中国語学中国文学専攻の沿革


 中国文学専修初代教授青木正兒は、大正十二年(一九二三)十二月二十八日、 武内義雄教授を講座担任とする支那学講座(中国哲学)の助教授に任ぜられ本学に来任した。 ついで、翌十三年より二年間海外留学を命ぜられ中国に派遣され、 帰国後の大正十五年八月教授に昇任し、その前年十四年八月一日に勅令第二六四号により設置 の認められていた支那学第二講座(中国文学)を担任することとなった。ここに正式に中国文学専修の 歴史は始まる。 青木が中国哲学の武内により支那学講座助教授として招かれたこと、 また教授として担任した講座の名称が支那学第二講座とされたことは、 中国の思想・文学を一体のものとして捉えようという立場より出るものであり、 以降の本学の中国文学専修のあり方を決定づけたものと考えられる。 支那学第二講座創設当初は、青木が特殊講義・演習等の講義を担当したほかに、 講師瀧川龜太郎(昭和五年まで)の漢文学があった。

 青木には中国文学・芸術全般にわたる幅広い研究があるが、 とくにその戯曲研究は世界的に高く評価されている。 主たる研究業績としては、近世中国の戯曲研究に新生面を開いた『支那近世戯曲史』のほかに、 『元人雑劇序説』『支那文学思想史』『清代文学評論史』等があり、 学術論文集として『支那文芸論藪』『支那文学芸術考』がある。 青木には学術的な文章のほかに、雅趣溢れる数多くの随筆集もある。 これらすべては後に『青木正兒全集』一〇冊にまとめられた。 なお、青木が中国留学中に企画した『北京風俗図譜』は、 なお前清時代の遺風を残す風俗を後世に伝える貴重な資料で、本学の貴重な遺産となっている。 瀧川には我が国伝来の古鈔本をも参考にして著した畢生の大著『史記会注考証』があり、 『史記』の最もよるべき版本とされる。

 青木の昭和十三年(一九三八)三月二十二日付京都大学転出に伴い、 小川環樹が同年同月三十一日付で講師に任ぜられた。 小川は、昭和七年(一九三二)京都大学文学部を卒業、同九年四月から二年間の中国留学を終え、 その後一年をおいて本学に来任した。同十四年七月助教授に昇任し、 十七年十一月には講座担任となり、昭和二十二年(一九四七)六月教授に昇任した。 小川が講座担任となるまでの間、昭和十五年五月までは青木が兼任教授として講座を担任し、 その後は支那学第一講座教授武内義雄が講座を分担した。 小川には、小説・古典詩、さらには語学にまでわたる幅広い研究があるが、 昭和二十六年(一九五一)四月、論文「元明小説史の研究」により京都大学より 文学博士の学位を授与された。本論文は後に『中国小説史の研究』として刊行された。 詩方面にも数多くの業績があり、特に宋の蘇軾の詩に大きな関心を抱き、 つとに『蘇軾』上下冊があり、ほかに『蘇東坡集』・『蘇東坡詩選』がある。 また、語学方面にも終始大きな関心を寄せ、注目すべき数多くの業績を上げ、 その成果は『中国語学研究』にまとめられた。 翻訳を除いた文学語学にわたる多くの業績は『小川環樹著作集』全五冊として刊行されている。 小川在任中の昭和二十四年(一九四九)四月には、従来の法文学部が分かれて文学部が独立した。 本講座はなお「支那学第二講座」と変わることはなかったが、 事務的には「支那文学」の呼称を廃止し、「中国文学」と呼ぶようになった。

 小川は昭和二十五年六月三十日京都大学文学部へ転出、 同日後任として内田道夫が助教授に補せられた。 内田は昭和十四年(一九三九)東京大学文学部を卒業、 同大副手を経て同十九年より二年間中国に留学、 その後国立国語研究所研究員を経て本学に来任した。 昭和二十九年(一九五四)四月には教授に昇任し、 同年九月七日その名称を「シナ学第二」と変更された講座の担任となった。 同三十八年四月一日、講座名はさらに「中国文学講座」と改められた。 内田には中国小説・中国語語法に関わる多くの研究がある。 昭和三十二年(一九五七)には論文「唐代小説研究」により、 東京大学より文学博士の学位を授与された。 主著『中国小説研究』は中国小説関係の論考を集めたものである。 内田は昭和四十七年(一九七二)四月、東京都立大学に転任したが、 それより以前同四十二年四月には志村良治が助教授として着任している。

 志村は昭和二十七年(一九五二)東北大学文学部を卒業の後、 同大学大学院研究奨学生となり、同三十二年四月、愛知大学文学部講師に就任した。 三十七年(一九六二)四月よりは東北大学川内分校講師、その後助教授に昇任し、 教養部助教授を経て、四十二年四月一日配置換えにより文学部助教授となり、 昭和四十八年(一九七三)四月教授に昇任、講座担任となった。 志村には中国語語法史研究の分野に卓越した業績があるほか、文学方面にも数多くの業績がある。 昭和四十九年には論文「中国中世語法史研究」により、京都大学より文学博士の学位を授与された。 主著『中国中世語法史研究』は学位論文をまとめたものであり、国の内外より高く評価され、 華訳本がある。 一年あまりの闘病生活ののち、昭和五十九年(一九八四)二月八日志村はその在任中に死亡した。 これは中国文学専修関係者にとって痛恨の極みであった。 中国文学講座担任不在の間は、東洋史講座寺田隆信教授が講座を分担した。 なお、志村の主要な研究業績は、その死後『志村良治博士著作集』全二冊としてまとめられた。

 昭和五十四年(一九七九)四月一日には川合康三が講師として着任、五十六年八月には助教授に昇任した。 川合は京都大学文学部・大学院に学び、京都大学文学部助手を経て、本学に来任したものである。 志村亡き後の講座運営に腐心したが、昭和六十二年(一九八七)四月一日京都大学文学部に転出した。 川合は詩を中心とする文学研究に従事し、積極的な研究活動を展開している。 著書として『曹操』『中国の自伝文学』及び『終南山の変容』がある。

 昭和六十年(一九八五)四月一日、志村の後任として村上哲見が着任した。 村上は昭和二十八年京都大学文学部中国語学中国文学専攻を卒業後、 同大学院に学び、京都学芸大学講師・助教授、東北大学教養部助教授・教授を経て、 昭和五十四年四月、新設の中国語・中国文学講座担任として奈良女子大学文学部に配置換えとなり、 大学院の創設等に尽力した後、再度来仙し、中国文学講座を担任することとなったものである。 村上は中国韻文文学研究の分野に数多くの業績があり、ことに詞の研究においては、 日本における第一人者であるのは勿論、世界を代表する研究者の一人である。昭和四十九年(一九七四)、 論文「唐五代北宋詞研究」により、京都大学より文学博士の学位を授与された。著書は数多くあり、 学位論文をまとめた主著『宋詞研究(唐五代北宋篇)』のほかに、 『科挙の話』『陸游』『中国文人論』『漢詩と日本人』『唐詩』等がある。 村上は平成六年(一九九四)三月末、停年退官した。

 平成元年(一九八九)四月一日、花登正宏が中国文学講座助教授として着任した。 花登は大阪外国語大学外国語学部を卒業後東北大学大学院に学び、 山形大学人文学部講師・助教授、大阪市立大学文学部助教授を経ての来任である。 平成六年(一九九四)四月には、教授に昇任し中国文学講座担任となった。 花登は中国語学、ことに中国語音韻学研究に従事し、 主著としてその学位論文をまとめた『古今韻会挙要研究』がある。 平成八年四月一日には、中里見敬が助教授として着任した。 中里見は東北大学文学部・大学院に学び、山形大学人文学部講師を経て本学に配置換えとなった。 中里見は中国白話小説研究に従事し、『中国小説の物語論的研究』を刊行している。 中里見は同十一年十月に九州大学に転任した。その後を承けて翌十二年四月一日、佐竹保子が着任した。 佐竹は東北大学文学部・大学院に学んだ後、東北学院大学教養学部講師・助教授を経た後、 鳴門教育大学助教授より配置換えになったものである。 佐竹は、六朝の文学研究に従事し、旺盛な研究活動を行っている。 数多くの研究論文のほかに、学位論文を公刊した『西晉文学論』がある。 現在花登と佐竹の両名が中国文学専修の研究指導の任に当たっており、 花登が文学語学方面、佐竹は主として文学方面を担当している。

 講座所属の教官のほかに、昭和六年(一九三一)より十九年までは博棣華が外国人講師として、 同二十五年九月より平成元年三月までは趙廼桂が外国人教師(昭和四十八年三月までは外国人講師) として中国語の教育にあたった。平成元年四月以来、馬暁地がその任にある。 馬曉地は唐代の詩を研究対象としている。

 本専修は、その創設より現在に至るまでの間に、学部卒業生一二二名、 大学院前期課程(修士課程)修了生九二名、後期課程進学者五一名を輩出している。 学部卒業生の多くは、中学校・高等学校の教員となり、地域の教育に貢献しているが、 近年は一般企業へ就職する者も増えている。 大学院修了生・中途退学者は、中学校・高等学校の教員になるもののほか、 研究職に就く者も少なくなく、全国の国公私立大学において教育・研究活動に従事している。

 学会研究会活動としては、大正十四年(一九二五)以来中国思想専修・東洋史専修とともに 東北シナ学会を組織、学術研究の交流を図っているほか、 平成八年(一九九六)年十一月には東北大学中国文学研究会を結成し、 機関誌『東北大学中国語学文学論集』を刊行している。

 博士課程を擁する大学として、博士学位の授与も本研究科の重要な責務であるが、 中国語学中国文学関連の博士学位授与数は、論文博士一〇、課程博士四名を数える。 なお、平成十一年度より文学部中国文学講座は中国哲学講座と統合し 大学院文学研究科中国文化学講座となったが、 伝統ある中国文学研究室は従来通り保持され、現在に至っている。


     (『東北大学百年史・部局史一』より,平成15年5月刊
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