2012年度日本思想史研究会月例会報告要旨(予告)


開催日報告者題目
12月16日 團藤 充己氏 「福地源一郎の新聞活動―第二次民選議院論争を中心に― 」
小松原孝文氏 「近代作家の誕生とロマン主義―保田與重郎「文学の一つの地盤」―」
11月24日 佐藤 文子氏 「〈国家仏教〉論の生成と国史学における古代」
7月21日 齋藤 公太氏 「若林強斎における「神」の言説」
葛 睿氏 「西村茂樹における天皇観」
6月30日 楊 妍氏 「一九二〇年代日中両国におけるエレン・ケイの受容および影響について―『婦女雑誌』を中心に―」
赤谷 正樹氏 「平安末期の死と埋葬―『平家物語』を中心に―」
5月26日 若色智史 大橋訥庵における攘夷運動とその批判について―佐藤一斎門下を中心に―
4月28日 ポロヴニコヴァ・エレーナ氏 近世後期の節用集における空間認識―『萬寶節用冨貴蔵』を例に―

2月例会

2月2日(土)修士論文発表会

時間 発表者 題目
13:00-14:00 赤谷 正樹氏 「平家物語』の思想史的研究―清盛の慈恵僧正再誕説話を中心に―」
(休憩10分)
14:10-15:10 エレーナ・ポロヴニコヴァ氏 「近世後期の庶民の世界観―節用集の付録における空間認識―」
(休憩10分)
15:20-16:20 楊 妍氏 「「良妻賢母」から「新女性」へ―一九二〇年代日中両国におけるエレン・ケイ思想の受容について―」

2月3日(日)卒業論文発表会

時間 発表者 題目
13:00-13:30 齋藤 晏里氏 「武者小路実篤の思想」
13:30-14:00 椎名祐一郎氏 「渋沢栄一の思想」
14:00-14:30 玉城 絵里氏 「蔡温の思想―国という観点から―」
(休憩10分)
14:40-15:10 戸舘 大斗氏 「戦没者の遺書に見る学徒兵の思想」
15:10-15:40 根本聡一郎氏 「近世における教育思想」
15:40-16:10 古澤みずほ氏 「御霊信仰の成立」
(休憩10分)
16:20-16:50 町田 裕記氏 「柳田国男と郷土会」
16:50-17:20 松本 学氏 「江戸時代の化け物文化」

12月例会

團藤 充己氏「福地源一郎の新聞活動―第二次民選議院論争を中心に― 」

本発表では、明治期のジャーナリストである福地源一郎(1841〜1906)を取り上げる。明治7年(1874)年12月に『東京日日新聞』の主筆に就任した福地は、自らの主張を「漸進主義」と称し、積極的な言論活動を展開した。その初期の活動において有名なのが第二次民選議院論争である。これは、士族に民権を認めるか否かをめぐって『郵便報知新聞』と『東京日日新聞』が明治8年3月から約1ヶ月にわたって論争を繰り広げた事件である。本発表では、論争における福地の言説を考察するだけでなく、論争に至るまでの経緯にも注目する。即ち、福地が新聞というメディアをどう活用したのか―また、その「新聞活動」の中に第二次民選議院論争はどのように位置づけられるのか。以上の考察を通じて、福地源一郎の思想(新聞観・民権論など)を分析するとともに、明治初期における政治思想の多様性の一端を明らかにしたい。 (東京大学大学院)

小松原孝文氏「近代作家の誕生とロマン主義――保田與重郎「文学の一つの地盤」」

保田與重郎が、美というものに、過度ともいえるほどの期待を寄せていたことは間違いない。しかし、その美を体現する「芸術」、とりわけ「文学」というものを、保田はどのように捉えているのか。実は保田は、無条件に「文学」を特権視しているわけではない。例えば、「文学の一つの地盤」(『作品』一九三三年六月)では、「文学」の成立する歴史的な「地盤」について考察が行われている。それによれば、「文学の起因となった運動が狭く文学の中に閉ぢこもつた運動であつたと云ひきることは、極めて危険な断案」であり、「その危険さの代りに、その運動を情勢的なもの、――それはつまり社会的な広範囲のものであるが、――からも理解しておかねばならない」というのである。本発表では、この「文学の一つの地盤」というテクストに依拠しながら、保田が近代の「芸術」をどう捉えているのか、またそこから誕生する「文学」をどう見ているのか明らかにしたい。 (東京大学大学院)

11月例会

佐藤 文子氏「〈国家仏教〉論の生成と国史学における古代」

現在古代史のあらゆる概説は、聖武天皇時代の仏教事業を章立てのなかに組み入れて叙述している。美術史・建築史において仏教遺産を使った古代が構築されたのは、明治二十年代のことであったが、国史学は大正七年になって〈国家仏教〉という概念を創出することで、聖武天皇時代の仏教事業を国家的なものであったとはじめて位置づけた。〈国家仏教〉論は、戦後いったん消えてしまうが、昭和四十年代に井上光貞によって再構築され、教科書の記述に復活する。井上は黒板勝美の〈国家仏教〉論に二葉憲香らによる〈律令仏教〉論を吸収するように学説を構築した。 この発表ではこれらの過程を、現在の日本史もしくは仏教史分野のメタヒストリーとして相対化し、日本にかかわる「学」がたもってきた規範性について言及していきたい。 (関西大学非常勤講師)

7月例会

齋藤 公太氏「若林強斎における「神」の言説」

今回の発表では江戸時代中期の朱子学者・神道家である若林強斎(1679〜1732) を取り上げる。周知の通り江戸前期を代表する朱子学者である山崎闇斎は朱子学 と神道の「妙契」を主張し、門弟間の激しい議論を惹起した。強斎の師である浅 見絅斎は神道に対して一定の距離を置いていたが、強斎はおよそ二十年に渡る朱 子学の研鑽を経て、享保八年(1723)頃を境に著しく神道に傾倒していく。この ことは従来、朱子学的合理主義から神道への転向、あるいは正統的な闇斎学への 復帰として理解されてきた。しかし他方で強斎は、近世においてもはや神道の 「神」がリアリティを持ちえないことを痛切に認識しており、神道への傾倒に際 しても何らか複雑な消息があったと推察される。本発表では同時代の思想状況を 参看しつつ、村岡典嗣の垂加神道論を手がかりとして、強斎による「神」をめぐ る言説の内在的理解をこころみる。(東京大学大学院)

葛 睿氏「西村茂樹における天皇観」

「皇室を尊戴する」という条目について、これが『日本道徳論』の「国民の品 性を造る」ために最も重要な条目であることを、西村茂樹(1828〜1902)は論じ ている。そして教育勅語が発布された時には、彼はそれを絶賛する口ぶりで述べ た。このことが原因となって、後世の西村像には、「天皇」を無条件に尊敬する というイメージが強く植え付けられている。  しかし一方西村は元々幕末期に佐倉藩の支藩である佐野藩の藩老として務め、 佐倉藩主であった堀田正睦(1810〜1864)とも親しい間柄にあった人物である。 そういった幕府側に基盤を持つ人間が、幕末から明治に変わる大きな時代転換を 経て、1887年には『日本道徳論』において、天皇を「民心統一」の機軸に位置づ けるという思考を公表するまでに至る。この二十年ほどの間、彼が天皇あるいは 皇室に対して、いかに考えていたか、またはそのような思惟様式がいかに形成さ れたのかについて、従来の研究では明らかにされていない。本発表は、幕末から 明治20年代にいたって西村が天皇に対する見方を考察し、新たな西村像を提供す ることを目的とする。(東北大学大学院)

6月例会

楊 妍氏「一九二〇年代日中両国におけるエレン・ケイの受容および影響について―『婦女雑誌』を中心に―」

エレン・ケイ(愛倫凱)は、霊肉一致の恋愛、恋愛の自由、自由離婚を主張し、そして、優秀な子供を産むことが人の「進化」としての社会的な価値を創造するとした。こうしたエレン・ケイの恋愛観、新しい性道徳観は、当時世界的な影響を与え、日本では母性保護論争を引き起こし、その恋愛結婚観は大きな反響を呼んだ。一方で、社会改革を目指す中国の進歩的な男性知識人に大いに受け入れられ、『婦女雑誌』誌上の恋愛論、新しい性道徳の根拠とされた。本発表は、先行研究に基づいて、『婦女雑誌』を中心に、エレン・ケイの著作の翻訳とそれに対する編集者達の評論を分析し、今まで中国女性史で重要視されなかった一九二〇年代の日中恋愛観の受容と影響に関して検討したい。(東北大学大学院)

赤谷 正樹氏「平安末期の死と埋葬―『平家物語』を中心に―」

『平家物語』は、平安末期の貴族の世から武家の世へと移り変わる、時代の転期を舞台に描かれた物語であり、作品はまた多くの死にも直面している。本研究は、武家の棟梁として死んだ平清盛や、流刑の地で果てた俊寛僧都などの、死と葬送をつぶさに検討しながら、平安末期における仏教思想の新たな胎動を浮き彫りにしようとするもの。(東北大学大学院)

5月例会

若色 智史氏「大橋訥庵における攘夷運動とその批判について―佐藤一斎門下を中心に― 」

大橋訥庵は江戸幕末の人物で佐藤一斎を師とした儒学者である。訥庵は、ペリー来航前後から西洋の文化・物を排除しようとして攘夷運動を展開していった。その行為に訥庵と同じく佐藤一斎の門下であり、交流のあった吉村秋陽、池田草菴、楠木端山などの儒学者は批判的であった。彼らは陽明学や朱子学を信奉しており、学問的立場が異なっていたが、攘夷運動に走らなかった。何故彼らは攘夷運動に走らなかったか、何故訥庵は走ったのか、そこから幕末の儒学者のあり方を訥庵の攘夷運動とその批判を中心に検討したい。(東北大学大学院)

4月例会(修論構想発表)

ポロヴニコヴァ・エレーナ氏「近世後期の節用集における空間認識―『萬寶節用冨貴蔵』を例に―」

従来節用集は、主に国語学の研究対象として扱われてきた。百科的な側面―巻頭・本文頭書・巻末についている多様な付録―について触れた場合にも、それはやはり国語学研究の一部である辞書史学の立場から論じられることが多い。しかし、節用集は歴史学や文化史学の対象ともなりうる内容を備えているため、付録部分にも注目が必要である。節用集に入っている付録の考察により、当時の庶民の世界観などの近世の思想も捉えることができる。本発表では、『萬寶節用冨貴蔵』を例にして、近世後期の節用集における空間認識について考察する。『萬寶節用冨貴蔵』における「大日本国之図」と「万国四十二国人物之図」の付録からは、近世後期の庶民の間で「日本」や「世界」がどのように捉えられていたのかを検討したい。(東北大学大学院)


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