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『メイルシュトーノ』第297号(2024.7)掲載
ネットを検索して回っているうちに、最近Thomas Gregory Song Family Exhibitというサイト( https://amdavis.org/Song-Family/ )が公開されていることに気づいた。米国オハイオ州立大学に寄贈されたThomas Gregory Song文書とSong Family文書のごく一部を公開展示するものだという。残念ながら、エスペラントに関する記述は少ない。
資料を遺贈したThomasさん(1929-2014)とは2010年から逝去の前までメールのやりとりを重ねたが、私がエスペラントの意義を改めて深く認識する機会ともなった。Thomasさん家族の波乱万丈の物語を紹介してみたい。
『日本エスペラント運動人名事典』の編纂中にもともと調べていたのはご父君宋禹憲のことだった。戦前戦中の朝鮮人エスペランティストである。Thomasさんが書いていたブログから推測して「ひょっとして縁者では」と連絡をとったのが始まりだ。『人名事典』では最終的に以下のようになった。
宋禹憲/そう うけん/1898.11.7(旧暦)~1975.3.30/朝鮮忠清北道永同/日大/송우헌,ソン ウホン,小原憲雄/鉄道職員。1920年頃E学習。22年頃から小坂狷二宅の学習会に参加。28~33年JEI評議員,32年10月鉄道E連盟常任委員。33年11月満鉄に移り,大連で特急あじあ号の設計図の製図などに従事。大連E会で活動し,37年女医である妻が開いていた産婦人科シズカ医院の2階を大連E会の事務所に提供。40年小原憲雄と創氏改名。44年守随一の没後,その蔵書を引き取る。息子在東(Thomas)にもEを教え,在東は戦後米国に移住。/[著]‘Koreaj infankantoj’(『連盟通信』日本鉄道E連盟, 22, 1933.7),‘La ginkarbo’(同 23, 1933.8),「英語過信者の蒙を啓け」(同 26, 1933.11),「英語本位教育」(『満洲日日新聞』1938.2.20)。/[参]「宋禹憲氏の満洲行」(RO 1933.12),「特集 われらの2600年」(RO 1940.2),イ・チョンヨン『한국에스페란토동운80년사』(KEA, 2003)。/[協]Thomas Song,波田野節子。
日本統治時代の朝鮮人エスペランティストについてはかつて論じたことがある[Esperanto inter la japana kaj korea popoloj -Ooyama Tokio kaj lia tempo-]が、個々人が何を思ってエスペラントの学習・使用に励んだかは、想像を超える部分も多い。いずれにせよ宋禹憲は表面的には日本統治を受け入れ、鉄道とエスペラントの分野で自己実現を果たした。息子には日本人としての教育を受けさせつつ、幼少期からエスペラントを教えこんだ。文中の守随一(しゅずい・はじめ)は柳田国男の弟子で、満鉄調査部で経済調査に従事したが、宋禹憲とはエスペラントを通じて旧知であった。Thomasさんはその旧蔵書を読みまくって教養をつけたとのことだ。
日本の敗戦後、一家はなんとか大連からソウルに脱出できたが、息子は朝鮮語がほとんどできない。むしろ英語ができたことからアメリカ兵との伝手ができ、1948年に宋禹憲は息子を単身アメリカに送り出すことを決断した。在東はアメリカ人Thomas Songとして大学に学び、大学図書館勤務の人生を送ることになるが、その間の苦悩や努力も並大抵ではなかったはずだ。
Thomasさんはメールで「エスペラントは一生僕とともにあってくれました。中学一年生で英語を始めて、King's Crown Readerというのを使いました。それを読み出して、6ヶ月のうちにエスペラントから英語に切り替れたのを覚えています。そして、あの戦争中ずっとハワイKRHO中継の自由の声、周波1010kcを聴くことができました。エスペラントのおかげです。」と伝えてこられた。渡米後にエスペラントを使う機会があったわけではなさそうだが、大連時代に英語を習得できたのには(教会の神父にも習ったようだが)エスペラントが基礎として役立ったということになる。
2013年に完成した『人名事典』を一部お贈りし、ご返信に「名前だけしか存じなかった“昔”の方々について拝読し、委細を掴むことができました。小坂先生のエスペラントつづりはOssakaなのだよ、と父が僕に注意してくれたのを思い出しましたし、先生がPhiladelphiaを1927年にこられたことも知ることができました。」、「Ossaka先生への父の尊敬は相当なものでありました。父が終生、偏狭な民族主義にこだわらなかったのも、先生の存在が背後にあったとも思います。かさねてお礼もうしあげます。ありがとうございました。この事典は僕の人生の良いしめくくりになりました。1996年にポーランドに行き、ワルシャワやビアリストクを尋ね、四歳のときからのポーランドとの関係を踏みしめました。ワルシャワユダヤ族墓地のZ博士のお墓にも詣でました。博士一家のお宅跡にもたたずみました。」と伝えてこられた。
Thomasさんの存在は、『人名事典』の編纂を進める上で大きな励ましになった。彼はこの事典の最高の読者だったと思う。