■ 発表要旨 ■


渡辺麻里子氏(弘前大学人文学部講師)

題目:天台談義所における知の形成と伝達

 中世の関東天台の談義所における学僧の活動について、人(学僧)と本(典籍)の動きに注目し、四つの視点から検討する。
 第一に、関東天台を代表する談義僧尊舜の生涯をたどりつつ、談義所を移りながら自身の学問を形成・構築していく過程を追う。
 第二に、一つの談義所における学問の伝授について検討する。具体的には、金鑽談義所において、栄源が泰芸に伝授した典籍の分析によって、唯授一人の学問伝授の過程を紹介する。
 第三に、関東天台において著名な談義所について、それぞれの特徴を、所持伝授していた典籍の分析から検討する。談義所は、共通の学問を基盤としながら、かつそれぞれ固有の特徴を有していた。特権的に有していた典籍によって、その談義所の存在意義が保持され、それを学ぶためにその門をくぐる、という談義所のあり方を提示する。その例として、仙波談義所は『三百帖』、月山寺は『直雑』、金鑽談義所は『伊賀抄』を指摘する。
 第四に、人の動きに注目し、宗派を超えた学問の様相について検討する。身延(日蓮宗)の学僧が、仙波や成菩提院、園城寺へ行って学んだ実態について、紹介する。
 最後に、談義書研究は、活字化されていない写本を実際に手にとって研究せざるを得ないのだが、そうした典籍調査の意義と可能性についても付言したい。


【参考文献】
・渡辺麻里子「尊舜の学系」(『天台学報』四十四、二〇〇二年一一月)
・渡辺麻里子「経典の注釈――談義所における学問の継承と再生産――」(『日本文学』七月号、二〇〇五年七月)
・渡辺麻里子「尊舜の著作について」(『天台学報』四十七、二〇〇五年一一月)
・渡辺麻里子「泰芸(日意)所伝の天台学」(『印度学仏教学研究』五四・二、二〇〇六年三月)
・渡辺麻里子「仙波に集う学僧たち――中世における武蔵国仙波談義所(無量寿寺)をめぐって――」(『中世文学』五十一、二〇〇六年六月)
・渡辺麻里子「『本朝大師先徳明匠記』について」(『天台学報』四十八、二〇〇六年十一月)
・ 渡辺麻里子「中世における僧侶の学問――談義書という視点から――」(『弘前大学国語国文学』二八、二〇〇七年三月)


前田勉氏(愛知教育大学)

題目:議論によるコミュニケーションの可能性―近世社会の「会読」の場に注目して―

 近世日本の社会のなかで、議論・討論によるコミュニケーションは必ずしも一般的ではなかった。上意下達の命令ー服従のコミュニケーション、あるいは、その場の雰囲気を忖度しながらの寄合コミュニケーションが普通であった。それゆえに、自己の意見を表出し、相互にそれを批判しあうような会読の場は、思想史的にきわめて重要である。報告者は以前、定期的に集まり、集団で経書や史書を討議する会読という学習形態が、近世日本の社会のなかで一種の公共空間を作り出していたことを指摘した。報告ではその成果をふまえ、それ以後、考えてきたことを述べてみたい。
 近世の会読を考えていくうえで、いくつかの問題がある。第一は会読の成立問題、第二は、「正学派」朱子学派の会読が徂徠学派のそれとどこが違うのかという問題である。そして、第三の問題は、経書を中心とする会読の場が、幕末期に政治的な議論をする場に転換したことにかかわっている。第四の問題は、近世の藩校・私塾での会読と明治の自由民権期の学習結社とのかかわりである。今回の報告では、このうち第三の問題を中心に検討することにしたい。
この問題は、ハーバーマスの用語を借りれば、文学的公共空間から政治的な公共空間への機能転換にかかわっているだろう。さらに、「処士横議」のような水平的なコミュニケーションに「維新の精神」を見た藤田省三説とも深いかかわりをもっている。報告では、まず「処士横議」の発生の現場が会読の場であったことを確認する。すなわち、経書を中心に対等な人間関係のもとで議論・討論が行なわれていた会読の場が、経書だけでは満足できない人々たちによって政治的な議論の場へと機能転換され、いわゆる「処士横議」が発生することを指摘したい。報告ではこのような転換のなかで、民主主義的なコミュニケーションにとって不可欠となる、異なる他者を容認する成熟した態度が獲得できていたのかどうかという点を、幕末期のいくつかの事例を題材にしながら考えてみたい。


【参考文献】
・ハーバーマス『公共性の構造転換』(細谷貞雄・山田正行訳、未来社、1973年)
・J・ガウアンロック『公開討議と社会的知性―ミルとデューイ』(小泉仰監訳、御茶の水書房、1994年)
・三谷博編『東アジアの公論形成』(東京大学出版会、2004年)
・藤田省三『維新の精神』(みすず書房、1979年、『藤田省三著作集』巻4)
・武田勘治『近世日本 学習方法の研究』(講談社、1969年)
・ 拙稿「近世日本の公共空間の成立―「会読」の場に着目して―」(『愛知教育大学研究報告(人文・社会科学編)』55輯、2006年)


北原かな子氏(秋田看護福祉大学)

題目:「西洋的知の伝達」の背景にあったもの―明治の洋学校を巡って―

 明治5年、津軽地方弘前に設立された私学東奥義塾は、旧弘前藩校以来の伝統を引き継ぎ、開校当初から外国人教師を招聘して洋学教育を行った学校である。集まった生徒は士族層の子息が中心であり、文明開化の風潮の中、同校では、津軽地方の将来を担う若者たちが、アメリカ人教師たちから英語を主な媒介言語として、歴史・数学・物理・化学・論理学などの諸学を学んだ。さらに同校からは、学校の枠を超えて、津軽地方にさまざまな影響も広がった。
 この風景自体は、当時の国内情勢を考えると決して珍しいものではなく、むしろありふれた「知の伝達の場」である。しかし一歩踏み込んで、こうした教育の場を構成していた人々の思惑を検討してみると、さまざまな解釈が可能になるのではないかと思われる。
 本報告では、草創期の東奥義塾を、@学校経営者たち、A学生たち、B着任した外国人教師たち、C外国人教師を送り出した人たち、の4つの立場から検討し、同校が「教育によって地方の近代化を成し遂げようとする」人々(雇用者側)と、「大名の学校を基盤としてキリスト教布教を図った」人々(外国人教師側)との、いわば文化的な葛藤の場であったことを述べる。さらに、同校から広がった影響の中でも、双方が想定しえなかったと思われる部分について、各々のサイドから検討した上で、この一私学校の動向が、日本の文明開化を再考察する上での貴重な示唆を与えてくれることを論じる。


【参考文献】
・北原かな子『洋学受容と地方の近代』(岩田書院、2002)
・北原かな子「津軽に来たある宣教師の軌跡―文化を「文化」を伝えるものと引だすもの―」河西英通・浪川健治
・ウイリアム・スティール編『ローカルヒストリーからグローバルヒストリーへ』(岩田書院、2005)p123-138
・ジョセフ・M. ヘニング著 空井護訳『アメリカ文化の日本経験』(みすず書房、2005)
・太田雄三『英語と日本人』(TBSブリタニカ、1981)
・松野良寅『東北の長崎ー米沢洋学の系譜ー』(松野良寅発行、1988)より、第4章「米沢英学事始」部分。