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『エスペラント』(La Revuo Orienta) 第76巻(2008)12月号, pp. 6-7. 掲載

『エスペラント日本語辞典』の使い方(10) 転義

後藤 斉


エスペラントだけでなく、どの言語でもそうですが、多くの単語の意味はある程度の広がりを もっています。そのうち、その単語にもっとも強く結びついていて、まっさきに思い浮かべる ような語義は、中心的な語義ということになります。その中心的な語義から少しずれた意味で 使われる場合も少なくありません。多くの語では、語義は番号のついた複数の項目に分けられ、 それぞれに語義解説や例文がつけられています。

しかし、単に複数の語義があるというだけでなく、中心的な語義からの転用という意識を 残して使われている語義、つまり転義である場合も少なくありません。そのような場合、 『エスペラント日本語辞典』では{転}の記号でそのことを示しています。別の語義番号をふって 辞書の中での形式上の扱いとしても分けていることもありますが、分けていないこともあり、 単に例文として転義での使い方を挙げているだけのこともあります。

転義であるかどうかは、実のところ、微妙な場合も多く、明確な境目はありません。kapo 「頭」を「頭脳」や「上部, 先端」の意味で、また、人を数えるときの単位として使うのも転義と 言えますが、記号が多くなってもわずらわしくなるため、控えめにしているところもあります。

語義の転用には臨時的なものもあって、微妙な場合にはその使い方が適切かどうかについて、 人により判断が分かれることもあるでしょう。イマジネーション豊かな使い方は、一般的で なくとも、詩的な表現として評価されることもあるかもしれません。このようなものは、 学習辞典である『エスペラント日本語辞典』では扱うことはできません。この辞書に挙げて あるのは、比較的広く使われているものに限られます。

転義的な語義の多くは、具体的な事物を指す使い方から抽象的な概念へ、あるいは、特殊から 一般への転用だと言えそうです。典型的に転義で使われている場合には、元の意味も残っていて、 その語は複合的なイメージを呼び起こします。これによって表現がより豊かなものになると 言えるでしょう。

例えば、dornoの第一義は植物の「とげ, いばら」ですが、「苦しみ, 苦難」などの転義で 使われることがあります。この転義は形容詞 dorna「困難な, 苦しい」の形でもよく使われ、 malfacilaやpen(ig)aなどとは違った表現効果を持ちます。dorna vojoは、ほぼ日本語の 「いばらの道」と同様に、vojo「道」の方も「人生行路」のような、かなり抽象化した意味で 使われていますが、それでも、歩みを進めるごとに足にとげがチクチクささる、薮の中の細道の イメージを思い起こさせます。

日本語ではあまり使わないような語義の転用もあります。guto「しずく, 水滴」は、対象を 液体に限らずに少なさを強調して「微量」の意味で使われます。この辞書には例文として 「Ne ekzistas eĉ guto da ŝanco. ほんのわずかなチャンスさえない」を挙げて ありますが、ほかに guto da dubo, espero, feliĉo などの実例があり、さらに guto da scienco といったちょっと面白い使用例もあります。このような表現では、もとの液体の イメージはもうあまり残っていないかもしれません。日本語では「しずく」や「水滴」を このように使うことはなさそうですが、比較的自然に理解できる転義でしょう。

現代の日常生活では、brido「馬勒((ばろく))〔馬の頭部に付けるくつわ・手綱などの総称〕」 という物はもはやあまりなじみがなくなっており、bridi「<馬に>馬勒を付ける」という行為も ほとんどすることはないでしょう。そうであれば、実用的には、転義の「拘束, 束縛; 歯止め」 「抑制する, 歯止めを掛ける」だけを覚えておいてもすむのかもしれません。しかし、語義の 発展のしかたをおさえておくと、文章をより深く理解することにつながる可能性もあります。

転義は、賞賛や侮蔑など、なんらかの感情を伴った意味であることも少なくありません。 例えば、abelo「ミツバチ」からの形容詞 abela には「ハチのように働き者の」という転義があり、 少しづつ蜜を集める仕事ぶりのけなげさを賞賛する含みがあります。

一方、urso「クマ」からの形容詞 ursa の転義「熊のような; 〔特に〕粗野な, がさつな, 〔ときに〕人づきあいが悪い, むっつりした」には、けなしたりからかったりする含みがあります。 用例に挙げられている ursa kareso「無骨な愛撫」はザメンホフ訳『ことわざ集』から取ったもの ですが、無器用さ、ぎこちなさを強調しています。他の実例には、ursa mano, ursa servo なども あります。

このような賞賛や侮蔑は、自然に理解できるものもありますが、文化的に規定されていて、 日本人には理解しにくいものもありそうです。また、賞賛についてはともかく、侮蔑的な ニュアンスを伴う表現は、人によっては気になることもあるでしょう。

特に、特定の民族集団に関する表現は差別的になりかねないこともあるので注意が必要です。 apaĉo 「アパッチ族」は、西部劇での役どころから転じて「大都市の無法者」の意味で 使われることもありました。特定の民族を侮蔑することになるこの種の表現は、かつては無神経に 使われたこともあり、今でも大抵の言語に多かれ少なかれ見られるものですが、国際語 エスペラントとしては望ましい表現とは言えません。

転義をうまく使うと表現を生き生きとしたものにすることができますが、定着した比喩は、 別の見方からすると、陳腐な紋切り型であるとも言えます。あまり使いすぎると、気に障る 逆効果にもなりかねず、注意が必要です。

とはいえ、効果的な文体を目指すためには、時々使ってみるのは決して悪いことでは ありません。この辞書には載っていませんが、formika laboro「アリのような働き」といった 表現も可能です。「アリとキリギリス」の寓話のイメージから、勤勉さをうまく伝えることが できるそうです。もっと日本的な、あるいは現代的な転義を工夫して見る価値もあるでしょう。

figuraj sencoj en Esperanto-Japana Vortaro


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