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エスペラントを育てた人々 ―仙台での歴史から―
『メイルシュトーノ』第210号(2008.11)掲載文に加筆

医療とエスペラントに懸けた青春 ―鈴木北夫―

後藤 斉


目次


東北帝大医学部エスペラント会

戦前の仙台エスペラント運動第二期には、仙台エスペラント会のほかにも学校や職域ごとの 団体がいくつもありました。"Jarlibro de JEI" (『日本エスペラント学会年鑑』)の 1932(昭和7)年版は、仙台エス会(会長本多光太郎)のほかに、仙台エス・クラブ(代表菊沢季生)、 東北帝大医学部エス会、東北学院高等学部エス会(会長酒井瞭吉)、仙台鉄道エス会(会長平野子平)、 栴檀エス会(代表福永和利. 栴檀中学は東北福祉大学の源流)を挙げています。

なぜかここには挙がっていませんが、医学部以外の東北帝大エスペラント会もありました。 東北大学の本部と法文、理、工の各学部は現在の片平キャンパスにあり、医学部は今と同様に 現星陵町に離れて所在していたので、エスペラント会としても別々の組織があったのです。 旧制二高のエスペラント会は、メンバーの入れ替わりや学校当局の無理解のため消滅や復活を 繰り返しながら、時として活発な活動を行っていました。 宮城県女子専門学校 (戦後、東北大学に包摂)にも雀部顕宣校長(1872〜1938)の下、エスペラント部が存在し、ここから 村上沢(1909〜1973. のち東北大助教授、仙台白百合短大教授)が育ちました。

また、宗教団体大本にもエスペラントの活動がありました。 柳田国男『遠野物語』の 語り部として知られる佐々木喜善(1886〜1933)は晩年のこの頃を仙台で過ごしており、少し前に 入信した大本の仙台でのエスペラント講師役を務めていました。喜善にとっては、 宮沢賢治(1896〜1933)と 交友を結び、賢治に呼ばれてエスペラント講習のために花巻に行くこともあった時期と重なります。

さらに、日本プロレタリア・エスペランティスト同盟(ポエウ)の仙台支部も1932年6月1日に 創立され、12月末現在で21名が所属していたとのことです。

これらの会は普段は別個に活動していたわけで、当然、学内や職場だけのサークル活動に とどまっていた人もいました。特に、大本とポエウは、その思想的性質からして独自性が強く、 意識的に距離をとっていたようです。しかし、それ以外では主要メンバーの間では交流があって、 講習やザメンホフ祭などを共同して開くこともありました。特に熱心な人は、学校や職域の 団体の他に、仙台エスペラント会にも加わり、さらに日本エスペラント学会などにも加入し、また 国際文通などを積極的に行っていました。医学部エスペラント会の鈴木北夫(1911?〜1936.6.17)は そのような人物の一人でした。

上記の『年鑑』は医学部エスペラント会(Medicina Esperantista Klubo de Universitato, Sendai)の会員数を53と報告しています。仙台エスペラント会の会員数60に匹敵する大きな数です。 とりわけ忙しい医学生のクラブですから、活動にはむらもあったことでしょうが、毎週月・水・金に 医学部学生集会室で活動し、毎学期1回 "Bulteno de MES" を刊行していたとのことです。 この時期には、役員として名前の挙がる鈴木北夫、佐々木滋(1911〜1995. 卒業後熊谷内科勤務、 のち水沢に開業、イーハトヴ・エスペラント会)、友常武雄(1910〜1998. のち茨城県で開業)、 高橋啓一郎、渡辺正彦(のち仙台で開業)、山本耕一(1909〜1990. のち弘前大教授、弘前エスペラント会会長)、 昼間和男(1911?〜1945. のち陸軍軍医として戦病死)が中心的なメンバーだったと思われます。

医学部エスペラント会は吉田松一(よしだまついち 1904〜1977. 医学部小児科助教授ののち、 ハルピンの満鉄病院勤務、終戦後は大津で開業)が1931(昭和6)年初めに創設したものです。 吉田は、東北大医学部生だった1924(大正13)年に仙台の第12回日本エスペラント大会に参加した ころからのエスペランティストでした。この大会の準備には、先輩にあたる医師鈴木立春 (1885〜1967. のち東北新生園初代園長)や 当時医学部助教授だった及川周(まこと 1893〜1969. のち新潟大、日大教授)も加わっていました。 また、その前後、同じく先輩の萱場次郎(仙台で開業)も日本エスペラント学会に入会しています。 東北大医学部はエスペラント会ができる前からエスペランティストを輩出していたことになります。

これよりさらに以前には、1915(大正4)年の講座開設時から1922(大正11)年に東大に転出するまで 解剖学の教授であった 西成甫 (1890〜1978. のち前橋医大・ 群馬大学学長、日本エスペラント学会理事長、世界エスペラント協会名誉顧問)が、仙台で エスペラントを独習していました。東北大着任前の留学中にドイツでエスペラントのことを耳に してはいたものの、あまり大きな関心をもたずにおり、着任後も東北大が新設されたばかりで 教授職に多忙を極めたため、当初「国際語の事などはトントわすれてしまつて居た」そうです。 ところが、第一次大戦でのドイツの敗戦とともにドイツ語が学界から締め出されるのを目にした ことから、「国際語の問題を初めて真面目に考慮」するようになり、英語で書かれたエスペラントの 学習書を数冊取りよせて一人で学習を始めたとのことです。東大に赴任すると、その直後から西は 医学部のエスペラント集会の中心になります。この集会は翌年にはより広範囲の医学関係 エスペランティストを集めた会へと発展し、のちにエスクラピーダ・クルーボ (Eskulapida Klubo) として知られるようになります。

西は、エスペラントで論文を書き、国際的なエスペランティスト医学者組織の副会長を務める など、医学および科学の分野でのエスペラントの実践を推進しました。東大で弟子として育った 浦良治(1903〜1992. のち東北大教授、仙台エスペラント会会長)は「Esperantoをしなければ弟子に しないと西成甫先生に言われた」と回顧しているほどです。さらに西は、夏目漱石『倫敦塔』を 翻訳(1928年刊行)するなど、医学以外の分野でも積極的にエスペラントの活動を行いました。 のちには、一般向けに解剖学概説書(Nia Korpo, 1961年刊行)を著し、また日本での解剖学の 黎明を描いた杉田玄白『蘭学事始』を翻訳(1971年)するほか、『老子』や仏教の経典の翻訳も 手がけることになります。

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医学生として、エスペランティストとして

鈴木ら当時の医学部エスペラント会の会員にとっても、直接のつながりはないにしても 東北大医学部に縁のある西という優れたエスペランティストの存在は、折に触れ意識にのぼって いたことでしょう。西を中心に医学界で盛んに活動している多くのエスペランティストの存在は その活動力の源になっていたものと想像できます。

医学部エスペラント会の会誌 "Bulteno" は1931年12月に第1号が発行されます。 エスペラントを始めて1年に満たない会員も含めて全てエスペラントで書いてあることは、 その活動のレベルの高さを示すものと言えます。鈴木は第3号の編集を務めたほか、文芸的また 社会的な関心からの文章を寄稿しています。

1931年から1933(昭和8)年ごろにかけて、医学部エスペラント会の活動ぶりは、医学部の学生 雑誌『艮陵』にも頻繁に報告されていました。1932年2月22日の第11号には、誇張もあるで しょうが、昭和舎(医学部学生の寮)では「寮生の殆どがエスペラントを知っている!」と 普及ぶりが紹介されているようです。鈴木は、11号(1932.2)に、鈴木幾多雄の筆名で 「国際語案先駆者としてのライプニッツの一考察」を、また岩本修平と連名でエスペラント 原作詩の邦訳を寄稿したとのこと(ただし、RO 1932.11によれば岩本修平単独での「真の幸福」の 翻訳)です。


エスペラント演説会記念写真 (1932.2.7)
後列左から5人目、小坂狷二

鈴木北夫の名前が仙台エスペラント会の記録に現れるのは、1931年12月、仙台エスペラント会に 入会した前後からです。それまで医学部エスペラント会の方で語学力は十分つけていたと見えて、 12月13日のザメンホフ祭にはハムレットの朗読を披露しています。また、翌1932年1月26日〜 2月26日の毎週火金、片平丁電車通りアテナイオンで鈴木と佐々木滋が指導のもと初等講習会を 開くことが予告されています。この前後、鈴木がエスペラントに集中して取り組んでいたことが 多くの活動に現れています。

1932年2月7日、日本エスペラント学会理事でエスペラント運動の中心だった小坂狷二を仙台 エスペラント会ほか6団体が共同で招聘して、演説会、 座談会、晩餐会を催しました(RO 1932.3)。 午後2時から東北帝大喫茶所で開かれた演説会では、学生を中心に14人がエスペラントでスピーチを 披露するなかで、鈴木は「若返法について」という題で弁論をしています。「小坂氏の懇切なる 批評及質疑応答」が続いたとのことですが、具体的な内容は伝わりません。仙台エスペラント会が 計画していた文芸誌 "Bukedo" に Pri Homa Plijuniĝo の題で一旦寄稿しようとしたものの、 なぜか取り下げたようです。



鈴木のDro Briquet宛て葉書 (1932.2.17)

同じころ、エスペラントの国際文通を始めています。1932年2月17日付けで鈴木が書いた 葉書を井上武志氏(柴山純一氏の友人)からご提供いただきました。きわめて珍しい資料と言えます。 内容は、フランスのリール在住のDro Briquet宛ての文通申し込みです。この送り先は居住地と 肩書きから、エスペラント医学雑誌 Internacia Medicina Revuo の編集者で、"Esperanta Teknika Medicina Vortaro"(『エスペラント医学用語辞典』)(1933年刊)の編者、 Maurice Briquet 医師 (1865〜1953)のことと考えてよいでしょう。最初の葉書なので医学生だとの自己紹介以上にはまだ 医学には触れていず、むしろエスペラント普及活動の様子を伝えようとしているようです。 とはいえ、医学分野でエスペラントを実践している人を相手に文通を申し込むことは鈴木にとって 意味のあることだったと推測されます。また、当時の日本をめぐる国際的な時事問題である 満洲事変にも言及して、フランスの世論を尋ねてもいます。なお、この葉書によると アテナイオンでの初等講習会の指導者は鈴木と金子(美雄)とされています。会報の予告から 変更になったのでしょうか。

また、Nia Voĉo 1932.4 には、“Letero de Mia amiko en Germanio”として18歳の、 ドイツの工場実習生Williから受け取った手紙を紹介しています。これはごく一般的な文通の 初めの自己紹介的な内容ですが、「3月8日にお葉書を受け取りました。心から感謝いたします。」 と始まっていますので、鈴木の方から文通申し込みの葉書を2月初めごろに送ったものと 思われます。この文通については、『艮陵』13号(1932.5)でも紹介したようです。鈴木はこの 前後に複数の相手との間で積極的に文通を試みていたことになります。

エスペラントにこのように熱心に取り組むようになった動機を、鈴木はNia Voĉo 1932.3 に 「えすぺらんと事初め」(もちろん『蘭学事初』[ママ]をもじったタイトル)と題して次のように 語っています。「僕自身の経験を述べても、……他の外国語を学修しつゝある間に必然的に はぐくまれて来、年と共に増大して行った所の言語に関する疑惑や暗澹たる絶望的な感じ――之を 感じたのわ強ち僕のみでないと信じる;そして之はエスペラント以外の言語を習得するとき、殆ど 共通的に受けさせられる――などが一掃され、雨後の名月を見るが如くに朗かな爽快な気分に なったのである。……十九世紀の奇蹟と云われ、天才Zamenhofの苦心の結晶であるエスペラントわ、 その簡単さと明瞭さに於て真に天衣無縫とも云うべく……」


1932年8月31日例会記録
司会:鈴木北夫、 出席者:鈴木北夫、金子美雄、松野太一、
石川輝雄、島貫清子、 佐藤愛子、鈴木博、菅原慶一

このころ日本語文、エスペラント文の双方で会報への寄稿は頻繁で、Nia Voĉo 1932.3 には エッセー「思いつくまゝに」を寄稿したほかに、エスペラントの替え歌も載せています。 エスペラント賛歌 La Espero の替え歌 Kurseja Kanto と工学部を卒業して仙台を離れる桑原利秀を 送る La Tagiĝo の替え歌 Forvidante s-ron Kuwahara です。Kurseja Kanto の方を挙げれば En kursejon venis novaj anoj, / Tra la ĉambro iras forta voko, / Kun lerniloj en fervoraj manoj / Nun ni marŝu kontraŭ monda moko! / Vokas ĝi al gloro kaj merito / Jam loĝantojn nun de tuta Sendaj, / Per la bela tuŝo de spirito / Ĝis sukcesoj brilaj kaj etendaj.となっています。どちらも韻もリズムもそろえてあり、お遊びとしては まずまず高い語学レベルにあると言えるでしょう。

32年4月には、仙台エスペラント会の会計を引き受け、会の運営にも関わりを深めていきます。 また、Nia Voĉo 1932.6 には「衛須辺蘭徒奇譚」としてエスペラントの意義について4人が 論議するという想定の架空座談会を載せていますが、その結びは彼自身の言葉であるようにも 思えます。「Zamenhofは偉大だったに相違ない。――だが我々わ何も彼を偶像視する必要は ないんだ。彼わEsp.を作ったが、彼の作ったものわ未完成品だったのだ。僕わEsp.を愛すれば 愛する程、それをより完全なものにしなければならぬ義ムを感ずる。又、かくしてこそEsp.わ その健全な発展を遂げていくことが出来るのだ。」

1932年8月17日から、仙台エスペラント会は毎週の例会の持ち方を変えたようで、この日を 第一回として記録ノートを新しくしています。次回の司会と内容をあらかじめ決めておいて 学習会を充実させ、会の事務処理と分離しようということだったようです。その第三回、8月31日の 会合で鈴木は司会を務め、ノートへの記録も行っています。輪読のなかででてきた語学的な 疑問点について話し合って出した結論をエスペラントで簡潔にまとめています。

どのようなきっかけがあったか分かりませんが、ほどなく、日本エスペラント学会から全国的に 刊行された学習誌『エスペラント』(Esperanto-Lernanto)へも寄稿するようになります。 1933年5月号に鈴木による「エスペラント文芸紹介 犠牲者」が、7月号には「エスペラント文学紹介  恐怖の手」が掲載されています。前者はこの時期にエスペラント文学をリードしていた ハンガリーのJulio Baghyによるシベリアの捕虜収容所生活を描いた自伝的小説 Viktimojを、後者は 300ページほどの原作長編小説(H.J Bulthius: La Vila Mano)を、どちらも3ページで紹介したもの です。彼の読書力が仙台の外にも聞こえていて、原稿を依頼されるようになったのでしょうか。

満洲産業建設学徒研究団


ハルピン風景 (『満洲踏査記念写真帖 昭和八年夏』より)

1933年7〜8月、鈴木は満洲産業建設学徒研究団(団長は元東京市長永田秀次郎)の一員として 満洲を訪れました。この研究団は満洲事変後に「新たな平和秩序」を創造するために満洲の 産業建設を進めようと、学生に満洲に触れさせることを目的に財団法人至誠会によって企画された ものです。政府や軍、満鉄などの協力も得て、この年、全国の大学や専門学校の学生1000名以上を 一ヶ月近くにわたって満洲に派遣した大規模なもので、これを第一回として、その後継続的に 行われました。東北大からはこの年に17名が参加しています。

当時、日本は満洲に「特殊権益」を主張し、満洲事変を経て傀儡国家「満洲国」を成立させて いました。これをきっかけに国際連盟を脱退することになり国際的な孤立化を深めていきますが、 多くの国民も「満蒙は日本の生命線」だと考えていたのです。鈴木もこの時代に生きる日本人の 一人として満洲をめぐる時事問題に関心をもっていたようで、そのことは彼の文章に何度か 現れています。研究団の報告書に寄稿したレポートでも、医学生の立場から見た満洲、特にその 衛生問題を詳しく扱っています。

ただ、鈴木にとっては、この研究団への参加は旅行の絶好の機会という意味も大きかったよう です。鈴木はハルピン滞在中に気象測候所所長のパブロフ氏をはじめとするエスペランティストと 交流しました。その模様を鈴木は『エスペラント』(1933.11)と研究団の報告書に寄稿し、 さらに12月15日の仙台のザメンホフ祭でも話をしています(RO 1934.2)。

パブロフ (Petr Aleksandroviĉ Pavlov. 1871〜?)は、エスペラントで気象学の論文を書き、 エスペラント・ロシア語気象学用語辞典を著していますが、この地を訪れる日本人 エスペランティストをたびたび歓迎して、エスペラントの実用面への関心を高めさせたことが 伝わっています。東北帝大エスペラント会の先輩、桑原も1931年7月、二日にわたってパブロフを 訪ねています。

この時もパブロフらはハルピン駅に団の一行を出迎えに来てくれ、鈴木と言葉を 交わしています。鈴木があらかじめ研究団の来訪と到着時刻を知らせていたものでしょう。鈴木の 文章からは、宿舎に落ち着いた後で夕食に呼ばれ、一緒に映画館に行くなど、楽しい一晩を過ごした 様子が伝わって来ます。研究団の「4人の同志」と出かけたとのことですが、残念ながら、他の人の名前は伝わりません。

鈴木は、研究団が朝鮮の雄基(のち北朝鮮により先鋒と改名、現在は合併して羅先)で解団 したのち、団で用意した船では帰らず、個人的に京城(ソウル)にも旅行したようです。さらに、 その帰途には大阪に立ち 寄って、先輩桑原のほか、川崎直一(1902〜1991)、進藤静太郎 (1902〜2004)など関西の著名なエスペランティストを訪ねており、その様子を『エスペラント』 翌月号(1933.12)に掲載しています。

ここで注目すべきこととして、全体で1ページのうちからかなりの分量を割いて、8月21日に 桑原の案内でハンセン病療養所外島保養院(現在の大阪市西淀川区、1934年室戸台風により壊滅し、 1938年岡山県に光明園として再建、現在の国立療養所邑久光明園)にエスペランティストである院長 村田正太 (まさたか 1884〜1974. 梅毒診断の村田反応で知られる)を訪ねたことを叙述しています。 「精力そのものであるような村田さんは滔々と数時間に亘つて」ハンセン病の説明をしたとの ことです。この訪問が鈴木の医学生としての関心に基づくことは明白であり、村田も医者の卵で ある鈴木を見込んで時間をとって説明したのでしょう。

村田は日本人が学術発表をする際にはエスペラントを使用せよとの持論を持っていました。 しかも、それを実践しており、実際に『最も簡単な黴毒の血清診断法』は日本語とエスペラントの 対訳で刊行されました。鈴木もそのことを知っており、「村田氏反応の論文は最初からEsperantoで 書かれ、Esperantoによってその優秀性が世界に認められた」ことで村田を尊敬していたようです。 村田から直接教えを受ける機会を得て深い感銘を受けたことが、このそれほど長くない文章からも 読み取れます。

なお、村田は、自由主義的な管理運営を行い、患者の人格を尊重して対等の人間として処遇した 院長であったと評されています。大幅に患者の思想信条の自由を尊重し自治を容認するその運営 方針は、1932年1月の第一回療養所協議会で光田健輔長島愛生園園長(1876〜1964. 1961年文化勲章 受章)から強く批判されたほどでした。村田が院内に同年に設立した外島学園では、外部講師や 院長はじめ職員の出講により、患者に対して文学、倫理、新聞、数学、国史、英語など多彩な 授業が行われていました。エスペランティストでもある職員吉田清を中心に、エスペラントの 学習グループもあったとのことです。村田自らがエスペラントを教えたと伝える資料もあります。

ただ、1932年11月から33年1月にかけて日本プロレタリア癩者解放同盟結成の動きなどもあって、 患者の間で急進派と保守派の路線対立が表面化しており、2月の自治会役員選挙以降、その対立は 決定的なものになっていました。そのさなか、8月4日に吉田らの職員が思想問題で特高に検挙 されるという事件がおきます。吉田は日本プロレタリア・エスペランティスト同盟の中央委員、 大阪支部常任委員で、プロレタリア・エスペラント運動の大衆化を強調する意見を持っていたよう です。この検挙はこの前後相次いだプロレタリア・エスペラント運動弾圧の一環での検挙でした。 鈴木の訪問はその後間もない、院内が騒然としており、村田が責任者として事態の沈静化を 図っていた時期にあたるはずですが、鈴木の訪問記にはその緊迫感は現れていません。

吉田らの検挙事件が8月27日に「レプラ患者に赤い媚薬」(『大阪毎日新聞』)の見出しで センセーショナルに報道されると、患者間の対立は極限に達しました。新聞にはさらに 「保養院就職後昨秋ごろから同院赤化を企てまづプロレタリア・エスペランチスト同盟を組織し これを母体とし……患者に働きかけ各種文化サークルや演芸同盟を結成、患者中に多数の メンバーを獲得し従来の保守的、宗教的自治会を破滅し左翼思想を基礎とした新興自治会を組織、 自暴自棄の患者を赤に陶酔せしめるのみならず、なほ外部へも働きかけんとしてゐた」とあります。 吉田が急進派の患者と思想的に近かったこと、急進派のなかにエスペラント学習者もいたことは 確かであるようですが、それ以上の詳細については真偽不明と言うべきでしょう。

この急展開に、村田は、院内の融和を維持するために、対立の中心にいた急進派の患者20名を8月 30日に施設から退去させる(「逃走」とも「追放」とも言われることがあるが、実際には村田と 患者の合意による)ことになります。この事件はその処理法をめぐって村田と大阪府警察本部との 対立へと発展し、村田は、患者たちの強い留任運動にもかかわらず、10月7日付けで自ら院長を 辞任することになりました。いわゆる「外島事件」「外島保養院事件」です。

鈴木にとって、この研究団への参加が、パブロフおよび村田との出会いから、結果的に エスペラントの旅行への実用価値と専門分野、特に医療への応用について認識を深める有意義な 機会になったことは、容易に理解することができます。

一方、研究団への参加は、鈴木にとって、単に満洲の見聞を広めることになっただけでなく、 当時の満洲情勢をより肯定的に捉えることにつながったようでもあります。RO 1934.1 に 「1934年を我等はかく戦ふ」というタイトルで多くの人から寄せられた年頭の抱負の内、鈴木の 文章には「エスペラントの特性は世界各国との自由な忌憚なき意見の交換にあり、我々は之を 実際的に利用して、世界各国に日本の真の立場を知らせるよう努力しなければならない。」と あります。 ここでいう「日本の真の立場」とは、満洲をめぐる日本の主張を含んでいます。 鈴木は続けて「1) 国際通信や海外雑誌への寄稿によつて我国及び満洲国の真相を世界に知らせる こと。… 等を心掛けたい」と書いています。

もっとも、鈴木としては、政治的な時事問題に限るのではなく、もっと広い文脈で「日本の 真の立場を知らせる」ことを考えていたのかもしれません。彼は「エスペラントと云えばヨーツロパ [ママ]語を聨想し、又エスペラントに於て常にヨーロツパの 尻について行くが如きことは戒めねばならぬ」と続けています。

1934(昭和9)年3月1日には、日本エスペラント学会仙台支部の発会式が開かれ、鈴木は14名の メンバーの一人としてこれ加わっています。ただ、この時期に支部を作ることの意味が何であった のか、判断しかねます。仙台エスペラント会の会合記録ノートには、6月以降に頻繁に例会に 出席し、輪読やエスペラント会話に加わっていることが記録されています。

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医療の道へ……


吉田松一送別 (RO 1935.4)
左から、菅原慶一、昼間和男、佐々木滋、吉田松一、
鈴木北男、島貫清子、庄司うめの

1935(昭和10)年、吉田は東北大学を辞めて、ハルピンの満鉄病院に小児科長として赴任する ことになりました。2月23日、エスペラント会の送別会が18時から明治製菓で行われ、土井晩翠、 菊沢季生、中村(貴義?)、菅原慶一、島貫清子、庄司うめの、佐藤(愛子?)、佐々木、鈴木、 昼間などが出席したと伝えられます。21時30分ごろに出発する汽車の見送りの様子が 記念写真としてRO 1935.4 に掲載されていますが、医学部エスペラント会の鈴木、佐々木、昼間は きちんと見送りまでつきあったことが分かります。吉田の転出を受けて、鈴木は吉田に代わって 仙台エスペラント会代表者になります。

鈴木は RO 1935.4に La Himno de Manĉuria Imperio (エスペラント訳「満洲帝国」 「国歌」)を寄稿しました。リズムを曲に合わせ、脚韻も踏んだ翻訳になっています。中国語の 「国歌」は研究団に参加したときにさんざん練習したようですが、エスペラント訳はその時に すでに作っていたものか、それとも、吉田へのはなむけとして新たに翻訳したのでしょうか。

同じ号に、「Anamnezoの書き方(応用エス作文)」も寄稿しています。原稿の執筆はこの年の 初めごろでしょうか。「筆者の考へに依つてエス語書きanamnezoの書き方を例を挙げて記述して 見る」として、anamnezo、すなわち患者の病歴の記し方を、2ページと長くはない中に数多くの例を 挙げつつ、かなり詳しく説明しています。医師以外には実用的な意味があまりなく、ごく少数の 読者にとってのみ有益な記事といえます。しかし、それだけにかえって、西や村田の態度を見習って エスペラントを医療の中で実践しようという、鈴木の意気込みを見てとることができます。

鈴木は、1935年春に佐々木や昼間らとともに大学を卒業すると、引続き大学病院小児科に勤務 します。前年末の Nia Voĉo 1934.12 にすでに、佐々木の言葉として鈴木は小児科に進む そうだとの記述が見えますので、小児科を選んだことには吉田の影響もあったかと推測することも できますが、確証はありません。

新人医師としての仕事は忙しかったに違いありません。翌年に『エスペラント』誌から依頼 されて仙台のエスペラント運動の歴史と現状をまとめた文章では、鈴木自ら「医学部熊谷内科の 佐々木滋、小児科の鈴木北夫両氏は学窓を出て既に一年、研究にいそしんで居ます」と書いて います。とはいえ、他のエスペランティストの活動ぶりも把握してきちんと紹介していますし、 仙台エスペラント会代表者も続けており、医師の職務とエスペラント活動とを両立させて、 充実した生活を送っていた様子が伺われます。

鈴木は、日本科学エスペラント協会(JESA. 1936年3月設立)が設立に際して会員募集のために 作成した日本科学者エスペランチスト名簿に名前が挙げられています。この協会は、科学術語の 研究、科学方面におけるエスペラントの宣伝、実用促進を目的に掲げて作られたもので、理事の 中には東北大理学部教授松隈健彦(1890〜1950)のほか、前総長井上仁吉や西成甫の名前も見えます。 たまたまのことでしょうが、設立準備委員の桑原利秀(大阪)と金子美雄(名古屋)は二人とも 東北大の親しい先輩です。鈴木が入会手続きを取ったかどうか、さだかでありませんが、入会を 考えていたであろうことは想像に難くありません。

ところが、鈴木北夫は、1936(昭和11)年6月17日、残念なことに伝染病室勤務中に殉職して しまいます。院内感染でしょうか、詳細は伝わりません。葬儀は19日に北山の秀林寺で 行われました。RO 1936.7 は「仙台エス界に於てその人ありと知られた鈴木北夫氏」の訃報を 掲載し、「葬儀には仙台エス会を代表して菊沢季生氏仙鉄エス会を代表して石田六朗氏エス文 弔辞をよむ。尚学会その他より弔電があった」と伝えたのち、「我々は全国同志と共に同氏の死が 我国エス運動に大きな損失を与えたことをかなしむ」と述べています。

鈴木の行動と文章には、医療の世界に身をおいて、その立場でエスペラントの実践と普及の 活動を進めることを望んでいたであろうことが明瞭に現れていました。その道を歩みだした ばかりで倒れたことになり、早すぎる死が惜しまれます。

のち、1941年6月、満洲を訪問した日本エスペラント学会主事の三宅史平 は、ハルピンを発つ直前に駅でパブロフと会います。彼が携えてきた署名帳を見せられて、 「鈴木とゆう学生が、1933年ころ、おたずねしたでしょう。気の毒に、あれからまもなく、 なくなりました」と伝えたところ、パブロフは「残念そうに舌をう」って悲しみを表した とのことです。鈴木は、三宅にもパブロフにも惜しまれた人物であったことが分かります。

医学部エスペラント会は、1936年11月19日、山本耕一、山崎巌(1914?〜? のち東京で開業)、 菅原虎彦(1915?〜2002. のち聖路加国際病院院長)、木下康民(1914〜1982. のち新潟大教授)らにより 再興されます(RO 1937.1)。1937(昭和12)年2月ごろには、参加者5〜6人で毎週木曜日に ザメンホフ読本の輪読を続けていたとのことです(RO 1937.3)。これと平行して、山本と木下は 島貫清子と大泉八郎の指導で開かれていたプリヴァ著の Vivo de Zamenhof を読む研究会にも参加していました。また、山本、菅原、木下は同年12月14日の 仙台エスペラント会ザメンホフ祭に出席して、島崎捨三宛ての 寄せ書きに名前を書いたことも確認できます。しかし、医学部エスペラント会としての 活動がいつまで続いたかは知られていません。

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参考文献

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