2008年度東北大学日本思想史研究会夏季セミナーのご案内

(終了)

本年の日本思想史夏季セミナーはつつがなく盛会のうちに終了いたしました。ご参加いただき御礼申し上げます。

日本思想史夏季セミナー実行委員会一同

全体テーマ

日程

2008年8月23日(土)

2008年8月24日(日)

会場

参加費

交通アクセス(2008年7月現在のダイヤ)

東北新幹線

磐越西線

送迎バス(無料)

お問い合わせ先

以上

テーマ「「古典」を考える」

「古典を学ぶことの意義は大きい」とよく言われる。それ自体はあながち否定されるものではない。現代を生きる我々もまた「古典」と呼ばれる書を手に取る時であっても、ただの文学・思想書として見做し、知識・教養の為に受容することだけを意味しない。その書が自分自身にとって規範性を有し、寄る辺となる特別な書と見做すことがある。その規範性は個人レベルではなく、社会的なレベルにおいて広がりを持つこともあるだろう。ものによっては受容者・発信者による再生産・再評価によって、規範性を作り出され社会的に受容され得る。

「古典」という言葉と「クラシック」とを同義とする発想自体は近代になってからのものである。或る古の書籍群が時代を超えて意義を持つ「クラシック」であるが故に学ぶべきだ、という古典主義的な主張へと直結することには、なお慎重でありたい。

であるならば、それぞれの時代に即した古のテキスト受容・読解の在り様に注目してみよう。その当時の人々や思想家等が、或るテキストに注目し、規範性を有する重要なテキストと見なした迹を辿ることはどこまで出来るのか。また、彼等は彼等自身が規範性を有する「古典」と見なしたテキストと、どのような意識で接していたのか。

このように様々な時代における「古典」と見做す意識・世界観の諸相を明らかにすることは、過去の人々の思索の迹を辿ろうとする我々に資するものがあると思われる。

発表要旨並びに参考文献(発表順)

森新之介氏「日記の思想――摂関院政期を中心とした貴族の古典学――」

中世の貴族たちの学問はしばしば古典学と称される。それは、貴族たちにとっての学問が和漢の古典を中心としたものであったため、適切な呼称であると言ってよい。だが、貴族たちにとっての古典とは一体何であったかを考える時、現代人の所謂古典から最も掛け離れ、かつ非常に重要な位置を占めていた書物群の存在が浮かび上がってくる。それが日記、より精確に言えば変体漢文によって書かれた政務日記である。

日記が貴族社会で果たした役割については、近年松薗斉らによって研究が深められている。だが、日記が貴族たちの思想形成に如何なる影響を及ぼしたかは、未だ殆ど明らかにされていない。そこで本報告では、日記を一種の思想媒体と捉え、また日記を中心とした古典へ貴族たちが如何に向き合ったかを分析する。時代は摂関院政期を中心に考察しつつも、そこから中世にかけての貴族思想の発展史を描き出したい。(東北大学大学院博士後期課程)

参考文献(初出順)

清水則夫氏「浅見絅斎と谷秦山の論争をめぐって」

本発表では、浅見絅斎と谷秦山の関係を、両者の論争を中心として考察する。浅見絅斎(1652〜1711)は、闇斎学派のいわゆる大義名分論の主唱者と目される朱子学者であり、谷秦山(1663〜1718)は山崎闇斎と浅見絅斎から朱子学を、渋川春海から神道と天文を学び、やがて神道を主軸とした神儒一致論を唱えた。絅斎と秦山は師弟関係にもあったが、秦山が神道へ傾倒していくにしたがって意見対立が激化、数度にわたる論争の結果、絅斎が秦山を義絶するに至った。

この事件は、以後も続発した闇斎学派における絶交のなかでも、最も劇的なものと言ってよい。それだけにこの論争はよく知られたものであるが、従来の研究においては、戦前以来の研究・宣伝の影響もあって、両者の思想的差異に関する掘り下げが不十分であり、また論争が周囲に及ぼした影響について言及されることはまれであった。

そこで本発表では、二人が論争に至った経緯とそこでの論点を検討し、両者の思想的差異を明らかにするとともに、この論争がその後に発揮した影響力にも言及する。この作業によって、17世紀末から18世紀初頭にかけて、闇斎学派が中国・夷狄論や儒神論の形で「日本」という問題と格闘した具体像と、同学派が持っていた思想的多様性の一端を提示したい。この多様性は、闇斎学派の思想展開とその思想史的意義を考察するうえで貴重な示唆を与えてくれるだろう。(早稲田大学非常勤講師)

参考文献

桐原健真氏「「聖典」を求めて――河口慧海と「日本仏教」」

本発表は、近代日本における仏教者である河口慧海(1866〜1945)の思想を、その二度の入蔵(チベット行)における相違をふまえつつ論ずるものである。河口は、日本人としてはじめてチベットに入った人物として知られ、その研究もチベット探検家としての側面が中心であった。

19世紀における「文明国」たちは、地図上の「空白」を塗りつぶすために、「野蛮・未開」の地を踏破することにしのぎを削っていた。それは一方では帝国主義の運動のしからしむるところであったが、他方で未知なる対象を既知としようとする「科学的」な動機に起因するものでもあった。しかし河口がはじめて入蔵した動機に存在していたのは、そのような「文明」的背景だけではない。むしろ彼には、真なる「釈尊の金口」を希求する心こそがあったのである。

「大乗非仏説論」に対して終生強い反駁を加え続け、梵蔵経典の中に真実の教え(「仏説」)を見出そうとした河口は、その「原理主義」(奥山直司)的な経典解釈ゆえに、ついに「日本仏教非仏説」にまで到達する。本発表では、「唯一の大乗国」という日本仏教におけるナショナリズム言説と仏教の近代化との狭間の中で彼が逢着した地平を明らかにしたい。このことは、近代における「聖典性」を有したテキストの存在形態の考察に資するものともなろう。

参考文献