大槻文彦(1847~1928)は明治期に日本最初の近代的国語辞典『言海』を編纂した国語学者 として知られている。 確かに大槻の最大の業績は『言海』の編纂であり、その点に注目するのは間違っていない。
『言海』の編纂について、国語の統一が近代国家に必要だという大槻の思い、あるいは「遂げずばやまじ」という祖父の教えが強調されることがある。確かに『広日本文典別記』や「ことばのうみのおくがき」に本人が述べていることには違いない。しかし、「ことばのうみのおくがき」はあくまで後書きなのでありそれだけを取り出して大槻の本意を読むことは適当でない。
『言海』冒頭の「本書編纂の大意」から「語法指南」をへて「凡例」までを読めば、大槻が最も意を用いたのが辞書の全体的な構成とその背後にある文法であったことは明らかである。「本書編纂の大意」では「辞書は、文法の規定に拠りて作らるべきものにして、辞書と文法とは、離るべからざるものなり。而して、文法を知らざるもの、辞書を使用すべからず、辞書を使用せむほどの者は、文法を知れる者たるべし。」とさえ述べているのだ。『言海』本文にももちろんその姿勢が現れている。『言海』について第一に語るべきは、国語辞典としての日本語の観察・記述・分析のレベルについてである。
また猫の項の「竊盗ノ性アリ」などの語釈の面白さが注目されることもある。辞書の評価としては、面白さより的確さを基準にすべきであろう。大槻の語釈は動植物、鉱物、器物など具体物には時として詳しすぎるほど詳しいが、抽象物にはそうでもなく、基本的な動詞については語義を細かく分けることはできているが、個別の説明は弱い。もっとも、語義分析の方法論や手法が未発達であった時代の業績を、単純に現代の視点から批判することは当を得てはいないだろう。
ただ、語釈は大槻が辞書が提供すべきとする五種の解のうちの一つにすぎず、ほかに発音、語別(品詞)、語原、出典も挙げていることを忘れてはならない。発音や語原について、大槻は周到な措置をとっているのだが、見る目のない人には見えないのである。
『言海』に疑問点や短所がないわけではない。それでも、『言海』は近代的国語辞典の先駆けとしてそれ以後の国語辞典に大きな影響を与えた。辞書というものの在り方を考える際に参照するに足りる存在であり続けている。
しかし、辞書と文法書の編纂以外に、大槻の知的関心は実は多岐にわたっていた。彼は自伝の中で自分の学問について次のように述べている。
私の学問がいかにも雑駁であると思はれよう。自分でもあきれる。荒物屋の店のやうで、色々の品はあるが上等のものはない。……かやうな雑学になつたは辞書などを作つたからであらうが、私の生れ時がわるくて、今の文明の教育を施されるやうになつた頃には成長し過ぎて其教育が受けられなかつたのもそれである。専門の学をしなかつたのもそれである。専門の学をしなかつたのは一生の損であつた。今更取返しがつかぬ。何学問でも専門でなければ造詣せぬ。
「自伝」『復軒旅日記』所収
もちろんこれは謙遜であり、国語辞典(および関連して日本語文法)の編纂を中心としながらも、大槻の知的関心が多岐にわたっていたことをこのように表現しているのである。いずれにせよ、大槻は辞書に一生をささげたというイメージが一部にあるかもしれないが、それは誤解ないし誇張である。時期により軽重があり、またそれぞれが重なってもいるが、かれは多くのテーマに関心を寄せて、著述を著し、種々の活動を行った。歴史、地理地誌、国境意識、洋学史・日欧交渉史、父祖の業績、仙台・伊達藩、教育、出版印刷、かな文字論、言文一致、音楽などのテーマでである。大槻はマルチ人間であったのだ。
大槻は、鳥羽伏見の戦いを実見し、江戸で仙台藩のために武器の調達に走るという、稀有な戊辰戦争体験をした。大槻が仙台に居住した期間は、幕末・明治維新前後以外には、2度にわたり仙台に赴任して校長を勤めた時期だけであり、通算してもそれほど長くはない。しかし、大槻はそれぞれの初代校長として創立の責務を情熱をもって果たし、多くの教え子を育てたのである。また、東京在住時期を含めて、仙台の文化に対してさまざまな貢献をした。後になって、名前に「仙台旧臣」と肩書きした文章をいくつも物している。
大槻自身、『言海』の淵源が彼の英学修業にあったと自覚していた。彼の英学はまた、歴史、地理地誌、教育など他のテーマとさまざまに絡み合っている。自身の英学体験が洋学史・日欧交渉史と繋がることは言うまでもなく、これはさらに父祖の業績、仙台・伊達藩とつながっている。ただし、大槻の言には身びいきと見られるところもあるので、客観的な評価はまた別に行う必要がある。
このようにして大槻の知の体系が成り立っている。大槻の言語観、文法観を理解するためにも、大槻をより総合的に見る必要があるのだ。ただ、当時の事情に疎く、手書き文字や漢文が苦手な現代人には、それはかなり難しい。
西暦(元号) | 事跡 |
1847(弘化 4) | 旧暦11月15日(冬至)、江戸木挽町(現在の東銀座)で生まれる。実名清復、通称復三郎、のちに号、復軒(「復」の字は冬至の「一陽来復」から)。 |
1851(嘉永 4) | 家学(漢学と詩文)を受ける。 |
1862(文久 2) | 9月、開成所に入学、英学・数学を学ぶ。元服。父はじめ一家で仙台移住。 |
1863(文久 3) | 5月、仙台藩校養賢堂に入る。 |
1866(慶応 2) | 閏4月、洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学ぶ。10月、江戸に出て開成所に再入学。翌年にかけて、横浜で米国人J. H. Ballaghらから英学の個人教授。 |
1867(慶応 3) | 英国人牧師M. B. Baileyの『万国新聞紙』の編集員(「日本最初の新聞記者」。第6集「文彦ガ作ナリ」)。10月、仙台藩江戸留守居役大童信太夫に伴って京都に。 |
1868(慶応 4、明治 元) | 1月京都で鳥羽伏見の戦いに会する。『慶応卯辰実記』(自筆写本が宮城県図書館蔵)、『復古始末』(自筆写本が国立公文書館蔵)。藩命で仙台、東京などで奔走。戊辰戦争後に入牢した父磐渓のため、仙台に戻って釈放活動。 |
1869(明治 2) | 『北海道風土記』(30巻)成稿(宮城県図書館蔵)。 |
1870(明治 3) | 大学南校に入り、英学・数学を学ぶ。 |
1871(明治 4) | 箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、9月、幹事(塾長)、アルバイトで賃訳。このころから日本文法を志し、国学を独学。 |
1872(明治 5) | 6月1日、文彦と改名。10月、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられる。『英和大字典』(第2巻(AI-AN)の原稿のみ早稲田大学蔵)。 |
1874(明治 7) | 師範学校で教科書の翻訳・編集(『万国史略』など)、文部省で『羅馬史略』翻訳。『琉球新誌』。宮城師範学校校長。『日本暗射図』(白地図)作成。『亞非利加誌』訳成(宮城師範学校をへて宮城県図書館蔵)。 |
1875(明治 8) | 2月2日、文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられる。「擬奉英国女帝書」、「日本文法論」。兄修二(如電)が隠居し、家督相続。 |
1876(明治 9) | 一か月間、『朝野新聞』社説を担当。『小笠原島新誌』刊行。「印刷術の史」、「日本「ジヤパン」正訛の弁」、「東洋印刷術の史」。12月、前期文法会第1回を開催 |
1877(明治10) | 「伊達政宗が遣欧の記事」。『支那文典』(高第丕(T. P. Crawford)・張儒珍共著『文学書官話 (Mandarin Grammar)』, 1869.に解説を付した)刊行。如電編『追遠会誌』(前年の玄沢五十年祭記録)。 |
1878(明治11) | 6月13日、父磐渓没。10月、後期文法会第1回を開催(1882年まで56回)。富田鉄之助に渡英を勧められるが断念。「竹島松島の記事」。 |
1879(明治12) | 伊香保温泉で湯治(のちにもたびたび逗留)。宿の主人の依頼で『伊香保志』を執筆。 |
1880(明治13) | 『印刷術及石版術』(文部省『百科全書』(Chambers's Information for the Peopleの翻訳)の一部)刊行。 |
1881(明治14) | 富田鉄之助らと仙台造士義会を設立し、育英事業。如電らと白石社を創設し、翌年にかけて新井白石の『采覧異言』、『西洋紀聞』を校訂刊行。 |
1882(明治15) | 『伊香保志』、『日本小史』刊行。井上哲次郎抄訳『倍因氏心理新説』を校訂。 |
1883(明治16) | 音楽取調掛兼勤(~1885)、「仰げば尊し」の作詞の合議に加わる。「かなのとも」(のち合同して「かなのくわい」)創立に加わる。土屋政朝訳『刪訂教育学』を閲。 |
1884(明治17) | 「外来語原考」。『言海』の草稿が完成。結婚。 |
1885(明治18) | 「三味線志」編纂(刊行は1896-97)。 |
1886(明治19) | 3月23日、『言海』稿本の再訂が終わり、文部省に提出。第一高等中学教諭(~1888)。『言語篇』(文部省『百科全書』)翻訳刊行(初の言語学紹介)。『古事類苑』編集委員(~1887)。 |
1888(明治21) | 作並清亮編『松島勝譜』を校訂。10月26日、自費出版の条件で『言海』稿本が下賜。 |
1889(明治22) | 5月15日、『日本辞書 言海』第1冊刊行。『中止断行条約改正論』。 |
1890(明治23) | 玄沢遺稿『金城秘韞』を補訂。『語法指南』刊行。11-12月、次女と妻、相次いで没。 |
1891(明治24) | 4月22日、『言海』第4冊刊行で完結。6月23日、出版祝賀会(富田・高崎正風らの発起で、伊藤博文、勝海舟、榎本武揚、加藤弘之、菊池大麓、物集高見、高田早苗、陸羯南、矢野竜渓、西村、如電らが参加し、西村、加藤、伊藤らが祝辞。福沢諭吉は出席取りやめ)。 |
1892(明治25) | 再婚。岩手県に転籍。宮城県尋常中学校校長(生徒に吉野作造ら)、宮城書籍館館長(~1895)。斎藤竹堂『林子平先生伝』に「林子平先生年譜」。 |
1894(明治27) | 「支倉六右衛門墳墓考」(仙台市北山の光明寺に比定)。 |
1897(明治30) | 『広日本文典』、『広日本文典別記』刊行。 |
1898(明治31) | 「和蘭字典文典の訳述起源」。 |
1899(明治32) | 文学博士。海嘯罹災者への寄付により宮城県岩手県から木盃。 |
1900(明治33) | 東京市に転籍。国語調査委員。『日本文法教科書』。 |
1901(明治34) | 帝室博物館列品鑑査掛。「陸奥国遠田郡小田郡沿革考」(天平産金地涌谷説を支持)。『伊達政宗南蛮通信事略』刊行(英訳つき)。 |
1902(明治35) | 国語調査委員会委員、主査委員(~1913)。『復軒雑纂』刊行(玄沢遺稿『金城秘韞』に解説を付して収録)。下飯坂秀治編『仙台藩戊辰史』を校訂、資料提供。 |
1904(明治37) | 北原雅長『七年史』(下)に序(「仙台」と肩書き)。 |
1909(明治42) | 『伊達騒動実録』刊行。「宮城県尋常中学校校歌」。 |
1910(明治43) | 藤原相之助『仙台戊辰史』(1911刊)に序(「仙台旧臣」と肩書き)。 |
1911(明治44) | 帝国学士院会員。 |
1912(明治45) | 5月15日、坂本嘉治馬(冨山房)と『言海』増補出版契約。「根岸 御行の松」。 |
1916(大正 5) | 従七位から正五位に昇位。12月、『口語法』刊行(国語調査委員会編)。 |
1917(大正 6) | 4月、『口語法別記』刊行(国語調査委員会編)。仙台の戊辰戦役殉難者弔魂祭に招かれ、県庁構内武徳殿で講演。 |
1919(大正 8) | 「著述病 老体の文彦翁訪問客を謝絶 言海の増補に苦心」(『朝日』2.9) |
1922(大正11) | 6月、仙台一中開校三十年記念式に出席。殉職した小野さつき訓導へ弔慰金と弔文。吉野作造、大槻校訂の『西洋紀聞』を参考に「新井白石とヨワン・シローテ」を執筆。 |
1923(大正12) | 仙台一中学友会記念号に「学術研究上の注意」。吉野は大槻に因んで「西洋人の日本語研究」を寄稿し、別に「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」を執筆。 |
1925(大正14) | 講書始の講師。吉野ら教え子から、喜寿の祝いに胸像を贈られる(現在、仙台一高蔵)。 |
1928(昭和 3) | 2月17日、東京根岸の自宅にて没。法名、言海院殿松音文彦居士。高輪の東禅寺(初のイギリス公使館の地)の、玄沢、磐渓も眠る一族の墓所に葬られたが、墓は非公開。『言海』増補はサ行まで成稿。 |
1932-37(昭和 7-12) | 如電、大久保初男、新村出らにより『大言海』刊行。 |
1938(昭和 13) | 『復軒旅日記』(大槻茂雄校訂)刊行。 |