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『La Movado』第707号(2010.1), 708号(2010.2), 709号(2010.3)掲載文に加筆
「1.はじめに」

エスペラントとハンセン病 ―歴史的考察―

後藤 斉


2.全生エスペラント・クルーボ

国立療養所多磨全生園(ぜんしょうえん)(東京都東村山市)の前身である第一区府県立全生(ぜんせい)病院では、1929年5月20日からエスペラント講習会が行われた。当初は日本医科大学の学生、佐竹結実(さたけゆみ)が約一週間教えに来て、「院内五十余名の青年男女並に多数の職員」(『山桜』1929.5)が受講したとのことである。「長い間の希望や計画」ともあるが、院長光田健輔と医員林文雄がその中心であったのであろう。

当時、医学界では西成甫、村田正太らを中心にエスペラント普及・実践活動が盛んに行われており、1926年には日本エスペラント医学協会が設立されていた。日本医科大学でも長沢(病理)、大村(病理)、斎藤(精神)、森(解剖)、浦良治(解剖)の5人の教員がエスペランティストであった。佐竹はこのころ東京学生エスペランチスト連盟でも活発に活動していたようだ。

光田は早く(1920年ごろ?)から日本エスペラント学会に入会しており、エスペラントの学習にも取り組んだ。語学力を具体的に伝える資料は少ないが、一通りの読み書きはできたと考えてよい。ただ、のちにエスペラントで医学論文を書いたとされるが、それが自身による執筆(翻訳)であるかは筆者には定かでない。また、「全世界の癩療養所にエス語運動をとの一大野望を有して」いたとさえ言われるが、具体的な見通しがあったかは明らかでない。


「全生五人男」 (1935年9月10日、長島愛生園にて)
左から宮川量、林文雄、塩沼英之助、田尻敢、藤田工三
(宮川『飛騨に生まれて』より)

林文雄は北大医学部学生時代からのエスペランティストであった。彼は1923年にエスペラントの独習を始めた。7月18日の日記には「Kara samideanoと全人類のさけぶ時が望まれる、語でこの地上に平和が来るとは思へぬ、……しかしこの地上の人々が皆同じエスペラントを用ひたらどんなに美しい世になるだろふ、平和をたすけるだらふ、そふ思ふだけでも希望者(エスペラント)の価はある」と書いたとのことである。

1929年ころ全生病院には、ほかにエスペランティストとして農園指導の宮川量(みやかわはかる)、学事の藤田工三もいた。宮川の前任者で1929年1月没の広畑隣助もエスペランティストであったらしい。医員塩沼英之助がこれに加わった。1930年に全生病院に就職する医師田尻敢(いさむ)や大西富美子(のち林と結婚)もエスペラントを学んだ。林、塩沼、宮川、田尻、藤田は、いずれもキリスト教徒でもあり、「全生五人男」との異名をとった。

一週間の短期講習のあとは、林が校長格となり。塩沼が主に指導して講習会が続けられた。塩沼はエスペラント初心者であったが、自習しながら手製の謄写版『フンダメント』と千布利雄『エスペラントの鍵』を使って教えたとのことであるが、『鍵』は千布の作ではない。8月26日には千布を呼んで講話を聞いたとの記録があるから、著者名に間違いがあるはずはない。とすれば、千布の『エスペラント全程』を使ったのであろうか。また、が、千布本人をどのようなきっかけで講話に呼ぶことになったのであろうか。

休日を除いて毎日、朝6時から1時間の講習はきついもので、脱落者もでたことはやむをえまい。一方で、「半句一句解り初めたる世界語のエスペラントは楽しかりけり」(揚原澄流)と月刊の院誌『山桜』の短歌欄に感想が掲載されたことからわかるように、一般社会から隔離状態に置かれた患者にとって、エスペラントは社会とのつながりを感じさせる意味を持つものであった。

1929年9月から、『山桜』にはほぼ毎号1ページのエスペラント欄が設けられるようになっていた。来信の転載もあるが、20行ほどのエッセーが書かれていることも多く、語学的な誤りはあるものの軽微であって、十分に理解できる。


全生エスペラント・クルーボ
(1929年12月、講習会終業式の光景)
「中央わらいつゝ盲人の肩に手を置くは光田院長、盲人は山名老人、
窓の柱の前白衣の背の低きは塩沼導手(グビダントー)。その後は訳者。」
(『悲惨のどん底』より)

1929年11月という学習のまだ早い段階と思われる時期に、俳句の翻訳を試みている(韻文訳ではない)ことは面白い。同年12月号の短歌訳で一行訳し残して、「我々同志が寄り合つて寒い冬の夜一夜考へましたが出来ません。…どうぞ教へて下さい」と問いかけたのに応えて、城戸崎益敏が訳を提案する手紙を送ってきたのは、学習の励みになったことであろう。

この講習は年末まで続き、熱心な人々はさらに全生エスペラント・クルーボを発足させて、学習を続ける。会の標語とされた "venis, vidis, venkis"「(我は)来たり、見たり、勝てり」は、その熱い希望を物語っている。講習は3期まで行われた。後に林文雄の妻となる医員大西富美子も、30年に全生病院に就職すると間もなく講習に参加したようだ。

1930年4月には、エスペラントが全生学園(小学校)の科目に加えられた。「特別科」としてであるが、学園の規程に明記されており、院長の意思も働いていたと考えられる。

宗近真澄が RO 1930.9に寄稿した訪問記「全生病院を訪ねて」には「…見ると立札にFlorĝardenoと書いてあり、dalioやlilioとEsperantoで書いた小い木の名札が沢山に立ててある。まるでEsperantujoに来た様である。」と院内が描写されているが、これは園芸指導担当の宮川が行ったことであろう。また、宮川が代表者として武蔵野歌会の名義で刊行した歌集『東雲のまぶた』(長崎書店, 1930)には、全生病院でのエスペラント活動への言及が多い。

特筆すべきこととして、『山桜』1930.1から青年患者黒川眸(本名賢治)による『悲惨のどん底』が連載されている。ポーランドの民族誌学者で作家、シェロシェフスキ (W. Sieroszewski) の作品をカーベ (Kabe) がエスペラント訳した La fundo de l' mizero の重訳である。シベリアのハンセン病患者の悲惨さを描いた小説で、塩沼が日本エスペラント学会から本を買ってきたのであった。

この翻訳は、林の斡旋によって早くも7月に長崎書店から200ページほどの単行本として刊行された。「はしがき」によれば、院長がこれを翻訳しようと言い出して、初めの方を訳し、黒川がそれを引き取って全体の訳に取り組んで、病勢を募らせながら開講1周年の日には完訳にこぎつけたとのことである。これはハンセン病患者個人の作品が単行本として公刊される先駆けとなった。


『悲惨のどん底』のトビラ
(日本エスペラント学会所蔵)

これほど短時日に翻訳を完成できたことから、本当に彼の翻訳であるか疑う向きもある。黒川は病気のため小学校もきちんと出ていなかったので、そのような疑念を抱かれるのもある意味で無理はない。しかし、彼には十分な語学力があったと判断してよい。

黒川が『山桜』1929.9に寄稿したエスペラント文は、すでに十分になめらかである。"... Malgriaŭ komenca dubo, ĉu ni neinstruitaj povos lerni Esperanton, Ni tuj trovis ĝin facile lernebla. ..." 『山桜』1930.3の "El sur Lito" と題する文章は、病床に伏す彼の目から見た自然や心情の描写が具体的で、本人の手によるものと推量できる。 "... subite mi elsaltis el la litaĵo kaj malfermis fenestron. Malvarma aero de mateno kisas agrable miajn vangojn. ... Mi fermis la fenestron kaj sur la lito preĝis kviete ke la doloro de malsono foriru rapide de mia korpo." 『悲惨のどん底』の翻訳も、林や塩沼の助けがあったにしても、全体として黒川の業績であると認めてよいであろう。

光田院長は政治的手腕の持ち主で、皇室、政界、財界、宗教界など各方面に働きかけて、彼の主唱する隔離に基づく「癩の根絶策」への援助を得ていた。その中に、当時一世を風靡していた修養団体希望社もあった。

後藤静香(せいこう)が主宰する希望社はエスペラント、アイヌ、盲人など幅広い分野で社会活動を展開していたため、この立場からエスペラントとハンセン病との関係をつないだ人物もあった。前述の宗近がその一例である。塩沼や宮川が全生病院に勤めるようになったのも、かつて後藤らの訪問に同行したことがそもそものきっかけであった。

やはり希望社国際部員の案内によって、1930年8月23日、自転車で世界一周の途上、シベリアを 走破して来日したフランス人ペレール (Lucien Péraire) が病院を訪問して、全生エスペラント・クルーボと交流した。これは、学者の視察や布教師の伝道などを除けば患者にとってまれな、実際の国際交流の機会であったと言える。黒川はペレールの印象を「何時の頃帰国されむかと問ふに唯わからぬと答ふこの放膽さ」と短歌に詠んだ。ペレールの方でも旅行記にこの訪問のことを記録している。患者たちの多くが質問や歓迎の言葉をエスペラントで直接語りかけてきたことは、ペレールにとって予想外で印象深いできごとであった。


『悲惨のどん底』の出版祝賀会 (RO1930.11)

『悲惨のどん底』の出版祝賀会は9月28日に行われた。病院の創立記念日にあわせたこともあって、100人を超す来賓があったとのことである。案内はエスペラント関係誌やハンセン病関係誌に掲載されたが、『学士会月報』にまで林が関連記事を寄稿したことは興味深い。ローエングリンのレコードが流れる中、黒川が光田に訳書を献呈する演出は、林のアイデアと推量される。黒川を祝賀するだけでなく、光田を顕彰し、その隔離論を宣伝する場となった観がある。

不思議なことに、この小説は、同じくカーベ訳からの重訳が和見正夫(=村上信彦)訳の『悲惨の涯』(興風館, 1940)としても刊行された。あとがきに黒川訳への言及はなく、出版の経緯は分からない。翻訳の出来を比較すると一長一短あるが、黒川訳に軍配を上げたい箇所も多い。

1931年3月に新しく国立の長島愛生園(岡山県)が開設されて、光田と林、宮川は転出し、黒川も「開拓者」として選ばれて転院する。エスペラントに好意的だった院長以下主要メンバーが多く抜けたことで、全生エスペラント・クルーボの活動は下火にならざるをえなくなった。


講習生一同のエス大会
(1931.8.29)

しばらくは、塩沼が指導を続けたようであり、RO 1931.3に「全生病院便り」を伝えてもいる。1931年8月29日に、「講習生一同のエス大会開催」(Esperanto-Kiboŝa 1931.10)もあった。塩沼は1932年10月東京の教育会館で開かれた第20回日本エスペラント大会に参加したようだ。全生学園でのエスペラント科目がいつまで続けられたかは分からない。

しかしながら、『山桜』のエスペラント欄は、実に1935年10月号まで継続した。執筆者は数人いたようだが、主に担当したのは盲目の老人患者山名実であったとされる。山名は黒川と同じ講習会1期生だったが、教材に不自由したであろうにもかかわらず、早くから高い語学力に達していた。光田は『山桜』1930.2に「単語の暗記ではクラーボ[ママ]中第一であつて、エス語による聖書の研究及暗誦等驚くべき記憶力の持ち主である」と証言している。


ザメンホフ博士記念祭 (1930.12.15)
(「答辞を述べる盲人同志」とあり、
山名実と推測される。)

山名の名前は『悲惨のどん底』のはしがきにも、黒川とならぶ「二つの誇」として挙げられていた。「一度聞いた単語は決して忘れない」、「生ける辞書」、「塙保己一」など、印象的な評価が並ぶ。実際にはまだ50歳ほどであったらしいが、それでも失明して数年とは信じがたい。

『山桜』エスペラント欄は1932年からは詩の翻訳が目立つようになり、1933年からはほとんど俳句の翻訳になる。執筆者の趣味であろう。直訳ではなく、語句を補って意味の伝わる翻訳になるよう、彫琢を重ねた様子を見てとることができる。しかし、韻律はしばしば整わず、単語の選択もいささかぎこちなくて、冷静に評価すれば文芸翻訳としては習作レベルにとどまっていたと言わざるをえない。比較的よいものを二つ挙げれば:

雲雀より上に休らふ峠かな  芭蕉
Ni ripozas / Ĉe la monta pasejo / Jen, super l' alteflugaj alaŭdoj!
日頃にくき烏も雪のあしたかな  芭蕉
Ho, ordinare malaminda korv' -- / Kiel aminde / En la maten' de neĝ'!

1928年に岩橋武夫、鳥居篤治郎らにより日本盲人エスペラント協会が創立されていたが、それとのつながりはなかったらしい。塩沼は近くにいたものの、文芸翻訳の視点からの指導は十分でなかったであろうし、切磋琢磨する仲間や感想を寄せてくれる読者も皆無に等しかったと思われる。このような不利な条件にありながら、詩歌の翻訳を継続した山名の精神力には驚嘆を禁じえない。

塩沼は1935年秋、新設の星塚敬愛園(鹿児島県)に転出する。指導者を失っては、さすがに山名らも『山桜』の連載を続ける気力を失ったのであろう。全生エスペラント・クルーボの消滅であった。

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