脱原子力社会へ——電力をグリーン化する
はじめに

 田畑や家、車を呑み込み、小型飛行機をも呑み込みながら、嬲るように、仙台空港にひた寄せる津波。仙台平野を襲う黒々とした津波。たけり狂ったように、三陸沿岸の港々を襲う波濤。水素爆発で吹き飛ぶ原発建屋、等々。
 全国、全世界がリアルタイムで注視していた衝撃的な映像を、仙台市民のほとんどはリアルタイムでは見ていない。三月一一日の地震直後から停電していたためである。見ることができたのは、職場に自家発電設備があった人や携帯のワンセグが使えた人、自動車にテレビを付けている人などに限られた。
 筆者の住む仙台では一五日までに、津波で大きく被災した沿岸部をのぞいて、順次電気は復旧した。寒さと余震におびえながら、ろうそくと懐中電灯の灯りの中で、つつましい食事をした。水道、電話、ガス、ガソリンとともに、ライフラインとしての電気のありがたみを痛感した。
 四月七日夜にも大きな余震があり、片付けたばかりの本棚などがもう一度崩れるとともに、北東北三県と宮城・山形県の一部が停電した。仙台でも停電。再び心細い夜を過ごした。
 筆者は、一九六〇年代後半、奥羽山脈の山懐、宮城・岩手・秋田との県境に近い、山形県の小さな町で少年時代を過ごした。豪雪地帯で、ときには連日のように吹雪が吹き荒れた。とくに吹雪がひどい夜はときどき停電になった。吹雪が激しくなると、ろうそくを用意したものである。テレビドラマ「北の国から」のような世界だった。

 電気は electric power。希望の灯であり、文明の象徴でもあり、魔法の力でもある。
 日本は電力の約三割を原子力に依存してきた。原子力発電をどうすべきか、どのように考えるべきか、国内的にも国際的にも長年論争が繰り返されてきた。
東京電力・福島第一原子力発電所の事故という現実をふまえて、しかも日本列島のどこでいつ大きな地震が起きても不思議ではない地震活動期という事態をふまえて、今後の電力供給のあり方をどうすべきか、日本社会にとっての喫緊の国民的課題である。
 フクシマ事故を受けて、スイス、ドイツ、イタリアは、いちはやく「脱原子力」へ舵を切った。
 温室効果ガスをできるだけ増やさずに、しかも相対的に安価で、安定的な電力供給をどのように確保すべきか。原子力推進対反原発という二者択一的な図式を超えて、社会的コンセンサスをつくりあげながら、持続可能な社会をめざしていきたい。
 ヨーロッパやアメリカを中心に、「電力のグリーン化」や「エネルギーシフト」「エネルギー革命」と呼ばれるような大きな変化が、一九八〇年代後半から、とくにヨーロッパにおける冷戦終焉の年でもあった一九八九年を境に起きている。
 東日本大震災からの復興、とくに福島第一原発の事故で大きな影響を受けた福島県の沿岸部の復興を重視しながらも、世界の無電力地帯の電力化への貢献も意識したい。世界には約一四億人、まだ電気の恩恵を受けない人びとがいる。地球全体の人口の約二割である。
 ヒロシマ、ナガサキを経験した被曝国日本がなぜ、原発を推進してきたのか、という質問も、海外の人びとからよく受ける。私たちはどう答えればいいのだろうか。
 エネルギー問題は、政府の総合資源エネルギー審議会などでも、電力需要の伸びに対応していかに供給を確保するかという、量的な充足の観点からのみ、もっぱら論じられてきた。しかしエネルギーの選択は、実はどのような未来、どのような社会を選びとるかという意味での社会的選択、社会設計の問題である。これまでは日本の社会学者や政治学者によるエネルギー問題、原子力問題への発言は限られてきたが、社会科学的な分析と提言が求められている。
 原子力発電は、どのような社会的問題を内包しているのだろうか。フクシマ事故をふまえて、大震災から生き延びた者として、大震災を目撃した者として、私たちはどのようなエネルギーを選択すべきなのだろうか。
 「「戦後、おまえはどうして生きてこられたのか」と問われれば、つまるところ、それは新しい生き方が持ちうる意味の探求に賭けてきたからだと思うのです」と、坂本義和氏は近著の回想録の中で自問自答している(『人間と国家(上)』)八七頁)。太平洋戦争を生き延びた親たちの世代が真摯に問いかけたように、私たちは大震災後を、フクシマ事故後を、いかに生きるのかという問いに直面している。
 あなたの答えは何だろうか。あなたは何に賭けるのだろうか。
 本書は、社会学者としての私自身の答えでもある。

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