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エスペラントを育てた人々 ―仙台での歴史から―
『メイルシュトーノ』第209号(2008.9)掲載文に加筆

エスペラントで天国に送られた魂 ―萱場真―

後藤 斉



萱場真

萱場真(1888.3.21〜1931.3.7. RO 1931.5に追悼文)は仙台エスペラント会の第一期から 第二期にかけての人物です。第一期とは、1924(大正13)年に仙台と松島を会場に開かれた 第12回日本エスペラント大会を頂点とする時期でした。この時期以前にも、仙台に孤立した エスペランティストがいましたが、後の運動とのつながりはほとんど認められません。 萱場は第一期の多彩な活動の中心になり、一旦、休眠期を経た後、第二期につなげる役目を 果たして、その後の仙台でのエスペラント運動の基礎を作るのに大きな貢献をしたと言える でしょう。その活動ぶりは「余りにも熱心な」、「奇想雄大」などとも評されていますが、 萱場の足跡をたどってみると、なるほどと思わせるものがあります。

第一期について知るための資料は、断片的に残る当時の資料および日本エスペラント学会 機関誌La Revuo Orienta(RO)や地元新聞『河北新報』に掲載された記事のほか、金子美雄 (1910〜1993. のち厚生省、経済企画庁、日本生産性本部。賃金問題の権威)、 大泉八郎、 菅原慶一(1911〜1997. のち自営業。仙台エスペラント会会長、東北エスペラント連盟会長)、 桑原利秀(1910〜1989. のち近畿大学教授、日本顔料技術協会会長。関西エスペラント連盟会長) らの第二期世代が、主に菊沢季生(きくざわすえお. 1900〜1985. 宮城女学校教員、のち宮城学院 女子大学教授)や黒沢艮平(くろさわごんぺい. 1870〜1945.宮城女学校教員、日本メソヂスト 仙台教会協励会長)ら第一期世代の想い出話や当時は残っていたであろう資料をもとにまとめた ものが中心になります。このようなものが現在まで残されていることはありがたいことですが、 記述に食い違いがみられることもあり、多少の記録の間違いや記憶違いが混入している可能性は 排除できません。

萱場がエスペラントのために何をしたかは、資料からかなりの程度に知ることができます。 しかし、実のところ、彼がどのようにエスペラントを使ったかは、おぼろげにしかわかりません。 残念ながら、確実に萱場が書いたことがわかるエスペラント文は残されていないようです。 とはいえ、具体的な記録はないものの、当時のレベルとして相当な程度な語学力があったことは 確かでしょう。

萱場について特徴的な出来事は、その告別式がエスペラントを使って行われたことです。 告別式をエスペラントで行うことは普通のことではありません。彼にはそれがふさわしいと 周囲の人々が納得し異論なく決したからこそ行われたに違いありません。この事実が正に萱場の エスペラント活動のさまを想像させる、最もよい手がかりだと言えます。


エスペラント大講演会とラムステット来仙を
予告する『河北新報』記事(1922.5.16)

第一期が始まるのは、1921(大正10)年(一説に1920年)に、すでに1906年ごろからエスペラントを 始めていた武藤於菟(むとうおと. 1876〜1942)が仙台市電気局技師として赴任してきたことにより ます。彼は日本エスペラント学会と交渉して、東京から学生の東北宣伝隊(東大生の川原次吉郎、 井上万寿蔵、竹内徳治、堀真道、長谷川理衛、東京商大生の進藤静太郎)を受け入れ、7月21日、 二高を会場として「普及大講演会」を開催します(『河北新報』1921.7.13, 7.21)。これに引き続き 7月25日から、武藤は、息子丸楠(1906〜1996. 当時中学生、のちプロレタリア・エスペランティスト 同盟中央委員。戦争中に潔と改名)にも手伝わせて、北一番丁の浸礼基督教会(現日本基督教団 仙台ホサナ教会)において夏期講習会(毎日1時間、10日間)を開催します(『河北新報』1921.7.23)。

萱場がエスペラントを始めたのは、この講演会や講習会に参加したのがきっかけです。萱場は、 1918年から東北大学理学部に助手として勤務していました。キリスト教徒となり、仙台組合教会 (のち仙台東三番丁教会、東勝山に移転して現在仙台北教会)に所属していました。 後に菊沢は仙台エスペラント運動第一期をキリスト教徒が主導した時期と特徴づけていますが、 萱場もそれに当てはまることになります。

同じころ、菊沢季生(当時、東北大工学部生)が武藤の助言で独習しています。21年の秋に なって、武藤の発議で、菊沢、及川周(1893〜1969. 当時、東北大医学部助教授)、曽根広(当時、 東北大理学部助手)、萱場らによって日本エスペラント学会仙台支部が組織されます。これが 仙台での組織的なエスペラント運動の始まりです。

萱場にとって、このエスペラントとの出会いがよほど印象的だったのでしょう、ここから、 文字通り、彼の人生はエスペラントをめぐるものへと一変します。早くも同年11月末から翌年1月に かけて大学で講習会を開いており、これが、のちに多くの人材を輩出することになる東北帝大 エスペラント会の源流です。

また、同じ頃に生まれた長男をセルヴァント・デ・ホマーロ(servanto de homaro「人類の奉仕者」) と命名します。これはどう見ても奇行の部類ですが、周囲、特に家族からはどのように受け取られた のでしょう。萱場は理学部三奇人の一人に数えられたとのことですが、無理もないことかも しれません。さすがに、生活上の不都合から、のちに本人の意思によって「晴浦」と改名とする ことになります。

大学のエスペラント会は、翌1922(大正11)5月28日、フィンランド公使 ラムステット (Gustav John Ramstedt. 1873〜1959)、小坂狷二(おさかけんじ. 1888〜1969. のち 日本エスペラント学会会長)、何盛三(がもりぞう. 1884〜1948)、井上万寿蔵(1900〜1977. のち鉄道省勤務、交通博物館長、日本エスペラント学会常務理事)らを講師に、二高講堂で 「大講演会」を開いています。ラムステットという外交官が来仙したこともあって、 『河北新報』には5.16、5.27、5.28に予告記事、5.30に講演要旨とともに報告記事が掲載され ました。5月16日づけ記事にはかなり長い萱場の談話が掲載されていますから、萱場が 河北新報社に働きかけたものでしょう。

1923(大正12)年8月には、翌年の第12回日本エスペラント大会を 仙台に招致することを、武藤父子、鈴木立春(1885〜1967. 当時開業医、のち 東北新生園初代園長)、斎藤(大本)、 井上万寿蔵(当時仙台鉄道局勤務)、菊沢それに萱場が集まった場で決定します。 日本大会は前年の第10回まですべて東京で開かれており、第11回大会(1923.8.31〜9.2 岡山)から 東京を離れて開催されることになったものです。運動の蓄積もまだ薄く、大会に出席したことの ある人も多くなかったはずの状況で、なぜ招致することにしたのでしょうか。客観的に考えれば、 無謀な企てとも言えます。


「エスペラント平和デー」絵葉書(1924.4.30)

岡山の大会には武藤と菊沢が参加して招致を行い、招請が正式に認められました。なお、この 大会は、関東大震災と重なり、4日目のプログラムを取り消して中断されることになりました。 岡山から仙台に帰るのも大きな苦労があったことと思われます。

ともかく、ここから、1924年7月27〜30日の大会期間を頂点とする、その前後の数々の創意に 満ちた活動が始まることになります。これらのうちどれが萱場の発案になるか、確かめることは できません。もちろん他の人たちもいろいろな案を出し、意見を述べたはずです。しかし、 RO1931.5の訃報は、その多くを萱場の企画に帰しています。

大会を盛り上げ、費用をまかなうため、4月30日を 「エスペラント平和デー」と銘打って、 西公園の仙台市公会堂前などで、女学生やボーイスカウトを動員して、菓子5000袋を売りました (『河北新報』1924.4.12, 4.26, 4.29, 5.1)。これは、武藤於菟と萱場が「指揮係」になったとの ことですが、新聞にたびたび取り上げられていることから、新聞社に強く働きかけを行ったことが 推測されます。この日の模様を絵葉書にしたことも面白い試みです。同様に、特製の宣伝用鉛筆を 3600本も作り、全国のエスペランティストに向けて売りつくし、2500〜2600本を追加作成しても います。

大会への側面協力のためと称して、萱場、武藤於菟、黒沢の名前で、6月28日、「仙台市内 各国人各階級を網羅して互に親睦を図」るための仙台人類同胞倶楽部(会長小川正孝東北大総長)を 設立しました。この会の名簿は現存しますが、確かに当時の仙台の名士(外国人を多く含む)が 数多く挙げられています。緩やかな親睦団体ですので、会員といっても名前だけの人が多かった かもしれませんし、活発な活動をしたともいえませんが、1930(昭和5)年のシェーラー歓迎会 (後述)まで、計8回の歓迎会、送別会などを行い、土井晩翠を誘い込むなど、その後の人脈つくりに 役立ったものと思われます。


「仙台人類同胞倶楽部発会式」絵葉書(1924.6.28)

大会前日の7月26日、黒沢が代表、萱場が書記となって、飯沼一精(1897〜1978. のち東北大 工学部講師、光禅寺通り幼稚園園長)、及川周、曽根広らとともに、日本メソヂスト仙台教会(現 日本基督教団仙台五橋教会)に おいて、大日本基督教徒エスペラント協会を設立しました。 名称は「大日本」と壮大であるものの、参加者は仙台在住者だけで、実際の活動も大会を盛り 上げることが主であったようです。それでも、発会式では「石川宇三郎氏の司会の下に聖書朗読、 祈祷等すべてエスペラント語を用ゐ…」(『河北新報』1924.7.28)たことは注目しておくべき でしょう。

萱場は日本大会当日には裏方に徹したのでしょうか、『大会記録』にはその名前は宗教者 分科会への出席に現れるだけです。この大会で特筆すべきは、宮城県や仙台市当局からの補助金で 記録映画を作製したことですが、もしかして萱場はこの映画撮影に付き合っていたのかもしれ ません。この映画は、電気館(国分町にあった松竹キネマ直営洋画専門館)で10月2日から7日間、 日本基督教徒エスペラント協会主催名義で上演されました(『河北新報』1924.10.2, 10.3; RO 1924.12)。1933(昭和8)年12月15日のザメンホフ祭でも映写されています(RO 1934.2)。この 映画のフィルムは戦後の一時期までの存在が確認できますが、その後行方不明になっています。

『大会記録』(Protokolo)が52ページというかなりの分量で発行されたのは、仙台の準備委員会 (おそらくは、特に、書記を務めた黒沢、菊沢、吉野楢三)が頑張った成果と言えます。なお、 別に150ページほどの『大会紀要』を発行し、「会況写真、大会記事及全国同志の寄稿」を掲載する 計画もあり、新聞広告を出して一部50銭で一般の申込を募りました(『河北新報』1924.8.12, 8.14) が、実際に発行された形跡はありません。


第12回日本エスペラント大会
記念写真 (宮城県会議事堂前)
(RO 1924.11. p.16)
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このように、計画の中には失敗に終わったものもあります。後先を考えずに思いつきで打ち 上げてしまったもののようです。とりわけ、大会終了後、松島湾内の桂島で夏季学校の開催が 計画されており、大会直前まで参加者の募集がありましたが、いつの間にか取りやめになった ようです。また、「エスペラント・クーコ」なる飲料が大町の宮城商店(佐藤猛次)から 発売されたのも面白い試みですが、ビジネスとしての成否はどうだったのでしょうか。

大会は県会議事堂を会場に無事に行われ、盛会であったと評されることがあります。 エスペラント運動の当時の実力からみればそうだったのでしょう。しかし、大会後、ほどなくして 仙台のエスペラント運動は沈滞状態に陥ります。第一期は尻切れトンボのように終わってしまう のです。その理由もはっきりとはしませんが、萱場を筆頭とする仙台の関係者の間では、夢が 大きすぎたため、その結果に期待はずれの部分も多々あったのではないでしょうか。

この沈滞期の間、二高生 土井英一 が病弱ななかで独創的な 活動を展開し、1928年からは東北学院の学生菅原慶一が学習を始めています。この前後の萱場の エスペラント活動は伝わりませんが、時折行われた仙台人類同胞倶楽部の主催の会合で黒沢らと つながっていたのでしょうか。

休眠から目覚めて第二期が始まるのは、1929(昭和4)年、京都の三高エスペラント会で活動 していた桑原利秀が東北大工学部に入学したのがきっかけでした。桑原は、萱場や菊沢らの 第一期のメンバーと連絡をとり、大学内のエスペラント会を作り直します。さらに、大学外の エスペランティストにも呼びかけて、11月10日、ゆるやかな連合体として仙台エスペラント倶楽部を 作ります。

こうして復活した大学エスペラント会は、翌1930(昭和5)年には、エスペラントの宣伝旅行で 日本を訪れて、全国を講演旅行したロサンゼルス・エスペラント会会長でエスペラント運動 国際中央委員会の特使、シェーラー(Joseph R. Scherer)を仙台にも招くことになります。 県と市の教育会や大学関係者の援助も得て盛大な講演会、歓迎会を開き、菊沢がラジオ放送講演の 通訳、桑原が商工会議所での講演の通訳を務めます。これに当たって、萱場は シェーラーを 10月15日の晩自宅に一泊させています。シェーラーの旅行記によれば、萱場との間で それなりに会話は通じていたようです。

シェーラーの勧めもあって仙台のエスペラント組織を作り直すことになり、11月8日、仙台 エスペラント会が復活しました。会長に東北大総長井上仁吉(1868〜1947)を戴き、総務を菊沢が 務め、萱場は宣伝部委員長になります。会報として"Nia Voĉo"も創刊され、第二期の活発な 活動が本格化するのです。なお、井上は名前だけの会長ではなく、エスペラントの学習に熱心に 取り組み、会合にもたびたび出席したことも伝わっています。翌31年6月に東北大総長を辞し、 仙台を離れますが、のちには、日本エスペラント学会の理事や、1936(昭和11)年3月設立の 日本科学エスペラント協会(JESA)理事にも就きます。


萱場の死亡広告

年が改まって、1931(昭和6)年、新春1月17日から萱場は講師として講習会を指導しますが、 会報の報告では、直接教授法に近いオリジナルな教授法を試みたことが記されています。講師の 語学力への自信と教育への意欲が感じられますし、実際、講習生の数は45名とかなりの盛況ぶり です。

ところが、萱場は講習の途中に倒れてしまいます。風邪から中耳炎症にいたったとのことです。 うわ言にエスペラントをしゃべったとも伝えられますが、なんともあっけないことに、3月7日に 亡くなってしまいます。告別式は3月9日、日本メソヂスト仙台教会で行われることになりました (RO1931.5に報告)。

ここでいくつかの疑問があります。告別式がメソヂスト教会で行われ、彼が属する仙台組合 教会でなかったのはなぜでしょうか。また、告別式で唱えることになる弔辞や祈祷文を エスペラントで作文することは、だれも経験がなかったでしょうし、手本となる文例なども身近に あったとも思えません。心のこもった弔辞をまとめることは日本語であっても苦労することです のに、エスペラントで書くことはどう考えてもたやすいことではありません。一体、だれが 告別式をエスペラントで行おうと言い出したのでしょうか。周囲の人々にとって大きな決断だった ことが推測されますが、残念ながら、その背景は現在となっては探るすべはありません。


萱場真告別式式次第

ともかくも、告別式の多くの部分はエスペラントで執り行われました。東北学院の酒井瞭吉 (1899〜1983、のち東北学院大教授)による聖書朗読(詩篇第90篇)、松本浩太郎(1910〜1981. のち鉄道省、国鉄本社勤務、千葉商大教授)の祈祷、"Espero"の合唱、菊沢のMajstro Zamenhofの 祈祷、各エスペラント会の弔辞などです。理学部物理学教室教授の弔辞や、東北帝大エスペラント 会代表としての井上総長の弔辞などもありました。棺はエスペラントのシンボルの緑の旗に包まれ、 花輪も緑の星で飾られていたとのことです。

告別式の場で実際に発せられた言葉を記録した資料はありません。ただ、臨時に発行された 会報のFunebra Numero「追悼号」の中に、「松本浩太郎の祈祷」がエスペラント文で掲載されて おり、全く同一であると断定することはできませんが、告別式で行われた祈祷に近いものと 思われます。これを読んでみると、まさに萱場を神のもとに送る言葉にふさわしい、心のこもった 表現になっています。

Preĝo de S-ro Matumoto
Grandega Patro nia en la ĉielo!!!
Ni nun estas en la funebra ceremonio por nia altestimata samideano S-ro KAJABA, kiu estas sindonema pioniro de nia Esperanta Movado kaj fidela Zamenhofano.
Ĝuste en la mezo de sia Esperanto-kurso, li falis malsana pro lia penado por Esperanto kaj mortis en dolora agonio, kvankam ni flegis lin per ĉiuj rimedoj! Ni ne havas vorton esprimi nian profundan malĝojon, perdinte lin, energian batalanton!!
Lia lasta vivo estis vere tiu de Esperanto. Jes, li decidis en si oferi sian vivon al Esperanta Movado. Ho ve! Jam fariĝis neeble por eterne vidi lian pacan vizaĝon en niaj estontaj kunvenoj, sed mi kredas, li ĉiam ĉeestos nian kunsidon per senforma figuro kaj gardos nian movadon. Lia karno jam ne estas en nia mondo, sed lia animo neniam pereiĝos por eterne. Ni neniam povos forgesi lian sindonan klopodon al nia Movado. Ni kredas, ke en estontaj tagoj de nia venko liaj klopodoj estos multe rekompencataj! Lia nomo! Estu memorata por eterne sur la paĝo de Historio de Homarano. Estu admirata! Lia Nomo!
Patro nia! Gardu lian animon trankvila kaj donu grandan amon kaj feliĉon al liaj postrestitaj edzino kaj gefiloj! Ni humile preĝas lian pacan eternan dormadon per la Nomo de nia Patro Kristo. Amen!!
松本氏の祈祷
天にまします、偉大なる我らが神よ。
私たちは、今、尊敬する同志萱場氏の葬儀の場におります。氏は、エスペラント運動の献身的な開拓者であり、忠実なザメンホフの徒でした。
正にエスペラント講習のさなか、彼はエスペラントへの尽力のあまり病に倒れ、私たちの手をつくしての看護の甲斐なく、苦痛の中にみまかりました。精力的な働き手であった彼を失い、私たちには深い悲しみを表す言葉がありません。
彼の生命の最後は真にエスペラントの生命でした。そう、彼は生命をエスペラント運動にささげる決意をしていたのです。ああ。彼の安らぎの顔をこれからの会合で見ることは永遠に不可能になってしまいました。しかし、私は信じます、彼は形のない姿をもってつねに会合に出席するであろうと、そして私たちの運動を見守ってくれるだろうと。彼の肉体はすでにこの世にありませんが、魂は決して永遠に滅びることはありません。私たちは彼の運動への献身を決して忘れることはできないでしょう。私たちが勝利する将来の日々において、彼の労苦は大いに報いられると、信じるものです。彼の名前は、人類人の歴史のページにおいて、とわに記憶にとどめられよ。賞賛されよ、彼の名は。
我らが父よ。彼の魂を平安に守り、遺された妻と子らへ大いなる愛と幸福とを与えたまえ。父、キリストの名によりて、彼の平安なる永遠の眠りをわれら祈りたてまつる。アーメン。

この文章は、萱場の周りの人々の語学力の高さを示す資料でもあります。萱場も同程度以上の レベルにあったと考えてよいでしょう。

萱場の墓は市内根岸(現太白区)の宗禅寺にあり、法名は清照院真性道観居士とつけられて います。葬儀は仏式でも行われたのでしょうか。この点も謎です。

仙台エスペラント会では、会員が集まって萱場の追悼会や墓参をしたこと、後のザメンホフ祭の 場などでもたびたび思い出話に取り上げられたことなどが、記録に残っています。11月には、 仙台エスペラント会と東北大学物理学教室と協同して故萱場氏遺児養育資金を募り、年末までに エスペラント関係者から139円が集まったことも会報に報告されています。

遺児である長男セルヴァント・デ・ホマーロ改め晴浦(1921.11.21〜2007.9.4)は、田中貞美他編 『日本エスペラント運動人名小事典』(1984)の発行に際して編者が接触し、それをもとに 菅原慶一と連絡をとりあったことから、エスペラントとのつながりを取り戻しました。その後、 1992(平成4)年の第79回日本エスペラント大会(松島町)に顔を見せ、また、仙台エスペラント会の 会員にもなって、すでに高齢でしたが、会合や合宿などにもたびたび参加しています。 戸籍謄本のコピーを持参して、記載されている旧名を他の参加者に示したこともありました。

萱場という熱心な働き手を失ったことは当時の仙台エスペラント会にとって大きな痛手 でしたが、そこから短いながら活発な活動を展開した第二期世代が育っていきました。萱場は、 エスペラントが生きた言葉であって、人の死を悼む感情を伝えることのできるものであることを、 身をもって次の世代に伝えたと言えます。

参考文献


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このサイトの内容は、後藤斉著『エスペラントを育てた人々』(創栄出版, 2008)の改訂増補版に相当します。



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