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『月刊言語』第30巻(2001)2月別冊号「言語の20世紀101人」, pp.16-17 掲載

計画言語の可能性を実証した
ザメンホフ (Lazaro Ludoviko Zamenhof, 1859-1917)

後藤 斉


ザメンホフはエスペラントの創始者として知られている。 エスペラントは「人工語」と呼ばれることがあるが、他の多くの 「人工語」とは異なり、エスペラントのみが単なる案の域を脱して、 それを使う一定規模の持続的集団―言語共同体―を形成することができた。 これは類例のない社会現象である。この意味でエスペラントは 計画言語の名称がよりふさわしく、ザメンホフの最大の功績は そのような言語が成立しうることを実証したところにある。 なぜエスペラントのみにこれが可能であったかは、 様々な歴史的要因と偶然が関係したに違いないが、 ザメンホフの個性に一因があったことも疑いない。

【言語案から計画言語へ】エスペラントの歴史は、 公式には、エスペラント博士の筆名で発表された『国際語』 (1887)から始まる。永年温めていた国際語の案を公に提案する際、 彼はエスペラントに対する提唱者としての特権を放棄した。 ロシア帝政下のポーランドという地は運動を組織するには政治的・ 地理的な制約が多すぎたが、それ以上に彼は言語には指導者よりも 使用者の方が重要であることを直感的に知っていたのである。 その後の彼は、国際語の理論的考察を著しながらも、むしろ雑誌編集者、 翻訳家、著述家、そしてまれに見る筆まめとして、つまり実際の使用を通して、 エスペラントの可能性を世に示した。雑誌に連載され、 没後に単行本にまとめられた『語学問答』(1925)では、 言語の規範を示すよりは、表現の可能性を広げようとする彼の態度が 明瞭に見て取れる。

エスペラントが案の域を脱して言語として成立した日時を確定するのは 不可能であるが、1905年の第一回世界エスペラント大会を一応の メルクマールとすることができよう。この年、フランスの ブローニュ・シュル・メールに集まったエスペランティストたちの 大部分は初めて、エスペラントが(それまで主に使われていたように) 雑誌や書籍、手紙など文字言語としてだけでなく、会話や演説、 演劇など音声言語としても十全に使えることを実感した。

この大会では、ザメンホフの起草の下に「ブローニュ宣言」が採択され、 これはその後のエスペラントの言語面と運動面とを規定することになる。 言語面では、『エスペラントの基礎』(1905)によって、少数の文法規則と 約1800の形態素および若干の例文集を言語の骨格部分として変更不可と 規定した上で、それ以上の言語の発展を実際の言語使用にゆだねることとした。 「変更不可」ということは言語学的に疑問の余地があるが、 これは人工語にありがちな恣意的な改造をふせぎつつ、 言語の自然な発展の可能性を保障するという意味があった。

これによってエスペラントという言語はザメンホフを越えて 存続していくための基盤を得たと言えよう。エスペラントの言語共同体は 20世紀のあいだ国際情勢の変化の荒波を受けるが、言語としては安定を保ちつつ、 時代に適応した語彙を得て、文体と表現力を豊かにしていくことになる。

【早すぎた人権思想】一方、運動面において「ブローニュ宣言」は、 エスペランティストを「どのような目的に使うかにかかわらず、 エスペラントを知り、使う人」と定義し、エスペラント主義を 「異なる民族に属する人々の相互理解を可能にする、中立的な言語の使用を 広める努力」とだけ規定した。つまり、それ以上の思想信条が エスペラントやエスペラント主義と結びついて語られるにしても、 それは純粋にその個人の問題である。エスペラントが言語である以上、 あらゆる目的のために使えて当然である。

ザメンホフの肖像

ザメンホフ

しかし、ザメンホフは単に便利な道具としてエスペラントを 提唱したのではない。根底には人類愛やすべての民族の平等という 少年期の素朴な理想主義があり、それを実現するための中立的な言語を 希求したのだ。ロシア帝政下で抑圧されたユダヤ人として彼は青年期に 一時シオニズムに傾いたが、彼は結局はそれをも偏狭な民族主義として退け、 民族や国家を超克する必要性を認識したのだった。初期のエスペランティストの 多くも民族の友愛という思想に多かれ少なかれ共感していたと言える。

ザメンホフは個人の立場で民族平等主義を追求し続け、『人類人主義』 (1913)にたどりつく。ここで彼は、人類の一員としての個人に重きを置き、 民族や宗教の敵対関係を人類最大の不幸の一つと見なして、 民族・言語・宗教・社会階層による人間の抑圧を野蛮行為と断じる。 そして、排外主義や偏狭な愛国心、少数民族抑圧の不当性を指摘するばかりでなく、 国土は、民族や言語にかかわらず、すべての居住者に平等に所属するとまで 主張する。

しかし、彼の考えはエスペランティストの間でも広く受け入れられは しなかった。一つには宗教をからめすぎたためであるが、また、 帝国主義と民族主義がはばをきかす時代において現実とあまりにかけ離れて いたためでもある。現在においても民族や言語を理由とした抑圧と対立は 世界に少なくない。ザメンホフの民族や言語に関わる人権思想は 時代を先んじすぎていた。(後藤斉)


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