〈現場〉から学ぶ

卒業生に贈る言葉 2003年度

 卒業生のみなさん、卒業おめでとう。

〈現場〉から学ぼう

 社会学研究室から巣立つ諸君に是非心して欲しいことがある。社会学を学ぶことをとおして身につけて欲しかった武器のなかでも、とくに強調したいのは、トマスの「状況の定義」以来のリアリティの多元性についての感覚や質的な類型化をはかる技とともに、何よりも〈現場〉を重視し、まずそこから学ぼうという感覚である。
 ごくあたりまえで、今さらという印象があるかもしれないが、インターネットや電子メディアが普及してきた時代にこそ、現場に出かけることの意義は何度強調しても足りない。社会学研究室を卒業したからには、本社や本庁の肘掛け椅子の役員や幹部を心の中で批判しながら、率先して末端の出張所や営業所に足繁く出かけ、まずお客や取引先のもとに出向いて相手方の話をよく聞こうという職業人であってほしい
 私の体験でも、一年近くも原稿をやりとりしながら一度も著者と会わないまま本をつくってしまう編集者とか、電話取材だけですませてしまう記者が増えている。有名な評論家が全国紙への連載をもとにまとめた岩波新書の中に、海外取材のネタで、著者は実際には現場には行かずに、取材対象の会社側から提供された写真を見て書いたとしか思えない記述があったその現場をよく知っている私からみると、実際に現場で見たら、こういう記述には決してならないはずなのにと思えてならない。近くまでは行ったのだろうが、肝心の現地には行っていないのではないか。何年か前に、地方の映画祭を取り上げた卒論で、 2つの事例の記述は詳細だが、他の幾つかの事例はあっさりしているものがあった。口頭試問で、 2つ以外は現地に行ってないのではないかとたずねると、正直な答えが返ってきた。見てきたような嘘は言わない、書かない、というのは、基本的な鉄則である。
 現場に行かないとわからないのは、例えばスケール感である。どれぐらい大きいか。存在の迫力のようなもの。五感に迫ってくるもの。現場で大事なのは、五感に訴えてくるものである。匂い、色、形。そして距離。どれぐらい離れているのか、近いのか。時間感覚と空間感覚は現場でしか感得できない。

現場は簡単には割り切れない

青森県東通村白糠漁港 2005. June 加工され、編集された二次データが危険なのは、美しすぎるからである。絵も写真もきれいすぎる。現場は簡単には割り切れない。あいまいで混沌としている。こちらから光を当てればこうも見えるが、少し角度を変えただけで見え方は違ってくる。テレビも新聞記事もほとんどは表面的である。「絵になる」ように、「記事になる」ように、無難に小ぎれいにまとめられてしまう。論文も、「現実はあいまいでした」では論文にならないので、どうしても「論文になる」要素だけが集められ整序される。

 現場は本当は「格好悪い」ものである。しかしその格好悪さは、なかなか伝えられない、誰も伝えてくれない。現場と仲良くすることは、その格好悪さに耐え、あいまいさに耐えることでもある。
 要領のいい先輩や仕事仲間は反面教師である。君たちには、是非、愚直に生きてほしい。「センスの良さ」や「回転の良さ」ではなくて、愚直に泥臭く勝負して欲しい。汗と靴の汚れ具合で勝負して欲しい。
 現場をよく知っていると、テレビに映していない部分、記事にしていない部分に敏感になる。ウソっぽさに鋭敏になる。自分も、本当にはわかっていないのではないか、と謙虚になる。
 現場は、感動と驚きの宝庫でもある。現場は想像力を喚起する。
 子どもの頃、『二十四の瞳』が愛読書だった。大学院生の頃、小豆島に足を伸ばす機会があった。現実の小豆島は意外に大きかった。 12 人の小学一年生が泣きながら歩いた岬の分教場から大石先生が住んでいたあたりまでの距離感もわかった。小豆島全体を掌に例えれば、小指の先端から第一関節あたりまでぐらいの感覚である。あらためて打たれたのは、小豆島の中でも、小指の先ぐらいの、ほんの小さな空間に焦点をあてながらも、『二十四の瞳』が、昭和3年から太平洋戦争直後までの 10 数年の日本全体の昭和の歴史を見事に描き切っていたことである。

 ちょうど 10 年前、パリに行った折、エッフェル塔に昇った。ミシュランのガイドブックに従って最寄り駅から歩くと、エッフェル塔の美学が、空間感覚がよくわかった。東京タワーがフェイクだということもよくわかった。パリの都心部のあちこちからいろんな時間帯にエッフェル塔が見える。コケットリーでもあり、セクシーでもある。フランス革命 100 年を記念して開催された 1889 年パリ万博の折につくられた高さ 300 メートルの鋼鉄の塔は、従来の教会建築の高さをはるかにしのぎ、教会の権威に対する 19 世紀工業文明の勝利宣言でもあったろう。
 現場で学ぶのにふさわしいのは、なるべく少人数で、せいぜい3人ぐらいまでで出かけ、現地になるべく近いところに宿をとることである。公式的な説明と、小一時間しか現地にいないようなお手軽な「視察」で、現場を見た気になってはいけない。
 もちろん現場でもわからないことはたくさんある。地球が太陽の周りを回っていることは、地上で観察していてもわからない。 2050 年や 2100 年時点での地球温暖化の影響もしかり。自分の現場体験を絶対視することも危険である。論理的な帰結やマクロ的な論理、日常知を超えた科学知は、現場ではなかなかわからない。昔からあると信じこまれてきたことの意外な新しさを指摘するのも、学問の力である。それぞれの経験の狭さも、当事者にはなかなかわかりにくいものである。虫の眼と、鳥の視点は次元が違う。
 ミルズが『社会学的想像力』で強調したように、事前の思索や方法論も重要である。徒手空拳で現場に行くだけでは、体当たり主義にとどまる。
 自分のまなざしの限界、方法論の必要、理論的知見の有難み、それらを痛切に意識したとき、現場への視点は一段高いものとなるのだろう。

家庭と仕事場

 誰にとっても家庭と仕事場は、日々の現場である。この第一の現場をこそまず大事にして欲しい。

 私が同行させていただいた中で、現場の歩き方でもっとも舌を巻いたのは、この研究室の大先輩で先年亡くなられた、東北学院大教授の五十嵐之雄先生である。一度だけ沢内村にご一諸したことがあるが、道々の品種をよくご存じで、地元の人たちにやさしく語りかけておられた。

 いつの日か、どこかの小さな空港や小さな駅の待合室で、君たちから思いがけず声をかけられるような折を楽しみにしている。

2004年2月5日