恩納寛惇氏による包括的な書誌的検討がなされ、神崎直美氏・松崎欣一氏は文政十三年の岩村藩版『六諭衍義大意』を嚆矢とする翻刻の流行が各地の藩政改革と連動したものであったことを明らかにしている。本発表では、@室鳩巣の『六諭衍義大意』につき、あらためて范メの『六諭衍義』との比較を行うことでその特徴を整理したうえで、A鳩巣の打ち出した方向をオリジナルに継承・展開したものとして、中村三近子の『六諭衍義小意』(享保十六)をとりあげる。Bさらに幕末における再流行については、勝田知郷『首書絵入六諭衍義大意』(天保十四・弘化四)を中心に検討を加えることにする。



庄内藩における徂徠学―致道館初代祭酒白井矢太夫の思想を中心に―
東北大学大学院   橋  哲
 庄内藩士白井矢太夫(一七五三―一八一二)は、その著作『周易解』の叙文において、以下の如く述べている。「自分はかつて、物先生の徒が草した『易反正』(太宰春台の『周易反正』を指すと思われる)を読んだが、大いに師説に悖っている。物先生の高弟でさえそうなのだから、末流の弟子に至ってはなおさらである。」「昔物先生が唱えた古学、我が藩はその嚆矢となるのだ。」と。彼は郡代として藩内の寛政改革に功を成し、一八〇五年(文化二)、藩校致道館開設にあたり、藩主酒井忠徳によって初代の祭酒に抜擢された人物である。そして、この『周易解』は、「物先生遺訓」を標榜し、致道館版として一八〇七年(文化四)に刊行された。庄内藩は藩校開設以来、一貫して藩学を徂徠学とした稀有な藩であることが知られているが、その徂徠学受容の具体相は、未だ研究の俎上に載せられていない史料も多く、検討の余地を残す。中でも庄内藩を扱う上で、白井は多大な影響を持ったことが予測され、対象として避けて通れない。また、たとえ庄内藩という限定を取り払ったとしても、白井という存在は、当時としては珍しい、自覚的に徂徠学者たらんとした点、徂徠学の本質を『易』に見出した点、で充分注目に値しよう。本報告では、『周易解』と、問答体の形式をとり、白井が『易』に関する諸説を論定する、という性格をもつ『周易断叢』の検討を中心に行うことで、庄内藩における徂徠学の一典型を明らかにすることを目的とする。



十八世紀後半の儒仏調和論と人性論の特質―明末清初思想の転回と日本儒学―
立命館大学  清 水 教 好
 従来、徳川思想史における儒仏問題は、初期では「三教一致から排仏論へ」という視角から、後期では経世論という視角から危機意識を伴った排仏論が、また中後期においては経世論レベルの排仏の立場をとらない個別の仏教論が、宗教(仏教)史や儒学思想史研究でとりあげられてきた。

 本発表では、 一八世紀後半の儒学思想のなかにみられる儒仏関係論に注目したい。それは、排仏論ではない特有の「儒仏調和論」であったと考えられ、 一八世紀後半の〈日本儒学〉は〈明末清初思想〉の動向とパラレルに展開したという視角から、このような「儒仏調和論」を明未清初の思想動向と関連付け、 一八世紀後半の東アジアの言説空間における〈明未清初思想〉の〈日本儒学〉としての転回と位置づけて、その特質を儒・仏共通の基盤である「心」の問題が反映される人性論に探りたい。

 具体的には、〈明未清初思想〉の動向としては、方以智、游藝、王夫之などにみられる西洋自然科学と儒道仏の三教を折衷した諸教一致の思想動向と、陳確、王夫之、戴震など悪の根拠を「習」(儒)や「習気」(仏)とする人性論、〈日本儒学〉の動向では、前野良沢ら蘭学者とは違って、諸教一致の明末清初思想の影響下に、排仏の立場をとらない後期特有の儒仏調和論と人性論を展開した三浦梅園、佐藤一斎、帆足万里などをとりあげる。



平田篤胤の転生観
早稲田大学  中 川 和 明
 平田篤胤は、『新鬼神論』(一八〇五年)や『勝五郎再生記聞』(一八二三年)の中で、いわゆる「生まれ変わり」の問題に取り組んでいる。これらを検討してみると、篤胤における国学的転生観の特色は、@「生まれ変わり」といったことは確かに事実であるが、ごく稀な出来事であるとしていること、A「生まれ変わり」は主に「産土神」の取り計らいによるものであると解釈していること、以上二点に集約されるのである。

 このうち、@は『新鬼神論』の段階で既に出ているが、Aは『勝五郎再生記聞』になって登場するものである。つまり、『勝五郎再生記聞』にいたって、ようやく国学的転生観が確立するのであった。『新鬼神論』から『勝五郎再生記聞』までに、十八年が経過している。篤胤にとって、「生まれ変わり」は難問であるとともに、重要な課題であったことが分かる。

 また、「生まれ変わり」の解釈については、当時、儒者の説く否定論と仏教の輪廻転生説が対立していた。篤胤は、両者を批判するとともに、これらに代わる国学的転生観を創出しようとする。殊に、池田冠山の『勝五郎再生前世話』に見られる仏教的な転生観を強く意識していたのだ。篤胤の『勝五郎再生記聞』は、冠山の仏教的転生観を批判して、国学的転生観を提示するものであったといえよう。