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中世の関東天台の談義所における学僧の活動について、人(学僧)と本(典籍)の動きに注目し、四つの視点から検討する。 |
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近世日本の社会のなかで、議論・討論によるコミュニケーションは必ずしも一般的ではなかった。上意下達の命令ー服従のコミュニケーション、あるいは、その場の雰囲気を忖度しながらの寄合コミュニケーションが普通であった。それゆえに、自己の意見を表出し、相互にそれを批判しあうような会読の場は、思想史的にきわめて重要である。報告者は以前、定期的に集まり、集団で経書や史書を討議する会読という学習形態が、近世日本の社会のなかで一種の公共空間を作り出していたことを指摘した。報告ではその成果をふまえ、それ以後、考えてきたことを述べてみたい。 |
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明治5年、津軽地方弘前に設立された私学東奥義塾は、旧弘前藩校以来の伝統を引き継ぎ、開校当初から外国人教師を招聘して洋学教育を行った学校である。集まった生徒は士族層の子息が中心であり、文明開化の風潮の中、同校では、津軽地方の将来を担う若者たちが、アメリカ人教師たちから英語を主な媒介言語として、歴史・数学・物理・化学・論理学などの諸学を学んだ。さらに同校からは、学校の枠を超えて、津軽地方にさまざまな影響も広がった。 |