日本思想文化史院生報告会



日時: 2017 年9 月21、22、23 日

場所: 奈良女子大学コラボレーションセンターZ103、ほか


スケジュール

9 月21 日(木) 開会式・研究報告会(一日目)

開会式    
15:00-15:10 挨拶 小路田泰直(奈良女子大学 教授)
時間 発表者 題目
15:10-16:10 渡邉瑞穂 古代における空間認識 ―移動と仏に着目して―
16:10-17:00 佐々木隼相 明六社以降の知識人結社と学術講演会 江木講談会を中心として

9 月22 日(金) 研究報告会(二日目)

時間 発表者 題目
10:00-10:50 亀松花奈 古代・中世の日本における統治観
11:00-11:50 古畑侑亮 明治10 年代における「好古家」の新井白石受容
13:00-13:50 大島佳代 中世前期における「将軍」と「将軍」像
14:00-14:50 閻秋君 岡千仭における琉球問題認識の展開 ―東アジア認識の一側面―
15:00-15:50 石堂詩乃 近代日本高等教育再考 ―自律性と主体性をめぐって―(仮題)
16:00-16:50 林京子 関東の霊山岩船山 ―その信仰の変遷から見る死後世界のコスモロジーの変化―



研究報告 要旨

9 月21 日(木)
「古代における空間認識―移動と仏に着目して―」
渡邉 瑞穂 (奈良女子大学大学院人間文化研究科博士前期)

古代・中世における空間認識をめぐる研究は、歴史地理学や歴史学において蓄積されてきた。先行研究では絵画史料上に表れる地名に着目することで、前近代における地理認識の復元が試みられてきた。あるいは、聖性を帯びた統治空間としての国土認識のありようが統治の問題として論じられてきた。
 本報告では、現実として考えられている地理的な空間と、観念上の世界として処理される神仏の生きる世界とを総体として捉えることを目指す。具体的には、現実の移動を助ける存在として描かれる仏に着目することで、視認可能な現実と目に見えない観念とを「現実/非現実」として分断しない認識の可能性を考えてみたい。

「明六社以降の知識人結社と学術講演会 江木講談会を中心として」
佐々木 隼相 (東北大学大学院文学研究科博士後期)

「江木学校(江木講談会)」は江木高遠(1849〜1880)によって主催された講演会である。1878 年9 月に発足し、おおよそ一年間の活動を行なった。その特徴としては、@一般に開いた講演会であること、A聴衆から積極的に聴講料を徴収したこと、B御雇い外国人として東京大学に招聘されていたモースやフェノロサ、また福沢諭吉といった著名な知識人による講演が行われていたことに整理できる。「江木学校」の開催日時、講演内容等については生意気新聞社が発行していた『なまいき新聞』『藝術叢誌』(1878 年〜1879 年)により確認することができる。
 これまで「江木学校」ないし生意気新聞社については、進化論受容史や自由民権運動史など、それぞれの研究の中で副次的に言及されることはあっても「江木学校」それ自体が問題となることはなかった。著名な知識人が集って講演会を開催したという点で明六社や洋々社のような活動と遜色がないにも関わらず、その実態は未だ十分に明らかとは言えない。
 本報告では、「江木学校」に先行もしくは同時期に活動を行なった複数の知識人結社(明六社、洋々社、共存同衆など)と比較しながら、「江木学校」の全容を解明する。その過程において、「江木学校」が持つ学術講演会という性格を明治期の思想史の中に位置付けることを目指す。


9 月22 日(金)
「古代・中世の日本における統治観」
亀松 花奈 (奈良女子大学大学院人間文化研究科博士前期)

統治行為を表す動詞として「治」と「しらす」がある。これまで、天皇の統治を表す、よりふさわしい語は「しらす(知)」とされ、「天の下」を「しらす」存在が天皇であると考えられてきた。しかし、『古事記』では、「治」と「知(しらす)」の字は明らかに区別されて用いられており、『古事記』のなかでは天皇は「天の下をしらす」存在ではなく、「天の下を治む」存在として描かれている。「天の下をしらす」という表現は、『万葉集』のいくつかの歌のなかで用いられた表現であり、本居宣長が『古事記伝』のなかで「治天下」を「天の下をしらしめす」とよんだことから、現在に至るまで天皇は「天の下をしらす」存在であると考えられている。
 「天の下を治む」表現と「天の下をしらす」表現は、それぞれどういった意味をもって用いられたのか、『古事記』『日本書紀』『万葉集』宣命などの史料のなかから探っていきたい。また、「治」、「しらす」対象となるのは「天下」と「国」であり、この両者の違いについても考えていく。

「明治10 年代における「好古家」の新井白石受容」
古畑 侑亮 (一橋大学大学院社会学研究科博士後期)

 江戸から明治にかけて、多くの文人・学者から尊崇を集めた人物に新井白石がいる。彼の学問は、現代に至るまで高い評価がなされており、その影響は歴史学をはじめとして幅広い分野に及んでいる。
 白石の事蹟が多くの人々に知られるようになった画期のひとつとして、明治14 年(1881)の白石社の結成が考えられる。竹中邦香・鈴木慧淳・大槻文彦らによって設立された同社は、祭典を執り行い、白石の未刊著作を活字出版していく。それらは、新聞・雑誌を通して報道され、宣伝された。
 白石社の活動は、同時代の人々にどのような影響を与えたのだろうか。本報告では、読者のひとりとして埼玉県比企郡番匠村の小室元長(1822―1885)に注目する。幕末維新期を在村医・名主後見役として生きた元長は、古物や古文書を蒐集し、軍書や地誌の校正に励む「好古家」でもあった。彼は、若い頃から白石を「欽慕」し、著作の蒐集を続けていた。
 元長は、白石社関係の記事を綴った「白石社雑記」を遺している。本報告では、これを糸口として新聞や刊行書の序跋を分析することによって、白石社の活動の実態を可能な範囲で明らかにする。その上で、小室家文書中の蔵書や書簡、紀行等により、白石社社員との関わり、元長による白石著作の蒐集・貸借、国への献本、墓所の探索等について検討する。
 以上の作業から、明治10 年代の「好古家」における白石受容のあり方の一端を示すことが課題である。

「中世前期における「将軍」と「将軍」像」
大島 佳代 (奈良女子大学大学院人間文化研究科博士後期)

 鎌倉幕府の成立以前は、「将軍」といえば鎮守府将軍であった。しかし、治承・寿永の内乱最末期の奥州合戦によって鎮守府将軍の実権は幕府に吸収され、さらに鎮守府将軍を上回る権威として「大将軍」の号を欲した源頼朝が征夷大将軍に補任されて以降、武家政権の首長の征夷大将軍就任が通例となり、鎮守府将軍の補任は みられなくなったことが、従来の研究で明らかにされてきた。ところが、鎌倉幕府が崩壊した年に鎮守府将軍が復活し、南北朝期には様々な「(大)将軍」が乱立する状況となる。さらにこれに先行して、官職ではない一種の尊称としての「将軍」の存在も多く見られるようになってくる。こうした状況は何を意味しているのだろうか。「将軍」には、時代状況に即して、時に国政と密接に関連しつつ、時に制度的な枠組みを超えて、多様な意味が付与されてきたと考えられる。本報告では、鎌倉期から南北朝期にいたるまでの「将軍」の実態および「将軍」像の位置付けの変化と、中世社会との関係を検討する。

「岡千仭における琉球問題認識の展開―東アジア認識の一側面―」
閻 秋君 (東北大学大学院国際文化研究科博士後期)

 19 世紀後半期は東アジアの国際秩序が激変する時期であり、東アジアの各国が新たな相互認識に迫られる時期でもあった。日清戦争は東アジアの国際秩序を大きく揺るがした事件として、日本人に東アジア認識の書き換えをもたらした。しかし、日本人がどのような段階をへて東アジア認識の転換に至ってきたのかを究明するために、明治初年から日清戦争に至る日本人の東アジア認識の研究も重要な意義がある。本研究の対象である岡千仭は在野の知識人として、東アジアについて大きな関心を示した。西洋の衝撃という時代背景の下で、岡千仭は漢学者である一方、西洋の歴史にも注目し、『米利堅志』(1875)、『佛蘭西志』(1878)の翻訳・編集に力を注いだ。また、彼は自ら中国へ足を運び、一年間の旅行(1884.5〜1885.4)を通じて現実の中国を自分の目で確かめた。この岡千仭の東アジア認識は如何なるものであったのかを解明することを目的としている。
 本報告は研究の一環として、岡千仭の琉球問題認識を取り上げたい。琉球問題は東アジアの国際秩序の変容の第一歩として、極めて大きな歴史的な意義がある。岡千仭は琉球問題をどのように考えていたのか、その言論の時系列的変化を検討したい。さらに、東アジアの国際秩序の激変の中で、琉球問題は岡千仭の東アジア認識にどのような示唆を与えたのか、という問題について、本発表は先行研究の成果を踏まえて考察してみたい。

「近代日本高等教育再考 ―自律性と主体性をめぐって―(仮題)」
石堂 詩乃 (神戸大学経済経営研究所 技術補佐員)

 これまでの近代日本高等教育研究においては、その教育内容に対しては知識や技術・技能といった面での評価に偏り、また機能面でも、行政官僚や官僚制化の進んだ財閥系の大企業を中心とする企業セクターの職員といった、官僚制的組織に所属する人材の育成に評価の主眼が置かれていた。しかし、近代日本の高等教育が目指したものは、単に知識や技術を伝授し、官僚制的組織に適応する人材を育成するにとどまるものだったのであろうか。明治末期から大正初期にかけての神戸高等商業学校卒業生のキャリア選択の分析を起点として、近代日本高等教育の意義を問い直してみたい。

「関東の霊山岩船山―その信仰の変遷から見る死後世界のコスモロジーの変化―」
林 京子 (東北大学大学院文学研究科博士前期修了)

 かつて日本の至る所には様々な霊山があった。古代から現在まで連綿と信仰が継続している霊山は極めて稀であるが、そのような霊山の信仰を分析すればコスモロジーの変遷が可視化できるのではないか。
 栃木県の南西部にある岩船山は、船形の凝灰岩の巨大な岩塊である。人々はこの場所を、古代は死者の魂が集まる山上他界、仏教が伝来すると、その山上他界を浄土と理解した。律令制度の衰退、浄土信仰の広がりと共に、岩船山上のカミは生身の地蔵と理解され、岩船山には「現当二世の幸せ」を求めて板碑が林立した。近世には岩船地蔵はミロク信仰と習合して関東を横断する巡行を行い、特異な石地蔵と和讃を各地に残した。近代に入り、岩船山は国策と絡み合い数奇な運命をたどる。しかし現代においても岩船山は異界である。死者を浄土に送り出す「岩船参り」は現在も行われている。また近年はサブカルチャー聖地としても人々を惹きつけている。
 岩船山は北関東の地方霊山であった為に国家の統制を受けず、中世以来現在まで、時々のコスモロジーを反映した信仰が継続している。岩船山に関する文字史料は、別当寺の全焼で非常に少ない。本研究では絵画史料に着目して、岩船山信仰の変遷を考察する。それと共に、貴重な史料を紹介することで多くの研究者に岩船山への関心を喚起し、今後特異な信仰の全体像の解明が進む事を期待するものである。

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