今回の講演会の「伝統の継承と展開」というテーマを受けて、私は日本文化に おける「伝統」の一つの重要な要素として「型」の問題を取り上げ、「型」と 日本文化の関連を明らかにした上で、その創造的可能性について考えてみたい。
ここで取り上げる主な対象は世阿弥であるが、はじめに私が「型」という 問題をどのように捉えているかを述べておきたい。私は、いわゆる「型」には 二つの異なったタイプのそれがあると考えている。一つは人間の身体の運動に よって形成されるものである。もう一つのタイプは「パターン」「スタイル」と いった西洋語の翻訳から生まれたものであって、「文化の型」といった用例は これにあたる。
このうち前者はわれわれが伝統的に「型」として捉えてきた問題で、その 観点から日本文化を考えることは、「型と日本文化」という主題に対するもっとも オーソドックスな接近の方法であろう。
このタイプの型は、私見ではさらに「狭義の型」(基本型)と「広義の型」 (複合型)に大別される。「狭義の型」では、身体の運動によって究極的には 「心・技・体」の一致が目指される。これは「文の文化」(能・歌舞伎・舞踊・ 書道・茶道等の芸道)にも、「武の文化」(剣道・柔道・弓道・空手などの武道) にも等しくみられる構造であって、表面的には対立するようにみえる両者が 根源的において一致する理由はここにあると思われる。
「広義の型」は私が初めて「型」の範疇に入れるべきことを提起した型で あって、世阿弥のいう「序・破・急」とか、江戸時代の茶人川上不白の提起した 「守・破・離」がそれである。「序・破・急」は能から始まったが、他の演劇の 世界やフィギアスケートなどのスポーツの演技の世界にも通じる。「守・破・離」 は茶道の世界で唱えられたものであるが、広く学芸の世界に通じる事柄であり、 現代の大学教育問題を考える場合にも大事なヒントを提供してくれるように 思われる。
さて、型を考えるときまず問題になるのは、「型」と「形」の関係である。 「型」とは、ある「形」が持続化の努力を経て洗練・完成したものであり、 機能性・合理性・安定性を有し、一種の美をもっている。さらにそれは模範性と 統合性を具えている。
型を構成するものには心・技・体の三要素があるが、この三つが完全に そろうのが室町時代の初めのことであった。この時代には心の捉え型に大きな 変化が起こる。心のあり方を「有心」「無心」に分けたとき、それ以前には 「有心」の方に価値を見出してきたが、それが逆転し、「無心」を心の真髄とする 見方に変化するのである。世阿弥の芸道論はこうした転換を背景として成立する ものだった。
世阿弥において重要なことは、二曲(舞歌)三体(老体・女体・軍体)の型を 作ったことである。これがどこから出てくるかというと、まず考えられるのは 父の観阿弥である。観阿弥自身は著作を残さなかったが、『風姿花伝』は大部分が 観阿弥の言葉からなる。観阿弥は能に物まねを取り入れた。この物まねは、 能における型の成立においてきわめて重要である。観阿弥は物まねの徹底=真実性 の追究の先に幽玄や強さが生まれ、それが美の対象になるとしている。
世阿弥はこうした観阿弥の考え方を受け継いだ上、二曲三体という方法を 提起した。また彼は教育を重んじ、枝葉末節のまねではなく、基礎である二曲の 基礎を徹底的にマスターし、その応用としての三体を究めることによって、花の ある状態に達することができるとするのである。これは今日の学問教育においても 重要な示唆を与えてくれるものであるように思われる。こうした世阿弥の理論が 作品として完成したものが、二曲三体人形図である。
身体的な運動論としての能は、やがて武道の世界にも取り入れられて、影響を 与えていく。
技と身体について述べてきたが、世阿弥において心の問題はどのように 位置づけられるのであろうか。
『風姿花伝』には能を演ずるにあたって、とき・ところ・観客の質を考慮 すべきことが説かれている。父の教えを深めていったときに、本質的な美の追求と、 観客を本位とした美の実現という異なる二つの方向性を、いかにして両立させるか という問題は世阿弥にとって大きな課題となった。
そこで浮かび上がってくるものが、「間」である。世阿弥はこれを「せぬ隙」 (『花鏡』)とよんでいる。水墨画では空白の部分が重要である。水墨画における 空間的な「間」に対し、時間的な「間」とでもいうべきものが、能における 「せぬ隙」=役者の静止の時間である。静止してはいるが全身全霊がこもった 緊張状態である。ただし、そうした内心の精神的な動きを観客に知られては具合が 悪い。そのためには自分の心を自分にも隠すこと、自分自身に「無心」であると 思いこませることが必要である。こうして、観客のみならず自分自身をともに 「化かす」という手の込んだやり方を通じて、観客からみた美しさと本質の追求と いう二つの両立が目指される。世阿弥の能楽書は、ある意味では、この二つの 矛盾をいかにして解決するかという課題を追求したものだった。
世阿弥は仏教思想に大きな関心を抱いていた。彼ははじめ天台教学を学習した。 これは彼の師である二条良基をはじめ、当時の芸術家の常道だった。だが、人生の 途中から禅(曹洞禅)へと関心を移すようになる。そして、「色即是空」を超えて 「空即是色」の境涯に至って、真実の美が現われまことの能が実現すると考えた。 こうした心境の深まりに応じて、はじめは新奇さ、珍しさを花の原理としていた 世阿弥は、やがて深みのある面白さを重んじるようになり、無心の芸=「妙花」を 重視するようになる。
こうした美の理論を体現する作品が『砧』であり、これはそれまでにない タイプの能である。そこには東山文化に連なるような、新たな美意識の原理の 創出がある。世阿弥の前半生は王朝文化以来の優美の世界に根差したものだった。 それに対し、後半生には東山以降の文化につながる独自の美意識がみられる のである。その意味において、世阿弥は二つの時代、二つの世界をつなぐという 大きな役割を果たした人物だった。
こうした世阿弥の理論は、能だけの世界に留まらず立花・茶・書道から武道に まで影響を与えていく。文武双方の世界にわたって彼の考え方が浸透していく のである。彼の思想は文の型のみならず武の型に置いてもオリジンをなしていると いえよう。その点において、まさに類を絶したスケールの人物である。
文と武の間には、心技体の一致を目指すことなど共通するものがある。片方は 花を追究し片方は相手に勝つことを目的としても、その根底には同一の構造がある。 文と武は現象的にはまったく相反するようにみえながらも、精神の構造の根本に おいては一つなのである。
ベネディクトは『菊と刀』で、日本文化には「菊」(美・文の象徴)と 「刀」(力・武の象徴)という二つの矛盾する契機が存在すると言ったが、 それは単に矛盾するものの混在ではなく、両者を成立させる精神構造はまったく 同一であって、世阿弥は能における型の理論を通じて、文武両道の共存を可能に する文化の形成を可能にしたと言えよう。
世阿弥の提唱した広義の型の理論では、「序・破・急」のことはよく知られて いる。日本国内だけでなく、演劇の世界ではおそらく日本発のすぐれた理論として かなり認められているように思われる。この後これに劣らず大きな力を発揮する のは「守・破・離」であろう。後者を明示的に表現したのは江戸千家の川上不白 (1719−1807)であるが、その考え自体は世阿弥に由来すると私は考えている。
世阿弥自身において「守」の時期は、父の教えを忠実に守っていた 『風姿花伝』の時代であった。そしてそれは「物まね」を内容とする稽古論として 展開した。その後彼は数多くのすぐれた芸道論を書いたが、それらは「物まね」論の 発展・深化であるとともに、父の教えに対する「破」の行為でもあった。ただ 世阿弥には「破」の意識などおそらくなく、父の教えの自然な展開というような 気持ちであったろう。
ところで『拾玉得花』で彼は「安き位」と「安位」とを区別し、「安き位」は 意識的自己の次元における「わざ」の最高到達点であり、さらにその上に「わざ」 と「心」と「身」とが無心の次元の無相の相、「無位の位」としての「安位」と する芸境(妙花風)があるとするに至る。この「安位」は「離」の段階である。
当時の世阿弥は、この三つの段階の芸境を守・破・離と命名することは できなかったが、それら三つの段階があることはすぐれた芸能家にとっては非常に 説得的な事柄であり、川上不白によって「守・破・離」と命名され、その後茶人の 世界だけでなく、千葉周作などの武道家にも取り入れられた。
この考えは芸術や武道の世界だけでなく、学問・教育の世界においても十分 展開できるものである。東北大学文学部の目指している「伝統に基づいた創造」と いう理念も、この線に沿うものではなかろうか。「守」は先行研究や師の教えを 学ぶ時期である。その学び方がいかに徹底するかによって、「破」のあり方が 決定される。新たなものを生み出すうえで「守」は大切である。
しかし、「破」ることが最高の価値ではない。
自己の全否定を通じてよみがえり、自在な創造の世界を作りだす必要がある のである。こうした「守・破・離」の原理は、ニーチェの『ツァラツストラはかく 語りき』の説く精神の三態−ラクダ・獅子・子供−の変化にも通じるものである。
世阿弥の人生は、まさしく文化の継承から創造への道程を身をもって示す ものだった。