舩橋晴俊先生を偲ぶ

日本社会学会ニュース No.214(2015年4月10日発行)

下記は、「日本社会学会ニュース No.214」(2015年4月10日付け)に、寄稿したものです。あわせて『君は闘っているか』LinkIcon雷鳴が遠ざかるLinkIconも参照ください。

 2014年8月15日早朝、舩橋晴俊先生がくも膜下出血で急逝されたという訃報は大きな衝撃を与えた。先生は全国を大車輪で飛び回っておられた。私も、8月13日午後の会議でご一緒したばかりだったから、にわかには信じられなかった。
 若い頃から卓越したリーダーシップを発揮してこられたが、日本社会学会理事としても、社会学評論編集委員長(2003〜6年)、研究活動委員会委員長(2009〜12年)などの要職を務められ、改革と活性化に尽力された。すぐれた理論家であるとともに、現場のリアリティを大事にされたフィールドワーカーであり、オルガナイザーであり、良心的な教育者であり、常に創造的な実践的改革者であった。これらが1つの人格の中で、多面体のように見事に統合されていたところに、舩橋先生の独特の人間的魅力があり、研究者としての圧倒的な存在感があった。新幹線公害・建設問題の研究、むつ小川原開発・核燃料サイクル研究、環境社会学会の創設、飯島伸子文庫の開設、東アジア環境社会学シンポジウムの隔年の開催、法政大学サステナビリィティ研究機構の開設、『原子力総合年表』の公刊等々、舩橋先生が先頭に立って手がけられたプロジェクトは枚挙にいとまがない。66年の生涯であり、道半ばではあったが、文字どおり超人的に、幾人分ものお仕事と人生を体現された。
舩橋先生の主な作品

 日本の社会学がその実力ほどには国際的に評価されていない、業績がそれほど世界に知られていない、その状況を何とか打ち破らねばならないと、若い時からいつも口癖のようにおっしゃっていた。昨年7月の世界社会学会議横浜大会の成功のためにも、助言を惜しまれなかった。英文の『世界環境年表』を世界社会学会議に合わせて刊行され、2日間の環境社会学のプレコンフェランスを成功に導かれた。
 倦むことなく常に先陣を走り続けてこられた先生にとって、もう一つの転機となったのが、2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故だった。被害救済と研究活動の組織化にまさに心血を注がれた。社会学者としてどう向き合うのか、最も誠実に答え行動したお一人が舩橋先生だった。
 高木仁三郎市民科学基金が中心となって、政府側の原子力委員会に対抗すべく、2013年4月に発足した「原子力市民委員会」の座長を務められた。個性派揃いの脱原発運動の猛者たちを糾合し、『原発ゼロ社会への道————市民がつくる脱原子力政策大綱』という包括的な政策提案を1年でまとめられた。
 日本学術会議社会学委員会「東日本大震災の被害構造と日本社会の再建の道を探る分科会」委員長としても、「原発災害からの回復と復興のために必要な課題と取り組み態勢についての提言」(2013年6月)、「東日本大震災からの復興政策の改善についての提言」(2014年9月)の取りまとめに尽力された。
 日本学術会議「高レベル放射性廃棄物の処分に関する検討委員会」および同フォローアップ検討委員会でもリーダーシップを発揮された。とくに2012年9月に発表された原子力委員会への批判的「回答」は、社会的にも大きな反響を得た。高レベル放射性廃棄物問題に関する「公論形成」と抜本的な政策転換をめざした真摯な実践だった。
 震災情報連絡会をはじめとした震災関連の社会学者の研究を「横につなぐ」活動も特筆すべきである。震災発生当時、日本社会学会の研究活動委員会委員長だったが、率先して、社会学を中心とした大震災関連の研究をつなぐプラットホームづくりを呼びかけられ、研究の活性化をリードし、関連の編著を企画・編集された。
 1976年、東大の社会学研究室の助手だった28歳の先生と、学部の4年生だったときに出会って以来、この38年間親しく教え導いていただいた。
 先生が掲げられた幾つものたいまつは、後進の導きとして、理論と実践、原理的思考と倫理的政策分析を統合する生きたモデルとして、いつまでも燦然と輝き続けることだろう。            合掌。
                    (東北大学 長谷川公一)

2015年4月10日