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エスペラントを育てた人々 ―仙台での歴史から―
『メイルシュトーノ』第207号(2008.5)掲載文に加筆

70年前のエスペラント・カップル ―大泉きよ・八郎夫妻―

後藤 斉



晩翠草堂「天地有情」碑の前に立つ
後年の大泉きよ
(『荒城の月私記』より)

1937(昭和12)年のザメンホフ祭にあたって、伊具郡金山町(現丸森町)の 島崎捨三宛てに寄せ書きを書いた仙台エスペラント会 会員の中に、大泉八郎(1910.12.5〜1944.1.22)の名前がありました。『河北新報』の 記者で、戦争中に亡くなった人です。彼と関連しては、きよ夫人(1909.8.6〜2001.4.4. 旧姓島貫で、「島貫清子」、 結婚後は「大泉清子」の表記も多用した)も漏らすことは できません。 エスペラントを介して結ばれたカップルは他にも例はありますが、 仙台エスペラント会の第二期に光芒を放つ活動をした二人だったと言えます。 以下の記述にあたっては、仙台文学館の 仲介により、お二人の長女である大泉千秋様のご協力を得ました。記して感謝申し上げます。なお、 歴史の叙述の中では敬称を省略します。

1930年代の仙台エスペラント会の記録の中で、二人のうちで先に、また、より頻繁に現れるのは 島貫清子の名前です。1931(昭和6)年2月21日の講習終了式兼月例会の新入会員紹介に「島貫嬢」 として現れるのが最初です。このころ仙台エスペラント会は会員59名(うち女性25名)を数えたと いいますが、そのなかで島貫は早くに頭角を現したようです。機関誌やノートの記録から、 例会に頻繁に出席し、会員部や編集などの役員として、また、講師役として積極的に活動している ことがわかります。早くに語学力をつけていたものと推測されます。女性が社会活動を行うことに まだ制約の多かった時代において、宮城県女子専門学校出身の村上沢(1902〜1973 のち東北大 助教授、仙台白百合短大教授)とならび称される存在になります。

1933(昭和8)年9月7日、島貫は、できたばかりの盛岡エスペラントロンドを激励に盛岡に 行きました(MER 1933.10)。 まだほとんど日本文で書かれた会報は、彼女に敬意を表すためか、 「島貫清子氏来訪」の記事だけは10行のエスペラント文で綴っています。 "... Per sia elokventa kaj belsona parolado, ŝi donis al ni instigon. ..." 「…雄弁で美声のお話しによって、彼女は励ましを与えてくれた。…」

このころ東北大法文学部在学中に亡くなったエスペランティスト 土井英一 (1909〜1933. 土井晩翠の長男)の遺骨は、遺言により ドイツに分骨されました。これを実現するにあたっては、英一がドイツのシュレーダー校長と主に エスペラントで文通していたこと、それに加えて、英一自身が希望した墓碑銘がエスペラント文で あり、それを間違いなく伝える必要があることから、エスペラントに堪能な人が晩翠夫妻に協力 して、相手方シュレーダーとの間でエスペラントを使って事務的なやりとりを重ねる必要があった はずです。その中心として働いたのが島貫だったろうと推測されるのです。


Rememoro pri S-ro Eiichi Tsuchii (RO 1935.5)の冒頭部分

島貫清子の署名のある Rememoro pri S-ro Eiichi Tsuchii 「土井英一氏の想い出」が Revuo Orienta(RO)誌1935年5月号に掲載されますが、整ったエスペラント文で英一の活動を 振り返り、分骨の遺言に触れています。後年、彼女は著書の中で「この実施に当たっては日本から 送り出すのにも大層な手数や手間がかかった。種々むずかしい問題に出会ったらしく、今と なっては個々の具体的なことの記憶はない。唯、非常な困難さの空気が思出されるだけである。 現地マールバッハのヨハネス・シュレーデル校長には日本では測り知れない苦労の仕事であったと 想像される。……祭場に飾られた花の黒いリボンを添えて、数枚の写真が届いたのをはっきり 思いだすことができる。」(『荒城の月私記』)と語っています。明らかに、その実務に携わった人 ならではの述懐です。ですから、他の会員の助力もあったかもしれませんが、島貫がこの事務 作業の多くを担ったことは間違いありません。

ROのこの記事の直前には、無署名で、これも英一の遺言に基づく国際友好鯉のぼりの会の 発足を伝える記事が掲載されています。ここには、八枝が英一宛ての手紙に返信しようと エスペラントの学習を始めたこと、特にシュレーダーに次のように書き送ったことに 触れられています。 "Kiam mi rememoras Eiichi, ĉiam antaŭ mi prezentiĝas, kiel entuziasme kun ĝojo li atendis kaj legis vian skribaĵon. ..." (英一のことを思い出すと、彼があなたの書いたものを 待ち焦がれては読みふけったさまが、いつも目の前に浮かんでくるのです。) ただ、この文は、誤りがないどころか、構文や単語の選択は適切で、我が子を亡くした親の心情を よく伝えていて、初心者が書いた文とはとても思えません。おそらくは島貫が、大幅に加筆 (あるいは、むしろ代筆)したと推測するのが妥当でしょう。

島貫は、この前後から土井晩翠・八枝夫妻の秘書役になります。八枝が方言学者東條操に 勧められて書いた『土佐の方言』(1935)では原稿の整理を手伝いました。八枝が前年の秋に高知に 長期滞在して調査したものの、「高知で旅館生活の時と違つて家事をとる片手間の仕事としては 重荷に過ぎて捗らず、又折角長々浸つて染み込むで来た土佐気分も段々薄らぐので、聊かあせり 気味に」なってきたため、「兼ねてから私の宅に親しく出入せられる島貫清子嬢が幸ひにも語学に 興味を持たるゝ方であつたので、其援助により急いで原稿を整理した。」とのことです。 『仙台の方言』(1938)では、「音韻や文法の調査は同嬢の担当によるもので其助け無くしては到底 此書の完成は望み難い事であつた。」とまで書かれています。島貫は後の回想でも自分を多く 語っていませんが、単なる原稿整理ではなく、かなり内容に立ち入った援助であったように 考えられます。

このほか原稿や手紙などの事務処理、旅行の随行など、島貫の秘書役としての関係は、 八枝の死(1948)を越えて、晩翠の死の時(1952)まで続きます。この関係を決定づけたのは 英一の分骨のための事務作業ではなかったのか、状況証拠からはそのように考えられるのです。

彼女は後年に歌集も出版していますが、和歌への関心は早くから持っていたようで、 ROの日本文学紹介特集号(1935.3)に、長谷川テル(1912〜1947 のち中国にわたり反戦活動)の 「堤中納言物語 虫めづる姫君」の翻訳などと並んで、Kvodlibeto de Utao「短歌漫録」を 寄稿しています。そのような原稿を依頼されるだけの評価をまわりから得ていたのでしょう。


多田浩子歓迎を兼ねた
婦人エスペランティスト親睦会(1936.2.10)

1936(昭和11)年2月10日、大阪の多田浩子(1902〜1992 戦後、エスペラント婦人協会(EVA)の 結成に加わり、常任幹事)の上京にあわせて、新橋胡萩堂で開かれた多田の歓迎会兼在京婦人 エスペランティスト親睦会へ島貫が仙台から参加したことも記録に残されています(RO 1936.3)。 この会合には、他に、当時横浜に住んでいた村上沢、東京の万沢まき(1910〜2009)、 磯部幸子(1913〜1988 のち日本エスペラント学会理事長)、長谷川テルら、当時を代表する女性 エスペランティストが集まり、日本エスペラント婦人連盟結成の具体的な討議もしたとのことです。 日本婦人エスペラント連盟は4月に発足することになります。この連盟は、1937年、公立図書館に エスペラント図書を寄付するための募金を呼びかける図書館緑化運動を行い、一定の成果を 収めますが、時代的な制約からそれ以上には目立った活動はできなかったようです。

島貫はこの頃の一時期は東京に住んでいて、エスペラント文学研究会に参加していたことも 知られています。1932年に露木清彦(1907〜1939)、三宅史平(1901〜1980 のち、日本エスペラント 学会専務理事)、下村芳司(1904〜1953)の発起によって日本エスペラント文芸協会として発足し、 1933年に改名したこの会は、エスペラントでの表現能力の向上を目的にして翻訳の発表や添削の場 として研究会を開き、機関誌『エスペラント文学』を発行しました。幅広いエスペランティストが 参加していましたが、大島義夫(1905〜1993)、岡一太(1903〜1986)、長谷川テル、大崎和夫 (1905〜2005)、中垣虎児郎(1894〜1971)など、プロレタリア・エスペラント運動系の会員もいた ため、当局に目をつけられていたようです。 この会は、1936年5月に『エスペラント文学』20号を 出した後に自主的に解散することで、かろうじて特高の弾圧を免れることになります。関係者の 回顧によれば、その背後には、参謀本部にいた島貫の兄武治(1902〜1978)から「一寸情勢が悪い。 引込んだ方がいいですよ。」と教えられたことがあったとのことです。

また、島貫は、京都で刊行されていた全文エスペラントの時事雑誌 Tempo 32号(1936.10)に Simanuki-K.の名でAzabu-J.の Hegel-estetiko en Japanujo をエスペラント訳して 掲載しています。ヘーゲル美学も彼女の関心のうちだったのでしょうか。

一方、大泉八郎の名前が現存の記録に現れるのは、1936年初めに日本エスペラント学会に 入会した頃からです。エスペラントの学習歴や語学力を直接に示す資料はありませんが、仙台の 例会への出席は多く、熱心さが伺われます。

大泉には、すでに東北大を卒業し就職して仙台を離れていた弟 充郎 (1913〜1991. のち 東北大教授)がいました。充郎と専門分野の近い 喜安善市 (1915〜2006. のち 電電公社電気通信研究所をへて東北大教授、岩崎通信機常務、日本エスペラント学会顧問)は、 東北大に入学したばかりの頃の、名前は聞き知っていたもののまだ見ぬ先輩の兄にあたる八郎との 印象深い出会いをなつかしげに回想する文章を残しています。この弟との縁もあって、喜安は 大泉八郎とエスペラントを通した親交を深めました。


岡本らの来仙を伝える『河北新報』記事
(1936.8.16)

1936年から38(昭和13)年にかけて、『河北新報』にはしばしば エスペラント関係記事が掲載されており、同社記者の大泉がなんらかの関与を したことが推測できます。それ以外の時期にもエスペラント関係記事が載ったことは ありますから、そのすべてに大泉が関わったと断定することはできませんが、 関与の証拠が残っているものもあります。

1936年、札幌で開かれた日本エスペラント大会の帰路に日本エスペラント学会 特使として北海道東北を回った岡本好次(1900〜1956)の報告(RO 1936.9)には、 仙台訪問の8月15日の項に次のようにあります。「…河北新報社へ行く。同志大泉八郎氏 がをられるので非常に好都合。明日のJOHKからの放送演説の一部を同紙学芸欄に のせることを学芸部へ交渉して下さる。……河北新報の方のは所持原稿を転写する だけでよいので島貫嬢にお願いする。」 この結果、岡本らの訪問の記事が8月15日と 16日に、放送講演の要旨が21日と25日にと、計4本の記事が掲載されたのです。


絹島湛子訳として『河北新報』に掲載された
「ラトビヤの春の水」(1938.3.20)

また、菊沢季生(1900〜1985)の名前で36年6月に4回にわたって掲載された 「仙台エスペラント運動の思ひ出」も、菅原慶一(1911〜1997)の証言によれば 実際は大泉の手によるものです。さらに、1937(昭和11)年4月20日の「ザメンホフの死」 (小泉七郎と記名)、同年12月4日の「第25回日本エスペラント大会から帰って」 (XO生と記名)も、その内容と文体からして、ほぼ確実に大泉の文章です。 「小泉七郎」とは、また、いたずらっぽい筆名を使ったものです。

38年3月4・5日に2回に分けて掲載された、中原脩司「身振りの欧洲旅行 或る エスペランテイストの」も、「記者の文責で」と記されていることから、来仙した中原 (1894〜1960)を囲んで2月17日に開かれた「氏の欧洲旅行談、昨年の萬国大会印象を聴く」歓迎会 (RO 1938.4に報告)を大泉が聞き書きしてまとめたものと判断できます。京都のカニヤ書店の中原は 、刊行していた Tempo誌を34年12月号から37年6月号まで仙台の 笹気印刷所で 印刷していたこともあって、35年9月19日と36年10月16日にも来仙して仙台エスペラント会の例会に 出席していますが、このときはどのような目的での来仙だったのでしょう。

同じく38年3月20〜22日の3日にわたって、こども欄に童話「ラトビヤの春の水」が Literatura Mondo誌(ハンガリーで刊行されていたエスペラント文芸誌)からの絹島湛子による 訳として掲載されます。明記されていませんが、同誌1934年10月号(ラトビア特集号)に R. Stamersの訳で掲載された、K. Skalbe作のAkvo-patrinoの翻訳です。内容を理解した上で、 童話にふさわしい滑らかな日本語に翻訳していることが見て取れ、翻訳者の語学力の確かさは 明らかです。しかし、絹島湛子という名前の女性エスペランティストは知られていません。 「キヌシマ」は「シマヌキ」のもじりと見ることができますし、「湛子」は「キヨコ」とも 読めます。島貫清子のペンネームと考えるのが妥当でしょう。「小泉七郎」を思い起こさせる、 二人のいたずらということになります。

実は、絹島湛子の名前は、RO 1935.5のParolas Membroj欄への投稿にも見られたのでした。 ここでは、「”日本の詩歌のエス訳について“をよんで」という題で、日本の詩歌に限らずに、 詩の翻訳について、原詩形の再現の問題を中心にかなり突っ込んで論じています。このペンネームを 使った理由は分かりませんが、この記事は、上述のROの日本文学紹介特集号(1935.3)で Kvodlibeto de Utao「短歌漫録」を書くための勉強の副産物だったと考えられます。


1937年2月7日、第2回 Vivo de Zamenhof 研究会の出席記録
(上から、喜安善市、山本耕一、大泉八郎、島貫清子、李斗星)

島貫と大泉との二人の指導で、1937年1月からプリヴァ著の Vivo de Zamenhof を読む研究会が 隔週日曜に行われています(RO 1937.3)。研究会の成果は確かに上記の新聞記事に生かされている ことが見て取れますが、副産物として、二人はこの会で親しさを深めたのはないでしょうか。 この研究会には、二人の他に、喜安、山本耕一(1909〜1990. のち弘前大教授、弘前エスペラント会 会長)、李斗星(当時、東北学院神学部学生)、木下康民(1914〜1982. のち新潟大教授)らの 会員も参加していますが、二人は隣の席に座っていたのだろうか、一緒に来たのだろうかとも、 想像がふくらみます。

二人が結ばれるのは1938年12月ですが、結婚については島貫の方が積極的だったとのことです。 実は大泉は社会主義の関係で東大を退学になっていたのですが、軍人一家の娘である島貫との 結婚に障害はなかったのでしょうか。余計な心配をしたくもなります。喜安の証言によれば、 大泉充郎は兄の思想問題のために卒業後そのまま東北大に残ることができず(「当時の常識」と まで喜安は言っています)、一旦民間企業に就職することになったという経緯もあったようです。 もっとも、家庭の事情により高校進学時から父に反対されて、学費や生活費の援助を受けられ なかったという背景も、早い就職につながったのかもしれません。

1939年6月1日、猪川珹送別会記念写真
(後列左から、大泉八郎、松野太一、山本耕一、
前列左から、大友信太郎、松隈健彦、猪川珹、菊沢季生、菅原慶一)

この時期、仙台エスペラント会の活動は次第に停滞を余儀なくされるようになっていました。 1939(昭和14)年6月1日、日本放送協会仙台放送局放送課長から大阪中央放送局に栄転する会員、 猪川珹 (1886〜1960)を送る送別会が開かれ (RO 1939.7, 1939.8)、大泉八郎も出席しますが、おそらくこれを最後として会の活動は一旦 終焉を迎えることとなります。これ以後の二人のエスペラントでの活動の様子を仙台での 現存資料からたどることはできません。 ただ、RO 1939.9 の「個人消息 近親喪失」欄は、兄島貫忠正中佐の「壮烈な戦死」を報じて います。1944(昭和19)年、八郎は従軍記者としての養成の途中、妻と二人の子供を残して 東京で病死したとのことです。

戦後、大泉きよは仙台市職員として、リバーサイドやレンヌとの姉妹都市提携などに貢献 しました。1961(昭和36)年の仙台エスペラント会の名簿に名前が載っており、会合に顔を見せた こともあったとのことですが、残念ながら会の活動に積極的に復帰することはありませんでした。

しかし、大泉きよは土井英一の遺言により創立された国際友好鯉のぼりの会の復活に関わり、 事務担当を引き受けます。このほか、晩翠の顕彰のため、『晩翠先生校歌集』(1967)や 『生誕百年記念 晩翠先生と夫人 資料と思出』(1971)の編集に陰で尽力し、自らも 『荒城の月私記』(1979)、『続荒城の月私記』(1985)を著しました。エスペラントとの直接の つながりは薄くなりましたが、若き日にエスペラントを通して培った土井家との深い関係や 国際友好の精神を生涯を通して持ち続けたと言えるでしょう。

参考文献


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このサイトの内容は、後藤斉著『エスペラントを育てた人々』(創栄出版, 2008)の改訂増補版に相当します。



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