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『東北大学言語学論集』第11号(2002), pp. 1-8 掲載
キーワード: 慣用句, 語結合, 「博する」
本稿は、まず、現代日本語の動詞「博する」について、コーパスに現れた 実際の使用例をもとにその環境を観察することによってその生起条件を明確に しながら、語義の分析を試みる。ただし、本稿がめざすところは個別の語の記述に とどまるものではなく、これを例として語の結合の定式化と創造性について 論じようとするところにある。
「博する」(本稿においては「博す」の形態を区別しない)は、いくぶん 文章語的ではあるが、現代語として比較的広い範囲のジャンルの文章において 使われている。以下で確認するように、この動詞は半ば固定的な表現において 特に多用されているが、完全に固定されているわけでもなく、慣用句と自立語の 自由な結合との中間的な性質を持っていると言え、語彙体系の在り方の一側面に ついても示唆を与えるものである。
観察に先立って、いくつかの国語辞典においてその語義がどのように 解説されているか確認しておこう。『日本国語大辞典 第2版』(同編集委員会編, 小学館, 2001)は「博する」の語義を以下のように記述している。
1 ひろめる。ひろくする。 2 得る。獲得する。とる。名声・評判などにいうことが多い。 (例文等を省略した)
しかし、この解説にはいくつかの疑問がある。まず、1の語義に付されている 用例は論語から採られたものであるため、これが日本語の歴史の中で認められるに しても、現代日本語において常用されている用法としての記述を意図したものであるか どうか明らかではない。つまり、現代日本語の共時的な語義の記述として、 1の語義を認定できるかは疑問の余地がある。2の語義については、確かに、 挙げられた例文において、語釈として挙げられている語で置き換えることが可能である ように思われる。しかし、目的語として共起する「名声・評判など」は具体的に 何であるのか。それらにはどのような意味的な共通点があるか、なぜ主にこれらの 目的語を伴うのか等も必ずしも明らかでない。
さらに大きな疑問は、語義1と語義2の関係である。すなわち、語義1 「ひろめる、ひろくする」と語義2「得る、獲得する」とは、単純にこの語釈を 見る限りでは、意味的な関連性を認めることが容易ではない。この二つの語義の間に、 通時的なものにせよ共時的なものにせよ、どのような関係があるのか、 理解しがたいのである。
他の一般的な国語辞典をみても、説明はあまり変わらない。例えば、 『集英社国語辞典 第二版』(森岡健二他編, 集英社, 2000)における「博する」の 解説は以下のとおりである。
1 広める 「名声を」 2 得る、手に入れる。「好評を」
また、『三省堂国語辞典 第四版』(見坊豪紀主幹, 三省堂, 1992)は次のように 説明する。
〔文〕1 広く知られる「名声を」 2 得る。「かっさい(喝采)を」
いずれも語義1を現代語の語義として認定しているようである。しかし、 『日本国語大辞典』では語義2「得る。獲得する」の例とされていた「名声を博する」が 『集英社国語辞典』では語義1に属するものとされている点はいささか奇異である。 「名声を博する」と「好評を博する」とをどのような基準によって語義1と語義2に 分類しているのであろうか。さらに『三省堂国語辞典』で語釈として使っている 「広く知られる」は自動詞的表現であるから、「名声を」のような目的語を伴う 他動詞的性格を捉えているとは言えない。語義1と語義2の関係が明瞭でないことは、 『日本国語大辞典』と同様に疑問の残る点である。また、この二つの辞典は単に 例として「名声を」や「好評を」を挙げているだけなので、これがどの程度固定的な、 ないしは自由な結合であるのか、示されていない。
国語辞典の多くがこのような記述をしている中で『新明解国語辞典 第五版』 (山田忠雄主幹, 三省堂, 1997)が他とは多少違った語義を与えていることは注目に 値する。
〔名誉・利益などを〕一人占めにする。博す。「巨利を/名声を/好評を/喝采を」
他の辞典が語義1として挙げる「広める」を『新明解国語辞典』が採っていない こと、および目的語になりうる名詞句に制限があることを明示していることは、 この辞典の特長に数えることができる。この辞典は、少なくともこの語に関する限り、 他と辞典とは異なり、語源をはなれて現代日本語のなかで語義を記述しようとしている と認められる。ここで挙げられた語義「一人占めにする」もまた興味深い。 他の辞典は「得る、獲得する」のような単純な一語の動詞による言い換えをしている のに対して、もっと意味的に複雑な動詞「一人占めにする」によって語釈を試みている ということは、「独占的に、他を排除して、自分だけが」といった副詞的要素が 潜在的に加わっていると見ていると考えられるからである。
『新明解国語辞典』のこの記述にみられる姿勢は、明らかに、他の辞典に 勝っている。しかしながら、この分析が本当に的確であるかどうかは、なお検討の 余地もある。また、いずれの辞典も「〜を博する」を特に慣用句としては扱って いないことにも留意しよう。
従来の国語辞典の多くは、語義の分析を、編者(ないし各項目の執筆者)の内省に 頼っていた。優れた観察眼と分析力を備えた編者の著す辞典は、歴史に残る名著と されることもある。しかしながら、人間の知識や能力には限界があることは 否定できない。数万、数十万におよぶ語彙のすべてについて、内省や個人的な 観察のみによって綿密な記述をなすことは現実には難しいことであろう。
本稿では、内省のみに頼るのではなく、実際の使用例を多数見ることによって、 「博する」の語義をより的確に捉えるための手がかりが得ることにする。 ここでコーパスとして用いるテキスト群のは、 電子書店パピレス (http://www.papy.co.jp/)から購入した188作品 (ファイルサイズ計約39.8MB)と同じくパブリ (http://www.paburi.com)から購入した304作品(ファイルサイズ計約88.7MB)、 総計492作品のテキストデータである。大部分は広範囲の読者を対象に印刷物として 出版された書籍のテキストが電子化されたものであり、現代日本語の書き言葉の モニターコーパスと捉えることができる。本稿の目的では、流通の経路は問題では ないので、特に区別せずに一括して扱う。また、ここでは煩を厭って、 文の形で引用するもの以外についてはテキスト名を挙げることをしない。
もちろんコーパスに基づく議論には限界も多く、数字が一人歩きするようなことは 避けねばならない。特にコーパス中に出現例のない事象の解釈については、 コーパス自体の性質を考慮して慎重に進めるべきであることには常に留意して おかなければならない。
このコーパスの中に動詞「博する」の用例は、131例見いだせた。この実例を見て 気がつくことは、きわめて共起上の制約が多いことである。助詞「を」を伴う 直接目的語が必ず動詞の直前にあるという制約である。より具体的には、 直接目的語と「博する」の間には副詞的修飾語句をはじめとしてなんらかの語句が 挿入されることがなく、また
? 彼が博した名声 ? 名声が博された
のような構文も現れない。なお、
会社の社長や社会的に名声を博した人 あの逸品が世界中で名声を博す理由
のような連体修飾節で現れることには、制約はない。
もちろん、これは調査対象としたコーパスに現れないというだけであって、 統語的に不可能であることを必ずしも意味しない。このように生起する環境に 制約が大きいことは、「〜を博する」がかなり高い程度で慣用句的であることを 示していると考えるべきであろう。
目的語として取れる名詞がかなり限定されていることもまた、「〜を博する」の 慣用句的な性質を示すと言えよう。
直接目的語として生起する名詞は、意味的に限定されていることは、上で 見たように、『新明解国語辞典』も記述している。しかし、多くの実際の用例を 見ることによって、生起しうる名詞の範囲をより具体的に捉えることができる。 それはほぼ三つの部類に分類でき、1は「高い評価」、2は「経済的な利益」、 3は「戦闘や競争(比喩的な場合も含めて)における成功」とまとめることができよう。
その分布は極めて偏っている。
1. 人気 53 (うち「大-」8) 好評 26 (うち「大-」4) 名声 12 喝采 10 (うち「大-」1) 信用 1 激讃 1 絶讃 1 称讃 1 声価 1 推賛 1 2. 巨利 7 巨富 1 3. 勝利 7 (うち「大-」3) 成功 1 (うち「大-」1) 大勝 4 奇勝 3 大捷 1
すなわち、「人気を博する」と「好評を博する」の二通りの 組み合わせだけで全出現例の半数以上を占めてしまっている。これを見ても、 「博する」の慣用句化が進んでいることがうかがわれる。つまり、「名誉」「推薦」 「拍手」のように、語自体としては相当の頻度であり、意味的にも1の部類の語に 類似していると考えられるにもかかわらずここに現れていない語もある。とはいえ、 完全に固定化されている訳ではなく、「推賛」のような頻度の低い語が現れている ように、ある程度の生産性も備えている。
目的語として現れるのは、明らかにプラスの価値をもつ語である。以下のような 例は見られない。
?「評判を博する」 *「悪評/酷評を博する」
さらに、目的語として現れているのはみな漢字語であって、和語やカタカナ語の 例はみられない。これは「博する」がいくぶん文章語的な文体的特徴をもっている ことと関係していよう。ただし、この文体的な制約は直接目的語に対する制約としては 働くが、文全体が文章語的な文体をとっていることまでは要求しない。いわば 局所的な制約にとどまっているのである。これも「〜を博する」の慣用句的性格を 示すものと言える。
? 富を博する ? 勝ちを博する 下ネタギャグで大人気を博した番組といえば、『志村けんのだいじょうぶだぁ』。 びっくりデータ情報部『テレビの裏側打ち明け話』(河出書房新社, 1994) 任天堂は、ゲームセンターで大人気を博した「ドンキー・コング」をぶつけてきた 大下英治『ゲーム戦争〜遊びを創造する男たち〜』(光文社電子書店, 2000)
『日本国語大辞典』は『花柳春話』(1878-1879)からの例として 「終に豪商の名を博(ハク)す」を挙げているが、このように和語が目的語になっている 例は、ここにはみられないのである。この意味でも結合が固定化していると言える。
目的語には強調の語句が付く場合も目立つ。上の表に挙げた語自体、「大人気」 「大好評」「激讃」、「絶讃」、「巨利、「巨富」、「大勝」など、強調の意味を 含むものが目立つが、「大きな人気」、「奇跡的勝利」、「世界的名声」などのような 自由な結合も数多い。
また、「博する」のとる形態もかなりの偏りが見られる。実際に現れる語形は 以下のとおりである。
博した (終止形) 35 博した (連体形) 30 博している/た 19 博し (連用中止法) 16 博す/する (終止形) 13 博する (連体形) 8 博してきた 3 博したり 1 博すべき 1 博そう 1
つまり、「博する」はすでに終結した過去の出来事について 使われることが多いのである。もちろんこれは、「博する」のみに特有のことでは なく、多くの動詞についても言えることである。しかし、例えば、未然形が 現れないこと、すなわち否定形がないことに注意したい。これに関連して、 「博する」を含む文はほとんどが平叙文であって、否定文、疑問文がほとんどない ことも、特徴の一つに挙げられるであろう。次がわずかな否定的な文の例であるが、 いずれも否定辞が「博する」に直接ついてはいるわけではない。
本家の味はあまり人気を博するところとはならなかった。 中野不二男『アボリジニーの国』(中公新書, 1984) 名声を博するというには程遠い。 中村紘子『 ピアニストという蛮族がいる』(文春ウェブ文庫, 2001) 兵器として人気を博するには至らなかった。 吉田満・原勝『ドキュメント戦艦大和』(文春ウェブ文庫, 2000)
結局、「博する」が取りうる目的語には、意味的な制約と文体的な制約が複合的に 関係していると言える。そしてこの組み合わせはかなりの程度まで慣用句化して いるので、「博する」の意味を取り出すよりは、例えば、「名声を博する」の意味を 論じる方がはるかに容易である。そして「名声を博する」はおおよそ 「名声を獲得する」と言い換えられるから、「博する」の語義を「得る、獲得する」と 記述することになる。多くの国語辞典の執筆に当たった行われた思考のプロセスは 以上のようなものであったろう。
しかし、目的語になれる名詞に大きな制約があることを考えると、単に 「得る、獲得する」とのみ言い換えておくのは、語義の記述として明らかに 不十分である。かりに「得る、獲得する」が基本的な語義であるとすれば、 その行為の対象にこのような大きな制約があることを合理的に説明できない。
一方、上で見たように、『新明解国語辞典』は「博する」に「一人占めにする」と いう語釈を与えていた。これは、「取る、得る」のような動詞に「本来多くの人に 渡るべきものに関して、独占的に、他を排除して、自分だけが」といった副詞的要素が 潜在的に加わっていると見なしていると考えられる。この解釈が妥当であるためには、 押しのけるべき「他人」の存在が文脈上含意されていることが必要であろう。 しかし、このような場合は実例の中で明瞭には見いだせない。したがって、 「一人占めにする」による言い換えは妥当であるとは考えにくい。
ここでは、むしろ、上で見た目的語における強調の語句との親和性の高さに 注目すべきであろう。つまり対象の大規模さは「博する」が使われるための条件の 一つなのである。
さらに併せて考えるべきこととして、とりわけ1の場合に顕著だが、 目的語で示される高い評価を下す主体が無特定多数であること、あるいは広い範囲に 及ぶことを指す語句が表れている場合が多い。「一般大衆の喝采/好評」、 「人々に人気を博し」「全員の喝采」「大向こうのカッサイ」「全国的な名声」 「世界中で名声を博す」「世界的名声」がそれである。また、「フランスで」のような 相当の広がりをもった場所をしめす表現が共起している例も同様である。逆に、 特定の個人による高い評価であることを明示する例は極めてまれであり、 次のような例は孤立している。
「私は船長から、以来、格段の信用を博した」 戸板康二『新 ちょっといい話』(文春ウェブ文庫, 2000)
このような例を見れば、「博する」の語義は、むしろその行為の大規模さ、 広汎さに求めるべきであろうと考えられる。「博する」の現代語の語義として 「広める」を認めることは無理があるし、通時的な考察は本稿の範囲を越える。 しかし、共時的にのみ考えても、形態素「博」は「博学」、「博識」、「博覧」、 「博愛」に現れ、人名「ひろし」にも使われることから、形態素「博」に 「広い、広範囲の」といった意味を認めることができる。しかも、具体的な面積の 広さではなく、抽象的があまねく、申し分なく全体に及ぶさまを表しているのである。
動詞「博する」もそれとの意味的なつながりを有していると考えておくことに 無理はなく、全く自然である。結局、「博する」を取り出して語義を記述すると すれば、「申し分なく、広い範囲で、全体的に行われる」となろう。「申し分なく」は 「主体にとって好意的に、利益になるように」と近い。これによって、 「〜を博する」が取る目的語の範囲について、無理のない説明が可能になる。
「博する」の意味が大規模さを明示するところにあるので、それに疑問を 挟んだり、否定したりすることはあまり起こらない。これが「博する」が疑問文や 否定文に現れにくい理由である。
語彙項目には、慣用句という種類がある。例えば、典型的な慣用句「手を切る」は 全くバリエーションを許さない。例えば、「右手を切る」「手を切断する」には 文字通りの解釈しかなく、「足を切る」には慣用句としての「手を切る」に対応する 解釈はない。「うだつが上がらない」の「うだつ」のように、現代語としては 特定の慣用句でのみ使われて、それだけで意味を取り出しにくい「語」もある。 「手を切る」や「うだつが上がらない」は語彙のレベルで一単位としての記述を 必要とする。一方、「手を切断する」のような全くの自由な結合は語彙のレベルでの 記述は必要ない。
「〜を博す」はその中間段階にあり、両方の捉え方ができるようである。 「人気/好評を博する」において、「人気/好評」は明らかにそれ自身の意味を 保っている。ここに注目すれば、これは自由な結合であり、全体の意味を知るためには 「博する」の語義を知っている必要がある。一方、「博する」の生起の条件は いくつかの点で厳しく制約されており、その意味で目的語と一体となった形で 慣用句としての性格を持っていると見ることもできる。このように考えれば、 「人気を博する」全体の意味を記述すれば足りるのであって、「博する」の語義に こだわる必要はない。
本格的な通時的考察は本稿の対象外であるが、最後に慣用句的な固定化の プロセスについて考えよう。『日本国語大辞典』が挙げる『鍳禅画滴』(1852)の 例文「然れども外に現れて浮誉を一時に博するは水上の泡沫なり」は、目的語の選択や 副詞的要素の挿入の点で現代語的制約に合致していない。つまり、かつて、 漢文の影響を強く受けた文章で「博する」はより自由な結合において生起することが できたと考えられる。その後、次第に自由度が減っていき、慣用句への固定化が 進行しつつあると考えられよう。
このことは言語が創造性と定式性の間でゆらいでいることの一つの現れと 見なすことができる。
(東北大学大学院文学研究科言語学講座 助教授)
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