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2011年6月11日
日本エスペラント学会「エスペラントの日」記念公開講演要旨
『エスペラント』2011.11. pp.20-24. 掲載

エスペラント言語文化史の試み

後藤 斉


2011年3月11日の東日本大震災に際しては、多くの人から安否の問い合わせやお見舞いの言葉を個人的にいただいた。未知の人からのものも多かった。これはエスペランティストの行動様式からすれば当たり前のことであるが、考えてみれば不思議なことである。

この世界的な大事件に巻き込まれた私自身としては、震災についてエスペラントで表現しなければという思いが湧いてくるのを感じた。エスペラントは国際語であり、国際的な表現、伝達の手段であるからだ。そこで、ニュース雑誌Monatoに被災者のはしくれとしての立場から記事を寄稿し、6月号に掲載された。

エスペラントのことを「ザメンホフが作った人工語」と言うことがある。しかし、社会現象としての言語を一人の人間が作ることは不可能である。エスペラントを持続的に使う言語共同体が存在して初めて、言語として成り立つことができる。この意味で、エスペランティストの一人一人がエスペラントの成立と発展に関わっている。

エスペラントの言語共同体は、自分の母語に加えて、特定の民族集団に属さない言語を意識的に選択した上で学習して、母語を異にする人との間でのコミュニケーションに使用するという共通の意思と行動を基礎にして、ゆるやかに結ばれている。

2回の世界大戦や冷戦体制とその崩壊などの社会的な激動の中を、120年以上にわたって、エスペランティストたちは国際共通語の実践を続けてきた。これらの活動によって、エスペラントは生きた言語として育ってきている。エスペラントは過去ではなく、現在に属するものであって、「中立で使いやすい国際共通語」という点をより強調したい。

エスペラントの共同体は個人の自由意志に基づいており、特定の民族、国家、地域と直結していない。また、エスペラントの中心的な使用場面は日常生活ではない。このような性質のため、エスペラント共同体の活動は、それに属していない人には捉えにくい側面がある。「エスペラントには文化がない」と言われることさえある。

エスペランティストはエスペラントをより効果的なものにするために、様々な試みを行ってきた。各種の組織、出版、定期刊行物、大会などの催し、文通や旅行、ネット利用、デレギート網、Pasporta Servoなどである。120年以上に及ぶその営みは、エスペラント言語共同体に特徴的な要素を多く含んでおり、相当のエスペランティストに共有されている。これを「文化」と呼ぶことは決して不当ではない。冒頭で触れた、震災後の私の体験もこのような流れの中に位置づけられる。

従来のエスペラントの歴史は、「エスペラント運動史」として普及宣伝活動と組織運営の歴史に特に集中することが多かった。このような側面も確かにエスペラント文化の一部ではある。

その一方で、エスペランティスト個々人がエスペラントを用いてどのような言語活動を行い、エスペラントにどのような価値を見出してきたかについては、十分に扱われたとは言えない。多くの個々の事実も必ずしも広く継承されていない。各人のこのような活動が相互にどのように連関していたか、も同様である。

最近刊行された伊藤幹治著『柳田国男と梅棹忠夫 自前の学問を求めて』(岩波書店, 2011)では、本文の末尾で(あえて言うが)取ってつけたように柳田と梅棹の両者の共通点としてエスペラントが言及されている。両者が言語にも深い関心を持っていた以上、共通点としてのエスペラントはもっと本格的に論じられるべきであろう。著者はエスペランティストではないのだから、過剰な要求をすることはできない。それならば、エスペランティストは両者の学問・思想におけるエスペラントの位置づけをきちんと説明できてしかるべきであろうが、できるだろうか。

従来は手薄であった、このような面を扱うエスペラント言語文化史を構想したい。もちろん対象は柳田や梅棹のような有名人だけではない。以下では、日本におけるいくつかの出来事を取り上げて、エスペラント言語文化史の一端を示してみよう。なお、具体的な事実としては、La Movado誌707号(2010.1)~722号(2011.4)連載の「エスペラントとハンセン病」、および725号(2011.7)、727号(2011.9)掲載の「"Marta"の二つの日本語訳」で詳しく扱ったことと重なる部分がある。

ポーランドのエリザ・オジェシュコヴァ原作、ザメンホフ訳のMartaは、エスペラント文学の古典として、現代まで読み継がれている。清見陸郎によって『寡婦マルタ』(1927)として日本語に重訳されたことも、比較的よく知られている。

一方、あまり知られていないが、これに先行する彦坂本輔訳『女の運命 原名・マルタ』(1914)もあった。エスペラントから日本語に翻訳され、単行本として公刊された第一号の文学作品である。大きな影響を残すには至らなかったが、彦坂がザメンホフ訳から感動を受けて翻訳を企てた思いは読み取ることができる。

1930年、黒川眸訳『悲惨のどん底』が刊行された。ポーランドのシェロシェフスキがシベリアのハンセン病患者の悲惨さを描いた作品をカーベがエスペラント訳したLa fundo de l' mizeroの重訳である。黒川は、国立療養所多磨全生園(東京都東村山市)の前身である全生病院にいたハンセン病患者であった。当時、院長や医師らの援助の下で全生エスペラントクルーボの活動が繰り広げられていたのだ。

全生病院の院誌『山桜』にはこの会に関係した短歌も掲載されている。「半句一句解り初めたる世界語のエスペラントは楽しかりけり」(揚原澄流)、「窓を開けて涼入れ居れば壁に貼りしザメンホフの像おごそかにゆれぬ」(黒川)などである。当時、不治の病とされたハンセン病の患者にとって、エスペラントが生きる喜びとなったことが伺える。

1930年8月23日、自転車で世界一周の途上、シベリアを走破して来日したフランス人ペレールが病院を訪問して、全生エスペラント・クルーボと交流した。黒川は「何時の頃帰国されむかと問ふに唯わからぬと答ふこの放膽さ」と、その印象を短歌に詠んだ。ペレールがのちに刊行した旅行記にもこの訪問の時の記述が見え、患者たちが直接エスペラントで語りかけてきた驚きが語られている。両者を突き合わせると、患者たちとぺレールの心がエスペラントを介して交わったことが伝わってくる。

全生病院の院誌にはエスペラント文が掲載されることもあり、数年にわたって続いた。中心とな>ったのは、盲人患者山名実であったようだ。俳句の翻訳も多い。Ho, mi estas ĝuanta la malvarmetan vesperon. / Kiel feliĉa mi estis naskita / En viro.という俳句の翻訳が掲載されているが、もとの俳句が推測できるだろうか。そう、「夕涼みよくぞ男にうまれけり」である。この翻訳が詩になっているとは言い難いが、熱心に語学力を高め、翻訳に心を砕いた様子は明らかに見てとれる。「この頃にはエスペラント講習会はもうなく、誰にも読めないものになった」との評がなされることがあるが、そんなことはない。活字になった文章は、80年の時を経て山名らがエスペラントに託した思いを語りかけてきてくれるのだ。

カーベ訳Fundo de l' mizeroからの日本語訳は、のちに和見正夫(=村上信彦)訳『悲惨の涯』(1940)としても刊行された。あとがきに黒川訳への言及はなく、出版の経緯は分からない。

ここで取り上げたMartaFundo de l' mizeroは、いずれもエスペラント訳を介して日本語に重訳された。重訳とはいえ、戦前に2種類の翻訳が刊行されたポーランド文学作品は少な>い。日本におけるポーランド文学の受容においてエスペラントが果たした役割が決して小さくなかったことを示している。

このようなエスペラント言語文化史において取り上げられるような項目を年表形式にしてみた。下にその一部を掲載する。年表では各項目は一行で記載することになってしまうが、それぞれの背後には数ページあるいはそれ以上の記述を要するような背景がある。また項目同士には連関がみられるし、外国の出来事との関係も考察すべきである。

筆者が編纂を引き継いだ『日本エスペラント運動人名事典』には、このような視点からの記述も可能な範囲で盛り込みたい。


2014年6月28日
日本エスペラント学会「エスペラントの日」記念公開講演要旨
『エスペラント』2014.11. pp.5-7. 掲載

続・エスペラント言語文化史の試み

私が初めて「エスペラントの日」に公開講演を行ったのは2006年のことで、その時は刊行目前となっていた『エスペラント日本語辞典』を編集副主幹の立場から紹介した。同時に講演した柴田巌さんは編纂中の『日本エスペラント運動人名事典』について話した。その後、私の方から協力を申し出て、柴田さんの執筆を援助することになった。

しかし、柴田さんは病に倒れ、私が『人名事典』の編纂を引き継ぐことになった。2011年の「エスペラントの日」記念公開講演では、『人名事典』の編纂についての私の考えを「エスペラント言語文化史の試み」という題で講演した(本誌2011年11月号に要旨)。『日本エスペラント運動人名事典』は昨年10月にひつじ書房から刊行することができた。今回の講演はこの事典の編纂に関する報告ということになる。

このような事典は情報を機械的に集めて配列してできるものではない。大部な本を編纂するには情熱が必要だ。柴田さんや監修者の峰芳隆さんにもそれぞれの思いがあっただろう。

私としては、エスペラント運動を普及活動や組織運営に限定せず、なるべく広く捉えたい。そして、エスペランティスト個々人がエスペラントを用いてどのような言語活動を行い、エスペラントにどのような価値を見出してきたか、また、各人のこのような活動が相互にどのように連関していたか、といった側面を取り上げたかった。また、それらを、できるだけ社会や世界の文脈の中に置いて、また現在との関係も含めて、語ることを目指した。詳しいことは「まえがき」に書いたので参照していただきたい。

以前は私はエスペラント運動の歴史にそれほど大きな関心を持ってはいなかったが、それでも私の考え方を文章に記したこともないわけではない。例えば、『月刊言語』第30巻(2001)2月別冊号に寄稿した「ザメンホフ」では、『第一書』発表以降のことを中心に扱い、彼が「言語には指導者よりも使用者の方が重要であることを直感的に知っていた」点に注目していた。

エスペラントの実際を知らない人がエスペラントを的外れに論じることはしばしば見受けられる。一方、エスペランティストの中にも、定型化された文言を繰り返すだけの人は少なくない。そのどちらにも問題があるが、私としては、直接に批判を向けるよりは、エスペラント運動のさまざまな具体的事実を指し示すことによって、それらに応じたい。

完成した『人名事典』に弱点や見落とし、誤りがあることは否定できない。しかし、方向において間違ってはいなかったと考えている。今日は、具体例としてチャイレ(Edmund Zscheile)と松崎克己を取り上げて調査の過程の一端を示すとともに、刊行後の発見と経験にも触れてみたい。

チャイレの名前はあまり注目されて来なかった。ドイツのライプチヒ出身の詩人と紹介されていて、1923年からもう一人のドイツ人と世界旅行を行った。日本では本誌1926年11月号に「七年計画世界一周徒歩旅行の独逸の二青年来る」という題で写真入りで報告され、以降翌年1月号の離日の記事まで、長崎から横浜までの旅程が記録されている。東京では時間の都合があまりつかなかったため、東京のエスペランティストたちには大きな印象を残さなかったようだ。

世界一周徒歩旅行とはなかなかイメージしにくいが、これに似た例は他にもあり、近年でも見られることがある。ユニークなエスペラントの利用法であり、当時としては外国人と実際に接触することの少なかった多くの日本人エスペランティストに対しても刺激になることが多かったと思われる。

リンス氏にも調査してもらったが、詳しい経歴やその後の消息などはあまりわからない。旅行は全うできたようで、オーストリア国立図書館に日本での記念写真が保存されている。『人名事典』の原稿には当時の本誌の記録からわかる範囲で書いて入稿した。

入稿後もいろいろな調査を続けていたが、魯迅について追加調査をすることにした。そもそも魯迅を『日本エスペラント運動人名事典』の項目に挙げるかどうかは微妙だ。しかし、魯迅の名前はエロシェンコとの関係でどうせ出てくるし、日本(さらには私の地元の仙台)との縁も深いから、項目を立てていた。

魯迅のエスペラントとの接触をさらに調べているうちに、日記に1927年1月23日に広州でのエスペランティスト歓迎会に出席したとの記述があることが分かった。徒歩で世界旅行中のドイツ人Zeihileのことという注がある。綴りがわずかに違うが、これはチャイレ以外ではありえない。中国資料の側の誤りである。

校正でこのことを追加することにした。しかし、入稿以後に追加訂正したい情報はかなりの量にのぼっていて、全部反映させると刊行に遅れを来すことが明白になった。そのため、この事実はチャイレの項目には追加できたが、魯迅の項目の方には挙げることができなかった。

今年に入ってからも改めてチャイレについて調べてみた。すると、オーストラリアエスペラント協会の The Australian Esperantist 誌1981年4-5月号にチャイレの名で"La malkuraĝulo"という文が掲載されていることに気付いた。オーストラリアのエスペランティストに問い合わせたが、掲載のいきさつについてはもはや分からず、1981年前後にチャイレがオーストラリアにいたかどうかも不明だった。ただ、チャイレに関心を持っている人がオーストラリアにもいることがわかり、世界旅行当時の新聞記事を紹介された。

松崎克己追悼記事の一部 (本誌1929年3月号)
松崎克己追悼記事の一部
(本誌1929年3月号)
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"La malkuraĝulo"で語られるのは、世界旅行時の日本でのエピソードである。佐賀県の有田でただ一人のエスペランティストK氏を訪ねたところ、何を訪ねても"Jes"の返事しか返ってこず、仕方なく一人で寝ることになったが、一晩中二階で歩いたりうなったりする音が聞こえていた。翌朝、K氏は紙を読み上げて、前夜の失礼を詫びてくれたが、そのエスペラント文は整った文体だったので、チャイレは驚いた。チャイレは子どもに対するように彼に話しかけ始めたが、数時間もするとK氏はチャイレもついていけないほど流暢にエスペラントを話していた。

多少の脚色が加わっているかもしれないが、1920年代の孤立した日本人エスペランティストの逸話として、ありそうなことだろうか。ところでK氏とは誰か。この時代に有田で唯一のエスペランティストとして久住久(くすみひさし)が知られている。『人名事典』で1行半しか書けなかった人物の一面がこれで分かったことになる。

今年の4月になって図書館で『人名事典』を見たという方から手紙をいただいた。潮地ルミさんという方で、『人名事典』に掲載されているご両親(松崎克己と碧川澄)の記述を読んだとのことであった。

松崎はJEAからJEI初期にかけての熱心なエスペランティストで、中学時代から語学力、特に会話の流暢さで目立っていたという。本誌への学習記事の寄稿も多かった。プリヴァの Vivo de Zamenhof を『愛の人ザメンホフ』(叢文閣, 1923)として翻訳し、これはのちに『ザメンホフの生涯』(JEI, 1937)として再刊されて、当時は広く読まれた。しかし、1926年に若くして亡くなった。その時、娘の潮地さんは満1歳になっていなかったはずである。

妻の碧川は早くに夫に先立たれて苦労したに違いない。しかし、戦前は女性エスペラント団体のクララ会で活動を続け、戦後は結核療養者雑誌に携わってエスペラント記事を継続して掲載し、その功績で1951年に小坂賞を受賞した。

活動ぶりを反映して、『人名事典』ではそれぞれ半ページ弱と比較的長めの記述になっていて、潮地さんには喜んでいただいたようだ。ただ、これまでご父君について詳しいことを聞いたことがなかったという文面が、少し気になった。そこで、当時の本誌から1926年3月号から数号にわたって掲載された追悼記事やその後の拠金による墓碑建設の記事などのコピーを返信に添えてお送りした。

しばらくしてご返事をいただいたが、予想通り、これまで見たことのない資料に喜んでいただいたようだ。しかし、父に抱かれた赤ん坊のご自分の写真を89歳にして初めて目にされたとは、私自身驚いた。私はあまりお涙頂戴の話をするタイプではないが、これは実に感動的なことではないだろうか。

『人名事典』には、調査不足の点もあるし、書ききれなかったことも多い。とはいえ、エスペラントの文化の豊かさを感じる手掛かりとして読んでいただけるものと思っている。


年表

省略


付記

『日本エスペラント運動人名事典』は、2013年10月に刊行されました。年表はこの『事典』をご覧ください。

このサイトの内容を『人物でたどるエスペラント文化史』(日本エスペラント協会, 2015)として刊行しました。


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