2003年度東北大学日本思想史研究会夏季セミナーのご案内
敬具
2003年7月18日 日本思想史夏季セミナー実行委員会 記
問い合わせ先 日本思想史夏季セミナー実行委員会
交 通 往 路 ○東京方面から―東北新幹線で福島へ
○仙台から─東北本線上り列車で福島へ
○東北新幹線で福島へ
※電車の時刻は全て7月現在ですので、各自お確かめ下さい。 ○福島駅から観山荘へ
発表要旨並びに参考文献(発表順)陸羯南・原敬など、近代日本に重きをなす人物が数多く在籍していたことで知られる司法省法学校の第2期生。明治初年において、まずはじめに日本という中央集権国家を作為したのは、戊辰戦争に勝利し当局者となった藩閥官僚達である。その作為の一環として司法省法学校は設立された。 全国に散らばる各々の故郷を出て、東京に集い、難関を突破して法学校生となった彼らは、まぎれもないエリートであった。官立の学校によって国家のエリートたることを認められた彼らは、そのことによって必然的に、国家のため一生を捧げることを自らに誓うはずだった。当局者の一方的な命令に従ってさえいれば、中央官僚というエリートとしての自己を享受できる。それは地方出身の若者達にとって考えられる最善の自己像である。立身出世の第一関門を突破した彼らは、引き続いて、現状に満足しなければならない……はずであった。 ところが、彼らの内面では釈然としないものが渦巻いていたのである。そのとき、羯南や原敬の退学事件として知られる「賄騒動」が起こった。結果、放校されてしまった面々は、国家のエリートとして、決定的な挫折を余儀なくされたのである。 * * * 放校後、陸羯南と原敬は新聞記者となった。彼らの初期論文や書簡にあらわれた〈自己〉像から、明治初年における「中央」と「地方」を考えたい。後に「明治ナショナリズム」として大成することになる思想の原点がそこにあると考えられるのだ。
参考文献
江戸期における「書物」蓄積の方法として考えられるのは、書肆からの購入・(知人や貸本屋からの)借用本の書写・自著の作成などであるが、そうした「書物」蓄積には様々な偏差がある。「知」的関心の差異や経済的な基盤の大小などによって、「書物」との関わりが大きく異なるからである。 「書物」偏重の一方の極をなすのが、文献考証を学問的営為の中心に据える考証学者や国学者などの場合であり、彼らにとって「書物」の蓄積と整備とは学問的営為そのものと言ってもよく、経済的負担をものともせずに「書物」収蔵に血眼になっていたのである。 そうした「個」に起因する偏差とともに見逃しがたいのが、地域的な差異に基づく偏差である。 代表的な出版書肆や大規模な貸本屋等が存在しない三都以外の地域では、多様な「書物」の蓄積には困難さが伴った。その困難を克服するためには、出版目録を活用したり諸種の流通手段を確保したりするなどの工夫が必要であり、それなしには十全な「書物」の「享受」は難しかったのである。 さて、本報告が扱う江戸期に現在の福島市北部に住んだ国学者内池永年(1762〜1848)の場合には、名古屋の書肆永楽屋の江戸店との関わりが「書物」の獲得を容易にし、また本居宣長の鈴屋を継承した本居大平(1756〜1833)が師弟関係を背景として行った鈴屋国学関連書の「斡旋販売」も永年の「書物」蓄積を支えていたのである。そして、後者のいわば国学学統の出版戦略を東北の地において支えていた人物が、伊勢白子の型紙行商人沖安海(1783〜1857)であった。 型紙販売を「生業」とする国学者安海は、やはり商業を「生業」に持つ永年に、経済的な情報を与えたばかりではなく、「書物」を通じた「知」の情報をも多くもたらしたのである。こうした「知」の「仲介者」安海の活躍の場は、同学同門の永年の住する福島のみならず、彼の保有する行商圏全体に及んでいたと考えられる。われわれはその好例を宮城県北部地域に見いだすことができるのである。
日本中世の「中央」と「地方」という問題について考えるとき、とりあえず二つの設定が可能であろう。ひとつは、日本の内部での「中央」と「地方」、いまひとつは日本の外のそれ、である。後者は、三国世界観に示される思想的状況が相当するであろうが、今回は前者の設定で考えてみたい。 日本の内部の「中央」とはおそらくどのような領域を想定するとしてもやはり京都をさすと考えるのが穏当であろう。京都に対するのは、平泉などを含む北の周縁部、南の周縁部、そして鎌倉などが考えられる。すでに共通の認識となっている中世日本の領域観によれば、北は陸奥国外が浜から南は薩摩潟鬼界が島までである。そこで、この長い日本列島の中世において(1)京都対鎌倉(関東)という政治的対立軸と(2)陸奥国外が浜から鬼界が島までという地理的な枠組みとがどのように関連するのか、という問題が新たに浮上してくるように思われる。相対的なことがらである(1)と地理的・客観的な意味をもつ(2)というふたつの言辞は日本列島上に展開し、存在している<日本>という国家とその国土の観念が形成されていたことを意味するだろう。 本報告では、(1)と(2)との関連について(可能であれば、三国世界をも含めて)、具体的には説話や日蓮の発言などを手がかりとして考えてみたい。
本セミナーのテーマ「都市と地方」という分析概念に即して言えば、軍記物語『将門記』に描き出される将門の乱の経緯とは、天皇家に対する一種の反逆であると同時に、「都市」平安京に対する一「地方」坂東からの挑戦であると位置づけることができる。本書では平安京は「花」という語で修飾され(例;花城)、「花」の平安京と「夷」の坂東という構図が垣間見えるものの、「夷」たる坂東を未開の地とする認識は見出せない。この点は、『将門記』において「花」の平安京における優位性・先進性が必ずしも意識されていなかったことを示していると考えられる。 それでは、坂東において「花」の都の存在が意識されるのは如何なる時か。この問題を考える際、『将門記』における将門への評価は注目される。『将門記』前半部分での将門は理知に長け、神仏の加護を受ける理想的な武士像として描かれるが、後半部分、将門が「公」たる天皇に対し坂東の地において「私」に王権樹立を図る場面を境にその評価はマイナスへと転じ、最終的に将門は死後に三悪趣に堕ちたとされている。このような点から、『将門記』における都市―地方観とは「公―私」観、換言すれば王権論との関わりにおいて初めて意識されるのではないだろうか。 本報告では、『将門記』における王権論と都市―地方観との関わり、また『将門記』における都市―地方観が当時の東国においてどれだけ普遍性を有するものであり得たのかという点を検討したい。
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