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『月刊言語』第12巻(1983)10月号, pp.65-69 掲載
本稿は、国際的に使用されることを目的とした言語の計画に対して 言語学者がどのような態度をとったかを、歴史的にあとづけることを ねらっている。言語学史を広くみれは紀元前から始めることもでき、 計画言語の試みも13世紀のラモン・リュルにさかのぼれるが、ここでの 考察は近代言語学の成立以後にとどめざるをえない。
1865年創立の.パリ言語学会は、会則第二条で、普遍言語の創造に 関わる発表を(言語起源論とともに)禁止した(BSL 1 (1869) p.iii)。この否定的な措置はそれ自体妥当なものと言えるが、 言語学者一般が国際語論議全体を無視しがちになる一因となったと 思える。
1879年にドイツのシュライヤーが発表したボラピュクは、 ある程度成功した初めての言語案となった。これに対してシュハルトは Auf Anlaß des Volapüks, Berlin 1888 (筆者未見)で 支持を表明したが、一方、アルバニア語学者マイヤーは激しく反対した (Meyer 1891)。反対の論拠は後にもくり返して現れるものだが、 一つには、「大文化語」のどれか一つが使えれば世界語は必要ない、 という教養主義的なものである。しかし、力点はむしろ、ボラピュクは 人造人間にすぎず、真の言語ではありえない、というところにあった。 シュハルトは再反論する(Schuchardt 1904)。言語は独立した有機体ではなく 社会活動であるから、人工語も十分に機能しうるとして、国際語運動を 正しく導くことはウィーン帝室アカデミーの利益にかなう、とさえ 報告するのである。シュハルトのこの態度は彼のクレオール諸語に対する 関心と同じところから発していると思われる。
1887年に発表されたエスペラントは二十世紀初めまでに各地で 大衆的支持を得ていた。それを苦々しく思うブルークマンとレスキーンは Zur Kritik der künstlichen Weltsprachen, Straßburg 1907 (筆者未見)でエスペラントを攻撃するが、これは ボードアン・ド・クルトネとの論争に発展する(Brugmann und Leskien 1907/08, Brugmann 1914, Baudouin de Courtenay 1907, Бодуэн де Куртенэ1963)(初出1908)。ブルークマン側の 論拠は教養主義や、計画言語への懐疑などだが、レスキーンが エスペラントを学習した上で(多少的はずれではあるが)、具体的な 「欠点」を指摘したことは注目してよい。一方、ボードアンは エスペラントを20時間ほど学習しただけで読んだり聞いたりできるように なったと証言し、エスペラントも真正の言語であって「自然」言語の 全ての特徴を備えていると言明する。彼は理論的にエスペラントを 支持しただけでなく、エスペラント運動にも関ったことが知られているが、 これは少数民族の権利を擁護する彼の政治的態度と結びつけられよう。 もっとも「エスペラントの文法に例外がないことは、人格の不可侵、 出版の自由…を想起させる」(Бодуэн де Куртенэ1963: 157)とは、どう見ても脱線であるが。
ブルークマンらのエスペラント批判はフランスでも反論に会った。 ブレアルは早くから国際共通語の思想にキリスト教的立場からの共感を 表明していたし、エスペラントの一定程度の実用性(例えば、ヨーロッパの 旅行者の役に立っている)をも認めていた (Bréal 1901)。 Bréal (1908)はエスペラントの功績を二つ挙げる。(1)賛成反対に かかわらず、この問題に関連して、言語学者が言語一般をどう考えているかを 発表するようにしむけたこと、(2)言語の語彙の創造のあり方を明示して くれたこと。そして、エスペランティストの理想主義を世相と対比し、 ブルークマンらの皮肉まじりの表現を遺憾に思うのである。メイエも 国際共通語の有益性を認め、国際語には人工語(自然言語の共通部分を 抽出したもの)が望ましいと考える。エスペラントは多少の欠点がある ものの「この問題がどのように解決されうるか、またされねばならないかを 示す、すぐれた近似値の最初のものである」(Meillet 1908: 243)と 評価している。しかし、後には改造エスペラントとして現れたイドの方が エスペラントより国際語案としてふさわしいと思うようになった。 けれども、計画言語の可能性を実践によって証明したのはエスペラント 以外ではありえなかった。「理論的な議論は全てむだである。 エスペラントは機能したのだ。」(Meillet 1928: 278)
なお、ソシュールが計画言語の可能性をどのように考えていたかは、 証拠が乏しい。丸山(1981: 178)ではソシュールが「批判」的であったと 考えているらしいが、これは受け入れ難い。Engler (1968: 170)には 「人工語の試みがエスペラントとしてなされているが、それは成功するかに 見える」とあって、成功の原理上の可能性は否定されていない。 また、Meillet (1908: 241)にはブルークマンらに反対するであろう 人物としてシュハルト、ボードアン・ド・クルトネ、イェスペルセンの他に ソシュールの名も挙げられている。さらに注目すべきこととして、 『講義』中にエスペラントを中国語と対比させて言語の分析性を論じている 箇所(Engler 1968: 380)がある。ここでエスペラントは一個の 言語として中国語と対等の資格に置かれている。エスペラントを 可能性の論議としてでなく、既成事実として扱うこの態度は、 言語学者としてはソシュールが初めて示すのである。
言語学者の中で国際語運動と最も深く関わったのはイェスペルセンで あろう。1907年に「国際語選定委員会」に(ボードアン・ド・クルトネらと ともに)加わり、最も積極的なメンバーの一人となった。そして、 改造エスペラントであるイドの採択に加わり、当初イドの普及運動をした。 後に、彼はみずから、ノビアル (Novial, nov-「新しい」International Auxiliary Language)を1928年に発表する。彼のめざす言語は、 学者だけでなく、商人、技術者、政治家などの実社会の必要をカバーする ものであるが、第一義的には西欧とアメリカに限定される。
ノビアルの要素はラテン語を含むヨーロッパの十言語から採られる。 これは当時の類似の諸案に比べてかなりゲルマン語を重視するものだが、 このことは彼の出身から説明される。言語学が言語計画の方法論を提示する ものでなかった以上、「個人的好みを全くは排除できなかった」 (Jespersen 1928: 59)のも当然であった。また、「単語がアクセントに よってのみ区別されるべきではない」との原則をたてながら、 それに反する例外規定を設けるというミスも犯した。専門の言語学者の手に なる言語案ということでノビアル支持に転向した人も出はしたが、 結果はイェスペルセンを群小の言語案提案者の列に加えたにすぎなかった。 イェスペルセンの誤りは、国際語が辞書と文法書に在ると誤解し、 それを話す人々への配慮がなかったことだと言えよう。
1931年ジュネーブで開かれた第二回国際言語学者会議には、 イェスペルセンらの尽力によって国際語問題の全体会議が設けられた。 イェスペルセンはここで、あらかじめ集められたアンケートの解答に答えて、 報告として「国際語の必要性、人工語の可能性を論じ、言語学者が この問題にもっと関心をもつよう切々と訴えた。
Sapir et al. (1925)はサピア、ブルームフィールド、ボアズ ら五人の連名による、理想的な国際補助語をつくる原則をまとめた ものである。言語現象に精通している専門家の利点を生かせば、 今までの案、なかんづくエスペラント、より簡単な言語をつくり出せる だろう、というのである。八つの一般原則を提示し、それにそって より具体的に論を進めていくのだが、専門家ならではの議論は 実のところあまりみられない。
この五人のうちサピアは後にもくりかえし人工国際語の可能性と 必要性を説く。「必要とされるのはできるだけ簡単で、規則的で、 論理的で、豊かで、創造性のある言語である」(Sapir 1931: 51)。 なお、ブルームフィールドも「この種の言語〔エスペラントなど〕は 半人工的である」(Bloomfield 1933: 506)と述べた。
Trubetzkoy(1939)は彼の追悼号となった TCLP の第8号の 巻頭を飾ることになった。世界各地の言語の知識をもとに、全ての 人に発音しやすい音体系を論じたものである。世界の諸言語に広く 見られる音のみをとり出していった結果に得られたのは、五母音と二半母音、 それに子音として p, t, k, m, n, s, j, w プラス流音、という 貧弱な音体系であった。そして語彙もこの音体系の上につくられねば ならなかった。しかし、ここから生れるのは、いわゆる先験語となるで あろう。それが実用不能であることは既に経験的に証明ずみであった。
マルティネは1946年、国際補助語協会(IALA)の会長になる。 この協会はアメリカの富豪がスポンサーになって、国際語問題の研究に あたらせたもので、サピアもここからの補助を受けていた。 マルティネにとって言語学はまず観察の学問であるから、いくつかの 組立てられた言語、とりわけエスペラント、はコミュニケーションの 手段として機能しているという事実を確認することから始める。従って、 「この種の言語が、一旦でき上ってから、どのように相互理解のために 使用されているかは、言語学者の検討の対象でありうるし、また、 そうでなければならない」(Martinet 1946: 38)。このように言明したのは マルティネが初めてであると思われる。半世紀以上にわたる、 エスペラントの実績がこれを認めさせたのであろう。
1948年パリの第六回国際言語学者会議でマルティネは「国際語学」に ついての基調報告を行いディスカッションの中心となる。ここで彼は、 "pseudo-langues (擬似言語)" "chimérique (キマイラのような)"といった非学問的な修飾語を使う反対者に 対して、計画言語の可能性は証明ずみであって、問題は望ましい 国際語の具体的なあり方だと説いた。
ところが、彼は後に国際語問題から手を引く。「新しい言語をはっきり した形にする前に、その言語の手段によってのみ到達できる新しい価値が つくれるかどうか調べる」 (Martinet 1952: 163)べきであるのに、 IALAがそのようには動かなかったからである。しかし、彼がこれ以後 国際語問題にほとんど触れなくなったことは1946年の彼の言明と 矛盾する。
1982年東京での第十三回国際言語学者会議にアフマーノバは 意味論の全体会議のための論文を寄稿したが、それは、エスペラントなどの 補助語の研究も言語学にとって自然語の研究と並んで有効であると 結ばれている。彼女は欠席したため、この唐突な発言は説明されずに 終った。
しかし、彼女の考えはАхманова и Бокарёв(1956)にすでに 述べられている。彼女らはエスペラントが国際理解の手段として 実用されている事実を確認し、エスペラントは原文の内容だけ でなく芸術性も翻訳できる」ことも認める。従って、国際語問題は 言語学者が大きな関心をもつべきであり、国際語学には一般言語学からの 考慮が必要であるが、国際語学から言語理論に寄与するところもあろう、 というのである。
現在では、いわゆる大言語学者のうちで国際語問題を正面から とりあげる人は少い。しかし、とくに最近、エスペラントを他の 言語と同様に扱った言語学的研究がふえつつあることが Wood(1982)から 知られる。
本稿でみた各学者の態度はむしろエピソード的要素が強く、 本来の意味での学説史を構成しているとは言い難い。しかし、 プレアルが正しく指摘したように、国際語問題への態度は各人の 言語観の表明である。ここからそれぞれの学者の新しい一面を 知ることもできるのではなかろうか。
(ごとうひとし/言語学・ロマンス語学)
copyright GOTOO Hitosi 1983
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