愛国切手は当時の逓信省が1937年に発行した日本初の寄付金付き切手であるが、その発行の経緯はいささか複雑であり、その主要点さえよく知られていない部分があった。特に、そもそもの土井英一の提唱とハンセン病関係者との関わり、父晩翠との縁による内ヶ崎作三郎の帝国議会での活動、逓信省航空局の関与などについては、後藤が詳細な文献調査をもとに当時の諸状況の中での位置づけを含めて明らかにし発表した新知見である。後藤はこれについて研究上のプライオリティーを主張する。
郵趣界においても、愛国切手の発行経緯に関する従来の認識には誤解や不十分な理解が見られた。内藤陽介氏は「郵便学者・内藤陽介のブログ」内の記事「100年ぶりの神武天皇式年祭」(2016.04.04)で愛国葉書・愛国切手に言及したがここにも不十分な認識が見られたので、後藤はブログ記事へのコメント(2017.02.02)として調査結果をまとめた文章について教示した。しかし、内藤氏側からは一切の反応がなかった。
内藤氏は著書『切手でたどる郵便創業150年の歴史 Vol.1 戦前編』(日本郵趣出版, 2021)において愛国切手の発行経緯について紹介しているが、その記述は2016年のブログ記事とは大きく異なっていて、その主要部分において後藤の調査結果に極めて大きく依存するものである。研究倫理からして、後藤の先行研究に依存していることは本来は同書において読者に対して明示されるべきである。
確かに同書冒頭の「はじめに」において、「主な参考文献のリストについては、[…]第3巻にまとめて掲載します[…]」と記されている。しかし、郵便学者として著名な内藤氏の愛国切手記事に従来は郵趣界に知られていなかった事実が多く含まれていることを考えれば、後藤の著述が単に3巻を通しての参考文献リストの一項目として挙げられるだけでは、後藤は納得しかねる。第3巻刊行までの間に、愛国切手の発行経緯に関する記述が後藤の先行研究に依拠していることを読者に対して明確な形で示すことを、後藤は内藤氏ほか関係者に求める。
同書には土井英一の顔写真が掲載されているが、一見して後藤が使用したものと同一の画像のようである。しかし、同書奥付ページには「図版・資料協力」として十数名の個人名が挙げてあるものの、後藤の名前はない。この画像はwikipedia等のウェブページにも転載されているが、最も信頼できる出所は明らかに後藤である。なにゆえに後藤は「図版・資料協力」に挙げていただけないのだろうか、疑問を感じる。この疑問を解消してくださることも、後藤は内藤氏ほか関係者に求める。
2021-08-03、内藤氏から事情説明と対応に関するメールを受信した。同日、出版元の日本郵趣出版からもメールを受信した。
郵便学者・内藤陽介氏は『郵趣』(2021.1)に「愛国切手の発行(初の寄附金付き切手)(1937)年」と題する記事(10~11ページ)を寄稿した。連載「日本切手150年の歩み ―郵便創業150年に寄せて」の第31回である。この文章は、他の連載記事と合わせて書籍化され、『切手でたどる郵便創業150年の歴史 Vol.1 戦前編』(日本郵趣出版, 2021)の124~127ページに再録された。本ページでは「内藤陽介氏の愛国切手記事」と呼ぶ。
いずれも、本文は「土井英一の構想」「航空事業とのリンク」「思わしくなかった売れ行き」の3節からなる。ほかに、カラーの図版多数を含むが、書籍版では図版が追加されていて、土井英一の顔写真も加えられた。
愛国切手記事にもそのほかの記事にも参考文献は示されておらず、冒頭の「はじめに」において、「主な参考文献のリストについては、3巻共通のものも少なくないため、第3巻にまとめて掲載しますのでご了承ください」とのみ記されている。奥付ページには「図版・資料協力」として十数名の個人名と十数か所の機関名が挙げてあるが、後藤の名前はない。当然、同書の発行に際して後藤への連絡はなかった。
後藤は郵趣については門外漢であるが、郵趣界における愛国切手の発行経緯に関する従来の認識には憶測に基づく誤解や不十分な理解が見られることを憂慮していた。例えば、『郵趣』(2004.3)は巻頭特集として日田有紀「付加金付き切手物語 +α表示の切手たち」を掲載していて、愛国切手への言及もあるが、根拠を挙げることなく「軍備拡張の必要性から[...]発行された」と断定的に書いている。
『郵趣』(2004.9)の巻頭特集、高山貴将「「愛国切手」―日本最初の寄付金付き切手―その誕生から収集のポイントまで」は6ページにわたって愛国切手を大きく取り上げたものだが、その名称さえ迷いがあるようだ。外国での呼び方も参照しながら複数の呼び方を挙げて「当記事中では文字数の関係もあり、「愛国切手」で統一します。」とためらいがちに書く。図版として逓信省の『愛国切手発行趣旨書』を取り上げているのであるから、逓信省がつけた正式名称が「愛国切手」(ないしは「愛国郵便切手」)であることは明らかであるにもかかわらず、である。また、「表向きは民間飛行場の建設のための寄付金付き切手発行であっても、飛行場が軍用に転用できることは言うまでもありません。」とも書いているが、愛国切手によって整備された飛行場がどこに位置していたかお調べになったのだろうか。
『スタンプマガジン』(2004.10)掲載の原田昌幸「戦前の日本記念切手 10 愛国切手/教育勅語50年」では「航空報國」の標語が強調されている。「愛国切手は、この世論の盛り上がりから誕生した、日本初の寄附金付き切手」と特徴づけるが、この時代に切手が「世論の盛り上がりから誕生」することがありえたのだろうか。断定するための根拠は示されない。原田昌幸『図説・戦前記念切手』(日本郵趣出版, 2016)として書籍として刊行される際には、構成がまとめ直されて「第二章 戦争の時代」の「愛国切手」の節となった。
このような誤解には、切手博物館が公開しているウェブページ「切手の豆知識 第2回「寄付金付切手」」(2005-05-28づけ)も一役買っているようだ。同ページには「日本では1937(昭和12)年に、航空事業発展の助成を目的として、初めて寄付金付切手が3種類発行された。この切手は、航空愛国週間にちなんで発行され、切手に「愛国」の文字が入っていることから、愛国切手と通称されている。」とある。愛国切手が航空愛国週間にちなんで発行されたというのは誤りである。「愛国切手と通称され」とはどこから出てきた話なのだろうか。正式名称が「愛国切手」であるからこそ切手に「愛国」の文字があるのだ。
これとほぼ同じ解説が田辺龍太『切手もの知りBook 収集を楽しむ40話』(切手の博物館, 2019)のpp.34-35にも見られる。切手の博物館サイトの「出版物」欄の説明では「切手の博物館ホームページ掲載の「切手の豆知識」を大幅に加筆し、新たに書き下ろしました。」とのことであるが、加筆は従来の誤りの訂正には至らなかったものとみえる。
内藤氏もかつては愛国切手の発行経緯について十分な認識を持っていなかったと見える。「郵便学者・内藤陽介のブログ」の2016年4月4日づけ記事「100年ぶりの神武天皇式年祭」 (http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-3989.html)において、愛国切手と愛国葉書に言及して、その発行の経緯について次のように書いていた。
これは、1937年に発行された“愛国葉書”で、印面には神武東征の神話に登場する金鵄が描かれています。今回ご紹介のマテリアルについては、日本統治下の台北で使用された「航空日本の建設は愛國切手で」との宣伝標語印が押されているのがミソです。
1913年に創立された帝国飛行協会は、軍事とは別の民間航空の分野の発展に尽力した団体で、1930年代には募金を集めて民間飛行場の献納運動を展開していました。彼らの献納した飛行場は“愛国飛行場”と呼ばれ、旭川や釧路、桐生、高松などがその代表的なものです。
当時、航空政策を管轄していた逓信省は、この運動に協力するため、1937年、寄付金つきの“愛国切手”3種と今回ご紹介の愛国葉書を発行しました。なお、当初は4月29日の天長節(天皇誕生日)にあわせての発行が予定されていましたが、3月31日に衆議院が解散され、4月30日に総選挙が行われたため、実際の発行は6月1日までずれ込んでいます。
愛国葉書には、額面2銭に対して3銭の寄付金をつけられており、我国最初の寄付金付葉書です。印面に金鵄が描かれたのは、航空というキーワードに引っ掛けて、最も“愛国”にふさわしい題材と判断されたからと思われます。
これに対して、後藤は次のようにコメントを付けて、後藤の調査結果について教示した。
#2437 愛国切手・葉書
検索から失礼いたします。愛国切手の経緯についてはいささか調べたことがあります。お手間をとらせて失礼ですが、下記をご参照いただければ幸いです。
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/ses/eiichi.html
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/hansen/aikokukitte.html
私見ですが、この時代において、「逓信省が帝国飛行協会に協力する」という構図は考えにくいのではないでしょうか。
2017-02-02 Thu 00:05 | URL | 後藤斉 #-[ 内容変更] | ∧top | under∨
コメントをつけたのは元ブログ記事から10か月ほど経った後であったが、当該ブログでは「最近のコメント」が表示されるので、ブログ主が後藤のコメントに気付かなかったはずはない。なお、この記事とコメントはそのままの状態で現在でも確認することができる。百歩譲ってかりに内藤氏が後藤のコメントに気づかなかったとしても、後藤の当該ウェブページは「愛国切手」をキーワードにGoogle検索すれば上位に挙がることを付言しておく。wikipediaで愛国切手に詳しいのは「土井英一」の項目であるが、この項目が主に依拠しているのが参考文献欄に挙げられた後藤の論考であることは、通常の判断力のある人には容易に了解できるであろう。
内藤氏がブログ記事中で「軍事とは別の民間航空の分野」と認めているところは慧眼であるが、戦前戦中の力関係を考えれば「官が民に協力する」という構図を考えるのはそもそも無理が大きい。
いずれにせよ、このコメントによって内藤氏は私のウェブページを知ることができ、愛国切手の発行の経緯について認識を新たにすることができたはずである。しかし、内藤氏からは、その後、ブログ上でもメールによっても、いかなる形でもご返信を得られなかった。
後藤が上記のコメントをつけたのには、それに先立って愛国切手の発行の経緯とその周辺事情とを十分な調査の末に文章にまとめていたからである。この調査は柴田巌・後藤斉編『日本エスペラント運動人名事典』(ひつじ書房, 2013)の編纂のための調査の一環であったが、これに収録できる範囲を越えての、自分の関心からの追加調査を多く含んでいたと言える。仙台におけるエスペラント活動およびエスペラントとハンセン病の関わりという二つの大きなテーマの交点として、愛国切手は後藤の中での一大関心事となっていた。後藤におけるエスペラント言語文化史への関心の集中への、大きな契機の一つであった・
そもそも、仙台エスペラント会には生前の土井英一を知る長老的な会員が1990年代まで存命であったため、愛国切手(あるいは広く日本における寄付金付き切手)の源が土井英一の提唱にあったことは語り継がれていた。ただ、文献的根拠が十分ではなかったために、後藤は愛国切手以外の英一の事績を含めて『日本エスペラント運動人名事典』の編纂の過程で調査を進めたのである。
調査を進める中で、エスペラント界においても郵趣界においても、愛国切手の発行経緯については憶測が多く混じる不十分な理解にとどまっていることを認識した。このため、紙幅の関係から『日本エスペラント運動人名事典』に反映できないことを承知で、周辺の事情を含めて時間の許す限り徹底的な文献調査を行うことを決意したのである。
英一の諸活動に関する調査結果をまとめた論考は、仙台エスペラント会の会報や東北大学文学部の広報誌に掲載する機会があったが、著書『エスペラントを育てた人々』(創栄出版, 2008)およびその改訂増補版にあたる『人物でたどるエスペラント文化史』(日本エスペラント協会, 2015) の一部として公刊することができた。なお、いずれも刊行直後に切手の博物館図書室に寄贈しており、現在も所蔵資料に含んでいただいているようだ。
後藤が詳細な文献調査をもとに当時の諸状況の中での位置づけを含めて明らかにし発表した新知見のうちから、愛国切手関連に絞って挙げれば、以下のとおりであり、後藤はこれについて研究上のプライオリティーを主張する。
詳しくは、次の二つのウェブページの本文を参照していただきたいが、特に、詳細な参考文献にも注目していただければありがたい。この二つのウェブページは、上述のとおりブログへのコメントとして内藤氏に教示したものである。なお、土井英一の顔写真は、後藤が当時の資料からスキャンしたものである。
後藤がまとめた調査結果は、wikipediaの「土井英一」の項目やいくつかのブログ記事などで利用されていることが確認できる。wikipediaを含めて良心的なサイトでは、典拠・参考文献として後藤のページをあげている。例えば:
上記の通り、内藤氏の愛国切手記事の本文は「土井英一の構想」「航空事業とのリンク」「思わしくなかった売れ行き」の3節からなり、土井英一の顔写真が付されている。「土井英一の構想」では、詩人で英文学者の土井晩翠の長男である土井英一がエスペランティストとしての文通の中で寄付金つき切手を知り、はじめ慈善切手として日本への導入を提唱したこと、父晩翠を通じてて働きかけを受けた宮城県選出の代議士内ヶ崎作三郎が帝国議会で建議を可決させたものの当初は逓信省は動かなかったこと、「愛国切手」の名称はハンセン病療養所の医師林文雄の発案であること、その実現を訴えるなか英一は死去したことが語られ、続く「航空事業とのリンク」では、内ヶ崎が英一の遺志をついで活動したこと、内ヶ崎が逓信省所管の民間航空に目的を切り替えることによって愛国切手の実現を図ったことなどが語られる。
これらの事柄は、従来は郵趣界において全く語られてこなかったことであり、内藤氏自身の2016年のブログ記事でも言及されていなかった。郵趣界だけを見れば、いわば画期的な指摘と言ってよい。後藤は、仙台エスペラント会と東北大学文学部の両方で先輩にあたる土井英一のために、これらの事柄が郵趣界に紹介されたことを喜び、今後はこれが愛国切手の発行経緯として郵趣界の共通認識となることを望みたい。
ところで、上記の事実の多くはエスペラント、仙台、ハンセン病の関係の事柄であり、逓信省の外で起こったことであって、郵便学者内藤氏の本来の守備範囲から外れていると思われる。ブログ記事への後藤のコメントをきっかけに後藤の研究成果に接することによってはじめて内藤氏が得られた情報でしかありえない。すなわち、内藤氏の愛国切手記事は、その主要部分において後藤に極めて大きく依存するものである。なお、内藤氏独自の珍しい情報として、「愛国切手」命名者説がある林文雄について「長島愛生園元園長」の肩書をつけている。学者を名乗る者がよもやwikipediaの記述を検証なしにそのまま典拠としているはずもなかろうが、後藤の知るかぎりにおいて歴史上の事実と合致しない。典拠をお聞きしたいものだ。[下記補足も参照]
内藤氏は著名な郵便学者としてこれまで多数の関係著書を刊行していて、切手の歴史的・文化的研究において確固たる地位を有している。その言は当該分野において格別の重みをもつものである。とりわけ、今回の愛国切手記事は、郵趣雑誌への連載記事が郵趣専門出版社から郵便創業150年記念として刊行されたものであり、その重みを倍加させている。一方、後藤は郵趣分野の門外漢であり、この分野における発言力は無いに等しい。エスペラント文化史に関する著書に愛国切手の発行経緯について文章を収録し、併せてウェブページにおいても公開しているが、郵趣分野に関心を持つ人から注目を受けることは(まれな例外はあるものの)ほとんどない。郵趣分野における二人の影響力に大きな差が存在していることは明らかである。
この状況において、内藤氏が愛国切手の発行経緯について典拠を明確に示さないまま郵趣界で従来知られていなかった事実を提示することは、読者に対して内藤氏が見出した新知見であるとの印象を強く与えることになる。これは単に後藤個人にとって不本意であるということを越えて、研究倫理上大きな問題があると言わざるをえない。内藤氏の記事が中核部分において後藤の先行研究に依存していたことは、研究倫理からして、本来は同書において読者に対して明示されるべきであると、後藤は強く主張する。
wikipedia土井英一記事の「愛国切手」の節には「活動は長島愛生園書記宮川量にも知られ、元園長林文雄により愛国切手と名付けられた[2]。」とあって、後藤の著述が典拠に挙げられているようだ。しかし、後藤が著述中に全生病院医師として登場する林文雄の説明として書いたのは「林文雄(1900~1947. のち愛生園を経て鹿児島県の星塚敬愛園初代園長)」であり、「長島愛生園元園長林文雄」と紹介したことは一度もない。これはwikipediaの誤りである。林文雄に長島愛生園元園長の肩書をつけたことに、後藤は関知しない。
そもそも長島愛生園といえば、かの光田健輔が発足(1931)かららい予防法成立(1953)の後まで園長を務めたことは日本ハンセン病史のいわば常識であり、後藤も「エスペラントとハンセン病 ―歴史的考察―」の「2.全生エスペラント・クルーボ」と「6.残照」で扱っていた。林の経歴については、下記参考サイトに挙げた松沢弘陽論文と吉崎一論文もご参照いただきたい。
tanakahidetomi氏による「切手の思想家たち2022」サイト中の「愛国切手」( 2021-01-02)は、愛国切手の発行経緯について、もっぱら『郵趣』(2021.1)掲載の内藤陽介氏の愛国切手記事を参照し、それに依拠したものであった。後藤のウェブページより内藤氏の著述の方が郵趣家にとって重みをもっていることを例証する一例である。
同書における参考文献の提示について、確かに冒頭の「はじめに」において、「主な参考文献のリストについては、3巻共通のものも少なくないため、第3巻にまとめて掲載しますのでご了承ください」と記されている。しかし、上述の事情を考えれば、かなり長くなると予想される3巻を通しての参考文献リストの一項目として後藤の論考ないしウェブページが挙げられるだけでは、後藤は納得しかねる。2022年4月と予告されている第3巻刊行までの間に、愛国切手の発行経緯に関する記述が中核部分において後藤の先行研究に依拠するものであることを読者に対して明確な形で示すことを、ここに後藤は内藤氏ほか関係者に求めるものである。
また、内藤氏愛国切手記事には土井英一の顔写真が掲載されているが、一見したところ後藤が使用したものと同一の画像のようである。しかし、同書奥付ページには「図版・資料協力」として十数名の個人名が挙げてあるものの、後藤の名前はない。この画像はwikipedia等にも転載されているが、内藤氏は孫引きしたのであろうか。写真の最も信頼できる出所は明らかに後藤である。なにゆえに後藤の名を「図版・資料協力」に挙げなかったのだろうか、疑問を感じる。この疑問を解消してくださることも、後藤は内藤氏ほか関係者に求める。
これまでの記載内容に対するご異論があるとすれば、対処する用意があり、必要であれば訂正することにやぶさかでない。後藤に連絡を下さる際は、下記のメールアドレス( /at/ の部分を @ に変更)をご利用いただきたい。応答の骨子は本ページに追加して掲載することがある。
2021-08-03、内藤氏から事情説明と対応に関するメールを受信した。要旨は以下の通り:
同日、出版元の日本郵趣出版からもメールを受信した。要旨は以下の通り:
2022年5月25日づけで『切手でたどる郵便創業150年の歴史 Vol.3 平成・令和編』(日本郵趣出版, 2022)が刊行された。「むすびにかえて」と奥付の間の1ページのおよそ半分を使って「主要参考文献」約30点が掲載され、「後藤斉「寄付金つき切手の生みの親 土井英一」https://www2.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/ses/eiichi.html」もあげられた。とはいえ、上述の「内藤氏の記事が中核部分において後藤の先行研究に依存していたことは、研究倫理からして、本来は同書において読者に対して明示されるべきであると、後藤は強く主張する。」との見解は変える必要を認めない。