文学部創立八十周年を記念するシンポジウムは、ドナルド・キーン名誉博士と 源了圓名誉教授という日本文化に造詣の深いお二人の碩学を提題者にお迎えして 行われました。「碩学」という表現は最近では余り使われなくなりましたが、 その特徴づけに最もふさわしいのは、神田喜一郎が内藤湖南について述べた 次のような言葉であろうと思われます。
「われわれが日本語で漫然と『学者』とよんでいるものの中には、 フランス語でいうところの、érudit と savant との二つのものを、併せ ふくんでいる。érudit というのは、いわば博識家で、特に歴史的知識を 豊富にもつている人のことである。これに対して savant は、ある事物について 正確な道理を心得ている人である。真の意味での『学者』は、もちろん savant でなければならない。しかし、ここに savant であるとともに、また一面 érudit である人があるならば、それは普通の『学者』以上の学者といつて 差支なかろう。」(内藤虎次郎『日本文化史研究』 角川文庫版・解説)
キーン先生も源先生もともに、この érudit と savant の両側面を 兼ね備えた「普通の『学者』以上の学者」であることは衆目の一致するところです。 今回の記念事業の柱である学術講演にどなたをお招きするかについては、準備委員会に おいてもさまざまな議論がありました。お二人を含めて多くの方々のお名前が 挙がったことも事実です。しかし、記念事業全体のテーマが「文化の創造と継承」 に決まってからは、議論の流れは水が低きへ流れるように、自然とキーン先生と 源先生とに収斂して行きました。文学部の学問を貫く「文化の創造と継承」に ついてお話いただくのに、この両先生ほど相応しい方はほかに見当たらなかった からです。企画の段階ではキーン先生と源先生に独立の講演をお願いするという 案も考えられましたが、両先生が個人的にもお親しい間柄であることから、 お互いのやりとりをも含めたシンポジウムの形をとることといたしました。 これは後から振り返っても成功であったと、手前味噌ながら思っているところです。
ご承知のように、両先生はともに本文学部と大変密接な関わりを持って おられます。まず源先生は1976年から1984年までの8年間、文学部附属日本文化 研究施設の教授として教鞭をとっておられました。私は幸い3年間ほど源先生と 同僚として過ごすことができましたが、古武士の風貌と風格をもった先生が 教授会で発言を始められると、それまでざわついていた雰囲気がしんと静まり かえったことを鮮やかに覚えております。次にキーン先生は1978年6月から 半年間でしたが、やはり日本文化研究施設に客員教授として滞在しておられました。 伺ったところでは、一人でおられるキーン先生を心配して、源先生は毎日のように 昼食に付き合ってくださったそうです。さらに、キーン先生は1997年に東北大学で 最初の名誉博士号を授与されています。その折に仙台市博物館で催された 記念講演会は立ち見が出るほどの盛況で、万葉集から芭蕉にいたる詩歌の 流れについてお話くださり、満場の聴衆に深い感銘を与えたことは記憶に 新しいところです。
今回のシンポジウムでは、キーン先生は足利義政の文化的業績を中心に 「東山文化と現代の日本」について、源先生は世阿弥の芸道論を軸に 「『型』と日本文化」についてそれぞれ力のこもったお話をしてくださいました。 ご講演の内容については、本報告書に概要が掲載されておりますので、ご覧 いただきたいと思います(なお、キーン先生のお話は、後に 『足利義政:日本美の発見』(中央公論新社)としてまとめられ、刊行 されました)。お話を伺ってとりわけ印象に残ったことは、日本文化を 論じられるのに両先生がともに室町時代に焦点を合わせられたことです。 応仁の乱をはさんで、源先生は室町時代の前半を、キーン先生が後半を 取り上げられ、この時代を日本文化の原点と見定められたことは、大変興味深い ことでした。それと言うのも、内藤湖南は『日本文化史研究』に収められた講演 「応仁の乱に就て」のなかで、応仁の乱を日本の歴史を画する一大エポックと 見なし、次のように述べているからです(ちなみに、この講演は法文学部創設の 一年前、1921年に行われました)。
「斯ういふことから考へると応仁の乱といふものは全く日本を 新しくしてしまったのであります。(中略)大体今日の日本を知る為に日本の 歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱 以後の歴史を知つて居つたらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と 同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた 歴史であつて、これを本当に知つて居れば、それで日本の歴史は十分だと 言つていいのであります。」
この内藤説に従えば、キーン先生のお話は、応仁の乱以後に定着して現在まで 続く日本文化の新しい形を将軍義政がいかにして創造したのかをめぐる洞察に 満ちた考察でした。また源先生は、応仁の乱という断絶を超えてなお続けられた 「型」の継承のあり方をめぐって、今日の学問論にも通ずる啓発的なお話を されました。その意味で、両先生のご講演は、今回の記念事業が掲げた 「文化の創造と継承」というテーマをまさに体現したものであったと言うことが できます。
シンポジウムでは、お二人のご講演のあとに、お互いのお話に対して短い コメントを加えていただきました。キーン先生からは、世阿弥が自分の芸術は 未来の人々からは理解されないだろうと述べていることについて、これは通常の 芸術家が自分の仕事の真の理解者を後世に求めるのに比べて大変面白いことであり、 おそらく世阿弥は義満のような理解者がいなければ自分の芸術は成り立たないと 考えていたと思われるが、この解釈は正しいだろうか、とお尋ねになりました。 それに対して源先生からは、当時の将軍は武力の面だけでなく高度の文化を 身に着けた人であり、世阿弥は最高権力者であると同時に最高の美の享受者でも あった義満の批評眼を高く評価していた、というお答えがありました。続いて 源先生は、ご自分が京都大学の学生であった頃に尋ねた金閣寺と銀閣寺から 与えられた対照的な印象に触れられ、さらに東山時代には文化・芸術の世界 のみならず、宗教の世界にも蓮如、一休、日観らによって大きな変化がもたらされ、 今日の宗教の原点が形作られたのではないか、という問題提起をされました。 キーン先生はこれに対し、義政が日本人の美意識に影響を与えたと同様に、 蓮如は日本人の宗教理解に深い影響を及ぼしており、仏教はこの時代に アジア各地のものとは異なった日本独自のものとなった、とのコメントを 加えられました。
シンポジウムの最後には参会者の方々を交えた討論の場を設けましたが、 会場からは2名の方の質問がありました。最初の方(一般参加者の方)の質問は、 銀閣寺に代表される東山文化の美意識の中に、後に江戸時代になって勃興する 「風流」の意識はなかったかどうか、というものでした。キーン先生からは、 風流とは新しいもの、流行しているもの、刺激を与えるものを重んずる態度だが、 足利義政の場合には中国の美術からの影響を受けており、彼が愛好した 視覚芸術には風流の意識は感じられないけれども、室町時代に興った連歌の 方面には風流の萌芽が認められる、とのお答えがありました。次の方 (村上真完名誉教授)の質問は、鈴木大拙の「即非の論理」は物事を3段階に 分節化して捉え、最初の状態を否定し、さらにもう一度否定を重ねるという 思考のあり方だが、この仏教に見られる「即非の論理」と型の伝承形式である 「守・破・離」の3段階とはどのように関係しているのか、という源先生に 向けられたものでした。源先生からは、世阿弥はいわば「求道の型」を作った のであり、道を求めるという観点からすれば、両者の間に同じような構造が 認められる、とのお答えがありました。司会を務めた私の不手際から、 討論の時間を十分に取れなかったことが心残りでしたが、それでもお二人の 先生方の熱のこもったお話とそれに続く真摯な議論とによって、3時間にわたる 充実したシンポジウムを実現することができました。
ご承知のように、キーン先生と源先生は、ともに80歳を超えるご高齢で ありながら、現在なお旺盛な研究活動を継続しておられます(とりわけ、 キーン先生は法文学部と同じ1922年のお生まれです)。文学部の学問は、 一朝一夕に発明や発見がなされるようなものではなく、長期間にわたる 学問的蓄積と弛まぬ研鑽がものを言う世界です。いわば、人文学の研究者は 定年退職を迎えて時間を自由に使えるようになってからが勝負であり、その学問は 長生きをして初めて収穫の秋を迎えることができます。その意味でも、長寿を 保ってご活躍を続けておられる両先生は、われわれの以って範とすべき存在と 言わねばなりません。付け加えておけば、源先生は2001年に日本学士院会員に 推挙され、キーン先生は遅きに失した感はありますが、2002年に文化功労者に 選ばれました。改めて心からのお祝いを申し上げたいと思います。
最後になりましたが、キーン先生と源先生には、お忙しい中を文学部 八十周年記念シンポジウムの提題者をお引き受けいただいたことに厚くお礼を 申し上げるとともに、今後のますますのご健勝とご研究の発展をお祈りする次第です。