足利義政は、日本の歴史上最も評価の低い将軍である。征夷大将軍でありながら 夷狄の征伐を行ったわけではなく、将軍としての統制力に欠け、応仁の乱による 京の壊滅を前にしても無関心、無策でしかなかった。温恭和順の人物と評される こともあったが、それは武士として望ましい性格とはいえず、幕府の弱体化を招く ばかりであった。飢饉が生じた際にも、災禍をかえりみずに新しい宮殿の造営の ために苛酷な税を課し、民衆の不満を増大させることとなった。また個人生活に おいては、妻の日野富子、子息の義尚との不和が生じ、不如意を強いられていた。 応仁の乱が1477年に終わった後、公私ともに不遇のうちにあった義政はしかし、 一生の最後の時点、すなわち東山山荘を建立し、そこに移住して東山殿と称された 時期において、その評価が一転することになる。そこに開かれた東山文化は、 日本人の趣味、日本の心の形成に多大の影響を与えたのであり、極めて大きな 歴史的重要性を担っているのである。
東山時代とは、義政の東山山荘への移住(1483)からその死(1490)後に いたる短い期間を指すが、それは義政の趣味に基づいて大きな文化的発展を 見せた、日本文化史上の最も輝かしい時代に他ならない。その象徴的存在と みなされるのが、銀閣寺として知られる慈照寺であった。
銀閣寺は、金閣寺に比べて質素な、独特の美しさをもった建造物であるが、 その内部に立ち入るとき、我々がよく知る和風建築の様相を眼にして驚かされる ことになる。平安朝の建築とは異なる、敷きつめられた畳、障子や床の間、机など、 現在にいたる和風建築の起源の姿がそこに見出されるのである。また外部に広がる 庭園も、砂、池、木々、周囲の景色など、その自然と溶け合う光景が我々に自然と 親密に触れる喜びをもたらしてくれ、ここにも日本的な心の所在を認めることが できる。義政の趣味から生み出された東山山荘は、今に生きる日本の文化の源流を なしているのである。
銀閣寺東求堂の一室である同仁斎は、戦国時代をへて荒廃をきわめたが、 その後修復が重ねられ、現在に残されている。茶室の始まりとされるこの同仁斎を 見ると、義政がわずかの友人と茶をのむ場の光景を容易に想像することができる。 同仁斎での友人同士の温かい交流、団欒の雰囲気は、戦乱の時代のさなかにあって、 義政にとってなくてはならぬものであった。
東山山荘の造営は1482年に始まるが、義政は翌年、完成をまたずして移住し、 自らの美意識の具現化をはかることになる。義政の美意識は中国趣味に彩られて いる。ただしそれは、足利義満の時代のような盲目的崇拝とは異なり、禅仏教への 関心を背景に、禅僧をとおして中国文化の知識を摂取し、その模倣に向かうもので あり、言わば舶来文化による生活の装飾化が多様な形で試みられるのである。
義政は、当時無名であった狩野正信を招いて、襖絵として「瀟湘八景図」を 完成させた。中国絵画を消化した水墨画に対する義政の好みは深く、のちに雪舟を 東山山荘に招くことにもなるが、これは実現しなかった。また庭園を造ることにも 義政は強い執心を抱いていた。13世紀以降、禅仏教の影響のもとに枯山水が 誕生していたが、義政は、美的、精神的啓発の場としての至上の庭園を築くことを 求めたのである。当時の庭園の築造には河原者と呼ばれる下級労働者があたって いたが、その中から造園に関する優れた知識を習得した善阿弥が登場する。義政は この善阿弥を寵用して設計にあたらせ、存分に手腕をふるわせることによって 銀閣寺の庭園が完成する。それは限られた空間のうちに無限の広大な風景を 想像させるものであり、禅から学んだ審美眼に基づく、義政の余韻の美学の現れの 姿に他ならない。
銀閣寺には違棚や床の間が設えられ、書院飾りの工夫が凝らされているが、 そこにも義政の美意識の具現化が認められる。絵巻物や屏風絵が中心であった 平安美術とは異なる、中国から移入された掛け物が、それらの造作を利用して 掲げられる。またそこには中国から渡来した陶器の花瓶も飾られることになる。 そしてその花瓶には花が生けられるが、それが芸術にまで高められたのも義政の 時代においてであった。それが生け花の始まりとなる。当時、花の生け方に 関しては様々の議論がなされたが、義政は、花を立てて生ける立花の様式を好み、 花の技能に秀でた立阿弥の援助を得て、花の美しさを引き立て、際立たせる 生け方を追求する。1486年、薄紅梅・深紅梅一対と水仙を贈られた義政が、 病中の立阿弥を呼びだして花を立てさせ、見事な出来映えに酒杯を下賜したという 挿話が残されているが、このような中で、立花への義政の愛着と立阿弥の立花の 技能、そして唐物花器とが調和した美的世界が生み出されたのである。
銀閣寺には会所と呼ばれる場所がある。会所は人を招き、会合に用いる施設で あり、会所政治という言葉が用いられるように政治的な機能を果たす場でもあった。 義政はしかしこうした会所を、政治的な会合の場ではなく、絵や歌、茶を愛する 同好の友人たちの寄り合うところとして使用する。そこで歌を詠み合い、連歌の 楽しみにひたり、同好の士との親密な交流を深めること、それが会所の本来の 目的であると義政は考えたのである。義政の美意識と趣味が存分に発揮される 場所が会所であったと言えよう。
東山時代と呼ばれる一時期は、短く穏やかな時代であった。しかしその時代に 生み出された文化は後世に多大の影響をもたらしたのである。現在まで残されて いる茶の湯、水墨画、庭園、華道、連歌俳諧、畳、床の間、障子、違棚、豆腐 その他の精進料理、それらはすべて東山文化を代表するものに他ならない。 近代化やグローバリゼーションの波の中でも変わることのなかった日本人の 心としての文化は、東山文化に遡るのである。
足利義政は歴代の将軍の中で最も低い評価が下されているが、文化史上に おいて考えるならば最も優れた存在であったと言わなければならない。現在に いたる、永久に価値あるものを生み出したのが義政であったのである。