マイ・ストーリー

 1954年9月、蔵王の麓、歌人・齋藤茂吉のふるさと、温泉で有名な山形県上山市に生まれました。産湯の頃から温泉に入っていた温泉狂を自認。父は銀行員で、山形県内を転校しましたが、日本の高度成長期と重なる小学校3年(1963年)から中学3年(1969年)にかけては、最上町という県境に近い人口約1万人の山間部の町で過ごしました。六ヶ所村の問題や原発立地点の問題に惹かれる原点は、少年期のこの経験にあります。公害問題への関心は、後年、環境社会学への関心につながっていきます。
 父は1999年4月に亡くなりましたが、詩人肌の俳人でもありました。長谷川耿子『やまがた俳句散歩――山寺・最上川・月山』はその遺稿を編集したものです。山寺・風雅の国に句碑があります。

長谷川耿子句碑「みちのくの仏の山に春の月」山寺風雅の国,2003年4月建立

高校時代

 山形県立山形東高校では文芸部で小説を書いていました(東北大学文学部が主催する「青春のエッセー 阿部次郎記念賞」LinkIconの世話役として応募全作品に目をとおしている主な動機は、高校時代以来の「書く」ことへの執着と,若い人たちへ「種蒔く人」でありたいという想いからです)。明晰達意な文章を書くことは、少年時代から意識していました。社会学という言葉を知ったのは、高校3年のときに、清水幾太郎の『論文の書き方』(岩波新書)を読んだときです。梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書,1969年)は、中学3年のときに、刊行直後にはじめて買った岩波新書です。画用紙を切って京大型カードをつくったりしました。

学部・院生時代

 見田宗介先生のプレゼミ(1973年度)や京極純一先生の政治過程論(1974年度)を学び、社会学を勉強することにしました。学部・大学院では、吉田民人先生、故高橋徹先生、富永健一先生、小室直樹先生らから親しく教えを受けました。舩橋晴俊さんや故梶田孝道さんらとの社会問題研究会での議論や調査からも多くを学びました。『新幹線公害』(1985年・共著)、『高速文明の地域問題』(1988年・共著)は、この研究会の中から生まれ、『巨大地域開発の構想と帰結』(1998年・共編著)に続いています。
 江原由美子さんや舩橋恵子さんらがつくった女性の社会問題研究会に参加し、女性学について学んだのも院生時代です。江原さんや山田昌弘さんらと執筆した『ジェンダーの社会学』(1989年・共著)は、この延長上にあります。日本では、ジェンダースタディーズを手がけた初期の男性研究者でもあります。

仙台へ

 大学院単位取得退学後、東京大学文学部の助手を1年半つとめ、故森博先生・細谷昂先生に招かれて1984年10月東北大学教養部講師として仙台に着任しました。ちょうど30歳になったばかりでした。佐藤勉先生から請われて文学部に移ったのは1992年度からです。大学教員としてのスタートを教養部からはじめて7年半過ごしたこともあって、明晰でわかりやすい講義を心がけてきました。

『マクロ社会学』(1993年・共著)、『社会学入門』(1997年)、『社会学 新版』(2019年・共著)は、その総決算でもあります。
 1990年7月から91年5月、カリフォルニア大学バークレー校に文部省在外研究で出かけたことは、研究生活の大きな転機となりました。『脱原子力社会の選択』(1996年)は、そのときの苦労の産物です。はじめて海外に出たのは1989年8月、34歳のときのことですが、それ以来、32年間で34ヶ国を訪れました。日本社会学会の40年来の悲願である、2014年の世界社会学会議横浜大会招致には、組織委員会委員長として深く関わりました。

 1997年10月太平洋と仙台の街並みを見下ろす国見ヶ丘に太陽光発電、パッシブ・ソーラーなどをそなえたエコハウスを新築しました。

子育て

 1999年10月に男の子が生まれて父になりました。Society & Nature を組み合わせて「公樹」と名付けました。以来、研究・教育とともに、遅まきながらの育児・子育てに追われています。子育ての日々は人間存在の原点とは何か、を教えられる毎日です。第一句集『緑雨』は、亡父と私、私と息子の二重の父子関係をモティーフとした作品を収めた句集です。おかげさまで、すくすく育ちました。息子と自転車で走ったり、キャッチボールをしながら、子どもと向き合うことのゆたかな意味を味わっています。「ウチはしつけすぎ」と、ときどき反論していた息子も、2019年4月から大学生となりました。

(1999年3月9日第1版、2009年3月6日第5版、2021年5月7日第6版)