発表要旨


荻生茂博氏
「豪傑」から「偉人」へ


 実行委員会におけるテーマ設定の意図は、各時代(の人々)によって求められた人物形象の探求という点にあると理解される。この形象は当然、言葉によって表される訳だが、そのように言葉の問題として考えた場合、時代に求められた人物形象が「偉人」なる語で現されるようになったのは近代になってからのようである。
 「偉人」といえば、「偉人伝」である。「偉人伝」といえば、「少年」向けの文学のジャンルであり、これは近代国家を担う「国民」を培養する装置として登場し、機能した。私の世代は子供の頃「偉人伝」を随分読んだものだが、近年「偉人伝」の魅力が薄れているのは、従来の国民国家(想像の共同体)の理想が色あせてしまったからだろう。「ニート」の社会問題化と「偉人」の失墜は表裏一体であり、現在が時代の過渡期にあることを示している。
 「偉人」に対して、伝統社会において顕彰されたのは「豪傑」である。「偉人」と異なり「豪傑」は『孟子』に典拠する古典の言葉である。この語は武勇のみならず、文学に関しても使われたが、それは、世界が「気」のエネルギーとして統一的に捉えられたからである。幕末維新期、「豪傑」は観念的な文学の世界から現実の政治の世界へと飛び出したが、自由民権運動の退潮とともに「東洋豪傑」は、よりハイカラな「偉人」に時代思潮の坐を奪われていったのである。
 報告では、幕末の儒者、安積艮斎の文学が「豪傑」を理想としたフィクションであること、近代になってから艮斎が「偉人」として顕彰されたこと、──すなわち艮斎像の虚実をめぐって「豪傑」と「偉人」各々の含意を考えてみたい。



見城悌治氏
戦時期日本の『偉人』観とアジア

 「偉人」と評せられる歴史人物評価は、時代意識を反映する。たとえば、世界各国が角逐していく近代社会では、ナショナリズムによって「国民」意識の共同性を創出していこうとする動きが顕著になる。そこでは、ある人物に「偉人」あるいは「英雄」という称号を与え、学校教育などを通じた意識化が図られていく。日本では日露戦争後の「地方改良運動」期にその先鞭がつけられ、1930年代に、深化喧伝されていく過程をおおむねたどっていくといえる。 ところで、一国内における「ある人物」の「偉人」性を説明する作業は、実は容易でない場合も少なくない。ましてや、日本が「帝国」となり、その植民地をも含み込んだ形で、それを正当化しようする論理は、さらに困難を伴うであろう。たとえば、幕末の荒村復興に実績を有した二宮尊徳や大原幽学が、「満州」開拓をする際の精神と方法を用意した存在として、新たな評価を与えられてくる。あるいは「大東亜共栄圏」を喧伝する際に、タイで活躍した山田長政の治績が、大いに運用されてくる。すなわち「日本」を表象する存在として産み出されてきた「偉人」たちは、アジア進出・侵略に伴い、アジアにおける「日本」支配の「正統性」や「合理性」を説明する原理としても再構築されてくる役目を負わされるのだが、そこには、数々の矛盾や問題が累積され、敗戦後には、それらの論理は多くの場合、捨象されていく。 近代社会が作り出した「偉人」観は、結局どのような形で戦後に継受あるいは断絶していったのか。我々はそこから、どこまで自由でどこまで拘束されているのか。ナショナリズムという「誘惑」が間歇泉のごとく噴出している現在、戦時期の「偉人」観とアジアについての語り方を顧みることで、多少の問題提起を行いたい。


【参考文献】

 見城悌治「1930年代日本における『模範的人物』----大原幽学・二宮尊徳を事例として」 『人民の歴史学』153号、2002年9月
 見城悌治「戦中戦後における日本農士学校長・菅原兵治の「尊徳」論/「幽学」論」『日本思想史研究会会報』20号、(立命館大学)、2003年1月
 見城悌治「『日本史』という安堵と陥穽」方法論懇話会編『日本史の脱領域』森話社、2003年2月

【参考史料】

鶴見祐輔『英雄待望論』1928年、講談社



池上隆史氏
村岡典嗣に於ける本居宣長の〈発見〉

 講壇に於ける日本思想史学の先駆とされる村岡典嗣(1884―1946)は、戦前の学界に於いては、専ら本居宣長研究の「大家」としてのみ評価されていた。
 村岡の主宰した日本思想史學會が、五年も経ずに頓挫したことが、これを象徴的に証明している。
本報告の目的は、主著『本居宣長』(1911)の成立を端緒に、本居宣長と国学に仮託された村岡の学問観の変遷を辿り、この日本思想史学の〈学問的〉方法をめぐる村岡の苦闘を明らかにすることである。
 『本居宣長』には、後の、思想史的研究にまつわる概念の殆んどが備わってはいるが、村岡が、実際に文献学的方法を自らの学の方法として提唱し始めるのは、同書の発行から十年後のことである(未見であるが、1921年廣島高等師範學校講義「日本道コ思想史の學問的性質とその研究法」が、後の所謂方法論講義の嚆矢であろう。)。
 その間の著述からは、「直接に適當なる入門書をも有しない」(「日本拐~史方法論」)時代に、比較宗教学や民族心理学などを摂取しようと様々に模索する村岡の姿が垣間見える。
 『本居宣長』の成功は、宣長研究史上に於いて、村岡の名を高からしめると共に、以後の村岡に対して、その思想史の方法論の展開を少なからず制約する足枷ともなった。
 村岡の方法論に見られる、文献学的態度と解釈学的態度の乖離こそ、この矛盾の顕在化したものなのである。


【参考文献】

・前田勉編『新編 日本思想史研究』(平凡社・2004.4)
・『季刊 日本思想史』第六十三号「特集 日本思想史学の誕生」(ぺりかん社・2003.4)
・原田夏子「敗戦前後の村岡典嗣先生」(『北炎』第73号、北炎社・2002.12)
・玉懸博之「村岡典嗣」(『20世紀の歴史家たち』(2)(刀水書房・1999.11)
・畑中健二「国学と文献学」(『日本思想史学』第30号、日本思想史学会・1998.9)
・新保祐司『日本思想史骨』(作品社・1994.3)
・清水正之「日本思想史と解釈学―芳賀矢一と村岡典嗣―」(『論集』第四号、三重大学 人文学部哲学・思想学系・1986.3)