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『東北大学言語学論集』第22号, pp.15-28. 掲載

【資料紹介】1941年の朝鮮語実験音声学論文

後藤 斉
キーワード: 岡本好次,カイモグラフ,平音,激音,濃音

1.はじめに

ここで紹介するのは、岡本好次(おかもと・よしつぐ)による論文「朝鮮人の朝鮮語および国語の発音比較研究(第1報) 破裂音の有声・無声・有気について」(『日本学術協会報告』16巻2号, 1941, pp.302-306. 以下「岡本論文」と略す)である。朝鮮語のいわゆる平音・激音・濃音についてカイモグラフを用いて実験調査した結果の報告を主な内容とする。

朝鮮語の平音・激音・濃音の区別は、この言語に特徴的な現象として朝鮮語音声学における大きなテーマである。その音声的実態は現在でも十分に解明されているとは言えず、研究者の関心を引き寄せ続けている。韓(2013)を参照。

岡本論文はこのテーマに実験音声学からアプローチした論文として最初期に属するものであり、文字通り最初のものであろうと推定することもあながち不当ではない。この分野の先駆的な論文としては、通常、Lisker & Abramson(1964)や梅田・梅田(1965)が挙げられるが、岡本論文はそれに20年以上も先行するからである。

にもかかわらず、この論文の存在は朝鮮語音声学において知られていないようだ。これが専門家の目を逃れてしまった要因としては、著者が朝鮮語学の専門家ではなかったこと、発表学会(誌)が言語系の論文が多く発表される場でなかったこと、論文のタイトル(特に、副題を除いたメインタイトルのみ)からは論文の中心的内容、とりわけその実験音声学的手法が明確には伝わらないこと、さらに、発表後しばらくして太平洋戦争が始まり学術的な活動全般が停滞しがちになったこと、などが挙げられよう。

『日本学術協会報告』自体は決してめずらしい刊行物という訳ではなく、(前身校を含めて)戦前に遡る歴史を持つ少なからぬ大学の図書館に所蔵されている。岡本論文の抜刷が東大の文学部図書室に所蔵されているのは、岡本本人が寄贈したのであろうか。いずれにせよ、岡本論文はこれまで図書館資料の山の中に埋もれていたのであった。

この論文の内容が本来の分野において現在でも引用に値する学術的価値を保っているかどうかについて、筆者は述べる資格がない。しかし、これが朝鮮語音声学の研究史からまったく忘れ去られてしまうのも残念であると考え、ここに再録して、紹介する次第である。なお、次節で述べるとおり、著者の岡本好次は1956年没であり、すでに著作権は消滅している。

2.著者岡本好次について

岡本好次(1900~1956)は三重県の出身である。京都の三高を出て、さらに東京帝大医学部薬学科を1924年に卒業するが、文学部に入り直して言語学を学び1927年に卒業するという、異色の経歴の持ち主である。大学卒業後まもない時期の音声学関係の報告として、出身地の方言を扱った「伊賀阿山郡地方の音について」(『音声学協会会報』13~14号, 1929)がある(ただし、あまり体系的な記述ではない)。

改めて言語学を修めたことには、三高時代にエスペラントを学び、大学生になってから日本エスペラント学会の活動に積極的に関わったことが大きく影響している。その後の彼の人生においてもエスペラントは大きなウェイトを占めることになる。早くも1926年には『新撰エス和辞典』(日本エスペラント学会)を編纂し、これは改訂を経ながら長く日本における標準的なエス和辞典の地位を保つことになった。文学部卒業後に一旦は教職に就くが、1932年3月日本エスペラント学会の専任の書記長に就任して、エスペラント運動に専念した。

岡本は書記長として会の運営の実務やエスペラント普及活動全般において貢献したが、エスペラント語学関係の文章も多く著した。言語学の専門知識を生かしたと考えてよいが、大部分は一般読者向けの文章である。『新撰和エス辞典』(日本エスペラント学会, 1935)を編纂したほかに、教科書類の著述や雑誌への寄稿も数多い。また、薬学方面の知識を生かして『日本薬局方エス・羅・日・独・英・仏薬品名彙』(南江堂書店, 1930)を共編したことも触れておこう。

1937年4月岡本は日本エスペラント学会書記長を辞し、朝鮮に渡る。生活設計を考えて、恩給に外地加算のつく朝鮮を選んだと伝えられる。岡本論文を著すのは朝鮮においてであるが、朝鮮での活動は次節にまとめて述べる。

岡本は1943年12月に故郷の三重に戻り、1944年津工業学校教諭をへて、戦後の1948年上野南高校の校長に就く。1949年には名張高校に移り、第2代校長として学科の整備、校舎の増築など同高の新制高校としての充実に尽力するが、在職のまま病魔に倒れ、没した。没後間もなく同高に建てられた「岡本好次記念碑」(1957年4月竣工)にはエスペラントと日本語で「Unu Tero Unu Mondo / 地球は一つ世界も一つ」と刻まれている。

小原編(1969)は三重県の章に「教育の機会均等と岡本好次」の節を設けて、その「教育に燃ゆる熱血漢」ぶりを紹介している。「教育は機会均等だ。志望者は皆受入れる」との主張を伝え、「職員の面倒はよくみ、非行生徒があっても退学させなかった」と記すなど、岡本の校長としてのスケールの大きさを印象づける記述がならぶ。

三重に戻ってからの岡本のエスペラント活動は、東京在住時に比べれば勢いは失われたが、語学力と見識を備えたその発言は重きをなし続けた。戦前のエスペラント雑誌に掲載された一般読者向け語学記事を中心とした文章が『エスペラント言語学序説』と題する1冊にまとめられて、1948年に大阪エスペラント会から謄写版で刊行された。付録として「岡本好次エスペラント著作集」と題する、同年3月までのエスペラントおよび言語関係の著作一覧(ただし、網羅的ではない)が添えられている。のちに岡本(1992)として活字本として編集しなおされて再版されるにあたり、著作一覧にその後の文献が追加され、長男岡本信弘による「父 岡本好次のこと」が付された。

日本におけるエスペラント運動の歴史を語る際、岡本の名前は欠くことができない。日本エスペラント学会の『La Revuo Orienta』誌は1956年5月号に「岡本好次氏追悼特集」を組んだ。当然のことながら岡本は多くのエスペランティストの回想や歴史叙述の中に登場する。初芝(1998)、峰(2013)などである。筆者が岡本論文を再発見するに至ったのも、柴田・後藤編(2013)を編纂する過程においてであった。

3.朝鮮時代の岡本

1937年に朝鮮に渡って岡本がまず就いた職は京城師範学校教諭である。1941年8月には京城法学専門学校に移り教授となる。なお、この学校の生徒は比較的朝鮮人の比率が高く、同年には内地人93名に比して朝鮮人155名である(同校編『京城法学専門学校一覧 昭和16年度』)。岡本は、しかし、1943年に辞職して故郷の三重に戻ることになった。

岡本は植民地において国語教育に携わったのであるが、その行動については、韓国人エスペランティストの間に興味深いエピソードが伝わっている。韓国エスペラント運動史の通史である金(1976)は、エスペランティスト洪亨義の1946年の記述を典拠として、こう語る。「1939年4月に敢行された朝鮮語廃止は事前にこの「国語審議委員会」を通過せねばならなかった。…この審議会の席上で、自然語としての民族語(韓国語)抹殺の非理を指摘して、反対意見を開陳したのは、Esperantisto岡本一人だけであった。この事件により彼は狂乱期の日帝によって教職を剥奪され、日本に追放されてしまった」(金 1976: 229. 後藤の日本語訳)と。新たに刊行された韓国エスペラント運動史であるイ(2003: 67)もこれを踏襲する記述をしつつ、岡本を朝鮮人エスペランティストにとって「벗」(友)であった日本人エスペランティスト数名の一人に数えている。

1938年に朝鮮教育令により朝鮮語が小学校での必修科目から外され(三ツ井 2010; 山本 2012)、その後朝鮮語教育が廃止されるに至る過程での出来事ということになる。宮本(1977)が注目したように、見過ごすことのできない記述である。しかし、これを文字通りに信じることはできない。そのような社会的にもインパクトのある事件が起きたのであれば、より広く話題になっていてしかるべきであろう。そもそも蒲(2005)が慎重に指摘しているが、当時の朝鮮総督府に国語審議委員会なる機関が存在したかは疑わしい。また、岡本が日本に戻るのは1943年であり、1939年からはかなりの時間差がある。

城内(1982)の回想では、岡本の朝鮮時代について「知り合いの総督府教科書編さん官からの私信によれば」として次のように事情が語られている。すなわち、「岡本教授はかねてより朝鮮語の言語学的分析研究に努め、その優秀さを立証しようとしたが、そのことが、朝鮮人の皇国臣民化と朝鮮語の究極的廃絶を企図する総督府の忌避するところとなり、それに呼応して岡本教授の排斥運動を起したのが、何と右翼的な一部の朝鮮人学生と教授だった」と。

岡本の排斥についてもさだかでないが、法学専門学校内での、特に校長との対立に触れる史料はほかにもある。例えば、『La Revuo Orienta』誌「岡本好次氏追悼特集」所収の年譜は次のように記す。

1943 12月 退職。朝鮮人学生の味方をして校長と争い、「増田の道義(校長の名)が勝つか岡本の正義が勝つか」と言われたが、校長は警察関係にたいする私的勢力を利用、警察の手で岡本を朝鮮から放逐する。郷里阿山に帰る。

また、岡本(1992)所収の「父 岡本好次のこと」も校長との対立についてふれるが、さらに「戦争の遂行に対する不服従といったようなありもしない事実のでっち上げで警察に留置されるといった一幕」にも言及している。子息は当時は幼少であったから、長じてから両親から聞いた話であろう。

これらの史料がどこまで歴史上の真実を伝えるものであるか、確かめることはほとんど不可能である。しかし、エスペランティストの間では朝鮮人の側と日本人の側の双方にこのような伝承があるということは、何かしらそれに近い事実があったことを推定する蓋然性を高める。すなわち、(少なくとも一時期は)岡本は朝鮮語を学問的な態度で追究した(また、朝鮮語擁護の姿勢を見せた)こと、岡本の態度が総督府の側の忌避に触れたこと、体制側からの追放に近い形で朝鮮を離れたこと、などである。リベラリストであった岡本が、内務官僚出身で皇民化政策を忠実に推進しようとする校長増田道義と折り合いが悪かったことは、容易に想像できる。

岡本(1992)の著作一覧に記載されているように、朝鮮時代の岡本には本稿で紹介する岡本論文以外にも著述がある。うち4編は朝鮮における国語普及・常用を推進することを目的とする緑旗連盟の機関誌『緑旗』への寄稿で、山本(2012)にも言及がある。ただし、比較的早い時期の岡本は、朝鮮での日本語の普及それ自体を論じようとはしていない。

例えば「朝鮮の初等教育に於ける仮名遣」(『国語運動』2:1, 1938: 32-26)は、歴史的仮名遣いの難しさという日本語の側の問題を論じたもので、「母語を異にしてゐる者に国語(日本語)を教授する必要上から見て出来るだけ国語を学び易いものにすることは必要なことである」としめくくるのである。「国語問題の現状とその将来」(『緑旗』1940.8: 175-183)も、やはり、仮名遣いに加えて漢字の複雑さや公文書での難解な文語の使用など、日本語の側の問題を論じたものである。

朝鮮総督府編『ヨミカタ 一ネン上 教師用』(朝鮮総督府, 1942)所収の「国語音声学概要」は、無署名であるが、岡本の著述である。「発音器官」から始めて35ページにわたって一般音声学と日本語音声学を概観しているが、うち11ページが「国語朝鮮語の両語の音韻比較」に充てられている。十分に学術的であって、初等教育の教師の多くにとっては専門的過ぎて咀嚼しにくかったであろうと思われる内容である。

しかし、このころ以降の岡本の著述は、その扱うテーマと論調に変化を見せ、朝鮮ないし大東亜圏における日本語の普及を強く意識したものになる。「国語全解運動に送る」(『緑旗』1942.7: 510-524)と「国語全解運動」(『外地評論』1942.9: 36-44)では、積極的にこの運動を推進する姿勢を見せている。後者における「従来官庁方面では国語未解者のためつとめて諺文で統刷[ママ]したものを配布してゐた。国語全解運動の立場からいへば今後は一切やめてもらひたい」との言は、朝鮮語擁護の姿勢とは反する。

「朝鮮における国語普及」(『コトバ』5:4. 1943: 60-71)も、明らかに同化主義の立場から「国語普及」を論じたものである。蒲(2005)が指摘するほか、この時期の言語政策を論じた関(1997: 45)、安田(1997: 159, 163-164)、安田(1998 : 168-169)、古川他(2007: 115)などでも、同化主義の言説の典型例として、断片的にせよ、言及、引用されている。

このような岡本の著述に見られる変化について、ここでこれ以上論じることは控えたい。変化の要因を憶測なしで語ることはできないであろう。

4.岡本論文について

岡本論文は、日本学術協会が1940年に第16回大会を京城で開くのを好機として口頭で発表し、それを活字化したものである。この協会は学術の総合的振興を目的とした民間団体であったが、設立準備の段階から自然科学とその応用が重視されていた。目次に示されているように、当該号でも人文科学系の論文発表はきわめて少ない。発表時点での岡本の所属は京城師範学校である。

研究の目的として、「緒論」において朝鮮人の日本語発音の矯正と音声学的な関心との二つが挙げられている。もっとも、論文末尾に付された質疑での答えでは、実験音声学の考察をもとにした発音矯正については「まだ考へてをりません」とそっけなく、これは岡本にとって実際には主要な関心事とはなっていなかったように読みとれる。

岡本の『緑旗』への寄稿のうち「国語の清濁音の区別」(1942.3: 533-539)と「半島人の国語の発音」(1942.6: 349-355)は、岡本論文を知る編集部からの依頼で寄稿したものらしく、岡本論文での知見を一般読者向けに敷衍し、あるいはその背景を説明したものであり、実験音声学的手法を採用した意図がより詳しく述べられている。それによれば、発音の矯正にむけての基礎研究とするところにあったらしい。その意図を理解するために、少し長くなるが引用しておきたい。

私の考へでは内地人の耳は生まれおちるとから国語の音韻をきゝわける訓練を十分うけてゐるのだが、朝鮮語の音韻をきゝわけることができない状態にある。然るに一方半島人側では…その耳は朝鮮語の音韻をきゝわけるのには適するやう訓練をうけてゐるが、国語の音韻については十分な耳の修練を積んでゐない。だから内地人の耳できいた観察と半島人の耳できいた観察の両方を比較して話し合つてみると、その間には相当食ひちがつたものが出てきます。

…かういつたやうに両者の耳の性能に相違がありますから、内地人の耳で半島の人々はかういつた発音の誤があるといつてもそれは必ずしも、肯綮にあたつた観察でない場合もありはしないかと考へたのです。それで実際にどちらの耳にも片寄らないで真実の誤はどこにあるのかを調べるには、耳できいた観察だけでは水掛論に終つてしまふと考へたのです。  (「半島人の国語の発音」p.350)

論文のタイトルには「朝鮮人の朝鮮語および国語の発音比較研究」とあり、「緒論」によれば、朝鮮人の朝鮮語と日本語の発音、日本人の日本語の発音をカイモグラフを用いて実験音声学的に分析し、その異同を明らかにすることが計画されていたようである。この第1報は、その主要部では朝鮮語の平音・激音・濃音の発音の違いに関して被験者十数名から調査した結果を報告しており、著者らが発音した日本語音との比較を行っている。

朝鮮人の日本語発音については「まだ試みた回数も少なく発表の時期ではないので今後に譲る」とあるが、「第2報」以下が書かれることはなかった。「半島人の国語の発音」によれば財団法人東照宮三百年祭記念会から補助金を得て研究を続行する計画があったようだが、その後の経緯は不詳である。

カイモグラフはフランスのルスロにより開発された機器で、戦前期における実験音声学に用いられた標準的な道具立ての一つであった。この手法は1920~22年にロンドン大学に留学した兼弘正雄によって日本に伝えられ(都築 1980)、兼弘(1928, 1932)などにより日本語にも適用され、日英対照的な考察もなされた。

「緒論」には、さらに、岡本は1937年秋からカイモグラフによる実験を企て、その使い方について九州帝大心理学教室で佐久間教授と熊谷副手から実験法の指導を受けたとの記述がある。朝鮮で師範学校の職に就いて間もない時期ということになる。

参考文献として、佐久間鼎と小倉進平の音声学書と兼弘(1932)のほかに、熊谷(1939)が挙げられている。これは、上述の「熊谷副手」による日本心理学会第7回大会(1939, 東京)での発表要旨で、破裂音を日本語と中国語および台湾人による日本語発音の間で比較しようとしたものだが、きわめて短く、実験方法に関する具体的な記述がない。帯気や有声の程度および破裂と声帯振動の時間差を観察していることから、この研究でもカイモグラフを用いたのかと思われる。

岡本は実際の実験では京城帝大心理学教室の装置を使わせてもらったとのことである。とすれば、他にもカイモグラフを朝鮮語音声の観察に用いた人がいた可能性がある。しかし、これは憶測の域を出ない。

カイモグラフは一般に口腔、鼻腔、喉頭の振動を記録しており、声帯振動や気息流出の状況を検討することを可能にする。岡本論文では、必ずしも独創というわけではないが、他に「口中」の記録をも取っているところに工夫が見られる。

分析の結果として、激音がすべて声帯振動の開始が顕著に遅れる第5型に分類されたことは、当然と言えば当然であるが、この事実を実験的に示したことはこの時期として意味があることであろう。一方、濃音はすべて第3'型であったとされるが、カイモグラフの結果からは第3型と明確に区別されてはいないようで、「詳細は他日を期したい」と述べている。平音については、意外な結果であるとして、ᄇとᄀ、ᄃとが平行関係になく、ᄇがより大きな多様性を示していることに注目し、その理由について考察している。

上述のとおり、岡本論文に対して朝鮮語音声学の現状に照らした評価を下すことは筆者の任ではない。岡本論文が研究史の中になんらかの形で留められることを望むのみである。

付記

野間秀樹、宇都木昭、韓喜善の各氏には、岡本論文の朝鮮語実験音声学における位置づけについて参考意見をいただいた。記して感謝を表する。

補足

国立公文書館のデジタルアーカイブ

「朝鮮総督府京城法学専門学校教授岡本好次休職ノ件」と題する文書(1943年12月07日づけ)が保存されていることがわかった。内務大臣が内閣総理大臣の東条英機に岡本の休職を認可するよう求めた公文書である。休職事由には「校長ノ教育方針ニ従ハザルノミナラズ陰ニ同校学生ヲ𭈓[口使]嗾扇動シテ校長排斥ノ挙ニ出デシムル」ということがあり、しかも朝鮮総督府からの指示にも従わなかったので「教育者トシテ甚ダ不都合」であるということだ。しかし、おもしろいのは、「一面同校長ニモ否ナシトセズ今直チニ本人ノミ被免スルコトハ却ツテ学生ヲ刺戟シ徒ラニ校内ヲ紛糾セシムベキニ付」と岡本のみを処罰することは不都合であると付け加えられていることだ。そこで「両人ノ処断ヲ一応将来ニ留保シ取敢ヘズ本人ノミヲ休職」させることになったとのことだ。

岡本が日本に戻った経緯が具体的に語られている訳ではないが、校長と対立したこと、体制側さえ校長にも「否」を認めていること、および学生が岡本の側についていたことの証拠が得られたことになる。

参考文献

(東北大学大学院文学研究科 教授)
岡本論文 (pdf版)

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