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『河北新報』2006年11月16日朝刊文化欄

日本エスペラント運動100周年
普及活動「仙台」が貢献

<仙台エスペラント会会長 後藤斉


2006年が日本のエスペラント運動100周年に当たることは、10月に この文化面で紹介されました。ここでは仙台でのエスペラント語の取り組み、 歴史について触れたいと思います。

エスペラント語は、民族の違いを超えて通じ合える言語として、1887年 に当時ロシア領だったポーランドのザメンホフが提唱したものです。さまざまな 経路で日本に伝わり、1903年、東京帝大生の 吉野作造 も英文の雑誌で エスペラント語を知り、ロンドンから教科書を取り寄せて勉強を始めたとの ことです。二葉亭四迷 のエスペラント語学習書「世界語読本」が刊行され、 日本エスペラント協会が設立されたのが06年でした。

仙台では、08年に市内の中島丁に「C・A・Parry」なる人物 (国籍不明)が住んでおり、エスペランティストだったとのことですが、 詳しいことは分かりません。21年にエスペラント宣伝隊が東北を巡り、 仙台でも講演会を開いたことが契機となって、エスペラント学会の仙台支部や 東北帝大エスペラント会が作られました。

大正デモクラシーの時代はエスペラント語にとっても高揚期でした。24年、 日本エスペラント大会が仙台で開かれました。宮城県議会議事堂と松島を 会場に4日間行われ、それまでで最も大仕掛けだったといわれています。

昭和初期にも活気を見せ、土井英一(晩翠の長男)は、全文エスペラントの 雑誌で日本を紹介したり、鯉(こい)のぼりを世界に贈ったりするなど創意ある 活動をしました。彼は中学時代に、来仙して晩翠を訪ねた アインシュタインに将来を嘱望 されたのですが、大学生のときに結核で亡くなってしまいます。 エスペラント語で心温まる文通を続けていたドイツの教育者、シュレーダーとの 縁で、分骨された遺骨は、ドイツに埋葬されました。

仙台エスペラント会は、会長に井上仁吉、本多光太郎など東北帝大の学長を いただく習わしであったようですが、名士ばかりでなく、さまざまな人が 加わっていました。 笹気印刷所(国分町) が備えていた先端的な印刷機は、日本のエスペラント出版活動に 大きな貢献をしています。

戦争の色が濃くなるにつれ、エスペラントの活動は停滞を余儀なくされますが、 終戦後に菊沢季生(宮城学院女子大)を中心に復活し、1951年には 河北新報の後援で「世界児童画展覧会」を開き、約1万人の入場者を集めました。 87年、仙台市地下鉄の開業に合わせて開いた「世界の地下鉄展」では、 各国のエスペラント支部に依頼し、世界24カ国38都市から貴重な資料を 取り寄せて展示することができました。

92年には約70年ぶりに日本エスペラント大会を松島で開催。今年は、 エスペラント運動100周年に合わせて 「エスペラント日本語辞典」が 刊行されましたが、編集委員10人のうち、筆者を含めて4人が仙台在住、 出身者であるのも特筆すべきでしょう。

来年は世界エスペラント大会(顧問、井上ひさし氏ら)が横浜市で開かれるため、 仙台を含めて日本のエスペランティストは多彩な民間の国際交流の準備を 進めています。国際交流といえば英語を思い浮かべがちですが、誰の母語でもない、 平等な言葉エスペラント語を使うことの意義は、かえって高まっているといえます。


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