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エスペラントを育てた人々 ―仙台での歴史から―
『考えるということ』第3号(2008.5, pp.29-33)掲載文に加筆
Al la versio en Esperanto

寄付金つき切手の生みの親 土井英一

後藤 斉



土井英一

目次


「英才」英一とシュレーダー校長

土井英一(1909.9.17〜1933.9.9)は、「荒城の月」で有名な詩人で英文学者の土井晩翠 (1871〜1952)と八枝夫人(1879〜1948)の長男です。東北大法文学部在学中に結核のため病死、 数えで25歳、満では24年にも欠ける短い生涯でした (Revuo Orienta (RO) 1933.11に追悼文)。 しかし、病の中でエスペラントなどの語学力を駆使して行った多岐にわたる活動は多くの人を 動かし、なかには国に新しい制度を導入させるほどの熱のこもったものもあったのです。

旧制二高の教授であった父土井晩翠(本名は林吉)は時代を代表する詩人として有名でした。詩集 『天地有情』(1899)に収められた「星落秋風五丈原」は、諸葛孔明の悲壮な運命を美文調の名調子で 歌い上げたものとして当時は広く愛読されたものです。のちには、古代ギリシャ最大の古典である ホメロスの叙事詩を原典から『イーリアス』(1940)、『オヂュッセーア』(1943)として韻文に 完訳してもいます。これらの業績により、晩年の1949(昭和24)年には仙台市名誉市民に推戴され、 1950(昭和25)年には文化勲章を受章することになりました。「荒城の月」は滝廉太郎の曲で 現在も広く愛唱されています。母八枝も、『仙台方言集』(1919)、『土佐の方言』(1935)を はじめとする方言研究や随筆執筆などの文筆活動を行っています。なお、姓の読みは本来「つちい」 でしたが、読み間違えられることが多いなどの理由から「どい」と改称したものです。

晩翠がエスペラントと初めてどのように接触したかは、よくわかりません。1922(大正11)年 5月28日、フィンランド公使 ラムステット (Gustav John Ramstedt. 1873〜1959)らを招いてのエスペラント講演大会が二高の講堂を会場に 行われ、500人あまりの聴衆を集めています。新聞でも数度にわたって大きく報道されましたから、 晩翠もそれに触れ、エスペラントに何らかの関心を覚えた可能性は十分にありますが、確証は ありません。

確認できるのは1924(大正13)年4月16日のことで、朝日新聞社主催の講演会のために来仙 していた 柳田国男 (民俗学者。前年8月まで国際連盟委任統治委員としてジュネーブに滞在し、その間、 エスペランティストと交流)をエスペランティストが呼んで開いた、「ヨーロッパに於ける エスペラントの現状」に関する講話を聴く会への参加です(『河北新報』1924.4.17, RO 1924.7)。 これは喫茶店で開いた、聴衆が20人ほどだけのほとんど内輪の会合ですが、晩翠はテーマに 心引かれたのでしょうか。このころまでにはすでに、晩翠はある程度はエスペラントに関心を 持っていたと考えられます。

また、同年7月に仙台で開かれる第12回日本エスペラント大会に合わせて、 仙台エスペランチスト連盟が立ち上げた、仙台の名士たちの間の親睦団体、仙台人類同胞 倶楽部にも夫妻で会員となっています。


シュレーダーから英一へ贈られた本。
"Al mia karega japana amiko Eiichi Tsuchii
de Johannes Schröder"
(親愛なる日本の友、エイイチ・ツチイへ、
ヨハネス・シュレーダーより1931年7月)と書き込み。

英一は幼少の時から英才とうたわれており、 片平丁小学校、 旧制仙台一中 (現宮城県仙台第一高等学校)をそれぞれ一年短縮して修了するほどでした。 1922年、ノーベル賞受賞決定の直後に日本を訪れたアインシュタインは仙台で 晩翠と会い詩を贈られますが、帰途の船中から晩翠へのお礼の手紙とともに、わざわざ 英一(当時満13歳)に宛てたメッセージも書き送っています(現在、東北大学附属図書館蔵)。

Wer das angestrengte Nachdenken über wissenschaftliche Probleme kennt, der fühlt sich nie leer und einsam, und zudem erlangt er einen festen Stand gegenüber dem Wechsel des Schicksals.

Dem jungen Herrn E-i-ichi
zum Gruß
Albert Einstein
- - - - - - - - - - - - - - -

科学の諸問題を突きつめて考究することを知る者は、決して自らを空虚で孤独であると 感じることはなく、さらには運命の転変に立ち向かうための確固たる足場を得るのである。

若きエイイチ様へ
ご挨拶として
アルバート・アインシュタイン

(翻字 U. リンス、日本語訳 後藤)

参考: プリンストン大学アインシュタイン全集の該当箇所英訳

晩翠は息子のことをよほど印象に残るようにアインシュタインに紹介したものと みえます。周囲の期待のなか、英一は二高の理科に首席で合格します。

のちの両親の回想からは、英一が二人にとって自慢の息子であったことがありありと伝わって きます。親の欲目を少し割り引いて読むべきなのかもしれません。しかし、下の姉信子(1907〜1940) の夫、中野好夫(1903〜1985. 英文学者. 東京女子師範学校教授をへて、のち東大教授、評論家)も 義弟英一を高く買っていました。彼の目には、英一は「実に惜しい長男、私などは、早くこれが 一人前になつて、親父にかわつてくれたらよいと思つたほどの、おそらく親父以上の人間」と 映っていたのです。また、中野が姉弟について「照(長女)は利発な性格でとても両親を自慢にして いたが、信と英一(長男で末っ子)の二人は、親たちは少しテングになっていると批判的な目も 持っていた」と言っていたことを、その娘、利子は証言しています。友人たちの回想も英一を 英才ぶりを証言するものです。英一は単に裕福な有名人のお坊ちゃまというだけではなかった ことがわかります。

英一は、英語やドイツ語もよくできましたが、中学ごろからエスペラントを独習して、1927 (昭和2)年には二高エスペラント会を再興し(RO 1927.11)、同じころ、日本エスペラント学会に 入会します。二高エスペラント会ではリーダー格として活動し、1928(昭和3)年4月から "Monata Raporto el Japanio"を刊行して、日本事情を世界に知らせようとします(RO 1928.6)。


Monata Raporto el Japanioの創刊号

彼は国際語を通じて世界の人々と親交を結ぼうと、また、外国人に日本の認識を正しくもって もらおうと、国際文通に励むようになりました。特に親しくなったのは、ドイツのドレスデン近くの マールバッハ(のち合併して ティーフェンバッハ、現在はシュトゥリーギスタールの一部)に住む小学校長 ヨハネス・シュレーダー (Johannes Schröder)で、20歳以上の年齢差にもかかわらず、 互いに "karega amiko"「親愛なる友」と呼び合う仲になります。

シュレーダーの方も英一以外の日本人エスペランティストとも文通を重ねて日本びいきになり、 その経験から地元で日本文化について講演をすることもあったとのことです。講演原稿 "Kvarjara korespondado kun 14 japanoj" (「14人の日本人との4年にわたる文通」, 8ページとかなりの長文)は、英一の仲介でRO 1929.8に掲載されました。 シュレーダーから英一に贈られた本 (Hans Koch-München, "La Esperantisto en Germanio, Gvidlibro tra la germana lingvo", Sudgermana Esperanto-Eldonejo, 1923?) も、晩翠の旧蔵書を収めた 東北大学附属図書館晩翠文庫に残されています。 晩翠が英一の遺品を取っておいたものでしょう。


Illustrierte Zeitung 誌に掲載された
自由学園を紹介する記事
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英一とシュレーダーの連名で(ただし、Eiichu と誤植)、東京目白にある自由主義的な女性教育 機関、自由学園を紹介するドイツ語の記事が、ライプチヒで刊行されていた Illustrierte Zeitung 誌4585号(1933.1.26)に掲載されています。自由学園は、キリスト教精神に基づいて、生徒の 自立を重んじる理想の学校として羽仁吉一・もと子夫妻が1921(大正10)年に創設したものです。 英一としては、独特の校風をもつこの学校を現代日本の一側面として外国に紹介することで、 ドイツの人たちに日本の認識を高めてもらおうとの意図があったようです。羽仁もと子の ヨーロッパ旅行に合わせた掲載を狙ったのですが、交渉に時間がかかり、実際の掲載はそれには 間に合いませんでした。なお、このころには、後に日本エスペラント学会理事長となる磯部幸子 (1913〜1988)が在学していて、エスペラントの学習を始めていますが、単なる偶然でしょうか。 また、のちには、羽仁の子、説子・五郎夫妻もエスペラントの支持者となります。

また、英一はシュレーダー校長の小学校の生徒たちとも手紙を交わすようになり、日本で勇気と 忍耐を象徴するものだといって、学校に鯉のぼりを贈ったりもしました。子どもたちに喜んで もらえたことに気をよくして、英一の前年に亡くなることになる長姉照子(1906〜1932)と一緒に、 外国の他の小学校の子どもにも鯉のぼりを送ることにしたとのことです。英一の死後、この活動は 晩翠ほかの人々により国際友好鯉のぼりの会(1934年創立, RO 1935.5に報告)として続けられます。 のちの八枝の回想によれば、照子もエスペラントの「平易な文は読める様」だったとのことですが、 この活動の中で自然に覚えたのでしょうか。

英一がエスペラントの活動を深めていくにつれて、晩翠もそれに引かれるように エスペラントとの関係が強まります。晩翠は、1930(昭和5)年10月16日、エスペラント講演旅行の ため来仙したシェーラー(Joseph R. Scherer)の歓迎晩餐会に出席しており(『河北新報』 1930.11.27)、また、同年12月に復活した二高エスペラント会の顧問に就いています(RO 1931.2)。 RO 1932.2に発表された『荒城の月』の小坂狷二(おさかけんじ)によるエスペラント訳はどのような 形で晩翠に知らされたのでしょうか。1932(昭和7)年5月に、晩翠は(東北大理学部教授 林鶴一、 同三枝彦雄とともに)仙台エスペラント会賛助会員に推されており、同時に八枝も一般会員として 加わります。この前後、土井宅が仙台エスペラント会の輪読会の場として何度か使われたことも 記録に残っています。このころには晩翠夫妻のエスペラント運動の支援者としての立場は 明らかです。

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慈善切手


慈善切手を呼びかける英一の投書
『東京日日新聞』(1930.10.9)

英一は中学在学中から健康を害しており、高校を休学して転地療養することもありました。 文系に転向して1929(昭和4)年に東北大法文学部に入学し、ドイツ文学ないしインド東洋哲学の 研究を志します。早速、学生が3人だけの授業でサンスクリットの学習を始めるなどして、その 道を歩みだしましたが、療養のために同年8月31日づけで休学せざるをえなくなり、その願いは かないませんでした。

彼が死を予期していた時期にもっとも熱心に取り組んだのは、慈善切手の実現です。英一は、 ヨーロッパの文通相手から受け取った郵便に、変わった料金表示の切手が貼ってあることに 気づきます。郵便料金額に寄付金を付加して販売される慈善切手であることを知ると、これを 日本にも導入して、社会事業、特にハンセン病(当時の呼び方では「癩病」)や結核の患者の救済に 役立てることを考えました。

彼は、1930年10月9日づけの『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)に掲載された投書で呼びかけ ました。「…例へば一銭五厘切手を二銭に、同じく三銭切手を四銭に全国の郵便局から発売する もので、政府はその付加額を回収して慈善の目的に使用する。欧洲各国では夙にこれを実行して ゐるが、一団体の義捐金募集に比べて遥に普遍的であり民衆的である。……この切手を貼つた手紙が 全国津々浦々に行きわたる時、それは全国民の公共心を刺戟せずには止まないであらう。」と 言うのです。そのような呼びかけをするかたわら、文通を通じて、ヨーロッパ諸国での慈善切手の 発行の経緯や状況、寄付金の使途など、制度の詳しい調査を進めます。この調査では エスペラントのネットワークが大いに役立ったことが伺われます。

英一の投書には「その数多き点において列国中に比を見ざるわが癩病患者の救済問題」と ありますが、彼が慈善切手の発行目的として主にハンセン病の患者の救済を考えた理由はどこに あったのでしょうか。はっきりとはわかりませんが、キリスト教のつながりから、日本MTL (賀川豊彦らにより1925年に設立された救癩活動組織)の活動のことを聞き及んでいたことが 考えられます。

また、この前後1929年から、東京のハンセン病療養所全生病院(現、国立療養所多磨全生園)では 院長光田健輔(1876〜1964. のち岡山県の長島愛生園初代園長、1951年文化勲章受章)の奨励の下、 初めは日本医大学生佐竹により、続いて医師林文雄(1900〜1947. のち愛生園を経て鹿児島県の 星塚敬愛園初代園長)、塩沼英之助(1903〜1979. のち沖縄の国頭愛楽園初代園長)らの指導で 職員や患者(盲人を含む)に対してエスペラント講習会が開かれていました。これは、 全生エスペラント・クルーボに発展します。また、 院内の学校、全生学園は特別科として正課に取り入れられました。

光田は「全世界の癩療養所にエス語運動をとの一大野望を有して」いたとのことであり、林は 北大医学部生時代からのエスペランティストでした。塩沼はエスペラントの初心者でしたが、 自分で勉強しながら実際の指導を担当し、また、日本エスペラント学会とも連絡をとってハンセン病 療養所でのエスペラント学習活動の情報を積極的に一般のエスペランティストに知らせようと しました。

外界との接触がほとんど絶たれた患者にとっては、エスペラントは世界とのつながりを感じ させる文化活動という意味があったようで、熱心に続ける人も出ました。実際に、 エスペランティスト千布利雄、ペレール (Lucien Péraire, 自転車で世界一周したフランス人)らが病院を訪れて、 エスペラントでの交流を行っています。 また、月刊の院誌『山桜』には1929年9月号から1935年10月号までほぼ毎号エスペラント欄が設け られています。1930年11月に愛生園が開園して光田と林が全生病院を去ってからも、塩沼が熱心に 指導したこと、特に優れた生徒だった盲人患者山名実が、芭蕉の俳句のエスペラント訳を試みる など、立派なエスペランティストとして育ったことが伺われます。

この中から、患者黒川眸(1906〜1932)がポーランドのシェロシェフスキ (W. Sieroszewski) 著『悲惨のどん底』をカーベ (Kabe) によるエスペラント訳から、林や 塩沼の助力を得ながら、重訳して『山桜』に連載し、1930年7月には長崎書店から出版するという 成果も現れます(RO 1930.4, 9, 11)。このような活動はエスペランティストの間でもたびたび 伝えられ話題になりましたから、英一も感銘を受けていたのかもしれません。


英一が集めて、内ヶ崎に資料として
託した外国の慈善切手の一部
(内ヶ崎「愛国切手誕生秘話」より)

英一は世界の慈善切手に関する調査結果をレポートにまとめて、晩翠を通じて宮城県選出の 代議士内ヶ崎作三郎(1876〜1947. 二高および東大英文科で晩翠の後輩、早稲田大学教授、のち 衆議院副議長)に働きかけます。その博愛精神と熱心さに動かされて、内ヶ崎は、1933(昭和8)年 3月、第64回帝国議会衆議院建議委員会に「慈善郵便切手発行ニ関スル建議案」を提出しました。 3月2日に開かれた委員会の議事録を読むと、内ヶ崎が個人名を出すことは控えつつ「或ル特殊ノ人ノ 手ヲ通ジ」て調査したという海外の事情の説明は、スイス、ドイツについて細かい金額まで挙げて 詳しく紹介し、さらにベルギー、オランダ、デンマーク、イタリア、フィンランド、フランス、 ハンガリー、イギリスにまで言及しており、非常に具体的です。この周到な調査結果は逓信省で 一驚されたとのことです。

しかし、逓信省の政府委員の答弁は、「大変結構ナコト」としながらも、従業員の負担増や 予算不足を理由にあまり積極的ではありませんでした。建議が衆議院本会議で可決されたとの 知らせは病床の英一を喜ばせましたが、なかなか実際の発行には至りません。英一は、「癩病 結核病の撲滅などが真の愛国的事業だから」といって「愛国切手」と呼びかえて、その実現を 家族、中学時代からの親友小野田薫(のち匡高と改名)、そして内ヶ崎に、文字通り死の瞬間まで 訴えかけました。

英一のこの活動は、ハンセン病に関わっていた人々の間にも関心を呼びます。特に、宮川量 (みやかわはかる 1905〜1949. 長島愛生園書記)は日本MTLの機関誌の上で積極的に英一の活動を紹介するよう 計らいました。また、共通の知人を介して英一と文通を重ねて意気投合するようになり、日本MTL 長島支部として慈善切手運動に取り組んで、内ヶ崎に対しても働きかけを行います。また、林は 国際連盟の依頼によるハンセン病事情視察のための世界旅行(1933〜1934)での見聞にも基づいてと しつつ、「[英一]氏の遺志を継ぎその実践によつて一つは英霊を慰め、一つは我国数千年来の 問題を解決」するために、ハンセン病根絶のための資金調達手段の一つとして、愛国慈善切手 運動を呼びかけました。なお、宮川によれば、「愛国切手」の名称は林の提案だとのことです。


晩翠「ゆける子…」の歌碑
(仙台市若林区大林寺)

長女と長男を二十代半ばで相次いで失ったことは、60歳を越えていた晩翠にとって、また八枝に とっても、大きな打撃でした。その悲しみを晩翠は「ゆける子は今天上と知り乍ら折にふれては 泣かざらめやも」と歌に詠んでいます。夫妻はこの衝撃のために心霊研究に傾倒したりもしましたが、 一方で、それをより生産的な活動につなげることもできました。『イーリアス』の跋文に よれば、あまりの難しさに多年中絶していたこの翻訳を完成できたのは、「彼らの霊が、時々夜の 夢真昼の夢に現はれ、『父さん、しつかり! 私共のやるべき仕事の幾分を代つてやつてください。 祈つてお助けしますよ。』此声に励まされ」たからだ、とのことです。その刊行の時、晩翠はすでに 数えで70歳になっていました。『オヂュッセーア』の翻訳の刊行はさらにその3年後のことです。

英一の遺志を受けて、両親はハンセン病患者救済問題への関心を深めていきます。母八枝は方言 調査のため訪れていた生地高知からの帰路、1935(昭和10)年10月27日に友人と愛生園を訪れます。 患者たちにも英一の慈善切手の活動は以前から知られており、訪問は心待ちにされていたようです。 当然のこととして患者への講話では英一のことに触れていますし、光田園長らとの間でも 話題になったと推測されます。ただ、林は敬愛園設立のためすでに愛生園を離れていたはずです。

八枝はさらにその足で雑誌『主婦之友』の依頼により神山復生病院(静岡県)も訪問し、訪問記を 1936(昭和11)年1月号に寄稿します。その記事の中で病院の様子を伝えるとともに、英一の活動を 紹介し、「患者全部収容できる病院設備」の費用を賄うための愛国切手制度の導入を広く呼びかけ ました。


英一の遺した資料に見入る晩翠と八枝

愛生園は医師小川正子(1902〜1943)を四国などに派遣し、患者の収容にあたらせていましたが、 1936年1月の高知県出張では、八枝の母校である県立第一高女で講演するよう園の幹部から指示が ありました。前年の八枝の訪問時に話題になったからでしょう。その時には八枝と直接言葉を 交わすことのなかった小川ですが、これをきっかけに八枝に手紙を出し、親交を結ぶように なります。小川の患者収容活動を感傷的に描いた手記は、園誌『愛生』1936年2月号「四国の癩を 救え」特集に、八枝の寄稿とともに掲載されます。ここには「第一高女は彼の救癩運動の隠れたる 真実な援助者理解者であられた若き故土井英一氏の母上の母校で」との言及もあります。

小川の手記は、まとめて『小島の春』(1938)として出版されますが、八枝から跋文を寄せて もらっています。これはベストセラーとなり、映画化もされるほどに評判をとりました。 小川は、そのお返しとして八枝の『随筆 藪柑子』(1940)に寄せた跋文で、愛生園での初めての 出会いを思い起こしています。「直接に御話を伺つたり御接待に出たりしたのではなかつた。……  然し……御子息英一様の救癩愛国切手の御計画に就いても、前々から伺つて居た事であり、夫人の 最初の御来園は種々の意味で、其の頃の私に深い印象として残された。」なお、のちの1943 (昭和18)年、小川の死に際して、晩翠は「小川正子女史を弔う」詩を捧げた。

宮城県に新しく東北新生園が設置されると、1939(昭和14)年11月27日の開園式から間もない 12月28日に晩翠夫妻は早速訪れ、入園者に講演を行ったとのことであり、他の折に訪問したことも あったようです。晩翠は思いを「逝ける子の願をつぎて病む人の慰めたらむかずならぬ身の」と 歌に詠んで書き置いています。初代園長鈴木立春(1885〜1967)は、1924年の第12回日本 エスペラント大会の準備委員であった関係で、上述の柳田国男を囲む会に出席していましたし、 仙台人類同胞倶楽部にも名を連ねていましたから、当時からの知り合いであったのでしょう。 そのような縁もあってか、晩翠は新生園の園歌を作詞しました。さらにのちの1948(昭和23)年、 鈴木の退任の挨拶に対して晩翠は敬意を表しています。それまでの間、かなりの関係が続いていた と思われます。

英一が慈善切手のための活動をした時代、日本のハンセン病対策は転機にありました。彼の 投書の翌年、1931(昭和6)年に成立した癩予防法によって、隔離政策は決定的に強化されます。 行政の権限が強められ、患者の救済より「民族浄化」が強調されました。その方向は戦後、日本 国憲法が基本的人権を保障するようになり、また、ハンセン病の化学療法が発達してからも長く 維持されました。光田は、ハンセン病分野の第一人者として絶大な発言力を得て、絶対隔離政策を 強力に推進する立場に立ち続け、このため、近年ではその主導者として批判の対象となっています。 英一の善意に基づく発意が本当にハンセン病患者の救済に役立つように使われる状況であったか どうか、残念ながら、疑問の残るところです。

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愛国切手


第六十七回帝国議会衆議院
建議委員第一分科会議録(速記)第五回 (抜粋)

内ヶ崎も英一の死の床での訴えを遺言と受け止め、宮川らの働きかけを受けたこともあって、 ハンセン病のための慈善切手発行に向けた逓信省との交渉を継続します。彼自身、1929年内務省 政務官だった時に光田と会いハンセン病について関心を抱いたようです。翌1930年6月2日には 全生病院を訪問して講話を行い、それが『山桜』誌7月号に掲載されています。この関心には 彼のキリスト教徒の立場からの影響もあったかもしれません。

しかし、1935年3月9日、彼は目的を民間航空事業奨励という名目に切り替えて、「愛国郵便 切手発行ニ関スル建議案」を第67回帝国議会に提案しなおしました。「政府ハ速ニ愛国郵便切手ノ 制度ヲ定メ其ノ収益ヲ以テ民間航空事業ノ奨励費ニ充当セラレムコトヲ望ム  右建議ス」と、 いたって簡潔な案文です。3月12日、内ヶ崎は委員会での趣旨説明の発言の中で、今度は真の 提案者は英一であって、彼がエスペラントなどを使って調べたことを明かします。

「何故ニ私ハ此建議案ヲ先年衆議院ニ提案致シタカト申シマスト、…土井晩翠 君ノ長男英一君ガ、東京[ママ]帝国大学在学中此事ヲ考ヘラレ マシテ、「エスペラント」ニ依リマシタリ、或ハ其他英独ノ文字ヲ使ヒマシテ、サウシテ欧羅巴ニ 於ケル同志ト通信ヲセラレテ、サウシテ材料ヲ提供セラレ、私ノ方ニ議会ノ問題ニシテ呉レナイカ ト云ウコトヲ熱心ニ頼マレマシタ為ニ、私ハ土井英一君ノ熱心ニ動カサレテ提案致シタノデ アリマス、然ルニ英一君ハ一昨年ノ秋病ヲ以テ死去セラレタノデゴザイマシテ、私ハ偶然病気見舞ニ 行ッテ、其最期ノ瞬間ニ会フコトガ出来タノデゴザイマシテ、私ニ対スル一種ノ遺言ノヤウニ ナッテ居ルノデアリマス…」。

目的を変えたのは民間航空事業ならば「非常時局」には受け入れられやすいとの判断から だったと、のちに内ヶ崎は説明しています。内ヶ崎の意図としては、これを突破口にして寄付金 つき切手の制度を導入させ、のちに社会事業目的でも発行させようということであったものと 思われます。

民間航空事業は郵便事業と同じく逓信省の管轄であり、当時、逓信省内部では、この前後5年 以上にわたって逓信省航空局長を務めた片岡直道らを中心に、民間航空事業の振興を急務とする 声がありました。折から航空郵便輸送は本実施の時期を迎えていましたが、片岡らは貨物や旅客の 航空輸送を充実する必要性を力説していたのです。郵務局が慈善切手の建議に気乗り薄なのをみて、 航空局の方でそれを渡りに船として引き取ったのではないでしょうか。建議委員会での内ヶ崎の 発言を読み直すと、前逓信政務次官牧野良三あたりから、目的を変更してはどうかとの示唆を 受けたように読み取れます。


愛国切手

このようにして、建議案は3月16日に委員会を通過し、25日に本会議で可決されます。 上のような事情で大筋での了解はとれていたものとみえて、今回は逓信省も積極的に動き、 愛国切手は実現の運びとなりました。

寄付を受ける法人には、政令で、財団法人帝国飛行協会が指定されることになりました。 もともと片岡航空局長は、帝国飛行協会を拡大強化して、予算の制約のない資金を使える、いわば 政府の別働隊のようにしたかったようです。「国家の財政を助けつゝ航空日本建設の目的を遂行し 得るように志すべきである」と言うのです。片岡は、希望として、財閥からの寄付で協会に1000万 円の基金を作り、また、これとは別に愛国切手で大衆から100万円前後の寄付を集めて、これを 「飛行協会の事業資金として国策遂行をやつて見たい」とも述べていました。逓信省航空局長が、 いくら所管とはいえ、財団法人の運営についてここまで踏みこんで言うことが当時としてどの程度 普通にみられたことなのか判断しかねますが、ともかく、これが彼の本音だったと考えてよい でしょう。


愛国切手発行趣旨書
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愛国切手の発行が本決まりになってからも、具体的な発行形態やデザインなどについて逓信省 内部での調整はなお必要であったようで、実際の発行まで時間がかかっています。1937(昭和12)年 5月25日の逓信省令第37号によって寄付金つき切手・葉書が制度的に実現し、実際に発行されたのは 6月1日でした。2銭、3銭、4銭にそれぞれ2銭の寄付金がつく3種類の愛国切手(色はそれぞれ紅色、 紫色、緑色)で、図案は日本アルプスの上空を飛ぶダグラスDC-2型機でした。切手に描かれた山は、 考証によれば、常念岳から東天井岳、大天井岳、遠く鹿島槍、白馬方面を見たもので、岡田紅陽 撮影の写真に基づくとのことです。同時に発売された愛国葉書は2銭プラス寄付金3銭で、表面 下半分には愛鷹山から望む富士山の絵(横山大観画とされる)、料額印面には金鵄が描かれて いました。

愛国切手の縦長の形や絵柄は、当時の切手としては斬新なデザインであったらしく、グラビア 印刷の出来栄えも上々で、日本初の寄付金つき切手は郵趣家からもおおむね好評をもって 迎えられたようです。月刊の『切手趣味』誌は2回にわたって特集号を組んだほど、大きな関心を 呼びました。おもしろいことに、日本のエスペラントの先駆者ガントレット (Edward Gauntlett. 1868〜1956. 岡山の六高などで英語教師、山田耕筰の義兄、のち日本に帰化して岸登烈と改名)も、 "These stamps are, it seems to me, a success from every point of view. ... the one thing which I think is particularly clever in the design is the left wing of the plane (on the right of the stamp) which goes into the border, giving an excellent effect of actual flight. ..."「愛国切手はどの点から見ても成功であったと思う。…… 特にデザインで巧みだと思うのは、飛行機の左翼(切手の右側)が枠にかかっているところで、 実際に飛行しているようなすぐれた効果をもたらしている」と好意的な感想を寄せています。


愛国切手類発売の案内と
注意書きのちらし
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逓信省と帝国飛行協会は、愛国切手発売にあわせて、日本の民間航空が諸外国に比べて 大きく立ち遅れていることを強調して、民間航空振興と愛国切手購入を呼びかけるキャンペーンを 繰り広げました。「切手一枚 輝く航空」というキャッチフレーズで、ポスター、ちらし、 立看板を大量に作って郵便局や公共施設、交通機関に掲示するなど、さまざまな手段で宣伝広報 活動が行われています。


愛国切手貼付用台紙 (表・裏)
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とりわけ、発売開始の6月1日からの1週間は航空愛国週間と設定され、各新聞社などとも共催で、 全国各地で数々の航空関連のイベントが催されました。ちょうど前日の5月31日に林内閣の総辞職が 発表され、近衛内閣の組閣までの政治上のごたごたの時期と重なって、航空愛国週間の気勢が いささかそがれたことは否めないでしょう。それでも、6月5日羽田飛行場での「大航空 ページェント」(逓信省、帝国飛行協会、朝日新聞社主催、陸軍省、海軍省後援)は、軍民の計 160機が参加する大規模なもので、その模様は東京中央放送局から実況中継されました。 報道によると、観衆は約10万を数えたとのことです。ページェントは、福岡、仙台、盛岡でも 開かれ、それぞれ盛況であったと報じられています。

日本放送協会も航空愛国週間に協賛して、初日の6月1日の午後7時30分からの時間を 「航空愛国の夕」と銘打ってラジオの特別プログラムを組みました。逓信大臣らの講演をはじめ、 愛国切手が登場するラジオドラマや漫才などまで、いくつもの特別番組が全国に放送されました。



愛国切手の宣伝と
朝日新聞社神風号の
東京ロンドン間飛行記念絵葉書
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帝国飛行協会は、このほかにも、冊子5万部を全国の小学校に配布し、また、「航空愛国の歌」や 航空標語、飛行機関連の写真と児童画の懸賞募集など、さまざまな事業を通じて、この機会を 利用して航空の重要性に対する国民の関心を喚起しようと努めました。愛国葉書を使って一枚に 一句という条件で募集した航空標語には、なんと15万件(23万件との記録も)を超える応募が あったと記録されています。

日本最初の寄付金つき切手という珍しさもあってか、愛国切手の売れ行きは発売当初、特に キャンペーンが盛んに行われた航空愛国週間の期間中は、好調でした。しかし、販売は間もなく 伸び悩むようになります。直前の4月には郵便料金が改定されて、葉書がそれまでの1銭5厘から 2銭に値上げされたばかりという事情があったため、さらに寄付金が付加されることには相当の 割高感があったようです。

上述のように、英一は、外国での例を検討した上で、「例へば一銭五厘切手を二銭に、同じく 三銭切手を四銭に…発売」と、額面の3分の1程度の寄付金を付加する構想を持っていました。 2銭の愛国切手で額面と同額の2銭の寄付金が付加され、愛国葉書の場合には額面2銭の1.5倍の 3銭の寄付金が付加されるというのは、どうみても高額に過ぎます。このような付加金額の設定は、 明らかに逓信省側の誤算と言うべきでしょう。

愛国切手の発売開始から間もない7月7日に起きた盧溝橋事件以降、日本は中国との全面戦争に 突入することになりました。戦時体制を強めるために、近衛内閣は8月から国民精神総動員運動を 展開します。国民に国策への協力を要請するこの運動のなかで、愛国切手使用の呼びかけが付随的に 行われた形跡はありますが、実際にはあまり目立った位置づけを与えられてはいません。大きく 強調されたのは、むしろ消費の節約や貯蓄と国債購入の奨励などで、郵便局では11月16日から愛国 国債が発売されるようになりました。民間でも、例えば朝日新聞社は7月20日から軍用機献納運動を 大規模に繰り広げ、国民から寄付を募ります。情勢がこのように急展開するなかで、政府にとっても 国民にとっても、愛国切手への関心は埋没していったかのようです。

それでも、東京都市逓信局は11月21日から27日までを愛国切手普及週間として、独自に ポスター、絵葉書、ちらしなどを作って宣伝に努めました。逓信省は、切手の売捌規則に特例を 設けて、38年7月11日以降は公共団体や学校などを通じた愛国切手の販売を可能にして、最後の てこ入れを図ります。しかし、結局のところ、予定枚数を売りつくすことはできないまま、 1939(昭和14)年3月末までで愛国切手の販売はおおむねとりやめられました。発行数は全部で 約5000万枚とされています。


政府広報誌
『写真週報』3(1938.3.2)
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寄付金つき切手が初めての試みであるため、使途決定手続きには政府として慎重を期した ようです。閣議決定をへて、逓信大臣を会長とする「愛国郵便切手寄附金管理委員会」が設置 され、逓信省を中心に、内務省、陸軍省、海軍省、文部省、拓務省それに帝国飛行協会という 広い範囲(廃止時の構成)から委員が出ています。発売時の広報では民間飛行場建設に使うという 目的が強調されていましたが、集まった金額は本格的な飛行場を多数建設するためには十分では なかったようです。寄附金管理委員会は、総額76万9564円78銭の寄付金の使途として、長野市 長野飛行場、金沢市金沢飛行場など計9ヶ所の飛行場の「設置補助」、「整備拡張補助」や 滑空場の設置、グライダー普及奨励ほかに充てることを決めると、その役目を終え、 1939年末に廃止されました。

いささか不審なことに、この額は、『航空年鑑 昭和十四年』が挙げる1939年3月末日での 寄付金総額92万1662円79銭(内地79万6760円23銭、朝鮮8万5194円70銭、台湾3万9707円86銭、 預金利子を含む)と食い違いがあります。その理由がどこにあるにせよ、発売開始当初の、 「全国民が各自年に1枚購はるゝならば年額百数十萬円に、年十枚購はるゝならば千数百萬円に 達すべく」(逓信省「航空振興と愛国切手」)というもくろみには程遠い結果に終わったことに なります。

このように、英一の慈善切手の提案は彼のもともとの希望とは違った形で実現されることになり ました。とはいえ、日本における寄付金つき切手が土井英一の博愛精神およびエスペラントによる 文通と調査の産物であることには間違いありません。


愛国切手発行の経緯を伝える『河北新報』記事 (1937.6.1)


愛国切手発行の経緯を伝える『東京朝日新聞』記事(1937.6.16)

このことを愛国切手発売初日(1937.6.1)の『河北新報』は「今日から全国発売 待望愛国切手  源泉地実に仙台 発案者は晩翠氏令息」と報じました。少し遅れて6月16日には『東京朝日新聞』も 「帝大生の発案に輝く愛国切手 若くして逝いた…土井英一君の至誠」と写真入りで大きく掲載し、 この記事は「愛国切手のエピソード」として『月刊趣味の港』1937.7に抜粋して転載されました。 内ヶ崎自身も『主婦之友』1937.9に「愛国切手の誕生秘話―一大学生の思ひつきが実を結ぶまで―」 という文章を寄せています。いずれの記事も、愛国切手がそもそもは国際文通の中から英一が 発案したものであること、英一の本来の意図が社会事業のための慈善切手であったことなどを 含めて、その発行までのいきさつを詳しく紹介するものでした。

なお、愛国切手に関しては、いくつかの誤解があるようです。誤解の一つは、愛国切手が 航空愛国週間にちなんで発行された記念切手だというものです。上述のように、愛国切手発行に 合わせて航空愛国週間が設定されたのであって、その逆ではありません。航空愛国週間にちなんだ 特殊通信日付印(記念スタンプ)は確かに作られ、期間中に主要郵便局などで愛国切手や愛国葉書に 押捺されました。また、関連の絵葉書や台紙も数種類作成され、愛国切手を貼って記念品などに されることもあったようです。ですから、記念切手のような扱いを受けた面もあったことは否定 できず、これが誤解につながっているのでしょう。

また、愛国切手の寄付金が軍事目的であったとの記述も時として見られますが、これも根拠に 欠ける憶断と言うべきです。1932年から行われた陸軍への愛国飛行機の献納運動などもあって、 「愛国」という名称が軍事に直結しているとの先入観があるのでしょう。 あるいは、寄付金つき切手としては、太平洋戦争中1942(昭和17)年2月のシンガポール陥落記念 切手など、明らかに軍事目的である「国防献金」を付加して発行された切手や絵葉書の発行が 続いたため、これらと混同されているのかもしれません。

民間航空が軍事と密接に関係していることは、確かに、片岡ら関係者も当初から認めて いました。戦時体制が強化されていく状況の中で、1938年2月に航空局は外局とされ、逓信大臣の 監督と同時に陸海軍大臣の指揮も受けるようになります。しかし、これは片岡らが準備していた 民間航空振興策でもあったようで、一方では民間航空助成のための予算措置も積極的に取られる ようになります。同年末には従来あった会社を国策的に合併させて大日本航空株式会社が設立され、 国家の援助を集中させて航空輸送事業の基礎を強化することが図られてもいます。片岡はその 常務取締役(のち特殊法人化されて総務理事)として、民間航空事業を推進しました。民間航空が 縮小され、実質的にも軍に従属するようになるのは、1941(昭和16)年の太平洋戦争勃発の前後に なってのことのようです。

このような流れの中で、愛国切手寄付金の目的が、計画においても実際の使途においても、 文字通りに(当時の理解における)民間航空事業の助成にあったことを否定する史料はありません。


社会事業
共同募金切手

内ヶ崎は、愛国切手について、「英一君の理想の、慈善事業にまでは、必ず私の手で、近き 将来に於て実現するやう努力したい」との希望を述べていましたが、寄付金つき切手が英一の 希望により近い形で実現するには、戦争が終わるのを待たねばなりませんでした。1947(昭和22)年 11月25日、社会事業共同募金切手(1円20銭プラス寄付金80銭)が発行されますが、その時には 内ヶ崎もすでにこの世を去っていました。

引き続いて翌1948(昭和23)年10月1日にも共同募金及び赤十字募金運動切手が発行されます。 しかし、いずれも不評で、販売上のトラブルもあって、売上げは芳しくなかったとのことです。 英一が考えたほどには、「全国民の公共心」は成熟していなかったということでしょうか。

とはいえ、1949年12月以降、寄付金つきのお年玉付年賀葉書が多くの人にとって身近な存在と なっていきます。1995(平成7)年の切手趣味週間切手は、阪神淡路大震災寄付金つきで発行 されました。また、東京オリンピック開催(1964)のための寄付金つき切手が1961(昭和36)年10月 以降発行されてから、国家的行事に際してもたびたび寄付金つき切手が発行されるように なっています。2011年、宮城県を中心に大きな被害を出した東日本大震災にあたっては、 6月21日に「東日本大震災寄附金付」の切手が発行されました。奇縁と言うべきでしょう。

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ドイツへの分骨


仙台エスペラント会会報(Nia Voĉo 1933年10月号)に載った追悼文

英一の死は直ちに電報でシュレーダー氏に伝えられましたが、それと入れ違いにドイツから 2通の手紙が届くほど頻繁に、英一とシュレーダーは5年半にわたって文通を重ね、心を通わせて いました。悲報を受けて翌9月10日づけでシュレーダーから土井家に宛てられた手紙は、 仙台エスペラント会会報 Nia Voĉo の1933年10月号に掲載されています。 自身の受けた悲嘆を述べつつ、両親の心を慰める、胸を打つような哀悼の文です。

"... Mia koro preskaŭ disrompiĝis kaj volis kvazaŭ krevi, kiam mi legis la teruran sciigon. Mia kara edzino ploradas senĉese, kaj ankaŭ miaj gefiloj havas sennombrajn larmojn. ... La letera interŝanĝo de pensoj kun li fariĝis por mi vivnecesaĵo same kiel manĝado kaj trinkado. Kaj tio ne plu devas esti? Neniam plu mi legos lian karan manskribaĵon, liajn grandajn pensojn? ... Li titolis min sian Sensei. Sed same li estis por mi mia Sensei, kiu per sia vigla spirito kaj per sia alta pensflugado kondukis min en la admirindan kulturon de Nippon,... Vi povas esti fieraj, ke vi havis tian filon, pri kiu Dio ĝojis kaj kiun Li hejmen-venigis pro tio, hejmen en Sia Regno...."
「恐ろしい知らせを読んで、私の心はほとんど砕け散り、まるではりさけようとするほどでした。 妻は泣き伏しており、子供たちも数え切れない涙を流しています。……手紙で彼と考えを やり取りすることは、私にとって飲食と同じく生活に欠かせないことになっていました。それは もう二度とありえないのでしょうか。あのいとしい筆跡を、大いなる考えを、再び読むことは ないのでしょうか。……彼は私をセンセイと呼んでいました。しかし、彼も同様に私のセンセイ だったのです。活発な精神によって、また、思考の飛翔によって、私をニッポンのすばらしい 文化へと導いてくれたのです。……あなた方はそのような息子をもったことを誇ってよいのです。 神様は彼を喜び、それゆえに彼を連れ戻したのです、神の御国の家へと。……」

母八枝は、英一宛ての手紙に返信しようとエスペラントの学習を始めたと伝えられています。 この前後から島貫清子 (1909〜2001. 本名きよ、結婚後は大泉姓)が 夫妻の秘書役を勤めていますから、島貫が大幅な加筆修正(もしくは、かなりの程度に代筆)した ものと推測するのが妥当でしょうが、シュレーダーに次のように書き送ったとのことです (RO 1935.5)。 "Kiam mi rememoras Eiichi, ĉiam antaŭ mi prezentiĝas, kiel entuziasme kun ĝojo li atendis kaj legis vian skribaĵon. ..." (英一のことを思い出すと、彼があなたの書いたものを 待ち焦がれては読みふけったさまが、いつも目の前に浮かんでくるのです。)

年が明けてからたまたま母と小野田によって発見された遺言書(1931.6.22づけ)には、遺骨を 分骨してシュレーダーのもとにも送り、ドイツに葬ってもらいたいとの希望が書かれていました。 墓石の設計やエスペラント文の墓碑銘も指定する具体的な望みです。この分骨を実現するためには、 ドイツのシュレーダー側と連絡するにあたって仙台エスペラント会会員の事務的な協力が不可欠で あったはずです。なかでも島貫の力が大きかったことが推測できます (島貫清子 "Rememoro pri S-ro Eiichi Tsuchii" RO 1935.5; 大泉きよ『荒城の月私記』)。


マールバッハにある英一の墓の墓碑銘

実現にはさまざまな手続き上の困難も伴ったとのことですが、日独双方の関係者の協力により、 1935(昭和10)年10月19日にマールバッハで埋葬式が行われました。墓碑銘には、英一自身による エスペラント文にシュレーダーによるドイツ語訳が並んで、次のように記されています。

Ĉi tie dormas / Eiichi Doi-Tsuchii, / 1909-1933, / nia karega amiko, / kiu amegis Germanujon ĝis sia morto, / sed kies malforta korpo ne permesis al li, / fari la grandan laboron / por la amikiĝo de Germanujo kaj Japanujo / kaj plue de Okcidento kaj Oriento. / Li ripozu en Dio!
「ここにわれらの親愛なる友、ドイ-ツチイ・エイイチ眠る。 1909 - 1933。彼はドイツを死に至るまで深く愛したが、その弱い肉体は、 ドイツと日本との友好のための、ひいては西洋と東洋の友好のための、 大いなる事業をなすことを彼に許さなかった。彼、神のうちに休みたまえ。」

シュレーダーは1952年に亡くなりますが、遺族の配慮により英一の墓の隣に葬られます。 二人の深い関係はドイツでも今日まで語り継がれており、英一の墓は国際友好の墓として 地元の人々により丁重に守られているとのことです。日本から墓参に訪れる人も時折 見受けられます。

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英一の活動の成果


小泉八雲先生記念碑

英一のもう一つの遺言は、日本文化の紹介者として尊敬し、愛読していた小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン)の記念碑を東京に作ることでした。八雲の東大での教え子でもある晩翠が 帝国図書館長松本喜一(二高で晩翠の、東大で八雲の教え子)と相談した結果、碑は東京 上野公園にある帝国図書館(現在は国立国会図書館国際子ども図書館)の前庭に建てられることに なり、1935年7月1日に除幕式が行われました。

式には、晩翠夫妻、松本館長夫妻のほかに、来賓として、文部省から山川建社会教育局長、 上野の文教施設から杉栄三郎帝室博物館総長、秋保安治東京科学博物館長、和田英作 東京美術学校長、それに碑の作者小倉右一郎と市河三喜小泉八雲記念会会長(東大英文科教授)、 もう一人の東大英文科教授齋藤勇、東大英文科での八雲の教え子から内ヶ崎(早稲田大学では同僚)、 戸沢正保東京外国語学校長、落合貞三郎学習院教授(島根県尋常中学でも教え子)、浅野和三郎、 ほかに阿刀田令造二高校長、英一の親友だった小野田、義兄中野好夫など、多数が列席します。 帝国図書館職員一同も見守るなか、館長の子息博孝(9歳)により除幕の綱が引かれました。

碑は八雲の肖像のレリーフ(小倉右一郎作)を正面に、両脇に八雲の業績を称える 「文盡人情美 筆開皇國華」の文(塩谷温撰文、市河三喜書)が 刻まれ、上部に壷を囲む天使達の群像(小倉右一郎作「蜜」)を置いた噴水になっています。 塩谷は東大漢学科教授、市河は英文科教授ですが書家の家系の出、小倉は帝展審査員も務める 彫刻家で、晩翠と松本が人脈を生かして一流の人に作成を依頼したことが伺われます。小倉は、 さる富豪の懇望を固辞して秘蔵していた「蜜」をこの碑のために提供したとのことです。 裏面の碑文も塩谷の撰と紹介されましたが、実際には晩翠が推敲を繰り返して決めたもののよう です。ここには、「先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言ニ因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ 帝国図書館ニ建ツ」と明記されています。記念碑の除幕を伝える新聞や雑誌の報道も、この碑が 英一の遺言に基づくものであることを報じました。


『人間の悲劇』エスペラント訳
晩翠旧蔵書

英一の死後も、晩翠夫妻のエスペラント支援は続きます。 1934年1月からは、晩翠の厚意により、狐小路赤星宅の2室を常時会合場所として使えるようになりました(RO 1934.2, 1934.3)。 八枝がエスペラントの学習を始めたことは上述のとおりですが、仙台エスペラント会の例会 (学習会)に出席したことも記録から確認できます。また、1936年のザメンホフ祭(12.16)で 、八枝は「鯉のぼり会の話」のスピーチをしています。さらに、1937年には、婦人エスペラント 連盟が提唱した図書館緑化運動(公立図書館にエスペラント図書を寄付する運動)に、八枝の名前で 5円(一口50銭の10口分)寄付されています(RO 1937.11)。

晩翠にはエスペラント学習歴は確認できません。しかし、仙台エスペラント会の活動に時折は 顔を出して、交流を続けていたようです。1934年のザメンホフ祭(12.15)には夫妻で出席し、 参加者が余興に歌うエスペラント訳『荒城の月』の合唱を聴いています。 また、1935年2月23日、医学部からハルピンの病院に赴任する吉田松一(1904〜1977)の送別会に 出席しました。なお、晩翠文庫には、ハンガリーの作家マダーチ(Madách)の詩劇 『人間の悲劇』のカロチャイ(K. Kalocsay)によるエスペラント訳 "La tragedio de l' homo" が残っています。 これには「一九三六 六月十八日 東京堂に於て求む 晩翠」の書き込みがあることから、 英一の死後に自身でもエスペラントの文学面になんらかの関心を持ち続けていたことがわかります。


大林寺にある英一の墓 (姉照子と合葬)

英一は、日本では、仙台市新寺小路(現在は若林区)の大林寺に葬られました。土井家は仙台空襲 (1945.7.10)で被災して家屋と蔵書を含む家財の大部分を失ったため、英一の遺品として現存する ものはわずかしかありません。しかし、その活動の成果は今も目に見える形で残っているのです。 内ヶ崎は英一の活動ぶりを振り返って、「その事業は、碌々として馬齢を重ねる人に比して遥に 命永く」と評しています。

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参考文献

無署名の新聞雑誌等記事

日付順。英一に言及しない愛国切手や航空愛国週間の関連記事は、一部を除き、割愛。

議会発言

協力

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