雷鳴が遠ざかる

卒業生に贈る言葉 2014年度

8月15日のもう1つの意味

 「敗戦の日」8月15日に、忘れがたいもう一つの意味が加わった。昨年の8月15日朝、学生時代から親しく教えを受けてきた舩橋晴俊先生が、66歳の若さでくも膜下出血で急逝されたからである。2日前に日本学術会議の委員会でご一緒したばかりだったから、にわかには信じられなかった。逝去から5ヶ月以上が過ぎた今でも、先生を失ったことによる喪失感、空白感、虚脱感は埋めがたい。舩橋さんの姿を見失うまいと追いかけ、何とか食らいつこうと35km付近まで必死の思いで走ってきたのに、突然雷雨によりレースは中止ですと宣告され、雷鳴が遠ざかる中、ずぶ濡れのまま悄然とするマラソン・ランナーのような心境が、取り残されたような宙づり感と孤独感が、今も続いている。
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「メンター」

 卒業生のみなさん、人生の早い時期に、とくに職業生活の場で、心から尊敬できる「師」と仰げる人、「メンター」と出会えることほど、幸福なことはありません。舩橋先生は、私にとってまさにそういう方でした。
 指導教員で、2009年10月に亡くなられた吉田民人先生(「師を見つける旅」『ソキエタス』29号参照)と舩橋先生、このお二人に、研究者としても、人間としても大きな影響を受けました。
 年齢も父親に近い吉田先生に対して、6歳年長の舩橋さんは、38年前の出会いから急逝されるまで、終始「兄貴分」であり、胸を貸して鍛えて下さった兄弟子であり、メンターであり、目標であり、生きたモデルであり、困ったり判断に迷ったりしたときの相談相手だった。いつも励まして下さった。面と向かって申し上げたことはないが、舩橋さんの「最初の弟子」であることを秘かに自認し、そのことを誇りとしてきた。
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新幹線沿線を、六ヶ所村を一緒に歩いた日々

 最初に出会ったのは1976年、東大の社会学研究室の助手になられたときからである。私は学部の4年生だった。修士課程に入って、故梶田孝道先生らとつくっておられた社会問題研究会への参加を呼びかけられ、1979年から当時大宮以南で反対運動がさかんだった東北・上越新幹線の建設問題の調査を開始した。騒音・振動被害と反対運動の先例だった名古屋市の沿線も調査し、この2つのケーススタディをもとに『新幹線公害』(1985年、有斐閣)、『高速文明の地域問題』(1988年、有斐閣)を刊行した。炎天下、舩橋さんと法政大の学生たちと、名古屋や浦和などで合宿をしながら、聴き取りを重ね、舩橋さんが発意した受益圏・受苦圏などについて議論しあった日々が昨日のことのようだ。
 1988年からは青森県六ヶ所村をフィールドに、むつ小川原開発問題・核燃料サイクル施設問題の共同研究を開始した。これは『巨大地域開発の構想と帰結』(1998年、東京大学出版会)、改訂増補版の『核燃料サイクル施設の社会学』(2012年、有斐閣)となった。
 80年代後半時点まではともに「環境社会学」という言葉も知らず、社会問題・社会紛争・公共政策・社会制御・住民運動の研究という意識だった。日本独自の環境社会学をつくっていくんだ、その一翼を担うんだという意識が生まれたのは、1989年に、故飯島伸子先生・鳥越皓之先生と舩橋さんらが、環境社会学研究会を組織しようと語りあってからである。

幸福な格闘

 舩橋さんとの、この38年間の知的な格闘、精神的な荒稽古がなければ、私の研究生活も教員生活もずいぶんひ弱で、か細く、貧しいものにとどまったに違いない。学部4年生の折に、28歳頃の舩橋さんと出会い、中範囲理論的な志向性をどう育むか、実証研究と理論的思考との統合をいかにすべきか、学生や院生をどう育てるのか、日本の交通政策や原子力政策の転換をどう実現するのか、日本の社会学をどう国際化すべきか、日本の社会学や環境社会学の国際的な発信をいかにはかるのか等々、これらの問題についてずっと議論し、いつも舩橋さんの先見性に教えられてきた。若い頃から、大きな問題に真正面から正攻法で向き合うのがお好きな方だった。

知的洞察力・感受性・意志

 少壮の頃から舩橋さんが恐らくモットーとしておられたのは、「知的洞察力」「感受性」「意志」である。水俣病問題の発生拡大過程(1956〜59年)について、チッソや熊本県庁、通産省らの幹部、池田勇人通産大臣(1959年当時、元首相)などの関係者がこれらの資質を欠いたことが、「責任意識の欠如」をもたらしたと指弾している(舩橋晴俊, 2000, 「熊本水俣病の発生拡大過程における行政組織の無責任性のメカニズム」『ヴェーバー・デュルケム・日本社会』ハーヴェスト社, p.152)。とくに「意志」については、「ここで「意志」という場合、それは、普遍性のある価値や正しい原則を直感し、それを堅持する能力を含意している」(同上, p.154)と舩橋さんらしい説明を加えている。


 舩橋さんは、終始強い「意志の人」であり、克己の人だった。「知的洞察2014 年8月18日ご葬儀の朝の平塚の海岸 力」と「感受性」と「意志」をもって、普遍性のある価値と正しい原則の実現のために、常に闘い続けた人だった。
 東日本大震災と福島原発事故後、舩橋さんは大車輪で奔走し続けていた。とくにこの3年半の間に、たくさんの仕事をされた。震災と原発事故にあまりにも真摯に向き合って、研究者として「殉死」されたのではないか、とすら思えてくる。舩橋さんの肩にかかっていた荷物の重さを、もっと自分も担うべきだったのにと、悔やまれてならない。
 若い頃から、いつもこの人にはかなわないな、という思いをしてきた。38年間、弱音とか愚痴とか、他人の悪口とか、噂話とか、つまらない言葉を聴いたことがない。舩橋さんにあって私には足りないもの、私に強くて、舩橋さんに弱いものは何か。エピゴーネンであってはならない。いつもそう考えながら、必死に背中を追い続けてきた。
 若き舩橋さんとの幸運な邂逅と長年の導きによって、私は育てられてきた。その幸福な日々が、急逝によって突然閉じられてしまったことは、返す返すも口惜しい。もっともっと、いろんな話をしたかった。
 日本学術会議の委員会で、その役割を引き継がざるをえず、舩橋さんが座っていた椅子に私は座らされている。お元気だったら、ここでどう発言されるだろうか、といつも考える。他の会合でも、判断に迷うような折には、舩橋さんだったら、こんなときどう考えるだろうな、と居ずまいを正す。

相模湾秋空高くあるばかり

 8月18日、お住まいに近い平塚でのご葬儀の朝、お好きだったろう相模湾を見に出かけた。

   相模湾秋空高くあるばかり
   語り継ぎ書き継ぐわれら鰯雲

参考・舩橋晴俊先生の晩年の主なお仕事

原子力市民委員会編, 2014, 『原発ゼロ社会への道——市民がつくる脱原子力政策大綱』.
原子力市民委員会編, 2014, 『これならできる原発ゼロ! 市民がつくった脱原子力政策大綱』宝島社.
原子力総合年表編集委員会編, 2014, 『原子力総合年表——福島原発震災に至る道』すいれん社.
GWEC Editorial Working Committee ed, 2014, A General World Environmental Chronology, Suirensha.
舩橋晴俊・金山行孝・茅野恒秀編, 2013, 『「むつ小川原開発・核燃料サイクル施設問題」研究資料集』東信堂.
環境総合年表編集委員会編, 2010, 『環境総合年表——日本と社会』すいれん社.

日本学術会議での主なお仕事
日本学術会議社会学委員会「東日本大震災の被害構造と日本社会の再建の道を探る分科会」委員長
 「東日本大震災からの復興政策の改善についての提言」(2014年9月)
 「原発災害からの回復と復興のために必要な課題と取り組み態勢についての提言」(2013年6月)
日本学術会議高レベル放射性廃棄物の処分に関する検討委員会および同フォローアップ検討委員会幹事
 「報告 高レベル放射性廃棄物問題への社会的対処の前進のために」(2014年9月)
 「回答 高レベル放射性廃棄物の処分について」(2012年9月)

2014年1月30日