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東北社会学研究会の変更点

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!!!2018年度東北社会学研究会大会「現代東北漁村社会への視座」のご案内
!!!2020年度東北社会学研究会大会「パンデミックの経験とコミュニケーション」のご案内


'''シンポジウムの趣旨のご説明''' 

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 漁村と漁業に関する社会学的研究が本格的に開始されたのは、第2次世界大戦後のことである。漁村社会学として開始したこの社会学的研究は、日本におけるその後の漁業形態の変化により姿を大きく変える。近代日本の漁業は、漁船の動力船化、冷凍装置等の技術革新により「沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へ」と変化していった。漁業形態がこのように変化するにつれ、沿岸漁村を対象とする漁村社会学の研究業績は次第に減少し、代わって水産社会学を掲げる研究が登場することになる。こうした変化は、沿岸漁業および沖合漁業・遠洋漁業それぞれの特徴の違いに深く関わっている。これら漁業の特徴を確認してみよう。
 沿岸漁業は、日帰り操業中心の海域で展開され、地元の漁業者や漁業団体が、漁業権のある地先海面を漁場として、根魚や磯魚の漁獲、貝類の採取をおこなう漁業形態である。この漁業権は、旧村単位で結成された漁業組合なり戦後の漁協が管理主体となることから、村落を単位として入会漁場が形成されている。つまりは沿岸漁場の秩序や漁業形態は、村落によって規制されている。沿岸漁業のばあい、このように漁業という生産領域が漁村という村落社会と密接に連関しており、漁業のあり方を明らかにするためには村落社会の構造の解明が不可欠となる。ここに漁村社会学でなければならないゆえんが存する。
 これに対して沖合漁業・遠洋漁業は、生産領域(漁業)と村落社会(漁村)との関係の点で、沿岸漁業とはまったく異なる。沖合漁業・遠洋漁業では、生産領域と地域社会が切断され、村落社会が関与する余地はない。
 沖合漁業は、出漁港から3日以内で到着する漁場で、1ヶ月程度にわたる出漁期間のなかで、大型回遊性魚種の漁獲をおこなう漁業形態である。遠洋漁業は、この沖合漁業以上に遠距離の漁場で、沖合漁業以上に長期にわたって営まれる。こうした漁業を営むには、大型漁船で長期間にわたって出漁できるだけの大規模な資金力が必要となる。沖合漁業、遠洋漁業いずれも、資本規模の大きな企業が経営主体となって、漁業基地(出漁港)から出航する大型漁船において、雇用契約を結んだ乗組員の労働によって営まれる資本制漁業にほかならない。漁業生産に関する労働組織の点では、漁船単位の労働組織であり、そこでは乗組員の居住地である漁村の地縁性は、多くの場合、完全に払拭されている。沖合漁業・遠洋漁業が大規模漁港を基地とするばあい、この出漁港を核として市街地が形成され、水産加工場や水産市場が地域的に連関して立地する。そこで展開される社会関係は、もはや村落的なそれではなく、都市社会の諸関係となんら変わらない。それは漁村ではなく水産都市と呼称され、こうした事態の解明には都市社会学の知見が有効に活用される。
 以上の沖合漁業・遠洋漁業の現実に関して、沿岸漁業村落を研究する漁村社会学ではなく、漁業や水産養殖業、水産加工業、水産流通業からなる水産業それ自体を研究対象とする水産社会学こそが確立されねばならないと主張される。
 沖合漁業・遠洋漁業の営みと、その労働の担い手たちが居住し生活する漁村社会とが連関することはない。かつての沿岸漁業のばあいのように、海における生産領域の秩序が陸の村落社会のあり方によって左右される、あるいはその逆というようなことはない。この点において今日の漁村の多くは、生産領域とは関わりがないという意味において、まさに生活の場にほかならない。ならば、漁港漁村あるいは漁港都市という地域社会は、都市の住宅地における地域社会となんら変わりないのか。
 そうではないと考える。漁村の地域社会は、たとえ沖合漁業・遠洋漁業という漁業形態であっても、漁業という特殊性によって刻印された特徴が見いだされる。たとえば、沖合漁業・遠洋漁業への漁業従事者世帯に関して、その生活を総体としてみたとき、生活のあり方は都市生活者のそれとは大きく異なる。沖合漁業もしくは遠洋漁業の漁船に乗り組んでいる男性たちは、一年の大半を海上で過ごす。その間、女性たちが、陸上で営まれる家族生活や地域の共同活動の中心的担い手となる。田畑で農作業をおこなうのは妻であり、妻が日常的に財布を握り、子供の高校進学に関して担任教師との面談に臨み、老親の介護に関する意思決定をおこない、かつて遠洋漁業の時代には、大西洋上の大型漁船にで働く夫抜きに葬儀を出した。個々の家族生活の維持活動だけでなく、地域の共同活動においても女性たちが中心となる。婦人防火クラブが消防訓練をおこない、婦人会が交通安全や地域の清掃といった諸活動を担う。女性たちで協力しあって道普請をおこなったとの話も聞く。かつて遠洋漁業乗組員の町として全国に知られた宮城県気仙沼市唐桑町について、地元住民は「唐桑は女の町だ」と語る。
 以上のように、沖合漁業・遠洋漁業といった漁業形態の漁港漁村でも、沿岸漁業にみられたような漁業と村落の関係は存在しないせよ、そこでの地域社会のあり方を都市社会のそれと同一視することはできず、やはり漁村特有の特徴を有していると考えざるをえない。このことは、漁業という生産領域のみに視野を限定してはあきらかにならない。現代漁村社会の特質は、生産領域も含めて、個々の漁家ないし漁業従事者世帯の生活を総体として捉え、それら生活の地域的連関に目を向け、とくに女性の活動に着目することなしには解明しえない。ジェンダーという分析視点が不可欠となる。
 この分析姿勢は、カキやホタテ、ワカメ等の水産養殖業を中心とする今日の沿岸漁業の漁村においてよりいっそう重要となる。水産養殖業において、生産場面で女性の担う役割はきわめて大である。それゆえ、漁家女性に視点をすえて、養殖漁家の生活を総体としてとらえ、年序別性別役割分業のあり方をあきらかにし、さらには漁家の地域的連関をみることが、水産養殖業を基軸とする沿岸漁村社会の特質に迫りうると考えられる。
 かつて柿崎京一は、漁村社会学の分析視角として、漁村共同体の変質・解体過程として近代以降の漁村をみる共同体アプローチに加えて、生活組織論アプローチを指摘した。これは、「漁家(家族)の形態と機能をはじめ、近隣の漁家(家族)相互の関係、性・年齢別階梯組織さらには漁業(協同)組合や政治、行政と関連して漁村の自治組織などに注目し、漁村の社会構造の特徴」を捉えようとする分析視角である。上述した漁村社会に特徴的な現実は、まさにこの生活組織論アプローチによってあきらかにされうるはずである。しかし「沿岸から沖合・遠洋へ」という漁業の生産領域の変化に視線を奪われたせいか、この生活組織論的アプローチによる実証研究が積み重ねられてきたとはいいがたい。いうまでもなく、「ある現実に関する学問研究の蓄積がない」は、「その現実は存在しない」を意味しない。このことは、漁村社会に関する生活組織論的研究にもあてはまるのである。
 上述したように、漁村社会は都市社会とも農村社会とも異なる特徴を有すると考えられ、それをあきらかにする視角の一つが、女性の活動に着目して個々の家族生活および地域生活に接近する道筋である。2011年の東日本大震災とその復興過程において生じた種々の事柄は、そうしたアプローチの必要性を明示した。例えば、震災後の三陸沿岸漁村において、女性たちが復興にむけた活動を主体的に展開するさまざまな事例が見いだされる。なぜ女性たちがそうした主体的力能を獲得し、活動を遂行し得たのか。震災以前の漁村社会での家族生活および地域生活において女性たちがそれにみあう重要な役割を担っていたからこそ、震災後こうした活動が可能だったのであり、必要とされたと考えられる。漁村の復興の道筋を考えるためにも、震災前の漁村生活のあり方を探求しなければならない。女性たちによる復興活動だけではない。例えば、岩手県大槌町赤浜地区では震災遺構をめぐって婦人会と「復興を考える会」とが対立しているのであるが、この対立も、漁村社会としての赤浜において婦人会が担ってきた役割をあきらかにすることなしには理解できない。
 本シンポジュウムでは、以上のような認識のもと、今日の東北漁村社会にアプローチすることを試みる。そのさい焦点となるであろう事柄を列挙すると、例えば、\源採琉茲鬚佞め、漁家および漁業従事者世帯の生活を総体としてとらえ、性別年序別分業等いかなる工夫によって生活維持がなされているか。個々の世帯の生活維持および漁村社会を維持するに必要な共同活動に関して、女性に着目してあきらかにする。E貽本大震災後の三陸漁村にみられる女性たちによる復興活動の事例を、震災以前および震災後の漁村社会と関連付けてあきらかにする、等々が考えられる。
 新型コロナ感染症のかくも急速・広範な蔓延はもとよりグローバリゼーションの申し子であって現代社会の構造に骨がらみの事象である。さらに日本では、いわゆる感染防止と経済の両立困難、あるいは対策の無さ・スピードの無さというのも、単に未知・未経験・問題の大きさ・担当者の無能といった事情に由来するばかりではなく、積年にわたる新自由主義の追求とその行き詰まりや腐敗が、対策を阻害し、問題をより深刻なものにしていると言えるだろう。その内実を抜きにした対策vs.経済の二分法という枠組みでの「経済を回せ」言説が、現レジームによる民主的手続きの軽視・無視・敵視を正当化さえしている。パンデミックに関する一般化された考察もむろん重要だが、現象形態は多様なのであって、一般論と結び合って今日の日本社会における新コロナ禍の具体的な性質をつかみとらなければならない。
その深刻な危機のさなかで「経験とコミュニケーション」とは、あるいは呑気なテーマ設定と見なされるかもしれない。しかし、そうではなく、これは「社会」の存立と実質にかかわる論題である。それもまた一般論と交差しつつ具体の吟味を必要としている。
身近なところから挙げれば、これを企画している2020年8月上旬現在、私の職場では自室に立ち入るにも厳格な対策を求められ、新入生は入学したはずの大学に立ち入ることもできぬままオンライン授業と向かい合っている。その他方で国の政策に関する議論がGo Toキャンペーンの是非であるとは、その政策の経済的必要性如何とはまた別に、自己のリアリティ感覚を揺さぶられる不協和の経験である。同一大学の新入生と上級生の間ですら、もはや大学経験が全く異なる。その中で私たちは今後の大学やゼミのあり方を考えてゆかねばならない。このように新コロナ禍は、政治や行政機構や経済の組織といった相における社会を攪乱しているばかりではなく、境遇の交換や理解の通用といったコミュニケーションの成否そのものをも大いに動揺させている。
自明な日常のこの解体と差異の露呈・創出が、分断を深めてゆくのか、それとも新たなコミュニケーションの回路と作法を生み出してゆくのか。それが人々の推論の方法や世界像を変えてゆくのか、変えてゆくとしたらどんな方向にか、それともかえって日常への復帰願望が強まるのか。これらの問いは、事実探究の課題であると共に実践的な課題である。
第一に、経験とコミュニケーションという論題は、いわゆる社会化の形式、または相互行為における予期と反応との結び目にあって往々にして暗黙化されている論理なり前提と、関連している。一例に、医者と患者のコミュニケーションが、医療専門職と患者役割との相互行為であるのか、それとも家父長制的な保護や救済という関係であるのかは、連字符社会学的な意味での医療という分野の主題であるばかりではなく、その社会全体の信託・信念の体系、正統性、関連性の構造などを照らし出す主題であろう。
今日、感染の自己責任化や、市民同士の相互監視とレッテル貼り、医療従事者が聖化されると同時にパリア化もされるというスティグマなどは、差別に関する特論的な問題であると同時に、病気になったら医者に行くという私たちが当然視していた行動や制度の前提を揺るがす問題である。他方、新コロナ禍の経験がパンデミックの原義通り「全ての人々」に偶然性の感覚を与え、それゆえの共感関係を生じさせる可能性も無くはあるまい。それとこれとのせめぎあいの過程だと言えるかもしれない。
第二に、経験とコミュニケーションはそれゆえ新しい社会の展望や構想ともかかわる論題である。専門システムは、クライエントの経験が、唯一無二の生きられた時間から科学的で診断的な知の体系へと、その関連性を転換されてしまうことをも含意していた。そこで、それとの対抗関係または補完関係において、類似の境遇にある者同士が安全空間を作って経験を交換するセルフヘルプグループや当事者研究の意義が積極的に追究されてきた。それは、だから専門職とクライエントの間にあった権力作用についての問題提起であるのみならず、制度化された健康-疾病の二分法が含意しがちな無力なクライエント像や健常至上主義に対する異議と代案、より一般的に研究者-対象者二分法に対する反省として、位置づけられてきた。臨床とかケアとはそのような負荷を担う論題だった。しかし、感染症は、そのような経験の交換が前提していた出会いや集いを困難にしてしまうと同時に、当事者はいかにして語りうるかという問い自体を何段階も前に引き戻してしまうだろう。ケアはいま、その実務においても、その含意の提唱においても、困難に直面していると思われる。
さらに懸念されるのは、今日の言説状況が、分断と攻撃性、被傷性を強めていないかということである。日頃からの学習性無力感やカリスマ待望に加え、行政機構と専門システムとメディアが一種の複合体をなし、語っているのは行政の長と専門家ばかりとなって、人々はむしろ声を失っている。忘れられた人々の間では、相互扶助の思想よりも、この状況では少数者や弱者のことを考えている余裕はないといった言説や推論が広がりかねない。配慮や支援の訴えは特権の要求と枠づけられ、むしろジェラシーと憎悪の対象になりつつある。この状況下、政権政党の広報が「進化」という言葉を恣意的に使用し始めているのは、20世紀の悪夢をいくつも招いてきたイデオロギーを再び引き出しかねない危険な兆候である。
第三に、社会的な機能分化ないし分業の進展とともに深まってしまう分離・分断(分業の病理的形態とか社会的世界のセグメンテーション)とその克服にかかわるコミュニケーションという課題もあるだろう。「食と農の社会的分断」はその典型である。生産者と消費者とが単に互いに見えない関係に置かれているばかりではない。両者は利害が対立する関係であるかのように論じられてきた。農の海外委託が消費者にとっての利益であると説かれる一方、食はロマンティックな農の記号でラッピングされ、素朴な農村像が消費されている。スマート化と規模拡大によって苦境が技術的に打開できると信じられている。このような状況において、都市-農村交流、CSAの展開、倫理的消費の提唱などは、社会編成と生活文化の根本に関わる問題提起であったと言える。その試みを、今般の新コロナ禍は困難にしているかもしれない。
ただし、震災後もそうであったが、日頃は不可視となっている社会的ネットワークの積み木歌式の連鎖が、寸断されることによってかえって可視化されることも起こりうる。今回も、休校措置によって給食が止まり、その給食に牛乳を提供していた酪農が苦境に陥ったのを消費者が知って、牛乳を買い支えようとする動きが生じたりした。食と農のことにかぎらず、この危機がより広い社会的視野なり社会学的想像力を喚起してゆくか否か、その可能性はひとつのカギであるように思われる。
第四に、このことは、東日本大震災のような災害や被災地への支援といったテーマにおいても、大きな課題および可能性を示唆するものでもあるだろう。避難所が典型的な三密であったことについては、スフィア基準を参考にした反省を余儀なくされるにちがいない。支援活動もまた、支援者やボランティアが被災地を直に訪問することを前提としていた。それが困難になっているのはもちろん大問題である。しかし、オンライン化の模索が始まっていることからふりかえってみると、その前提がともすれば壁ともなっていたかもしれないことに気づかされる。支援したいけれども種々の条件で出向けない人にとっては有罪観の温床だったかもしれない。被災者が負債の念から迎え入れの労や恩返しを余儀なくされるケースもあった。支配的な言説や場の力学などを考えてみても、対面=善と前提するのはかえって暴力的であったかもしれない、等々、支援に関してこれまで自明視されていた前提について内省する機会を、それは提供しているかもしれない。
――このように「経験とコミュニケーション」という視角から、今般の新コロナ禍という曲がり角に私たちの社会がどのようにして差し掛かり、そこで何が起こっているのか、何がとん挫し、何にどんな可能性が生じうるのか、その角をどの方向にどう曲がろうとしているのか、何をなしうる可能性があり、何をなさねばならいのか、考えてみたい。
もとより、シンポジウム企画としては、他の観点や方法もありうるだろう。現象もまだ進行中である。私たち自身もその中での生活と業務に追われてなかなか考えも進まない。他から、あるいは後からみれば、ピント外れのことをしているかもしれない。企画の責任を予め免除しておくわけにはゆくまいが、しかしそもそも誰も高みの立場にはいられない危険を互いに背負いあうところに学的コミュニケーションの基本があるだろう。登壇者やコメンテーターには、いつにもまして、答えを求めるような態度ではなく、口火を切っていただくことについての敬意をもって接するべきことを、確認しておきたい。経験と課題を各自が各自の持ち場で論理化・言語化してゆく契機となれば幸いである。


*日時:2019年12月8日(日)13:00〜17:00 
*会場:東北大学川内南キャンパス、文学研究棟3階の「視聴覚室」右の地図のC-13の建物です。仙台駅より地下鉄東西線で「川内」駅下車が最寄りです。【[地図参照|https://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/campus/01/kawauchi/areac.html]】

*登壇者(敬称略)
   第一報告 植田今日子(上智大学) 
   第二報告 吉野馨子 (東京農業大学)
   第三報告 坂口奈央 (東北大学)
   コメント 佐久間政広(東北学院大学)
   司会   小松丈晃 (東北大学)
        松原久  (東北大学)
*日時:2020年12月5日(土)13:30〜16:30 
*形式:Google Meetによるオンラインリモート開催

*参加費:1000円(非会員・会員とも、お申し込み不要)
*懇親会費:5000円(要申し込み、東北大学川内北キャンパス bush clover cafe)
*お問い合わせ:東北社会学研究会シンポ問い合わせ窓口 sociology*ml.tohoku.ac.jp (*を@に変更)
報告者
・板倉有紀(福島大学):「コロナ状況が映す個別的ケアの舞台裏と土壌」
・中川恵(山形県立米沢女子短期大学):「農と食のコミュニケーションの今後:協同組合を核とした交流・学習会活動の中止を考察する」
・松原久(東北大学):「コロナ禍における災害支援の展開とその可能性・課題」

コメンテーター
・小松田儀貞(秋田県立大学)
・田中重好(尚絅学院大学)

*参加費:無料(お申し込みはsoc-kenkyu*ml.tohoku.ac.jpまで、ご所属とご氏名を明記のうえ、ご連絡いただきますようお願い致します。(*を@に変更)
*お問い合わせ:東北社会学研究会シンポ問い合わせ窓口 soc-kenkyu*ml.tohoku.ac.jp(*を@に変更)
!!!東北社会学研究会からのお知らせ
{{img reikai1968.jpg,"align='right' border='0px' alt='東北社会学研究会'"}}東北社会学研究会は、新明正道元東北大学教授が戦後長らく公職を追放されていたときに、『社会学研究』の発刊(1950年7月)にあわせて、その弟子たちが作り上げた学術研究団体です。現在では、会員数は200名を越え、全国的に展開しています。

機関雑誌『社会学研究』については、[[雑誌『社会学研究』のページ|東北社会学研究会『社会学研究』]]へ。また、バックナンバーの目次は、すべて[[『研究』既刊号のページ|『社会学研究』既刊号]]で公開しています。







!!研究会例会のご案内

日時:未定 決まり次第更新します。

!!入会のご案内
東北社会学研究会規約をお読みのうえ、下記まで入会申込用紙({{ref kenkyu_admission.pdf}})を郵送してください。
推薦者欄は直筆で、お願いいたします。メール添付やファックスでは受け付けられません。なお、推薦者にお心当たりの無い方は、その旨ご連絡下さい。

〒980-8576 仙台市青葉区川内27-1
 東北大学文学部社会学研究室
 東北社会学会研究会
 E-mail:soc-kenkyu*ml.tohoku.ac.jp (*を@に変更)
 Tel & Fax:022-795-6034

!!!東北社会学研究会規約
+本会は「東北社会学研究会」と称し、社会学研究の促進をはかることを目的とする。
+本会はその目的達成のために次の事業を行う。
++機関誌「社会学研究」の発行
++研究会、講演会の開催
++その他必要と認められる事業
+本会の会員は本会の目的に賛同し、会員2名以上の推薦があり、運営委員会の承認を得た者とする。
**会員は本会の事業に参加し、機関誌「社会学研究」および研究会において、その研究を発表することができる。
**会員は機関誌代を含め、年額5,000円を納入しなければならない。
+本会には次の役員をおく。
**会長 1名 地区委員 若干名 運営委員 若干名 監事  2名
**役員の任期は2年とする。ただし重任は妨げない。
**会長は運営委員会において推薦し、総会において承認する。
**運営委員は会員中より選出し、総会において承認する。運営委員は運営委員会を構成し、庶務、会計、編集の実務にあたる。
**地区委員は支部の運営を担当する。
**監事は運営委員会において推薦し、総会において承認する。
+総会は年1回開催する。
**総会の議決は出席会員の過半数の賛同によって決するものとする。
+本会の経費は、会費、基金収入、寄付金、その他の収入を持ってこれにあたる。
+本会の事務局を東北大学文学部社会学研究室におく。
+本会は各地に支部をおくことができる。
+本会の規約の変更は、総会の議決を必要とする。

!!!役員・運営委員会構成
*会 長
永井彰

*監 事
小林一穂 / 大井慈郎

*庶務委員
神林博史 /  磯崎匡
小松丈晃 / 磯崎匡

*編集委員
小松丈晃 / 山田佳奈 / 清水晋作 / 本郷正武 / 青木聡子 / 永吉希久子/  苫米地なつ帆 / 中川恵 / 松原久 / 上田耕介 / 鈴木伸生
鈴木伸生 / 徳川直人 / 佐久間政広 / 青木聡子 / 本郷正武 / 中川恵 / 松原久 / 上田耕介  / 牛渡亮

*会計委員
菅原真枝 / 高橋知花 
田代志門 / 高橋知花

!!歴代会長
*長谷川公一 (2014〜2017年)
*正村俊之 (2010〜2013年)
*小林一穂 (2006〜2009年)
*高城和義 (2002〜2005年)
*吉原直樹 (1998〜2001年)
*細谷昂  (1996〜1997年)
*佐藤勉  (1992〜1996年)
*齋藤吉雄 (1985?〜1991年)