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『エスペラント』(La Revuo Orienta) 第80巻(2012)7月号, pp.. 掲載

世界人マラン

後藤 斉



"G. Marin vizitas sian hejmon
―la mondon"の表紙

「世界人マラン」とは、中垣虎児郎が『モダン日本』誌1936年8月号に寄稿した文章のタイトルであるが、借用させていただく。ヨーロッパからアフリカ、アジアにかけてできるだけ徒歩で旅行して日本に至り、1935年8月から36年6月まで滞在したベルギー人、ガスパール・マラン(1883~1969)のことである。

旅行の目的を「一切の生産物を調査研究する為」と告げ、あまりに漠然とした答えに中垣は一種の妄想者かと思ったと言う。しかし、話を聞くうちに、妄想でも単なる好奇心でもなく、「科学的根柢に立つた探究者」であることを了解したとのことだ。La Revuo Orienta 1935年10月号は「八月二十八日は例会日だつたのでその晩学会へ来てもらつた。講義の後でエチオピヤ訪問の面白い旅行談で一同を抱腹絶倒せしめた」と伝える。その話を生で聞いてみたかったものだ。

マランにとっても日本は探究心を刺激する場所であったのだろう。一週間ほどの滞在の予定が10カ月に伸びた。戦争に向かおうとする世情の中で、エスペラントを介しての知的交歓がまだ可能だったのだ。

中垣以外にも報告や回想の中でマランに触れている日本人エスペランティストは少なくない。小寺廉吉、比嘉春潮、坪内由市、杉田正臣などである。それらの回想からは、マランが風変わりな人物ではあるが、不思議な魅力を備えていたことが伝わってくる。

この人物についてはこれまで断片的にしか知られておらず、謎に包まれた部分が多かった。調べるうちに見えてきた意外なつながりも含めて、紹介してみたい。

マランの全体像を最もよく伝えているのは、Gaspard Marin,“G. Marin vizitas sian hejmon―la mondon”(Zagreb: Internacia Kultura Servo, 1974)であろう。ユーゴスラビアのマリンコ・ジヴォイェが彼の没後に日誌(ないしフィールドノート)の抜粋をまとめ解説をつけて刊行した80ページの小冊子である。そのほか、さまざまな情報を総合すると、おおよそ以下のようになる。

ベルギーの裕福な家の出であるマランは、大学で地理学者エリゼ・ルクリュから学問的および思想的な影響を受け、人間への関心を深める。1914年には第一次大戦を逃れてイギリスに渡り、その後、大英博物館で働いたとも伝えられるがはっきりしない。結局は南イングランドにあるトルストイ主義的アナキズムの実践地ホワイトウェイ・コロニーに入り、定住することになる。

民族誌研究家というのが近いのだろう。学会や学術雑誌と全く無縁という訳ではなかったようだが、基本的には学界から距離をおいて、自身の関心に基づいて調査し、多くの記録を残し、資料を収集した。その資料は没後に大英博物館に寄贈された。

それまでもヨーロッパの各地を数度旅行していたが、1928年からはヨーロッパからエジプト、ソマリア、インド、中国、日本、ソ連、ペルシャ、ユーゴスラビアなどを巡って38年に戻る、10年がかりの大旅行になった。彼はポリグロットであり、訪問先の言語も必要なフレーズはすぐに覚えてしまうことができたが、エスペラントも利用した。彼は1899年以来の古いエスペランティストだった。

上で挙げた日本人のうち小寺廉吉はこの旅行以前にマランに会っている。1926~28年フランスを中心に在外研究をした小寺は、26年の第18回世界エスペラント大会(エジンバラ)でマランと出会い、そのコロニーを訪問した。経済地理学者であり、少年期に大杉栄からエスペラントのほかアナキズムの薫陶も受けていたので、マランとは相性がよく、コロニーにも関心を覚えたのだろう。二人の連絡はその後も続き、マランは大旅行中にも小寺に消息を伝えていた。

東京で彼を主に世話したのは比嘉春潮であった。比嘉が民俗学者であることは、マランにとって願ってもない幸運であったろう。マランの希望を的確に理解し、調査に協力したようだ。比嘉もその自伝において、長いエスペラント生活の中で最もよい印象を残した人としてマランを紹介している。

マランは、どこで知ったのか、希望して武者小路実篤の「新しき村」の東京事務所にも連れて行ってもらった。ホワイトウェイ・コロニーとの類似性を見たかったのであろう。たまたまいあわせた武者小路との会談を通訳してもらっている。のちには宮崎の「新しき村」も訪問した。

比嘉は柳田国男門下である。とすれば、比嘉はマランを柳田国男に引き合わせただろうか。十分ありそうではあるが、比嘉はそこまでは伝えてくれていない。

しかし、小寺が柳田を追悼する文章で「マラン君は…東京では柳田先生の処によくお伺いし集会にも出た」と書いていることがわかった。小寺は1935~36年当時は富山県の高岡高等商業勤務であるので伝聞情報の可能性が高そうだが、小寺は36年4月6日の柳田宅での例会に出席が確認できる。小寺と柳田との関係を考えあわせれば、信憑性は十分にあると考えてよい。小寺はかつての朝日新聞社勤務で柳田と面識があり、学者としても柳田の調査に協力していた。小寺の弟融吉(民俗芸能研究家)を介したつながりもあった。

マランが柳田国男と会ったとすれば、マランは柳田にエスペラントで話しかけただろうか、ひょっとして柳田もエスペラントで答えなかっただろうかと、想像をふくらませることもできる。残念ながら、その答えは得られない。

マランは旅行中の綿密な記録を残したが、自ら公刊することはなかった。本の形になったのは、上述の“G. Marin vizitas sian hejmon―la mondon”だけである。日本については、比嘉の助けを借りたという南部盲暦の紹介が図版いりで掲載されている。

考えてみれば、これが没後5年たってからユーゴスラビアで刊行されたことも、エスペラントならではの出来事であろう。タイトルは、自著が公刊されることがあればつけたいとかねてマランが望んでいたものであるという。世界人マランにふさわしい。

彼の最期の言葉は"Mi estas filiĉa, tre feliĉa. Mi faris dum mia vivo tion, kion mi intencis fari kaj nun mi estas preta forlasi la vivon."と伝えられる。その企図の実現の上でエスペラントが大いに有効であったことは疑いない。他人にはマランと同じ関心を持ち同じ行動をとることはできないが、エスペラントで自分の人生を豊かにし、周囲の人にも大きな影響を与えたという点で、模範と見ることができる。エスペランティスト冥利に尽きる人生を送ったと言えるだろう。

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