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『La Movado』第718号(2010.12)-720号(2011.2)掲載文に加筆
「1.はじめに」

エスペラントとハンセン病 ―歴史的考察―

後藤 斉



イシガ・オサム
(RO 1994.12)

5.兵役拒否をこえて ―イシガ・オサム―

イシガ・オサムについて現在では広く知られているとは言いがたいであろう。例えば、初芝武美『日本エスペラント運動史』はイシガの名を挙げながら、その全体的な活動について触れていない。『平和人物大事典』も「イシガ オサム」を立項するものの、その記述には不正確で不十分なところが見られる。

イシガの生涯のクライマックスはなんといっても兵役拒否である。このことは本稿の中心テーマではなく、手短に扱わざるをえないが、それに至る道程をまずはたどりなおすことになる。

イシガは東大文学部で西洋史を学び、城戸崎益敏と同じYMCAの寄宿舎に住んだ。1932年に卒業して、大学院に進む。しかし、病を得て療養生活に入ることになった。この中で、すでに中学のころから接していたエスペラントとローマ字運動、キリスト教的平和主義とに深く、かつ重層的に関わっていく。

キリスト教は両親ゆずりの信仰で、もとはメソジスト系であったが、内村鑑三の無教会主義に引かれてゆき、賀川豊彦、矢内原忠雄などの影響も受ける。のちの文章によれば、イシガが信仰の先達と捉えていたのは内村鑑三、藤井武、矢内原忠雄の三人であり、「これらの先生と同質の信仰を受けること」を願っていた。ただし、イシガにとってはそれは決して「先生崇拝」を意味しない。イシガは信仰の上では「神とともに独り立つ」のであり、「そこにわたしは「教会」のない信仰の自由と責任を感じ、三人にして一人なる先生と同質の信仰を受けつぐ自覚をあたらにする」のだと宣言のように語っている。


La militrezistanto
(戦争抗止者インターナショナル
機関誌エスペラント版.
イシガ『神の平和』より)

1935年ごろからは、愛知の尾崎元親が中心となった日本基督教エスペランチスト連盟の機関誌にたびたび寄稿している。1939年から40年にかけては、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』のエスペラント訳も発表した。

1933年ごろから、熱心に行ったエスペラントの国際文通の結果として、クエーカー派にも接していた。さらにそこから戦争抗止者インターナショナル(WRI)の資料を入手することになり、34年に加入している。

WRIのエスペラント版機関誌 La Militrezistanto 42号(1937.8)には、東京の読者からの手紙として、日本で同調者を募ることが難しい事情が伝えられている。名前は記されていないが、明らかにイシガのものである。これによれば、妹のつてで、東京女子大で資料を配ったこともあったとのことだ。

1937年1月からは、『エスペラント』誌にザメンホフ伝「若きザメンホフ」を6回にわたって連載する。日本エスペラント学会の三宅史平から「若い歴史研究家」と見込まれて依頼を受けたものである。日本語でオリジナルに書かれたものとしては初の、まとまった長さのザメンホフ伝ということになる。文章からは、エスペラント発表50周年、ザメンホフ没後20周年を意識して、意気込んで書いた様子も読み取れる。

また、エスペラントを通じて、スウェーデンのノーベル賞作家ラーゲルレーヴ(『ニルスのふしぎな旅』でも知られる)に親しみ、エスペラント出版社を介して著者と連絡をとった上で、エスペラント訳からローマ字日本語に重訳して、1938年に"Betulehemu no Osanago"として自費出版した(著者らへの献辞はエスペラントで書かれている)。キリスト教的平和主義を体現するような美しい物語である。

さらに『エルサレム』の翻訳の許可を得て、スウェーデンのエスペランティストの援助の下、翌年からスウェーデン語を独習しつつ訳出を進め、『エルサレム 第1部』(岩波文庫, 1942)として刊行した。この著者との縁は長く続き、『エルサレム 第2部』(1952)、『キリスト伝説集』(1955)、『ポルトガリヤの皇帝さん』(1981)(いずれも岩波文庫)などを翻訳することになる。自費出版した短編集もあり、合わせるとラーゲルレーヴ作品をもっとも多く日本語訳したことになる。

なお、同様にエスペラントからスウェーデン語に進んだ翻訳家に万沢まきがいる。万沢もラーゲルレーヴをきっかけにスウェーデン語に親しみ、エスペランティストの援助を得て、スウェーデン語の学習をした。イシガと万沢との間に直接の影響関係はなかったようだが、いずれにせよ、小国文学の紹介においてエスペラントが果たした役割が決して小さくなかったことを示す事実である。

イシガにとっては、言語は社会問題として大きな関心の対象でもあった。「石賀修」でなく「イシガ・オサム」の表記を好んだこともその表れである。日本基督教エスペランチスト連盟機関誌でもローマ字に関して積極的に発言している。

エスペラントとローマ字運動を社会問題として扱う共通の関心は、イシガを山形の方言研究家、言語運動家斎藤秀一(ひでかつ)と結びつけることになり、斎藤が編集刊行する『文字と言語』を購読した。1937年に創刊された全文エスペラントのラテン文字化運動国際誌"Latinigo"では、イシガは企画段階から斎藤に協力を申し出て、1号巻頭の田中館愛橘(たなかだてあいきつ)論文のエスペラント訳を担当した。

『文字と言語』13号(1938.5)には「エスペラントにおけるザメンホフ主義」を寄稿している。エスペラントを実用の道具とのみ見る「ボーフロン主義」と対比して、エスペラントという言語を内的思想と切り離せないものと考えるザメンホフ主義を擁護し、「…凡ゆる文化をおしつぶす敵、《無理を通して道理を引つこませよう》とする精神が今日ほど暴威を振つている時はなく、従つて、それに抗して合理的なものを守り、道理を押しすゝめて行かうとする人々の協力は何ものにもまして貴重なもの」と結ぶ文章は、斎藤の強い共感を得た。

斎藤は、その言語運動がプロレタリア文化運動の一つと見なされて治安維持法違反容疑で1938年11月に検挙され(『特高月報』1939.4)、1940年に命を落とすことになる。その雑誌の購読者リストをもとに多くの人が取り調べを受け、検挙された。左翼言語運動事件と呼ばれる。イシガも1939年4月にその対象となった。イシガがマルクシズムとの知的格闘を経たことは確かだが、「相当熾烈なる共産主義思想を抱持」(『特高月報』1939.9)とは特高の見立て違いと言うべきだろう。いずれにせよ、イシガにとって幸いなことに「当分離床困難の状況に在るを以て、一時検挙を見合せ引続き行動注意中」で済んだ。


1939年のクリスマスカード
(イシガ「憲兵と兵役拒否の間」より)

La Revuo Orienta誌1939年10月号の「中等教育における外国語問題の再検討」特集に、外国語学習におけるエスペラントの位置づけについての文章を寄稿している。1942年4月28日の日記に、イシガは「エスペラントによってわれわれはニッポン人以上になることができる。すなわち人類人に!」と書いた。このころ、La Revuo Orienta 誌の投書欄に何度か投稿したようだ。日本ないし東洋風の語法や語順によるOrienta Esperantoの提案(1942.7)や、エスペラント訳日本(東洋)古典文庫などの提案(1943.1)が掲載されている。戦争が激しくなるこの時期、『エルサレム』の翻訳を進めながら、エスペラントの可能性など様々なことに考えをめぐらせたのだろう。

『エルサレム 第1部』の出版を機に同誌に依頼されて書いた「Esp.によつてスエーデン語を学ぶ」(1943.5)では、エスペラントを通じての著者ラーゲルレーヴとの接触やスウェーデン語学習のさまを伝えている。まとめとして、エスペラントのお蔭を蒙ってきた自分もエスペランティストのために「小さなひとつの煉瓦でも寄与したいと願つています」と述べる。

イシガは徴兵検査では丙種合格であり、現役兵としては不適格と判断されていた。太平洋戦争開始により兵籍に入れられ、年一度の点呼に出頭する義務が生じたが、病床にある間は診断書の提出で済ませることが可能だった。しかし、病状が好転してそれが通用しなくなったこともあり、以前から考えていた良心的兵役拒否の実行を決意する。言語運動事件で自分は検挙されず取調べだけで済んだことに負い目を感じていたことも影響したという。

1943年8月,身辺を整理した後、簡閲点呼に出頭する代わりに、岡山憲兵分隊に自首した。「点呼は戦争の前提であつて、之に参加することは戦争行為への介入である。故に自分は断乎之に参加せざる決意である。…銃殺さるるも不服はない」と申し出たという(『特高月報』1943.10)。しかし結局は留置中に転向して兵役拒否を撤回し,12月に罰金50円の刑で釈放される。一旦は銃殺を覚悟した本人にとっても、意外なほど軽い処罰であった。

転向の理由は、一言で言えば、自分の弱さを自覚したことにあると言えようか。なお、憲兵隊でのイシガの取り扱いは比較的穏やかなもので、迫害のようなことはなかったとのことだ。兵役拒否の信念をこのような形で行動で表したこと自体、当時としてまれな勇気ではあったろう。もっとも、治安維持法違反で獄死した仲間を身近に知る人がこのような評価を「甘い」と切って捨てたくなるのも理解できる。

釈放後、イシガは日本エスペラント学会を訪ね、主事の三宅史平から小久保覚三の死を知らされ、大きな衝撃を受けた。イシガとも交友のあった小久保は斎藤の言語運動事件で検挙され、手ひどい扱いを受けたのであった。

イシガは、故郷福岡での短い教員生活の後、1945年6月星塚敬愛園(鹿児島県)の附属看護人養成所に入った。ハンセン病療養所を選んだことに転向の贖罪意識を見る向きがあるが、必ずしもそうでもないようだ。イシガの文章から伺えるその思想には、多少のゆれはあるものの、断絶よりは連続性の方が認められるように思える。そもそも彼のハンセン病への関心は、1933年日本MTLに入会したときに遡る。『日本MTL』に掲載されたハンセン病療養所に勤務する看護婦の手記をエスペラント訳して日本基督教エスペランチスト連盟の機関誌に寄稿したこともあった。

この時の敬愛園園長は、かつて全生病院で全生エスペラント・クルーボを指導した塩沼英之助であった。エスペランティストとして互いに名前を知っていた可能性はあるが、それまで面識はなかったようだ。その出会いをイシガは三宅に「全生のEsp.華やかなりし頃の写真をみせていただきました。VENIS VIDIS VENKISのバッチなどを見てそゞろに感懐をもよほしました」と伝えている。

1945年7月、戦況は決定的に悪化してきていて、イシガにも召集令状が来る。応召して、結果的には望みどおり、銃を取らない衛生兵になることができた。間もなく終戦を迎え、9月には復員して星塚敬愛園に戻った。直ちに、三宅に安否を問いながら自分の近況を伝える葉書を送り、「既報の通り園には園長医官などに同志がありますのでやがて園に緑星旗を掲げ得る日を期してをります」とも書いている。このような時期にエスペラントの教材や資料を注文しているのもおもしろい。

イシガが伝える敬愛園の医官のエスペランティストとは、山口博威のことであろうか。山口の名は1959年のザメンホフ生誕百年記念第46回日本エスペラント大会の参加者名簿に敬愛園官舎を住所として挙がっているが、敬愛園内でエスペラント活動を行ったかどうかは知られていない。

園内でイシガは本業としての衛生士のかたわら、文筆の才を買われて児童の作文指導に携わった。また,三宅への約束を果たすかのように、1946年ごろから数回、園内の学校や看護人養成所でエスペラント講習も行っている。残念ながら、語学的に見るべきほどの成果を得たような形跡はないが、山田義氏によれば、エスペラント学習を記憶する入園者もまだいるとのことだ。

1948年ごろ再建された日本基督教エスペランチスト会にはイシガはあまり積極的に貢献しなかったようだ。ただ、機関誌La Fontoにはたびたび近況を伝えるメッセージが転載されている。


『神の平和』 (カットは1941の年賀状.
ドイツ機の爆撃で破壊された
ロンドンの図書館の新聞写真から
イシガが自作した版画)

1951年に敬愛園の患者自治会内部で紛争が起きる。塩沼園長はそれを収拾することに失敗し、心労のあまり静養を余儀なくされる。イシガもこれに関わらざるをえなかった。翌年、塩沼は園長を辞して、長島愛生園(岡山県)に転任することになった。このような事情もあってか、これ以降のイシガにとっては、エスペラントよりも、キリスト教の信仰とハンセン病および平和との関係に関心の重点が移ったようだ。

1950年代に園の文芸誌『姶良野』(あいらの)を舞台にした言論活動は、テーマも読者も限られたものであったが、イシガらしさがよく現れている。固有名詞を表音的に表記しようとの主張はおとなしい方で、園の現状を痛烈に皮肉った原稿が園の運営者側に握りつぶされたこともあったとのことだ。

「ことし見たこと聞いたこと」(『姶良野』1954.12)では、ハンセン病がすでに不治の病でなくなっていることを背景に、「ライの特殊性の解消」が論じられた。しかし、取り上げた事例やその表現のためか、入園者側から「入園者の福祉に反するバクロ的文章」との批判が寄せられた。次の1955年1月号のアンケートでは、イシガの回答は印刷直前になって自治会側の判断で削除されて、白紙のまま印刷されるという憂き目に会った。

「巻頭言 自治療養区の構想」(『姶良野』1955.6)と「自治療養区の空想」(『姶良野』1955.8)はそれを埋め合わせるために依頼されたものらしい。特に後者は、「特に隔離を必要とする期間だけ療養所に収容する、しかしその期間をすぎたらできるだけ普通の社会人としてあつかう」ことを見通しつつ、社会復帰が難しい現実を考え合わせ、それまでの療養所のあり方を変えてゆく道筋を、比較的詳しく構想したものである。この「空想」が当時どれだけ現実味を帯びたものであったか、筆者には判断しかねるが、「ライの特殊性の解消」を目指した方向性は間違っていなかったのではないか。イシガと親しかった入園者島比呂志はそれに似た「コロニー」を構想した。なお、島はのちに「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟の先頭に立つことになる。

1956年、イシガは敬愛園を退職し、福岡で教員になるが、その後も主としてハンセン病、キリスト教、平和運動の接点で活動した。兵役拒否事件は一部のみで知られるにとどまっていたが、1966年『文芸春秋』に手記を公表したことで一般にも知られるようになった。もちろんエスペラント界でも話題になった。のち当時の日記をまとめた『神の平和』(新教出版社, 1971)を公刊した。

関心の中心からは外れたようであるが、言語問題もやはりイシガの一生のテーマであった。エスペラントとのつながりは薄くはなったが、1966年に「いまも…Esp.の宣伝に心がけています」(RO 1966.7)と書いている。また、1974年11月に北九州で開かれた第61回日本エスペラント大会に招かれて、「エスペラントに私が負うもの」の題で日本語講演を行い、兵役拒否と関連づけてエスペラントを学ぶ意義を強調して語った。さらに第二次大戦中のワルシャワ・ゲットーにおけるリディア・ザメンホフの晩年を描いた戯曲(Julian Modest, "Ni vivos!", HEA, 1983)を共感を込めて読んだらしく、La Movado誌407号(1985.1)のLibro-Kulturo欄で粗筋を比較的詳しく紹介して、「同時代人であった者には特に感動的」と結んでいる。また、日本語の表音化を改めて主張する小冊子も1978年に作成した。

付記

大分県生活環境部人権・同和対策課編集発行『同じ空の下 15人からのメッセージ』(2018)掲載の「〜ハンセン病回復者〜 「大分が一番いい。ふるさとが一番。」は、1948年に星塚敬愛園に入所した人の回想が語られている。エスペラントについては「自分が行き始めたときに、鹿屋市内の学校の分校となり、教育が充実しました。運がよかったんですね。音楽やエスペラント語なども習いました。」と、肯定的に語られている。

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