中国文学を学ぼうとする人へ


長い歴史と多様なジャンル


 中国文学は、紀元前の古代より20世紀の現代に至るまで、数千年の一貫した歴史を持つ。 その間に、詩・辞賦(一種の韻文)・散文・戯曲・小説と、様々の様式にわたる厖大な文学作品を生み出してきた。 あるひとつの国の文学が、その成立の当初より現代に至るまで同一の言語・文字によって表現され、 現代に生きる我々が古代の文学者の手になる作品を原文のままで読解、 鑑賞できるというのは世界にも希有なことだと思われる。 もちろん、中国の文学作品を表記している言語である中国語それ自体にも時代による変化があり、また文字にも字体の変遷が見られるため、 中国の古典文学の読解に一定の訓練を積む必要があるのは言うまでもない。

訓読法と漢文学


 諸君も恐らくは高等学校で、『詩経』の詩、杜甫・李白の詩、 あるいは唐代の伝奇小説などを読んだ経験があるであろう。 これらは言うまでもなく中国の文学作品であり、しかも中国文学のジャンルの中でもその中心的な位置を占めているものと言ってよい。 これら何百年何千年前の外国の文学作品を、諸君が原文そのままで読むことが出来、 当時の人々の精神的営みの一端に直接触れることが出来るのである。なんとすばらしいことではないか。 この様なことは、中国の文学であるからこそ可能なのであり、 他のどの外国の文学でも出来るというものではない。 中国文学の場合、このようなことが可能なのは、日本には中国文学の受容と、 その研究に長い歴史が存在するからである。いまだ固有の文字を持たなかった我が国に漢字と、 漢字によって記載された文献が伝わり、中国の進んだ文化のみならず、 文字そのものをも我が国の古代の人々は受け入れた。それらの文献は、当初は中国音によって読まれていた。 このことは、我が国古代に音博士という官職があり、 中国からの渡来人をそれにあてていたという記録のあるところからも明らかである。 しかし後になると、我々の先人の英知は中国の文献を日本語の構文にあわせて読解する 訓読法を考案するに至った (訓読法は我が国に先んじて、韓国・朝鮮にすでに存在していたと考える人もいる)。 この訓読法が成立したことにより、日本の中国文化摂取の速度が加速したのは言うまでもない。 またそればかりではなく、その後の長い歴史の中で『詩経』・『春秋左氏伝』などの経書、 『論語』・『孟子』などの諸子百家と呼ばれる人たちの遺した書物、 司馬遷の『史記』に代表される歴史書、李白・杜甫、あるいは白樂天に代表される唐代の詩、さらには『三国志演義』などのような長編の白話小説、 その他多くの中国の文学が漢文学として多くの日本人に親しまれる基盤がここに生まれたのである。 このような長い伝統と幾代にも亙る研究の蓄積があるため、 日本の中国文学研究は中国史研究・中国思想研究とともに現在でも本国の中国に互して世界のトップの水準にあり、 また中国の文学が多くの日本人に身近に感ぜられるのではないかと思われるのである。

中国語学習が第一


 ところで、訓読法は確かに中国の文献を読むのに有力な武器であった。しかし、今日の我々の目から見ると、 正確な中国文献の読解を行うためにはこの訓読法のみでは必ずしも十分ではないということも知っておく必要がある。 中国語という言語は動詞・形容詞の時制による変化や、名詞・代名詞の格変化を持たない言語である。 では、中国語の文法で最も重要なものは何かというと、それは単語の配列の順(語序)と助詞(虚字)と言うことになる。 しかし、この中国語の文法において極めて重要な役割を果たしている虚字の多くを、訓読法では置き字として読まないことになっているのである。 しかし、中国語の文語文である文言は、贅肉をそぎ落とされた凝縮された文章であり、そういう文章の中に読んでも読まなくても良いような文字が使用されているとは通常考え難い。 この点を顧慮することなく、置き字は訓読では読まない、従ってその置き字には大した意味もないと考えるのは、中国古典を読むときにとるべき態度ではないと思われる。 また、訓読においては「即」「則」「乃」「便」をみな「すなわち」と読むことになっている。しかし、これらの助字の意味は実はみな異なっているのである。 訓読では助字の読み方は一種の符丁となっていて、その意味は別に考えなければならないのである。 助字について、今ここに述べたようなことを考慮に入れないまま訓読法によるのでは、最も洗練された高度な言語表現である文学文献を正確に理解することは難しいと言わざるを得ない。 諸君が将来現代中国語を学習する場合には、副詞や語気助詞といった、文言文で言えば助字あるいは虚字に相当する言葉をしっかりと習得する必要があるが、 文言文、つまり漢文を学習する場合にも助字・虚字について確かな知識を持っておく必要があるのである。 また、中国は文献の歴史が長いだけに、言語表現の様相も多様で、「文言」(文語体の書き言葉、いわゆる漢文)、 そして「白話」(口語体の書き言葉)という基本的な文体の相違のほかに、その各々に時代による変遷が重なり、複雑な様相を呈している。 そういうわけで、例えば先に挙げた『三国志演義』、あるいは『水滸伝』『紅楼夢』など明・清時代の白話小説は当時における口語的語法及び語彙を用いた文章で書かれており、 訓読法のみでは正確に読解する事は不可能と言ってよいであろう。そこで今日では、中国の文学を学ぶ際にはまず現代中国語の勉強から始めることになっている。 では、訓読法は大学で中国文学を学ぶ際には全く不必要なものであるかというと決してそうではなく、先に述べたような訓読法の持つ欠点について十分理解した上であるならば、 我々の先人の考案したこの方法は中国の古典を読解する上でのひとつの有力な武器となるはずである。 このようにして、諸君は現代中国語を習得した上で、古代より現代に至る長い歴史の中で生み出されてきた様々なジャンルにわたる豊穣な中国文学の世界へ船出することになるのである。

中国語学も学ぼう


 ところで、全国で中国文学専攻(専修)を設けている大学の多くでは、中国文学のほかに、それらの文学作品を表記している言語についても学ぶことが可能である。 それが中国語学である。中国語学は大きく、現代中国語の研究と古代中国語の研究とに分けることが出来る。 現代中国語については、その語彙や語法について学び、古代中国語については、語彙(古代中国語の語彙の研究は訓詁学と呼ばれる)・語法のほかに、音韻学(漢字の発音の歴史的研究) あるいは文字学(漢字の字形学的研究)について学ぶこととなる。
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