日本思想文化史院生報告会



日時: 2018年9月22日(土)〜23日(日)

場所: 東北大学川内南キャンパス文科系総合講義棟104・105教室


スケジュール

9月22日(土) 挨拶・研究報告会(一日目)

14:30-14:40 挨拶 佐藤 弘夫(東北大 教授)
  趣旨説明  佐々木 隼相(東北大・院)
時間 発表者 題目
14:40-15:40 陳 頴傑 中世における浄土信仰の展開―カミと往生との関係をめぐって―
15:40-16:40 藤目 乃理子 古代・中世日本における月の受容とその変遷
16:50-17:50 霍 欣瑩 幕末明治期における『万国公法』の翻訳と受容―重野安繹訳『和訳万国公法』を手掛かりとして―

9月23日(日) 研究報告会(二日目)

時間 発表者 題目
10:00-11:00 小菅 真奈 色彩表現からみた認識の変化 ―『平家物語』を中心に―
11:00-12:00 石井 七海 徂徠学における社会認識―平野金華を例として―
13:00-14:00 水橋 舞 中世における軍記物語について
14:00-15:00 楽 星 アジア主義と世界主義―沢柳政太郎の日華共存論を中心に―
15:15-16:15 汲田 美砂 ことばにみる近代日本
16:15-17:15 青野 誠 明治初期民衆における天文観と天人唯一思想―菅野八郎『真造弁 八老信演』について―
     
17:15-17:30 挨拶 小路田泰直(奈良女子大学 教授)



研究報告 要旨

9月22日(土)
「中世における浄土信仰の展開―カミと往生との関係をめぐって―」
陳 頴傑(東北大・院)

 日本仏教において、カミ(超越者)は往生信仰と深く関わる存在と思われる。特に中世は、浄土思想の膨らんでくる時代であり、極楽往生のニーズにも応じて、日本のカミは益々重要な役割を果すようになってきたのである。
 中世仏教における浄土とカミとの関係について、佐藤弘夫氏の提出した「中世的コスモロジー論」を代表として、既に到達点を見せるようになっている。本論は、このような先行研究を踏まえた上で、平安中期と中世の浄土信仰を比較することを通して、カミの果した役割の変化を明らかにしたい。
 浄土信仰とカミとの関係を検討すると、平安中期から中世にかけて、修行成果に応じて現れる、サポートの役割から、最も重要な存在となってきたことが分かる。そして、中世的なカミを細かく見ていくと、その重要な役割は「発信」と「発(菩提)心」の二種類があることに気づく。前者において、垂迹のカミへの信心を発することが神の下した罰の目的であり、一方後者の場合、成仏にとって肝心な菩提心を起こさせるのがカミの役割と思われる。
 このような違いは浄土往生の正因へ異なる認識によるものと想定され、さらに以上の推測を論証することを通して、中世人の多元な「浄土」観を析出できると思われる。すなわち、他界の浄土への欣求が存在するとともに、現世で悟りを開いてそのまま浄土へと転向させる「浄土」観も存在することが分かる。

「古代・中世日本における月の受容とその変遷」
藤目 乃理子(奈良女子大・院)

 記紀神話における月神の活躍は乏しく、アマテラス、スサノヲと比べ、研究対象のツクヨミとして取り上げられることは少ない。一方で、天体の月は和歌をはじめとする文学作品に数多く登場し、万葉集では多様な表現で詠まれている。勅撰和歌集については、平安時代の終焉が近づくにつれ、月に纏わる歌の増加が顕著であり、また、美術作品について、とりわけ密教絵画では、主に月輪としての描写がなされた。八世紀頃より見られた月の擬人化表記は、もともと多いとはいえないものの、神として名を連ねる機会の減少は、十世紀頃に目立つ。
 長い間、月は人間の漠然とした心情表現に用いられ、意識されてきた。これは、当時の人々の感性が、月に関わる作品に早期反映されることを意味し、時代毎の思考の移ろい、或は不変の認識を検証できる可能性が高いといえよう。古来、日本人の月に対する感情は、遠くにあるが近いもの、清いものだが忌むべきものという、相反した複雑な発想が集約している。人々は月をどのように表現してきたか、そして、その変遷は何を意味するのかを史料に基づき、考えてみたい。

「幕末明治期における『万国公法』の翻訳と受容―重野安繹訳『和訳万国公法』を手掛かりとして―」
霍 欣瑩(一橋大・院)

 近代日本における国際法の伝播と受容について、翻訳者の功労も見逃すことができないだろう。しかし、従来の研究では、国際法の性格、実践及び活用に関する成果が多数取り上げるが、当時の翻訳者を焦点にあてた論考は不十分であり、研究の余地が残されている。訳本と読者の受容関係を考察するではなく、訳本とその生産者――翻訳者との関係性を問いたい。本稿は『万国公法』の和訳に携わった重野安繹に焦点を当て、彼の翻訳経緯、意図及び観点を探ることが目的とする。
 言語転換のプロセスで、翻訳者の自身の経験と知識により、原本と訳本が細やかな乖離が発生した。このテキストでは、重野の訳文を訳語、修辞、性格などの角度から『和訳万国公法』と漢訳書と比べる。その和訳表現を確認することで、翻訳過程を丹念に分析し、彼の翻訳上の意図、及び国際法観を究明したい。このように、訳者である重野を例とし、翻訳者の側面から近代日本における国際法の受容を再検討する。


9月23日(日)
「色彩表現からみた認識の変化―『平家物語』を中心に―」
小菅 真奈(奈良女子大・院)

 人間は太古の昔から色彩を認識し、利用してきた。文字が誕生してからは、色を文章にして表現した。色彩は人間にとってあまりにも身近すぎるため、その表現形態は普遍的なものであると思われがちだ。しかし、おそらくそうではない。例えば、『栄花物語』で藤原伊周の子息・蔵人少将道雅は「香にうすものの青き襲ねたる襖に、濃紫の固文の指貫着て、紅の打衣」などを着ていると表現される。彼の身に付けているものが、色彩をともなって逐一描写されているのである。現代の小説などで人間を描写する際にこのような表現形態をとることは非常に稀だと思われる。色彩表現のあり方が普遍的なものでないことは既に明白である。では、以上のような表現形態の差は何によって生じるのだろうか。報告者は人間の色に対する認識のあり方が時代によって変化していくからだと考える。そして、前近代の文字史料においては、色彩と人間が非常に密接に関わり合うことから、人々の色の認識のあり方を考えることは、当該期の人々の「人間」の捉え方を考えること、その「人間」同士がどのように社会秩序を作っていたかを考えることに繋がると想定している。

「徂徠学における社会認識―平野金華を例として―」
石井 七海(一橋大・院)

 本報告では、徂徠学派の分裂という事項を再考したうえで、徂徠学の展開を追究する。その際、荻生徂徠(1666?1728)の弟子である平野金華(1688?1732)に着目し、金華の思想の再評価を行う。以上のような作業を通して、近世社会と儒学の関係を儒者の立場から検討することを目標とする。
 平野金華は、陸奥国三春(現在の福島県三春市)出身の儒学者・漢詩人である。幼くして両親を亡くし、20歳になると医者(おそらく家業であったと思われる)になるため江戸に上る。しかし医業の道に挫折し荻生徂徠の門へ下る。特に詩文においてその才能を発揮し、徂徠からは「狂簡」と評価され、その才を愛された。朝鮮通信使の応対に際して徂徠の推挙で三河国刈谷藩につかえ、のち水戸藩支藩の守山藩藩儒として迎えられる。
 従来の研究において徂徠学派は、太宰春台(1680?1747)を中心とする経学派と服部南郭(1683?1759)を中心とする詩文派の2つの派閥に分かれたとされ、金華は詩文派に与する人物とみなされてきた。しかし、金華の『金華稿刪』に残された文章を分析すると、金華の経学的な側面を見出すことができる。このように金華という個人の思想を検討し、徂徠学派の分裂という事項を相対化する作業を通して、徂徠学の展開の再考を行う。

「中世における軍記物語について」
水橋 舞(奈良女子大・院)

 日本中世において、『平家物語』や『太平記』を代表とする多くの軍記物語がうまれ、あらゆる身分の人々に、長きにわたって愛されてきた。軍記物語はその名の通り、戦争を描いた物語であるが、日本中世において多くの軍記物語がうまれ、受容されたのはなぜだろうか。本報告では、「語り」と「物語化」という視点から、軍記物語の成立の背後にあるものを検討する。
 ここでの「語り」とは、軍記物語に描かれているような事態に直面した人々がおこなう行為である。一方、「物語化」とは、「語り」を取捨選択したり、あらたに創作したりすることで、「語り」を軍記物語という一つの物語として体系化する行為である。報告者は、軍記物語の成立には、この「語り」と「物語化」の行為の両方が必要であって、なおかつ、まず「語り」があって、そこから「物語化」という過程を経ていると考える。日本中世においては、戦争によって「語り」がおこなわれ、さらに「物語化」が非常に積極的におこなわれたため、多くの軍記物語が成立したのではないか。本報告では、「語り」と「物語化」それぞれについて考えるために、試みとして「落人」と「和歌」という観点を取り上げる。

「アジア主義と世界主義―沢柳政太郎の日華共存論を中心に―」
楽 星(東北大・院)

 第一次世界大戦大期において、西洋諸国の勢力がアジアまで及ばない時期に乗じて、日本を中心として世界秩序を構築しようとする構想―アジアを連合して西洋と対抗する―が、頻繁にみられるようになっていく。その構想に、中国は常に重要な位置を占めている。しかし、対華二十一か条などを経験した中国の知識人日本に対して好感を抱かず、五・四運動などの反日デモまで行った。つまり、アジア連合の構想について、日中両国の知識人の考えは必ずしも一致するわけではない。
 本研究の研究対象である沢柳政太郎(1865−1927)はちょうどこの時期に自宅で『日華共存論』と題する著作をあらわし、日中連携を中心として、日華間の重大問題や国際情勢、これからの日華間の共栄政策などを詳しく論じた。彼はこの著作を日本だけではなく、中国の知識人にも配布した。その中に、中華民国の政治家・邵力子(1882?1967)と張?(1892?1927)は積極的彼の主張に反論し、アジアの秩序について意見を述べた。近代日本の中国認識をめぐって多くの先行研究が蓄積されているが、その中に日本一国主義的な捉え方が多く、中国知識人の反応についてほとんど言及されていない。そこで、本研究では『日華共存論』を題材として、沢柳、邵及び張の論争を中心に、日中両国の知識人がアジア主義をめぐって如何なる議論を展開したのかを考察する。

「ことばにみる近代日本」
汲田 美砂(奈良女子大・院)

「近代化とは何か」を明らかにすること、これが私の研究目的である。そんな中、今回の報告において考えたいのは「近代的自我」、また、それを規定するとされる近代における変革の一つであった結婚の自由による「恋愛の発見」、その意味するところである。
 「恋愛は人世の秘鑰なり」という北村透谷による著名な言葉がある。これは従来、封建的な人間倫理観から脱した、近代的な恋愛観念として評価されてきた。しかし、透谷の近代的自我がプラトニックな恋愛によって形成されたとされる一方で、近代小説を代表する、私小説・自然小説の問題関心の中心は肉欲、その表現へと向かっていった。こうした態度は、まさしく透谷が忌み嫌った元禄文学にみられる恋愛を「人類の最下等の獣性を縦」にする好色として扱う姿勢と合致するようにも思われる。こうした行き違いは何故生じているのか、また恋愛によって形成されたとされる「近代的自我」とはどのようなものであるのか。本報告では、以上のような問題関心を、文学者たちの小説・評論における言説を通して明らかにすることを目的としている。

「明治初期民衆における天文観と天人唯一思想―菅野八郎『真造弁 八老信演』について―」
青野 誠(一橋大・院)

 菅野八郎(1813〜1888)は民衆史研究の分野においてしばしば事例として用いられてきた人物である。しかし、彼は慶応2(1866)年に発生した信達騒動の際に「世直し大明神」と目されていたこともあり、従来の研究においては幕末期の思想分析に重点が置かれ、明治期に関してはほとんど言及がなされてこなかった。そこで本報告では、明治17(1884)年に執筆された、最晩年における著作の一つである『真造弁 八老信演』のテキスト分析を行い、彼の明治期の思想を明らかにすることを目的とする。
 また、このテキストでは天文に関する言及―天動説と地動説はどちらが「真理」であるか―が展開される。ここには烏伝神道の開祖・梅辻規清の影響が色濃く見受けられる。明治10年代という科学思想が西洋から流入してくる時代のなかで、彼はそうした新しい知識や思想をいかに受容し、また旧来の知識や思想をいかに固持し続けたのか。これを明らかにすることで、明治初期における民衆の天文観、ひいては世界観の一端を提示したい。

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