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『La Movado』725号(2011.7), 727号(2011.9)、741号(2012.11)掲載文を改題、加筆
ポーランドのエリザ・オジェシュコヴァ(Eliza Orzeszkowa)原作、ザメンホフ訳のMarta (1910)は、エスペラント文学の古典として、何度も版を重ねながら多くのエスペランティストにより現代まで読み継がれている。日本でも、文学作品ないし語学教材として、抜粋や梗概が雑誌で紹介されたり、あるいは輪読会などで読まれたりすることもまれではなかった。城戸崎益敏により要語索引“Konkordanco de Marta”(JEI, 1979)が編まれてもいる。
原作者オジェシュコヴァ(1841~1910)は、ノーベル文学賞候補に挙げられたとされるほど当時は有名であり、ポーランド文学史に名前を残す作家だった。著作の中心的モチーフの一つとしてよく取り上げたのは女性の地位という問題で、Marta (1873)はその系譜に属する。幼子を抱えた妻が若くして夫を失い、生活のために職を得ようと試みるが果たせず、困窮してついには命を失う悲劇を描いている。
しかし、ポーランド文学は日本においてそれほどなじみがあるとは言えず、オジェシュコヴァも、この作品の関係を除けば、日本ではほとんど知られていない。英語圏においても同様で、Martaの英訳は2018年になって初めて出版されたに過ぎない。その中で、エスペラントは、ポーランドの文学作品の日本における受容に関して独特なルートを形成していたのだ。
この作品が清見陸郎(ろくろう)によってオルゼシュコ著『寡婦マルタ』として日本語に重訳されたことは、比較的よく知られている。1886年生まれの清見は劇作家としての経歴があり、のち美術評論(特に岡倉天心の評伝)の分野で活動するが、1923年ごろエスペラントを学習した。左翼系エスペラントグループの柏木ロンドにも参加し、その関係で改造社社員比嘉春潮(沖縄研究家)とも親交を結ぶ。比嘉の世話でこの翻訳は改造社から1927年に単行本として刊行された。社長の山本実彦もエスペラントに好意的で、この前後にエスペラント関係書がこのほかにも同社から刊行されている。
12月20日の読売新聞に掲載された広告では、「読め女性の悩みを!! 憤りを!! =本書を読んで泣かざるものは人の子に非ず= 現代の若き女性・教育家・婦人問題研究者は必ず読め!!」というコピーで宣伝している。現代の感覚では随分仰々しく思えるが、当時としてはそうでもなかったのだろう。「読者より」として「近来これほど悲しい深刻な小説を読んだ事はありません…」、「わたくしは此小説を読んで初めて自分の力量と立場が判然わかりましてぞッとしました…」という読者の声も紹介されているが、これは実際の反響なのだろうか。
いずれにせよ、この訳は女性の地位の不安定さを生々しく描いたものとして、文学雑誌『不同調』や女性運動雑誌『婦選』の書評に好意的に取り上げられた。
小原国芳(1887~1977. 玉川学園創設者. 1927年エスペラント学習)は、1928年に「『寡婦マルタ』をちょうど、相良君にすすめられて読んだ私」と書いており、初期の読者と言うことになる。小原に薦めた「相良君」も当然読んでいたはずであるが、小原と親しかった美学者相良徳三(1895~1976)のことであろう。
刊行の翌々年の1929年には改造文庫に収録された。大島義夫が「300余頁で30銭とは驚異的廉価だ」と述べるほど手軽に買える値段になったため、一気に多くの読者を獲得することにつながった。「この物語を日本のあらゆる婦人、教育家、婦人問題の研究者に捧ぐ」という初版にあった訳者の献辞はなくなったが、当時の文学者や女性運動家から相応の評価を得ることにつながった。
作家,草木染作家の山崎斌(あきら. 1892~1972)は、「女性と文章表現の特質」で女性の文章を論じる中で『寡婦マルタ』を取り上げた。「兎(と)もすれば、所謂女性の感傷に堕し勝ちなのであります」としながらも、「その最後の描出は女性ならでは表現し得ない真実があると思ふ」と評価する。
平林たい子(1905~1972)は、自伝風の「貧乏噺」(1934年発表)で「私は、その二ヶ月の間、求職のために、「寡婦マルタ」のマルタのように駆け廻り、そうして、マルタのように断られた」と書いている。『寡婦マルタ』を読んでいない読者には通じないはずの比喩であるが、掲載誌が『改造』であるからには読者には周知のことと見なしたのであろう。
女性運動家山高しげり(1899~1977. 戦後参議院議員)も、ある女性の人生を振りかえる随想(1935)の中で、それをマルタの運命に重ね合わせている。
『寡婦マルタ』の、特に若い世代の女性への影響は大きかった。河崎なつ(1887~1966. 東京女子大教授,戦後参議院議員. 1926~32年日本エスペラント学会理事)はこれを1930年ごろに女学生に広く読まれた本の一冊に挙げているが、その影響の大きさを裏付けるような証言をいくつも挙げることができる。
例えば、女性初の芥川賞作家中里恒子(1909~1987)は、自分にできる仕事を見つけて持とうと思ったのは、女学校時代にふと読んだ『寡婦マルタ』の影響であったと回想している。中里は、「自伝に近い」という「ダイヤモンドの針」(1976年発表)でも、主人公に『寡婦マルタ』から受けた衝撃を語らせている。
もう少し後の世代に属する国語学者寿岳章子(1924~2005. 日本盲人エスペラント協会理事長岩橋武夫の姪)も、女学校時代を振り返って「生き方についての転機を、私は確かに『寡婦マルタ』から得たとの思いは強い」と述べる。特に、講演記録がもとになった「わたしの心もよう」では、1ページにわたって粗筋を詳しく紹介した後で、若かりし日の読後の感想を生き生きと想起している。「これは、また、いくら早熟な子どもでも、かなりこたえた結末でございまして、私はそのときほんとに、こうなったら大変だという決意をいたしました。そのときの決意の状況をいまでも覚えています。女といえどもやっぱり世の中に通用することをして生きていかなければいけない。あるいは、とことんよって立つべきものをもたなくてはだめだと、本当に子どものときに思った経験がございます」と。
また、少し上の世代でも、羽仁説子(1903~1987. 社会運動家.夫羽仁五郎とともにエスペラントの支持者)は、1930年ごろのこととして「私は、オルゼシコの『寡婦マルタ』を、女がひとりになって子どもをかかえてゆくむつかしさを感じさせられて読んでいた…」と回想する。
『寡婦マルタ』自体には社会主義色はないが、左翼的な女性にとってこの小説の意義が大きかったことは当然であろう。升井登女尾(1914~1995. 日本母親大会実行委員長)は、女学校時代からマルクス・エンゲルス全集に読みふけったとのことであるが、若いころに特に感銘した本の一冊に『寡婦マルタ』を挙げて、「経済力を持って自立することが婦人解放への道だと考え、自分も将来は職業婦人になろうと心に決めました」と述懐している。
相沢良(1910~1936)は、青森県での高等女学校時代からエスペラントを学習しており、ザメンホフ訳"Marta"に親しんでいた。1928年に帝国女子医専に進むが、日本共産青年同盟に入り、医専を中退して労働運動に従事する。検挙され、のち獄死に近い死を遂げることになるが、獄中にあった1934年9月、妹の京(島木健作夫人)に宛てた手紙で『寡婦マルタ』を読むよう勧めていた。このことについては、島木も「東北の娘」で(実名を挙げることを避けながらも)良のエスペラント活動にも触れつつ、「妹に対しては、生きにくい今の社会に、女が向上しつつ生きて行くことについて書いてゐる。充分な理解で、オルゼシュコの「寡婦マルタ」などがそこに語られている」と、遺された手紙のことを伝えている。
プロレタリア作家宮本百合子(1899~1951. 1931年ごろ中垣虎児郎からエスペラントを学習)も、文学論「婦人と文学」の二ヶ所でこの作品に触れるほか、1930年代から戦後にかけて、いくつもの文章で『寡婦マルタ』に言及し、女性に読むことを勧めた。例えば、「女性の歴史―文学にそって―」では「…十九世紀に、ポーランドの婦人作家オルゼシュコの書いた小説「寡婦マルタ」を、きょう戦争で一家の柱を失った婦人たちがよむとき、マルタの苦しい境遇は、そのまま自分たちの悲惨とあまりそっくりなのに驚かないものはなかろう。」と述べる。なお、夫の宮本顕治(日本共産党中央委員、戦後に書記長、委員長、議長)は読んでいなかったらしく、獄中にあった1942年8月に百合子に差し入れてもらって読もうとしたが、許可されなかった。
この小説は、日本を舞台に翻案されて『この母を見よ』の題で映画化(監督田坂具隆、脚色八木保太郎、主演滝花久子、入江たか子, 日活, 1930)された。『キネマ旬報』(1930.6.21)誌上の批評によれば「大体原作の筋を追ふてゐるが、更に飛躍して貧富階級の対立を明確に描きわけて現代社会機構の欠陥を暗示せんとした」作品である。「検閲の暴圧」によりフィルム全体の15パーセントほどにあたる463メートルも切除されたが、それでも「逞しい迫真性にたぎつてゐる」、「製作者の努力は水泡に帰してゐない」と評されている。
『寡婦マルタ』の女性運動への影響は戦後にも及んだ。早くも1946年には『働く婦人』誌第2号で、峰あき子が世界の名作の紹介としてこの作品を取り上げている。おそらく、宮本百合子の意思が働いていただろう。同様に、牧瀬菊枝も『信濃民主評論』誌上で「人形の家」と並ぶ名作として女性に勧めている。
上に名を挙げた羽仁説子は、『自由国民』特別号として刊行された『現代の読書と教養案内』(時局月報社, 1949)に掲載の「これからの主婦は何を読むべきか」で、『寡婦マルタ』を推薦書の一冊に挙げた。
この時代には、『寡婦マルタ』は戦争未亡人との関係でも切実さを感じさせる書物と受け取られたようだ。評論家古谷綱武は戦争未亡人らが働く作業場で取材する中で、『寡婦マルタ』を引き合いに出して「完全な技術を身につけておくこと」へ話を進めようとした。
『寡婦マルタ』は1951年にクラルテ社から単行本として再刊された。『新日本文学』(1952.2)掲載の広告では「宮本百合子氏激賞!!」と銘打っている。宮本は51年1月に没していたが、その名前の宣伝効果はまだあったであろう。
これも先に名前を挙げた山高しげりは、1950年に全国未亡人団体協議会の結成の中心になっていた。1951年の活動の一つとして『寡婦マルタ』の取次販売を行ったことが記録されている。
佐多稲子(1904~1998)は、1958年の文学論的なエッセーにおいて『寡婦マルタ』に言及する。「作品と読者の関係」と題した文章で、「小説は身の上相談の回答書ではない、と主張するとき、芸術の感銘を基礎として提出しなければならないだろう」と述べながら、その好例として『女の一生』や『アンナ・カレーニナ』とならんで「「寡婦マルタ」の悲劇が…読者の胸にもたらす感動」を挙げるのである。佐多は1920年代にプロレタリア作家として出発していたから、以前に改造社版を読んでいたであろう。
平林たい子もまた、1960年代になっても短い随筆のなかで、マルタが子どものためにハムを買うシーンを想起している。1930年代に読んだ時にはハムがまだ日本で珍しかったころで、その印象がよほど深く記憶に刻まれたのであろうか。
『寡婦マルタ』に影響を受けたのは、著名人ばかりではない。『アララギ』(1974.3)には福山在住の岡村實枝による短歌「寡婦マルタ讀みしも遠き日となりぬ平凡に老いて夫の邊にあり」が掲載されている。平凡に過ごした人生を振り返ってみると、若い頃に読んだ『寡婦マルタ』の感動が改めて思い出されたのであろう。
もっと下の世代に属する女性も『寡婦マルタ』の影響を受けた。『ぐりとぐら』で知られる児童文学作家中川李枝子(1935生)にとっても、「女でも仕事をもって自由に生きるべきである」と考えるきっかけを与えたのは『寡婦マルタ』であった。中川は読んだ時期を具体的に思い起こしながら、『毎日小学生新聞』(2013.9.7)では「小学2年の時」と、『日経DUAL』(2014.1.28)では「8歳の頃」と、同(2014.4.15)でも「小学生のとき」として読後の印象を想起している。『寡婦マルタ』は小学生には難しすぎるし、自分の将来を真剣に考えるのはもう少し長じてからであろうとも思える。しかし、戦争中の状況の中でのこの読書体験の記憶は確かであるようだ。「つい最近になって改めて見てみたら、仮名が振ってあると思ったのに何もない。読むものがないと子どもは漢字でも何でも読むのね。」と感慨を漏らしてもいる。このように中川は追想の中でたびたび『寡婦マルタ』に言及しているのである。少女時代に受けた衝撃の大きさを物語る。
訳者清見陸郎は改造文庫版『寡婦マルタ』刊行の後に中国に渡ったりもしていたが、病をおして岡倉天心の評伝の執筆を続け、東京大空襲の前には『天心岡倉覚三』(筑摩書房, 1945)の刊行にこぎつけた。しかし、それ以降の消息は知られていない。普通に考えれば1951年の『寡婦マルタ』再刊時に出版社が訳者の了解を得たはずであろうが、実際の経緯は不明である。
『天心岡倉覚三』は1980年中央公論美術出版から再刊された。天心の孫、岡倉古志郎が寄せた後書きには「…正確かつヴィヴィッドな天心伝を期待する側にとってはむしろ幸せというべきであろう。そして、このような結果を生みだしたものは他でもない、著者清見の天心に対する愛情と畏敬であったろう。読者をひきつけてやまない筆力も、また、まさに、そこから発していると私は思う」と評されている。この時にはもちろん編集部が清見の消息を調査した。しかし、「今次大戦後の消息を探索してみたが,適格なものは得られなかった」と記されている。
このように、『寡婦マルタ』の刊行は、日本へのポーランド文学の紹介および女性解放思想の普及の面で意義のある出来事であった。エスペラントが橋渡しの役割を果たした好例である。
一方、ほとんど知られていないが、Martaにはこれに先立つ日本語訳があった。エリザ・オルゼスズコ著、彦阪本輔訳『女の運命』(東亜堂書房, 1914)で、「原名・マルタ」と付記されている。国立国会図書館に所蔵されており、現在では「国立国会図書館デジタルコレクション」でネットにより閲覧することもできる( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910727 )。
しかし、国立国会図書館編『明治・大正・昭和 翻訳文学目録』(風間書房, 1959)には採録されていない。カタログが紙のカードであった時代にこの本にたどりつくことは極めて難しかったであろう。なお、訳者の姓は表紙と奥付は「彦阪」であるが、「彦坂」とも表記されていて、他の資料も考え合わせると、「彦坂」が正しいように思われる。
筆者は、このほど実物を入手することができた。ほぼA5判の大きさで、本文は336ページ。ところどころに訳を省略した箇所があるが、抄訳というほど大幅に略されているわけでもない。
不思議なことに、この本のどこにもエスペラントやザメンホフへの言及がない。しかし、登場人物の名前「ジヨハノ」[ママ](Johano)、「ルードビキーノ」(Ludovikino)などの表記から、エスペラント訳からの重訳であることは明らかである。文学作品としては、エスペラントから日本語に翻訳され、単行本として公刊された第一号ということになる。
前書きにあたる「おことわり」は、1913年9月づけになっており、このころには訳了していたらしい。著者への連絡を試み、すでに没していたためそれは叶わなかったものの、日本語訳のことがワルシャワの新聞に発表されたとも書かれている。あるいは、訳者ザメンホフと連絡をとったのであろうか。翻訳の意図として、「此の書が読者に語つている『あるもの』を感得して頂きたい」ために、「浅学非才を顧みず大膽にも此書を公にした」のだと言う。彼自身、エスペラント訳を一読して感動を覚え、翻訳に取り組んだのであろう。
『東京朝日新聞』(6月26日)の1面最上段の広告では、おおげさに「欧米の読書世界を震撼せしめたる一大奇書」とうたわれている。同紙7月20日「出版界」欄と『読売新聞』9月6日「新刊批評」欄にも、それぞれ短いが好意的な紹介が載った。しかし、どの程度の反響があったのだろうか。1914年という時代は、平塚らいてう(戦後、エスペラントを学習、支援)や伊藤野枝(1923年、大杉栄とともに憲兵により虐殺)らによる青鞜社の活動時期にあたり、「新しい女」が流行語になっていたが、この本が関心を引いた形跡は見えない。
彦坂は日本エスペラント協会(JEA)に1908年に入会(会員番号842)しており、名簿には東京市浅草区の住所があるが、職業は付記されていない。その他の経歴も分からない。翌1909年にはJEAから除名されている。JEAで編集を担当した千布利雄との確執も伝えられるが、詳しい事情は不明である。
エスペラントとの関わりは、そのような会員歴と直結していなかったのだろう。JEA入会以前に学習して、当時としてはかなりの語学力をつけていたらしい。外国と積極的に通信をおこなったようで、1908年10月から1909年4月まで、謄写版の全文E文個人誌Samideano Ĉiumonataを刊行する。
引き続いて5月にはヴェールダ・ステーロ社を設立して、活版印刷の同名誌を再出発して、翌年まで刊行する。当初は Internacia Ilustrita Esperanta Revuo kun aldono de koroligita originala pentraĵo de japano, ĉino aŭ koreoと副題して、カラー大判の口絵ページを付していた。なお、B5判ないしB6判と紹介されることもあるが、活版印刷のものはA4判に近い。
この雑誌は、広く海外に送られた。積極的に募ったとみえて、外国からの寄稿も多数掲載されている。美しく、ヨーロッパ人にとってエキゾチックな口絵のせいもあって、ヨーロッパの人々に日本の強い印象を与えたらしい。Hikosaka Motosukeの名前は、L. Kökény kaj V. Bleier編Enciklopedio de Esperanto (1933) にこの雑誌の発行者として言及されている。この雑誌は現在でもウィーンのオーストリア国立図書館ほかに所蔵されている。
彦坂は日本や世界の昔話にも関心があったようで、1914年、Esperanta Biblioteko InternaciaとしてTondaja Sookiĉi, Malnova Japana Rakontoをエスペラント訳し出版した。同年に「世界お伽叢書」の一冊として『蛇王と裸のイバン』日本語訳も刊行したが、この原作はエスペラントではなさそうだ。
これらの出版活動は主に自費でのものであったようだ。独立独行を好んだ性格を伺わせる。彦坂の名はJEI維持員名簿の1923年版に現れ、のち関東大震災で「全焼の厄にあはれた」とも報告されている。名簿の1926年版にも載っているが、目立った活動はしなかったらしい。その後の消息も不明である。
結局、『女の運命』はエスペランティストの間でもほとんど知られないままであった。もう少し社会の反響を呼んでいたなら、その後の彦坂のエスペラントとの関わり方も変わっていたのかもしれない。
このほど、峰芳隆氏から次のことについてご教示を受けた。すなわち、東京都立図書館がWebで公開している横山健堂資料目録の中に次のような記載がある。
[特0755] 小説マルタ(しょうせつまるた) 存前編1・2 波蘭エリザ・オルゼシュコワ∥著 千布利雄∥譯 大正3寫 (ペン)
訳者千布利雄(ちふとしお 1881~1944)の名前は初期の日本エスペラント運動史でなじみのものである。この記載は、未知の第三の日本語訳の存在を示すものだ。東京都立図書館に赴いて調査した結果を報告したい。
横山健堂(本名達三. 1872~1943)は山口県出身の評論家で、読売新聞や大阪毎日新聞との関係が深かった。エスペラントとのつながりはこれまで知られていない。東京都立図書館の特別買上文庫の一つである横山健堂資料には、江戸時代の刊本はじめ日本中国の文献資料が多く含まれており、幕末から明治にかけて西洋の影響を受けた科学技術書も見られるが、西洋文学書もエスペラントとの関係を示唆するような資料も、他にはない。横山健堂が「小説マルタ」を入手したもともとの経緯については、今では謎である。
千布の生涯については、坪田幸紀『葉こそおしなべて緑なれ…』(リベーロイ社, 1997)が詳しい。大杉栄のエスペラント学校第1期生として1906年にエスペラントを学び、幹事長黒板勝美の2年間の洋行の期間を含め、日本エスペラント協会(JEA)の沈滞期を支えた。その学習書『エスペラント全程』(1914)は名著に数えられた。
しばらくして千布は黒板に見切りをつけ、1919年に小坂狷二らに別の組織(JEI)を立ち上げるよう強くうながした。のちには、エスペラント運動においてエスペラント使用の目的を制約しないブローニュ宣言を擁護する立場を強調し、ザメンホフのホマラニスモを重視する小坂らJEIの主流から離れ、エスペラントそのものからも遠ざかってしまうことになる。ただし、千布側の資料は乏しく、細かい事情は分からないことが多い。1929年8月26日にはハンセン病施設全生病院の全生エスペラント・クルーボが千布を呼んで講話を聞いたとの記録が全生病院側にあるが、不詳である。
目録に「寫 (ペン)」とあるように、この資料は印刷公刊されたものではなく、手書きの原稿である。「存前編1・2」は前編の2分冊だけが所蔵されていることを示している。内容からして全体の約半分に相当する分量なので、後編の2分冊が想定される。冒頭には全体の目次があり、最後までページ番号が書かれているから、本来は後編も存在したことは間違いなかろう。ただし、後編は行方不明であり、前後編が離れ離れになった経緯も今では知りようがない。
外形的には四百字詰め原稿用紙を二つ折り(約17×22cm)にして、厚紙の表紙をつけて和綴じにしたものである。前編1は本文が115枚、前編2は143枚であるが、1の方には翻訳の経緯を記した文章(無題)のほか、解説的な「序」と著者紹介にあたる「作者小引」が付されている。「大正三年十月」(1914)とあり、全体の完成を示す日付であろう。
ページ番号はナンバリング機で打たれており、所々に「別行」という指示がスタンプで押されている。印刷のための編集作業の途中であったとも考えられる。
著者名の表記「オルゼシュコワ」はおもしろい。ザメンホフがロシア語形から取り入れたOrzeszkoで表記した名を、彦坂訳は「オルゼスズコ」と、清見訳は「オルゼシュコ」とした。千布訳は、ザメンホフの表記でなく、ポーランド語原名のOrzeszkowaにより近い形を採用したことになる。千布のこだわりが感じられる。
もっと興味深いのは翻訳の経緯である。少し長くなるが、原文を紹介したい。
本書は嘗(かつ)て某氏訳『婦人の運命』と題して世に出たものゝ全訳である。全訳といふ語は本来余計なものであるが、我国現今の出版界に於ては、抄訳、改訳、又は変訳―時として出鱈目(でたらめ)の誤訳―にあらざることを示すために、往々此(この)語を用ふる必要がある。
訳者が此書の翻訳に着手したのは可(か)なり夙(はや)く、既に四分の三ばかりも出来た頃、その『婦人の運命』が出たことを聞いたので、同じ物なればと思つて止めて了(しま)ひ、其侭(そのまま)数ヶ月を経過した。後偶然右の訳書を一見するに及んで、予の仕事も亦(また)あながち無用でないこと、及び其仕事の結果を世に出し得ることを認めたので、更に之を続けて完結せしめた次第である。
書名が微妙に違うが、明らかに彦坂訳へのあてこすりである。彦坂訳を無視しようとした様子も伺える。「其仕事の結果を世に出し得ることを認めた」とは、出版のあてがついた、ということであろうか。
彦坂訳の紹介でも触れたが、千布と彦坂の間には確執があったと伝えられる。千布は彦坂の語学力の低さを見下していて、それにもかかわらず全文エスペラントの個人誌Samideano Ĉiumonataを外国向けに発行するのを苦々しく思っていたようだ。
ザメンホフ訳Martaの刊行(1910)の翌年、JEA機関誌Japana Esperantisto 6巻2号(1911.5)のBibliografio欄「文学書類」に比較的長い紹介が掲載されていた。「此小説に於て吾人は啻(ただ)に悲惨なる事実を見出すのみならず、婦人の為めに有力なる訴え、男子の行為及び、社会法律道徳の欠陥に関する正当なる観察を見出し得べし。」とある。この新刊書を読んで評者が感動したさまが伝わる。時期から言って、この無記名の評者が千布である可能性は高い。このころから翻訳を企てたのであろうか。
千布は、訳稿を完成させた直後のJapana Esperantisto誌9巻4-6合併号(1914.11)にも‘El "Marta"’として、ザメンホフ訳の抜粋を千布訳との対訳で3ページだけであるが掲載した。ただし、千布が全巻を翻訳済みなどといった説明はなく、抜粋部分に対訳をつけただけとしか受け取れない。何らかのアナウンスになることを期待したのだろうか。JEAの最沈滞期にあって、効果はなかったようだ。
千布訳は公刊されず、原稿としても半分しか現存していないことから、「幻の」と題につけた。序の「本書を我国の婦人、殊(こと)に、是から世に出やうとする若い婦人に薦める。又教育家や、婦人問題、社会問題に興味を有する人士に、敢て一読を煩はしたい」との希望は叶わなかった。この希望は、彦坂が抱いた希望から遠いものではない。彦坂訳も、出版はできたとはいえ、目立った反響を受けられなかったのであるから、共倒れになったと言える。両者の間になんらかの協力関係が生まれなかったことが惜しまれる。
彦坂の語学力を貶めた千布は「一行一句誤訳は断じてない、と確信する」と豪語した。前半だけでも、その訳文について翻訳論的に検討し、彦坂訳さらには清見訳と比較するのもおもしろいことではあろう。
付記: 東京都立図書館特別文庫室には、貴重な資料の閲覧を許可して頂いたことに深く感謝申し上げる。
2022年11月12日、国際基督教大学アジア文化研究所主催シンポジウム「日本におけるエスペラント受容」において「日本におけるエスペラント受容 ―いくつかの事例をとりあげて―」の題で講演を行い、Martaの彦坂訳および清見訳についても扱った。スライド[pdf]
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