発表要旨


佐々木馨氏
生と死の日本教育


 現代の日本において、人間の生と死の教育が、「本当に必要なのか」「どのように必要なのか」そして「それはどう行われているのだろうか」という基本的な命題は、不問に付されているように思う。この難題に対して、非力ではあるが、各種アンケートを取り入れながら、「命をどう考えるか」(他者の死)を客観的視座で、「命をどう捉えるか」(自分の死)を主体的関わりで、「命をどう教えるか」(死生観の教育)を現代教育論の視角で試論的に考えてみたい。

T 命 を ど う 考 え る か
@ 生物・医学的死生観
A 文学・哲学的死生観
B 文化人類学・心理学的死生観
C 民俗・宗教的死生観
        U 命 を ど う 捉 え る か
@ 現代青年にみる初めての仏さまと初めての死
A 現代青年にみる死のイメージと来世観
B 現代老人にみる死のイメージと来世観
          V 命 を ど う 教 え る か
@ 死の教育をめぐる先行研究
A 死の教育の必要性
B 北海道教育大学附属小・中学校のアンケート
C 新聞記事の利用
D 命の教育の実践例(北海道教育大学学生)



清水正之氏
国民道徳論的動向と村岡日本思想史学をめぐって

 日本思想史という学問の成立期の、思想史的な背景から、思想史研究のこれからを考えてみたい。

 西村茂樹の『日本道徳論』が、道徳の背景をなす宗教を「世教」(儒教・哲学)と「世外教」(仏教・キリスト教)とにわけ、日本のあるべき道徳の形は、儒教的なものに、(西洋)哲学をあわせたもの、とみたことはよく知られる。この考えの上に当時の国民道徳論・教育勅語に、大きな影響を与えた。

 こうした近代の方向は、日本思想史研究にも外的な強制力として、大きな影響をあたえている。たとえば和辻の思想史は、この余儀ない方向のなかで、「世」自体の輻輳した相をしめしたものであるといえる。

 その意味では、村岡典嗣の思想史の方向には、日本思想史に「世外」性をさぐるものといってよいと思われる。「国民道徳的見地」を回避せず、中世教学の「理論」と近世の「学問的顕現」の、「いはゞ特殊的の中間原理」に「日本精神の本質」と見いだそうとする(『日本精神論』)姿勢から、日本思想史研究を<未完>でかつ<開放型>のものとして、未来に拓かれたものを見ようとした村岡の意義(とくに、あえていえばその「世外」性)をあらためて考えてみたい。

 このような方向で、村岡の神道・国学への関心の具体的な問題に、私自身の問題意識と関われせながら、ふみ入ってみたい。



中村一基氏
日本的他界観と死への準備教育

*日本思想史学会には、「近世後期国学研究」という研究テーマで所属している。特に、平田派国学者の「幽冥界」論議に、日本的他界観との関連で関心を抱いている。
*大学では国文学担当ではあるが、1年次対象で「生活と環境」という「環境教育」(教養教育)のオムニバス授業を担当、「死後の環境〜葬送と墓のゆくえ〜」というテーマで、自然葬(散骨)・樹木葬の動向についても話している。また、高齢者対象の「生涯教育講座」で「葬送と墓の新たな動き」について話している。葬送と墓を通して、日本人の死生観・他界観に話の及ぶこともある。
*大学外では「岩手・生と死を考える会」を立ち上げ、高校の教員とともに、教育現場での「生と死の教育プログラム」の可能性を探っている。
*今回の夏季セミナーのテーマの困難さは、「死生観の教育」とはどのような形でありうるのかという現代的な問題と、「死生観の教育」を思想史から見て論じるとはどういうことかという、歴史的なスパンから「死生観の教育」を捉えねばならないという、解決すべき二つの課題が課せられている点にある。
*現在、「生と死の教育」「死への準備教育」「いのちの授業」という様々な名称で、教育現場で<生と死><いのち>を考えさせる試みが始まっている。学問の分野でも、「死生学」の構築が緊急の課題として注目されている。「死生学」は応用倫理学との結びつきが強いが、哲学・医学・心理学・文学・宗教などの立場から、死と生、とりわけ<死>を総合的(学際的)に研究する学問として立ち上がってきている。
*思想史の立場から、「死生学」へのアプローチを想定したときに、最も自然に考えられるのは、「死生観」というテーマである。なぜなら、個々の思想家の「死生観」研究の蓄積が思想史にはあるからだ。
*だが、その「死生観」研究の蓄積が現在の教育現場(学校教育から生涯教育まで)の「死への準備教育」「生と死の教育」等において、有効に機能するだろうか?
*「死への準備教育」の取り上げるべき内容(アルフォンス・デーケン『生と死の教育』2001)として認知されているもので、「人間らしい死に方を考える」「死のタブー化をやめる」「死への恐怖と不安への対応」「死後への考察―哲学・宗教の立場」などの内容を見る限りでは、過去の思想家の「死生観」研究が全面的には無効とも言えないが、有効に機能するとも思えない。「死への準備教育」は脳死や安楽死、尊厳死といった死という現象に直面する、宗教なき時代の処方箋として求められているからだ。「死生観の教育」は「死への準備教育」の一環である以上、死という現象への自覚を高めることはもちろんだが、そのことだけが目的ではなく、自覚を高めることで生きていることも現象であるという自覚を高めることが目的である。
*現在、終末医療の現場で、終末期の悲嘆教育の一環として、「自分はなぜ存在したのか」「死んだらどうなるのか」といった「スピリチュアル・ペイン」(霊性に関する痛み)に対しての<スピリチュアル・ケア>の必要性が強調されている。<スピリチュアル・ケア>では、<傾聴>と<共感>という方法が重視される。そして、それを担うのは宗教者とは限らない。<スピリチュアル・ケア>は宗教なき時代の処方箋である。
*「死生観の教育」は悲嘆教育ではないが、最終的な問いという面では、本質的なところでは共通する。だが、教育現場での実践を聞かない。それは、<宗教教育>を神経質にタブー化してきた日本社会の、国民文化の確固たる拠り所の喪失、他界観の喪失、そして死生観の喪失という多くの喪失に囲まれた教育現場の問題である。
*目に見えないものへの畏敬の念の喪失、漠然とした霊魂観、ほとんど理解符牒と化している「あの世」という曖昧な他界観を、思想・信条の自由として許容しあう法治国家日本の教育現場において、死後の世界を語る「死生観の教育」は<宗教教育>という偏見に晒される覚悟が必要である。教育(伝達)されるべきものとして「死生観の教育」は期待されていないのかもしれない。
*思想史は「死生観の教育」が本当に望まれているのかさえ不明な現代を、見据えることは出来ない。生と死の境界に、解決すべき<いのち>の問題が凝集している現代に対して、思想史は無力である。おそらく、思想史という学問は、そこでは望まれていない。だが、<死生学>的視野に参画しながら、現代の<生と死>の問題に接近して発言することは可能ではあると思う。
*もちろん、例えば、江戸後期の平田派国学者たちの教育(伝達)機能のなかで、幽冥(「あの世」)思想が共有され、発展していった経緯を研究するといった思想史研究は可能であると思う。また、その幽冥思想が現代の他界観、死後の世界観とどのように有効性を持って関係しているのかという日本的他界観研究も可能であろう。そして、そのことを思想史からみた「死生観の教育」の一環と言うことが可能ならば、思想史研究は現代においても教育機能を持ちえていると言えるだろう。