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『エスペラント』第68巻(2000)8月号, pp.2-4 掲載

人間の言語の本質は音声言語

特集 エスペラント「音声学」

後藤 斉


日本での外国語教育は、漢文の受容以来、主に文章の理解を目指したものだった ことは周知のことです。最近でこそ「会話重視」「コミュニケーション重視」と 言われますが、学校教育に関する限りまだそれほど大きな成果を挙げているようでも ありません。エスペラントを学習する際にも、その影響で書き言葉を優先する傾向が 少なからず見受けられるかもしれません。

しかし、一つの言語に習熟するには音声を避けて通ることはできません。いや、 むしろ、音声なしでは文章の理解さえ不十分なものになる可能性があります。 人間の言語の本質は音声言語にあるからです。

ヒトは進化の途上で、直立二足歩行を始め、火や道具の使い方を覚え、 そして言語を獲得しました。これらはヒトをしてヒトたらしめている特徴ですが、 ここでいう「言語」は音声言語にほかなりません。文字の使用が文明の発達や 社会の営みにとって大きな役割を果たしていることは言うまでもありませんが、 これは音声言語から見れば二次的なものにすぎません。

ヒトの体は基本的には他の哺乳類動物と違いません。音声器官というものが もともと備わっているのではないのです。呼吸や食物の摂取といった、生命の 維持にとってより基本的な働きをする器官を音声言語を発するために転用したのです。 しかし、これによってヒトの体は音声言語を扱うのに非常に適した特徴をもつように なりました。大脳が特に発達したのはもちろんですが、物理的・生理的な音の 発出や受容に関してもそれが言えます。まず、ヒトは喉頭(のどぼとけに 覆われている部分)が下がっていて、その上の空間(咽頭)が広くなっています。 このことは、音を共鳴させて強めたり、音の通り道の形を変えることで共鳴の しかたを変えたりして、はっきりと区別できる多種多様な音を発するのに有利に 働きます。また、ヒトの耳は母音を識別するのに重要な周波数に対して特に 敏感であることが知られています。これはサルの耳がもっと高い周波数で 敏感なのに比べて特徴的です。

人間の言語の特徴の一つに高い生産性があります。つまり、ある言語の話者は その言語で新しいメッセージを作り出したり、受け取ったりすることができます。 例えば、この直前の文(「つまり、…できます。」)と全く同じ文をこれまでに 読んだことはきっとないでしょうが、文として受け取るに支障はなかったはずです。 日常会話でも、多くの文はこれまでに言ったことも聞いたこともない、 新しい文でしょう。理論的には、どの言語でも文の数は限りがないのです。これは、 動物のコミュニケーションと大きく異なります。ただし、実際の言語使用では、 定型的・半定型的なパターンが繰り返して現れることがあるのですが、 ここでは理論的な可能性について考えます。

さて、この高い生産性を可能にしているのは、人間の言語のもう一つの特徴である 分節性です。これは、メッセージがひとかたまりのものとしてあるのではなく、 いくつかの部分に分かれているということです。文はいくつかの単語が集まって できていますが、その単語はまたいくつかの音からできています。ところで、 一つの言語は、普通、数十種類の音しか利用していません。逆に見ると、 ごく少数の小部品を組み合わせて多数の中部品を作り、さらにそれを組み合わせて 無限の種類の製品を生み出すという、おもしろい仕組みになっているわけです。 そして、音声はこの小部品として非常に適しています。

言語音を発するのには、普通、肺から口(場合によっては鼻も)を通して出す 呼気を利用しています。呼吸はどのみち生命の維持のために必要ですから、 言語音を発するためのコストは低いと言うことができます。また、呼吸と同様に 言語音の発出も他の活動(例えば労働)と平行して行うことができます。音声言語は 新しいコミュニケーション手段を必要としたヒトにとってこの上なく都合が よかったのです。

言語音はおおまかに母音と子音に分けることができます。母音とは、呼気が声帯 (気管の上端部で、喉頭の内側にある)を振動させてできる音が妨害を受けずに、 そのまま咽頭・口腔・鼻腔で共鳴して出てくる音で、楽音(規則的な振動の繰り返し) です。一方、子音は、呼気の流れにになんらかの妨害が加わって、不規則な振動が 見られたり、不規則な振動そのものであったりする音です。母音と子音という 音響的に異なった性質をもつ音をおおむね交互に使うことで、音連続同士が 識別しやすくなっています。

「母音の多い言語(例えばイタリア語)は音楽的だ」と言われることがありますが、 その理由の一つはこのような母音の音響的な性質にあります。日本語もそれに近い面が ありますが、特に東日本では「母音の無声化」といって母音が楽音でなくなることが よくありますから、そのくせをエスペラントに持ち込まないよう注意する必要が あります。

母音を発音するときの舌の位置や唇の構え方によって、音の通り道の形が 違ってきます。ヒトは、咽頭が広くなっているため、舌を自由に動かせるので、 さまざまな形にすることができます。そして、その形に応じて、声帯で作られる もとの音のうち特定の周波数が特に共鳴して強められることになり、母音の音色が 変わってきます。世界の言語の中には、24もの母音を区別する言語があることが 報告されています。

幸い、エスペラントには母音が五つしかありません。ザメンホフは ラテンアルファベットに合わせて(つまりラテン語の母音の数に合わせて)五つに したのでしょうが、これはそれ以上の意味を持っています。世界の言語を母音の数に よって分類すると、エスペラントと同じく五つであるものが最も多いのです。 しかも、それは決まってa,e,i,o,uなのです。このことから、この五母音が 人間にとって発音し分けたり聞き分けたりするのに最もバランスのとれた 組み合わせだということがわかります。

もちろん、日本語も基本的には同じです(ただし、地域によっては、伝統的な 方言でこれと異なる区別をしていることがある)。もっとも、日本語の「ウ」は 明瞭さに欠けるところがあるので、エスペラントのuでは、意識的に舌を奥に引き、 唇を丸くするのがよいでしょう。

日本語は子音の種類が乏しく、子音連続の少ない言語ですので、日本語話者は どうしてもそれに比べてエスペラントでは子音が多いという印象をもつでしょう (ただし、母音の無声化のせいで、意識しないのに子音連続が発音していることが 実は多い)。不必要な母音をつけないように注意する必要があります。例えば 「ストライキ」は5拍で発音しますが、"striki"は2拍です。もっとも、 エスペラントに特別に難しい子音があるわけではありません。

多くの日本語話者にとっては、例えば、rとlの区別が難しく感じられるかも しれません。しかし、世界の言語の中では、r と l の区別をする言語の方が 普通なのです。ヒトは、ホモ・サピエンスという一つの種ですから、人種や民族が 違うからといって体のつくりに解剖学的な違いがあるわけではありません。 日本人だから発音できない音というものはないのです。練習や慣れで克服することは 十分に可能です。

エスペラントでアクセントが最後から二番目の音節に来ることは、最初に 習うことの一つです。これは単に心地よいリズムを作るだけでなく、単語の境界を 明瞭に示すというコミュニケーション上の効果ももっています。最終音節が たいてい品詞語尾であることと合わせて、エスペラントの聞き取りを他の言語より はるかに易しいものにしています。

ただし、文の中ではどの単語も同様に強く発音される訳ではありません。 例えば"estas"のような単語は意味があまり際だっていませんから、 あまり強く発音すると不自然に響きます。"Mi estas japano."であれば、 普通の状況では、"estas"より"japano"の方が強くなる はずです。また、この文で"mi"を強めると、「私こそは」「他の人は いざしらず、私は」といったニュアンスが加わります。人称代名詞や前置詞、 接続詞などは特に含みがない限り軽く済ませましょう。このように、詩はもちろん 散文でも、文章はそれなりのリズムがあるものです。意味や構文の区切りに 見合ったリズムに気を付ける必要があります。

ヒトの言語にとって音声が第一義的なものなのであって、それは言語のあり方の いろいろな面に現れています。エスペラントも人間同士のコミュニケーション手段と して活用されている以上、例外ではありません。


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