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『La Movado』第721号(2011.3)-722号(2011.4)掲載文に加筆
「1.はじめに」

エスペラントとハンセン病 ―歴史的考察―

後藤 斉


6.残照

1920〜30年代におけるエスペラントとハンセン病のつながりは、これまで言及した以上に深いものがあったようだが、不明の点が多く残っている。例えば、九州療養所(熊本県。現在の国立療養所菊池恵楓園)の原田益雄は『レプラ』9巻(1938)から11巻(1940)にかけて多数の論文をエスペラントで執筆し、また日本語論文にエスペラント文抄録を付している。これが他の活動とどのような関係にあったか、定かでない。

戦中にかけてエスペラント運動は停滞し、終戦から間もなく復活する。ハンセン病とのつながりも再生した。イシガ・オサムの活動については前節で触れたが、それだけではない。

1950年、熊本エスペラント会会長、熊本YMCA主事の淵田多穂理(のち金沢や東京でも活動)は、菊池恵楓園にYMCAを設立し、その会員を中心とする患者70名ほどにエスペラント講習を行った(La Revuo Orienta(RO) 1950.11)。その成果のほどはわからない。

事情がもう少しよくわかるのは、長島愛生園および邑久光明園(いずれも岡山県)でのことである。1948年7月、岡山医大エスペラント部学生が愛生園を訪問したところ、光田健輔園長が古いエスペランティストであることを知り、光田の勧めでその晩に患者60名ほどに普及講演と発音解説をすることになる。光田は「国際語の単語を覚えることで人生の希望が増す、外国の療養所との間で通信ができれば色々な点で好結果が得られるであろう」と述べたとのことだ(1949.12)。

このできごとの背景としては、岡山医大(1949年5月から岡山大学医学部)に八木日出雄(のち岡山大学長、世界エスペラント協会会長)と浦良治(のち東北大教授、仙台エスペラント会会長)という二人のエスペランティスト教授がいたことが大きく働いている。二人は、学内でも市民向けにも熱心にエスペラント普及活動をしていた。

これをきっかけに、浦や長井洋らの学生たちは、数回にわたり愛生園と光明園を訪れ、医師、看護婦、患者に講習と講演を行うことになる(RO 1949.1)。

1951年11月、光田は「癩患者の救済」などの功績により文化勲章を受章する。この年には民俗学者の柳田国男も受章し、エスペラント界ではエスペランティスト二人が同時に文化勲章を受章したことが話題になった。翌52年Medicina Revuo誌には光田のエスペラント論文"La Problemo de Ambaŭseksoj[tiel!] en Lepro kaj Eŭgenika Operacio"が掲載されている。執筆は51年8月となっているが、結果として文化勲章受章記念となった。

ただ、光田にエスペラント学習歴があることは間違いないが、実際の語学力については、直接的な証拠が欠けている。例えば、桜井方策の回想によると、1938年の塩沼英之助の沖縄愛楽園長としての赴任にあたって、光田は全文エスペラントの手紙を送って励ました、とのことだ。事実だとすれば極めて興味深い。しかし、桜井が両者と親しかったとはいえ、伝聞情報にとどまり、証拠として弱い。75歳となる1951年まで論文を自力で書くだけの語学力を保持できていたかについて、筆者は個人的には確信を持てないでいる。

この前後、厚生省の側から「らい予防法改正」の動きがあった。ハンセン病が不治の病でなくなり、また、日本国憲法により基本的人権が保障されるようになっていた中で、むしろ強制隔離を強化する方向だった。これより先の1948年には、優生保護法が改正され、光田が早くから実践していたハンセン病患者の断種(上述の論文のテーマでもある)が明文化されていた。

文化勲章受章の直後、光田は他の園長とともに国会に呼ばれて証言する。「手錠でもはめてから捕まえて、強制的に入れればいいのですけれども」(参議院厚生委員会, 1951.11.8)に代表される光田の発言は、「改正」の議論の中で決定的な重みを持った。

患者側からは猛烈な反対運動がまきおこったが、実らなかった。この中で、大きな意味を持ちえなかったが、村田正太 (当時の肩書は北里研究所客員)が要請を受けて患者側に立つ動きを示したことには触れておきたい。「改正」の結果、重大な人権侵害を伴う新「らい予防法」が成立し、1996年の廃止まで続くことになった。

愛生園に移っていた塩沼は、園の学術誌『長島紀要』創刊号(1954.11)に寄稿した巻頭論文「汗腺は癩菌を排出するか」にエスペラント文抄録を付けている。岡山医大によるエスペラント講習から刺激を受けたのだろうか。

1954年11月には邑久光明園を日本盲人会連合会長鳥居篤治郎が訪問し、指の感覚の麻痺した盲人患者が舌で点字を読むことに驚く。これを指導していたのは若い文化教養係職員森幹郎だった。森の方も、盲人の鳥居がエスペラントで各地の人々と交流し、しばしば海外に旅行していることを知り、エスペラントの国際性に興味を覚えたらしい。

ここから光明園でのエスペラントへの関心が再燃した。1955年4月ごろには、鳥居篤治郎が光明園に『エスペラント捷径』10部を寄贈したことが記録されている。鳥居は別の機会にも光明園での盲人のエスペラント学習を励ました。

森は全生エスペラント・クルーボの歴史を知り、それを繰り返そうと思ったらしい。おそらく塩沼から聞いたのであろう。RO(1955.9)には、森の"Leproblinduloj leviĝas el malespero"と盲人患者蜷川ひさしの詩"Adiaŭ, Printempo"(「惜春」 三宅史平訳)が掲載されている。これを仲介し、森の文章をエスペラント訳したのは堀内庸村(日本ローマ字会常務理事)とされる。

この記事には、イギリスやチェコスロバキアなど海外から多くの反響があった。隔離状態に置かれた患者たちに世界とのつながりを感じさせ、大きな刺激を与えた。

さらに森は、1955年11月には日本エスペラント学会(JEI)の紹介で大阪から津中治を呼んで一週間にわたるエスペラント連続講義を開催した。森自身が学習したとは伝わらないが、RO (1956.1)に報告を寄せてはいる。十数人が参加した中には2人ほどの盲人の姿もあった。小室政夫も熱心に参加したとのことだ。外島保養院でエスペラントを学び、外島事件にも関わった人物である。海外から送られた手紙や雑誌を夢中になって読む程度には学習が進んだが、海外へ返信するまではいかなかったようだ。

新憲法下に大学で社会科学を学んだ森は、当時の国のハンセン病施策に大きな疑問を感じており、また患者側の姿勢にも納得できないものを覚えることがあった。あるときには、園誌『楓』に寄稿した隔離政策に批判的な文章について、塩沼から「光田先生が、医学を知らぬ者が何を言うか、黙っておれとカンカンに怒っておられる。謝りに来るように」と言われたのに対して、「光田先生に少しは社会科学・社会福祉のご勉強もなさるようにお伝え下さい」と返事して謝りにはいかなかったとのことである。別の文章(「濫救惰眠論」)では患者側からの猛反発を受けた。森の姿勢には、イシガと通じるところが感じられる。

このような事情もあってか、森は1958年に光明園を離れる。光明園でのエスペラント活動がいつまで続けられたかは、わからない。ただ、1970年代ころまでは、JEIから光明園にRO誌が寄贈され続けていたようだ。

戦後のハンセン病療養所におけるエスペラント活動の事例は、それぞれ孤立しているようであり、お互いに関係を結んだようには見えない。また講習を開いた以上の成果につながった例は少ない。機関誌Verda Sanatorioを花開かせた結核療養所における活動とは大きな違いを見せている。これは、療養所および患者のおかれた社会的状況の違いに起因するのだろう。

参考文献

協力

7.おわりに

この連載を申し出たときには、これほど長く続くとは予想していなかった。調べるうちに、次々と発見があった。一方、調査には限界もあり、残念ながら「わからない」とせざるを得ない事例も残ってしまった。

本稿では単に事実を並べるだけでなく、それらの間の関連、エスペラント運動全体や時代状況とのつながりも明らかにしようと努めた。日本のエスペラント運動史については、これまでの研究の蓄積は必ずしも少なくはない。しかし、本稿はこれまで取り上げられてこなかった視点が数多く残っていることの例証にもなっていよう。

本稿にはすでに微修正や追加が必要になった記述も出てきている。詳細な参考文献を付した本稿の改訂版は筆者のウェブサイト(http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/hansen/)に掲載している。ご参照いただければ幸いである。

本稿の執筆にあたっては、多くの方面からご協力をいただいた。とりわけ、国立ハンセン病資料館国立国語研究所鶴岡市郷土資料館日本エスペラント学会、そして宮川量氏ご遺族様には格別のご配慮をいただいたことに深く感謝の意を表したい。

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