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『La Movado』第714号(2010.8)〜717号(2010.11)掲載文に加筆
「1.はじめに」

エスペラントとハンセン病 ―歴史的考察―

後藤 斉



外島保養院所在地
(邑久光明園入園者自治会『風と海のなか』より)

4.外島のともしび

第三区府県立外島保養院は、現在の大阪市西淀川区、神崎川河口の中洲に建てられていた。その院長を務めた村田正太(まさたか)は異色の経歴の持ち主である。東京法学院(中央大学の前身)を出たのち、1906年に東京外国語学校(東京外国語大学の前身)ドイツ語科を卒業する。この前後、ハンセン病の医師を志すにいたり、光田健輔の助言を受けて、東大で正規課程の学生として医学を学ぶために旧制一高から入りなおした。基本を重視する性格と意志の強さを物語っている。

1917年に満32歳で東大を卒業すると、東大伝染病研究所で血清学の研究を続け、梅毒の診断法として村田反応を考案する。これは代表的な血清診断法として普及し、村田の医学界での地位を確立させた。「村田反応」は『広辞苑』の見出し語にも採り上げられている。

村田は正真正銘のエスペランティストであった。ドイツ語科の出身だけあって、自身ではドイツ語は得意だった。ドイツ語教授法にも一家言をもっていて、のちに創立直後の日大専門部医学科(医学部の前身)にドイツ語講師として呼ばれたし、また医学生向けドイツ語参考書も著したほどである。しかし、医学の研究や教育においてドイツ語などの外国語に依存せざるをえない状況には、早くから大いに疑問を感じていた。東大医学生時代に、ドイツ語で書くことが不文律となっていた進級試験の答案を日本語で書いて物議をかもしたとのエピソードも残っている。


村田正太
(国立療養所邑久光明園
『創立八十周年記念誌』より)

エスペラントは、外国語学校在学時に知ったものの、当時は懐疑的で見向きもしなかったらしい。しかし、1918年ごろに再会し、会合に参加してみてエスペラントが実際に使われている場面に触れると、関心を急速に深めていった。本格的に学習を始めると、語学の才能に長けていたこともあって、すぐに実用のレベルに達する。

自身のこの体験から、村田は医学論文発表のためにはエスペラントが最善との結論を得る。同人の一人として編集に加わった『医人』誌の創刊号(1919)に「独逸語とエスペラント」と題する熱情あふれる文章を寄稿した。その後、医学界でのエスペラントの普及と実用に努め、すでに1923年には、その貢献によって第11回日本エスペラント大会(岡山)の医学分科会で表彰されている。

彼は持論を、日本人に向けてばかりでなく外国人に向けても、たびたび表明した。もちろん自ら実践もしている。1925年、東京で開かれた第4回極東熱帯病学会においてエスペラントで学術講演を行った。その講演をもとにした『最も簡単な黴毒の血清診断法』(医事新聞社, 1926)は日本語とエスペラントの対訳で書かれている。

村田の熱心さは『医事新聞』紙上の連載講座を一冊にした『エスペラント講話』(医事新聞社, 1923)や『エスペラント独修』(医事新聞社, 1926)などの教科書類にもよく現れている。1926年には緒方知三郎,西成甫らとともに日本エスペラント医学協会(JEMA)を結成した。なお、村田は学位を取得しなかったが、エスペラントでの学位論文に固執したためとも伝えられる。村田はまた1924〜26年には評議員としてJEIの運営にも参画した。


『最も簡単な黴毒の血清診断法』
(国立国会図書館蔵)

光田の薦めもあって、村田は1926年に外島保養院の院長に迎えられた。翌年には光田らとともに日本癩学会を創立して、その中核を担うことになる。1930年には『レプラ』第1巻2号にエスペラント文の論文Serologio de Lepro(「癩の血清学的研究」として日本語の抄録付き)を寄稿している。のちに日本癩学会の機関誌となるこの雑誌は、創刊当時から村田の命名により表紙にLa Leproの題号を掲げており、しばらくの間、目次もエスペラントで書かれていた。

光田は村田にとって恩のある先輩筋にあたり親交も深かったが、この二人はいくつかの点で対照を示してもいる。その最たるものは、療養所の運営方針であった。光田は「家族主義」を標榜して長島愛生園を運営していたが、それは光田が家父長として君臨する階層構造を前提にしている。愛と懲戒検束が文字通りアメとムチであった。

それに対して、村田は、外島保養院において自由主義的な管理運営を行った。隔離という制度的な制約の下ではあるが、患者の個人の人格を尊重して対等の人間として処遇した院長と広く評されている。実際、村田が着任後まもなく手をつけたのは、食生活の改善、守衛の廃止、自治制の強化など、患者の立場に立った施策であった。

村田は理想を追求して自己を厳格に律したが、職員に対する要求も高かった。その方針に合わない職員を何人も辞職させて、職員から「首切り院長」と陰口されたほどだ。監督する大阪府庁に対しても自分の主義を貫いたため、受けはよくなかったという。

村田は職員や患者の教養を高める活動にも熱心だった。職員旅行や「趣味の会」は職員にも好評だった。院の図書室には、カント、ニーチェ、マルクス、エンゲルスなどの著作も並んでいたという。院内に開かれた外島学園では、外部講師や院長はじめ職員の出講により、患者に対して文学、倫理、新聞、数学、国史、英語など多彩な授業が行われていた。社会主義の研究グループもあった。

大島療養所(香川県)で1932年1月に開かれた第一回療養所協議会での発言には、光田と村田の間で、軽快患者の仮退所や患者の自治、思想取締、不穏通信物の扱いなどのさまざまな問題について見解が大きく相違していたことが現れている。光田の側から「外島は社会主義を奨励するのですか」と強く迫る場面さえ見られる。

外島にはエスペランティストである書記(事務職員)吉田清を中心に、エスペラントの学習グループもあった。村田自らがエスペラントを教えたと伝える文献もある。こうして学んだ一人である小室政夫は、自分でもエスペラントを教えたことがあったという。

全生病院の『山桜』(1929.10)には、開設20周年を祝う外島からのエスペラント文祝賀メッセージが掲載されている。署名は La vilaĝo "Sotozima" とだけあって、誰が書いたかは分からない。かりに患者の学習グループが書いたものだとすれば、おもしろいところだ。

しかし、この文章がかなり流麗であること、内容が運営者寄りであることから、村田の手になると推測しておくべきであろう。ただ、そうであるとしても、メッセージが個人名でないことから、村田が全生エスペラント・クルーボと外島のエスペラント学習グループとのグループ同士の交流を望んでいたと想像することもできよう。

この推測の傍証として、全生病院の塩沼は、村田が全生小学校の始業式に臨席して、全生小学校でのエスペラント学習がうまくいっていることに感心していると述べたことがあったと、伝えている(RO 1931.3)。

外島保養院でエスペラントが盛んなことは、宗教系の日刊紙『中外日報』(1933.7.12-13)でも報じられている。「二三の指導者が…彼らの間に初めた[ママ]のであるがそれが予想外の好成績を示して…五十六十の老人たちまでが各グループをつくって初めは単語から次第に会話ができるまでになった」、「まず若い患者たちの[ザメンホフ]博士に対する憧憬と共感とが先になって数個のグループにまで発展した」とのことである。経緯が必ずしも的確に把握されているかどうか保証はないが、大きくずれてもいないだろう。もっとも「会話ができる」というのがどの程度の語学力なのか、具体的に示す史料はない。

1933年5〜6月ごろ、ハンガリー人Fedorĉakを院に迎えている。「エスペラント語にて欧洲実話を親しくお話しくださる」(Esperanto en Japanujo 1933.8)とあって、小室の回想にある「外人がきたとき」はこの時のことだろうが、吉田が通訳をしたらしい。全生エスペラント・クルーボにペレールが訪ねた時ほどの国際交流にはならなかったようだ。

吉田の経歴については、分からない部分が多い。1927年から外島に出入りしていて、1929年6月に正式に職員になった。それ以前は熊本にいて、電車ストに関係して熊本を離れることになったと伝えられる。のちの新聞記事には、熊本医大の助手をしていたとき左翼運動に関係して解雇されたとあるが、他の史料から確認できていない。エスペラントのつながりで村田と知り合い、前歴を明かさないまま書記として採用されたようだ。


日本プロレタリア、エスペランテイスト
同盟図解 (『特高月報』1931.7)
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吉田は大阪で左翼系のエスペラント運動に関わっていた。1930年12月に開かれたエスペラント講習会では小岩井浄(社会運動家、のち愛知大学学長)とともに講師を務めた。朝鮮人労働者6名、婦人8名、労働者35名、インテリ等6名、計55名が参加したという。

1931年結成された日本プロレタリア・エスペランティスト同盟(ポエウ)で、吉田と小岩井は中央委員に選ばれ、小岩井は大阪支部長になった。この事実は警察側にも知られており、『特高月報』(1931.7)掲載のポエウ組織図に記載されている。31年3月に、プロエス研究会が大阪労働学校(此花区)で参加者100名を集めて開いたプロエス講習会で、吉田は講師を務めた。これは参加者約100名を集めたものの「1〜2回で総検束」と伝えられる。これは外島保養院への就職後のことである。

なお、大阪労働学校は賀川豊彦を校長として1922年に創立された労働者教育のための学校で、経営委員・講師として小岩井も加わっていた。設立直後の第1期には相坂佶(ただし)を講師としてエスペラントの課外講義も行われていた。

エスペランティストとしての親近感もあり、気の合うところもあって、吉田は村田院長に重用されたという。吉田は第5回日本癩学会(1932年11月、大阪大学)で「癩患者壮丁の合格入営者実例調査報告」と題する発表をしているが、村田が勧めたに違いない。患者からも相当教養のある人物とみなされていた。院内では、左翼的な言動をどの程度見せたのだろう。医員の桜井にはそうは見えなかったとのことだが、やはりエスペラントができる共産系の患者田部哲を入所できるよう取り計らったとのエピソードも伝えられており、なにかと噂になってはいたようだ。

人が多数いれば意見が一致しないことは当然ではあるが、自治会の運営をめぐって患者の間には保守派と急進派の対立があった。その路線対立は次第に表面化してきており、33年2月の自治会役員選挙で保守派が勝ってから、決定的なものになっていた。一方の極には、表には出ないものの、1932年11月から33年1月にかけて日本プロレタリア癩者解放同盟を結成する先鋭的な動きもあった。


吉田らの検挙を伝える「運動日誌」 (『特高月報』1933.9)

このような状況において、8月4日に大阪府特高課警部らが院にやってきて「思想上の事に関して疑問不審の所がある」として吉田清、看護婦長代理西本政子、タイピスト岡野あぐり、看護婦吉田たきえの4人の職員を連行するという事件が起きる。『特高月報』(1933.9)の「運動日誌」は「プロレタリア文化運動」の項目の8月4日欄に「大阪府に於ては外島癩療養所内にポエウ関係の職員ある事判明し二名を検挙す」と記録している。検挙人数の食い違いは不審であるが、明らかにこの前後相次いだプロレタリア・エスペラント運動弾圧の一環である。ハンセン病関係文献の中には、この点について誤解しているものもあるようだ。

この時、村田はたまたま大阪を離れていた。責任者の不在をねらっての検挙だったとの観測もあるが、警察側は否定している。いずれにせよ、村田は帰阪後に、院内の動揺を抑え、対外的にも事態を収拾するのに腐心したはずである。

その最中の8月21日に、東北大医学部学生でエスペランティストの鈴木北夫が東北大の先輩で大阪在住の桑原利秀(のち関西エスペラント連盟会長)の案内で院に村田を訪ねて来ている。鈴木によれば「精力そのものであるような村田さんは滔々と数時間に亘つて」ハンセン病の説明をしたとのことだ。村田も医者の卵である鈴木を見込んで時間をとって説明したのであろう。鈴木の訪問記にはこの時期らしい緊迫感は現れていない。村田にとって、事件から離れて医学に集中することのできる、清涼剤としてのひと時であったのかもしれない。

RO 1933.10は、大阪Eep.会10月例会予告として「10月24日=…村田正太氏「"Esp-movado en medicina rondo kaj mi"(交渉中)」と伝えている。鈴木との訪問の時に桑原が依頼したが、村田が返事を保留していた、とも想像できる。しかし、これは以下のような事情で実現できなくなる。

吉田らの検挙事件は8月27日になって「レプラ患者に赤い媚薬」(『大阪毎日新聞』)の見出しでセンセーショナルに報道された。新聞はさらに、吉田と目される職員が「保養院就職後昨秋ごろから同院赤化を企てまづプロレタリア・エスペランチスト同盟を組織しこれを母体とし……患者に働きかけ各種文化サークルや演芸同盟を結成、患者中に多数のメンバーを獲得し従来の保守的、宗教的自治会を破滅し左翼思想を基礎とした新興自治会を組織、自暴自棄の患者を赤に陶酔せしめるのみならず、なほ外部へも働きかけんとしてゐた」とも伝えている。

吉田が急進派の患者と思想的に近かったこと、急進派のなかにエスペラント学習者もいたことは確かであるようだが、この記事がどこまで真相を伝えているかは不明と言うべきであろう。吉田からエスペラントを学んだ小室は思想的な影響を受けたというわけではなかったようだ。また、「プロレタリア・エスペランチスト同盟を組織」との記述は、ポエウと混同した誤解か針小棒大の記述であろう。

このような報道がもたらされると、患者間の緊張関係は極限に達した。この急展開に保守派側からの強硬な要求を受けて、村田は、院内の融和を維持するために、急進派の患者20名(田部、小室を含む)を8月30日に施設から退去させることを選択する。「逃走」とも「追放」とも言われることがあるが、患者も合意してのことであった。


外島事件を伝える『大阪毎日新聞』記事 (1933.9.3)

しかし、このことは「"赤"と癩病菌 散布の二重戦慄 左翼患者廿名 夜陰保養院を脱走す… 奇怪! 院長の許可を得て」(『大阪毎日新聞』9.3)と、恐怖をあおるように一層センセーショナルな報道となってしまった。大阪大学医学部教授が「衛生学上からは問題にならぬ」と院長を信頼し冷静になるようにと呼びかけても効果は少なかった。この問題の処理をめぐって、村田と大阪府警察本部とは抜き差しならない対立に陥る。結局、村田は、患者たちの強い留任運動にもかかわらず、10月7日付けで自ら院長を辞任することになった。いわゆる「外島事件」「外島保養院事件」である。

リベラリスト村田の掲げたともしびは消えたかに見えた。しかし、その自治主義は全く失われたわけではない。院長を継いだ原田久作は患者への就任の挨拶として、「院の運営の方針は、前院長村田先生のそのままをそっくり踏襲いたします。皆さんの人格尊重、自治体のあり方、すべてを前院長と同じように継いで行きます」と述べたという。また、村田の考え方は九州療養所(熊本県)や大島療養所に自治会の発生をうながすことにつながった。

なお、吉田は起訴まではされなかったようだ。1934年には、高田鉱造、真鍋純一、吉田らの労働資料社でエスペラント版のニュースを発行し、海外労働事情を調査したが、このことで吉田はポエウからスパイ視されるに至ったと、宮本正男は伝える。もっとも同年には、神戸の中塚吉次が中心となっていたマルシュ社に加わって活動した(『特高月報』1937.7)。戦後にも労働運動に参加したようだ。

もともと河口地帯に建てられていた外島保養院は、1934年に室戸台風による高潮に襲われると、ひとたまりもなく文字通り壊滅する。数多くの死者を出したが、生き残った患者たちは一時各地の施設に分散委託されることになった。外島自治会の執行委員長を含めて七十数名が長島愛生園に送られた。

1936年8月、愛生園の患者たちは自治の確立や光田園長の辞任を要求して立ち上がった。大幅な定員超過からくる待遇の不満など内部的な要因が大きいが、自治に慣れていた外島の委託患者からの影響も認められよう。ハンストを含めて半月にわたる抗議活動に、さすがの光田も妥協して自治会を認めることを余儀なくされる。「長島事件」として知られる。

壊滅した外島保養院は1938年に光明園として再建される。現在の国立療養所邑久光明園(岡山県)である。図らずも、長島愛生園と同じ島に隣同士の立地であった。

外島保養院を去る際に、村田はハンセン病の新薬研究に専心すると言い残していた。そして、それを実行するために、なんと51歳にして東大医学部薬学科に再入学した。卒業後は薬化学教室で研究を続け、日大専門部医学科(1942年、医学部に昇格)教授、陸軍第七技術研究所嘱託などに就いたという。

村田は1937年『癩治療研究所設立の必要』と題する小冊子を刊行して、「全力を化学療法による根治薬の創製に集中する治療研究所」の設立を世に訴えた。「現に罹ってゐる患者から癩そのものを取除いてやること」こそ救癩問題の核心であり、そのためにはこの種の研究所が必要だと力説する。

この文章には「隔離収容は根治薬のない今日、已を得ず行ってゐる次善の策に過ぎません。…いつまでも隔離策を唯一の解決方法とばかり考へ根治薬の徹底的研究を等閑に附するが如きは科学の力を軽んずるものでなければ救癩の本義を忘れたものと云はなければなりません」という一節も見られる。言葉を選んでいるようではあるが、光田ら隔離を推進する側に対して根本的な疑問を投げかけている。

村田は同様の提言を繰り返したが、研究所設立は実現を見なかった。しかし、村田がハンセン病や梅毒の研究への情熱を長く持ち続けていたことを物語るエピソードはいくつか伝わる。

村田は1945年12月には、終戦を受けての役員一新のために日本エスペラント学会の理事に就いて、その立て直しに新理事長の西成甫を助けることになる。エスペラント運動全般に対する貢献も大きかったと言える。日本エスペラント運動50周年記念となった1956年の第43回日本エスペラント大会(東京)で、功労者として表彰を受けた。

参考文献

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