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『エスペラント』第65巻(1997)3月号, pp.30-31掲載

書評 渡辺克義「ザメンホフとエスペラント」

(日本エスペラント学会,1996)

後藤 斉


本書はポーランド史とポーランド語学の気鋭の研究者、渡辺克義氏による、 既発表稿をもとに一冊にまとめたものである。論文3編は再帰表現と mal-型派生語をテーマにしたエスペラント語学に関するもの、「ノート」5編のうち、 2編は歴史的考察、3編は言語学ないし言語学史的考察であって、書評1編が 付け加わっている。ポーランドというエスペラントとは深い縁にありながら、 日本にはなじみのない国の言語と事情について、ワルシャワ大学で博士課程を 修了した著者による文章がまとまって読めるようになったことは、何より喜ばしい。

書名の「ザメンホフとエスペラント」はいささか誤解を招きかねない表記である。 「はしがき」にも「本書は、エスペラントとその創案者ザメンホフを、 ポーランド史・ポーランド語学との関わりから論ずるものである」(p.3)とあるが、 ザメンホフその人は本を構成する論考の中でそれほど中心的に扱われているわけでは ない。むしろここでの「ザメンホフ」はザメンホフの亡霊であって、 「ザメンホフのエスペラント文を絶対視している者」(p.3)の象徴なのではあるまいか。 評者には、「何人にも自由にエスペラントを議論する権利は与えられてしかるべきで あろう。タブーを設けることは、言語の自由な発展にとってマイナスでしかない」 (p.3)とする言語観から議論を展開しようとする著者が設定する仮装敵であるように 思えた。

ただし、著者のこの姿勢は、いささか意識過剰にすぎるもののように見える。 ザメンホフやFundamentoを絶対視しない態度は、現代の学問的なエスペラント研究に おいてはむしろ当然のことである。例えばM. Duc Goninazは "Por kio utilas la Fundamenta Gramatiko?" (en: Centjara Esperanto, Fonto, 1987, pp.98-104)において ... por la esperantoparolantoj de la dua jarcento la diskutadoj pri la "fundamenteco" iĝos pli kaj pli senutila balasto, kaj por la lingvistoj kaj kleruloj -- objekto de serena kaj senpartia historia studado. と述べていた。著者のこの意識過剰は本書のライトモティーフとなっている ようでさえあるが、おそらくはそのせいで第2論文の「結びにかえて」(pp. 37-39)は テーマである再帰表現とは無関係のことに話が及んでしまい、著しく論旨を 損なっている。

第3論文で扱われるmal-型派生語に関しては、エスペラントの歴史の中で少なくとも 20世紀初頭のIdo-skismoの時代に遡る議論と実践(実験)の歴史がある。大島 『エスペラント四週間』は初学者向けの教科書として書かれた本であり、そこにある 「ポジティブな点ばかりを強調する」(p.46)記述をことさら標的とするのは、 当を得た問題設定とは言えない。ここでも、大島の中にザメンホフの幻想が 浮かんでいるようである。紙幅の関係で「一考察」に限るのはやむを得ないと するなら、さらにテーマを限定すべきではなかったか。また、 「mal-型派生衰微の背景」として文体美を持ち出すならば、その影響力から考えても 参考文献として K. Kalocsay, G. Waringhien kaj R. Bernard, Parnasa Gvidlibro (特に、現行の第3版であればpp.106-107)は 必須であったろう。

「相互自慰的書評もしばしば目にするが、ここではそのような手法は取らず、 忌憚のない意見を述べる」(p.3)との著者が書評する際の態度にならい、ここでは 批判的な面をまず取り上げたが、本書はもちろんそのような面ばかりではない。 何よりの長所は、なんといってもポーランド語とポーランドに関する著者の確実な 知識である。再帰表現に関してもそうであるが、ザメンホフに関する2編の 「ノート」は「安心して読める」という感じを与えてくれる。この分野では著者は 文字どおり何人の追随をも許さない。

「ノート」に分類されている「Z.クレメンシェヴィチのエスペラント観」と 「J.ボドゥエン・デ・クルテネのエスペラント観」はポーランドの二人の大言語学者の エスペラント観を検討したものだが、その意義からも迫力からも、論文に匹敵する。 二人の文章を丹念に読みこなし、エスペラントないしポーランド語の事実と 照らし合わせた上で、それぞれの思想を読み取るのである。後者について日本語で 読める文献は限られており、前者については皆無に近い。エスペラントを契機として このような大学者の業績が日本に知られることになるのは、さしづめ エスペラントの橋渡し言語としての面目躍如というところであろう。

著者は「movadoと称して、駆けずり回ることは私の性格ではできそうもない」 (p.93)と言う。それはそれで一向に差し支えないし、運動に無理やり引き入れることは 誰にもできない。しかし、評者には著者がエスペラントに対してなにか無理な姿勢を 取っているかのように見えるのである。言語としてのエスペラントの 多様性に自然に向き合うことで、著者の研究はより豊かな実を結ぶことになると 思うのであるが。


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