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エスペラントを育てた人々 ―仙台での歴史から―
『メイルシュトーノ』第206号(2008.3)掲載「70年前のザメンホフ祭」を改題、加筆

山里の国際派小学校教師 ―島崎捨三―

後藤 斉


1937(昭和12)年のザメンホフ祭に参加した仙台エスペラント会の会員が宮城県伊具郡金山町 (現丸森町)在住の島崎捨三氏に送った寄せ書きの葉書のコピーを、東京の菊島和子氏を介して、 島崎氏のご子息(次男)である康雄氏からご提供いただきました。康雄氏は、La Revuo Orienta (RO) 2004.6 に掲載の自己紹介によれば、ご父君の思い出としてエスペラントを始められたとの ことです。


菅原慶一のラジオ講演の予告記事

1929年から30年代にかけては仙台でのエスペラント運動の第二期で、京都の旧制三高から 東北大学に入学した桑原利秀(1910〜1989. のち近畿大学教授)らを中心に活発な活動が繰り広げられ ましたが、30年代の後半には時代の流れがエスペラントには逆風になり、39年ごろ一旦終焉を迎え ねばなりませんでした。1937年は、前半には定期的な例会が開かれたものの、それが次第に低調に なっていく時期にあたります。

それでも、12月14日19時から東一番丁森永で開かれたザメンホフ祭には久しぶりの顔も含めて 16名が出席したと、RO 1938年2月号に菅原慶一(1911〜1997)が報告しています。それに先立って 17時30分からは、ザメンホフ祭に合わせて、JOHKラジオ(現在のNHK仙台放送局)が菅原の 「エスペラントとザメンホフ博士」の講演を放送し、同日の『河北新報』には大きな予告記事が でていました。この講演の自筆原稿も現存します。

島崎捨三(1900〜1956)は、1919(大正8)年にエスペラントを独習した、宮城県内で (日本人としては)エスペランティストの第一号と言ってもよい人物です。1906年に創立された 日本エスペラント協会には、永科吉郎(会員番号180. 北鍛冶町)、佐藤貞二(会員番号416. 花壇)、 東野改造(会員番号622. 東二番丁)、および蓬田大七(会員番号813. 名取郡岩沼町字東舘下)なる 人物の加入が確認できますが、みな長続きはしなかったようで、エスペランティストとしての 活動ぶりは分かりません。また、1918年前後の会員名簿には、仙台地方幼年学校教官木村自老 (会員番号717. 1888〜1959?)と陸軍歩兵第29連隊本部の中尉 安部孝一 (会員番号945. 1892〜1977. のち陸軍中将)の名前があり、特に木村は語学力に秀でていたようで、 雑誌にも寄稿しています。 また、1915(大正4)年から1922(大正11)年に東大に転出するまで東北大学医学部教授であった 西成甫 (1890〜1978. のち前橋医大・ 群馬大学学長、日本エスペラント学会理事長、世界エスペラント協会名誉顧問)も仙台時代に エスペラントを独習していたとのことです。 しかし、彼らもやはり、後の仙台でのエスペラント活動との直接のつながりはありません。 地域での組織的なエスペラント活動との関係を持つ人物としては、島崎が最初なのです。


島崎捨三

島崎は、角田中学(現宮城県角田高等学校)を卒業した後、1919年から1955(昭和30)年までの 異例とも言えるほど長い期間にわたって、出生地近くの、母校でもある 金山小学校 で教員として勤務しました。

エスペラント独習のいきさつはわかりませんが、中学時代の友人の回想によれば、その頃から 熱心にしていたとのことです。周りに仲間がいない環境にあって、早い時期に語学的に高い レベルに達していたことが伺われます。1922(大正11)年5月20日から、文通していた亡命ロシア人 セリシェフ (Inocento Seriŝev. 1883〜1976)を汽車賃まで負担して自宅に招待し、3泊ほどさせています。 セリシェフの滞在記(RO 1922.6)によれば、昼は近くのお寺や製糸工場、それに島崎の学校に 行って、島崎の通訳で地元の人々と交流しています。お寺では住職とお墓やお経などの宗教談義を し、学校では各教室を回ってから、放課後には教員らとの食事会のなかでシベリアの学校の話 などをしています。セリシェフはかつてシベリアで正教の司祭を勤めており、さらに民衆教育にも 深い関心を持っていたとのことですので、彼の関心にあわせてそれぞれの連れて行ったのでしょう。 話も弾んだものと思われます。また、夜には島崎の自宅で歓談にふけっています。島崎はこれを きっかけにしてほかにも各国の人とさかんに文通をするようになったと伝えられます。

島崎は、仙台エスペラント会に加わったこともあったものの、遠隔地に居住していたことから、 会合に実際に出席することはあまり多くなかったようです。日時が確認できるのは、1932(昭和7)年 10月21日に「突然」来仙して事務所を訪れ、翌日も仙台の会員と交流したことくらいです(Nia Voĉo 1932.10)。 しかし、「氏の流暢なる会話は大きな刺戟を我等に与えた」(同所)や、「職業柄教育に関する 文献を集められてゐる。時々仙台に現れて流暢なエスペラントで同志を魅惑される」(増北)とあり、 仙台のエスペランティストからも一目置かれる存在であったようです。武藤も、島崎が早口の セリシェフと交わす会話の流暢さは仙台のエスペランティストを驚かせるほどだったと、 回想しています。

このように、島崎のエスペラントを使った活動は確かに際立ったものだったと言えます。 ザメンホフ祭にあたって寄せ書きを送られた背景にはこのような事情があったのです。なお、 1934(昭和9)年8月2日にも、例会に集まった仙台の会員が島崎に寄せ書きを送ったとの記録が あります。


第12回日本エスペラント大会
記念写真 (宮城県会議事堂前)
(RO 1924.11. p.16)
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1924(大正13)年7月27〜30日に仙台で開かれた 第12回日本エスペラント大会 に 際して、市民向けの公開展覧会が27〜28日に宮城県会議事堂で開かれましたが、島崎は エスペラントを利用して集めた各国児童の絵画数十点を出品しています。世界各国に呼びかけて いろいろな物を集めることはエスペラントの効用の一つで、今でも行われますが、これはその 極めて早い実践例として注目に値します。

児童画を集めたのは明らかに小学校教員としての関心に基づくものです。したがって、絵画を 日本エスペラント大会だけでしか使わなかったとは考えにくく、勤務する学校でも展示したものと 推測されます。また、外国からの児童画が康雄氏の記憶にもあることから、後の別の機会にも 児童画を集めたことがあったと推定されます。

詩人、童話作家で、小学生らを対象に児童文集の雑誌を編集刊行していた金野巌男(筆名細雨. 1901〜1984)は、いつのことかはっきりしませんが、島崎の協力を得て、エスペラントを 使ってソ連、チェコスロバキア、イタリア、ドイツ、アメリカの小学校教員や画家十数人との間で 児童の図画工作の交換を試みたことを証言しています。ですから、島崎本人も、交換として 勤務校の生徒の絵を外国に送ったことも十分に考えられます。

また、大会の記録によれば、島崎は、教育者分科会で「同氏の小学校の図書研究会で エスペラントを採用し、研究材料を集めつヽある」との「有益な報告」をしたとのことです。 島崎は、おそらくはこの教育者分科会での話し合いにも刺激を受けたことから、翌25(大正14)年 4月、 Instruista Esperanto-Societo の創立にも参加しています(RO 1925.10)。 島崎自身がエスペラントで創立を報告しているこの会の目的として、(1)授業用の資料を外国人と 交換する、(2)教育者の間にエスペラントを普及する、(3)定期的に講習会を開く、を挙げて いますが、"ni, instruistoj, faris alvokon al edukista rondo ... ni fondis ... " の "ni"「我々」や "edukista rondo"「教育者の仲間」が具体的に どの程度の範囲と規模であり、どの程度の反響があったか、明らかではありません。


『東京日日新聞』(宮城版) の記事
(1937.11.30)

少なくとも、島崎本人は近くの教師仲間をエスペラントに誘ったことがわかります。 日本エスペラント学会の『年鑑』 "Jarlibro de J.E.I." (1926年版)には、金山町の 教員、浅田幸政の名前も挙がっています。また、RO 1927.7は、島崎が丸森小学校で教員13名を 対象にして初等講習会を指導していることを伝えています。もっとも、島崎ほど長続きした人は あまりいなかったようです。

島崎のこのような活動は、大正末期ないし昭和初期の山あいの小さな小学校にはめずらしい 国際交流活動として、小学生はもちろん周囲の人たちたちにも大きなインパクトを与えたものと 想像されます。1926(大正15)年刊の『伊具郡誌』には、島崎が「エスペラント島崎捨三氏は エスペラントの先駆者として此の町から平和と人道の聖戦を創造してる。」と短いながら 言及されていますが、このような活動のためでしょう。

島崎は、身近に仲間がいない環境で、文通などによって独自のエスペラント活動を続けて いました。1937年11月30日の『東京日日新聞』(宮城版)には、島崎の文通の活動が報道されて います。記事によると、彼は「支那事変に関する海外諸国の曲解を是正」するために、新聞論説・ 記事などをエスペラント訳してドイツの小学校教員などの文通相手に送ることにしたとのことです。

仙台エスペラント会の会員が島崎に宛てて寄せ書きを書いたザメンホフ祭はこの記事が 現れた2週間後ということになります。会員たちはこの記事のことを知っていて、遠くに 住む島崎を励ます意味があったと推測できます。


島崎捨三宛て寄せ書き (1937年12月14日づけ)

ここにある会員の署名は、他の資料ともつき合わせて、解読することができます。左上から 時計回りに、 喜安善市 (ローマ字)、 勝又照子 (ローマ字)、 菅原慶一 (ローマ字)、 庄司うめの (ローマ字)、 菅原三治、 黒沢艮平(ごんぺい)、 平塚うめ (ローマ字)、 山本耕一、酒井瞭吉、 大泉八郎、 木下康民、 菅原虎彦、 大友信太郎 (ローマ字)、小枝進、真壁良治 (アラビア文字)です。 このうち、戦後になってエスペラントの活動に復帰したことが確認できるのは、 喜安(1915〜2006、のち電電公社電気通信研究所をへて東北大学教授、岩崎通信機常務、日本エスペラント学会顧問)、 菅原慶一(のち自営業、仙台エスペラント会会長、東北エスペラント連盟会長)、 山本(1909〜1990、のち弘前大学教授、弘前エスペラント会会長)、 酒井(1899〜1983、のち東京女子大教授、東北学院大学教授)、 真壁(1917〜1993. のちイスラム研究家)です。 なお、大泉は1944(昭和19)年に、黒沢は1945(昭和20)年に、それぞれ亡くなったとのことです。

菅原の報告によれば、このザメンホフ祭には菊沢季生(1900〜1985、のち宮城学院女子大学教授、 仙台エスペラント会会長、東北エスペラント連盟会長)も出席しています。16名の出席であれば、 菊沢のほかはみな寄せ書きに署名をしたことになります。なぜ菊沢だけ署名しなかったかは、 謎です。

さらに菅原によれば、この場で、長老二氏(黒沢と菊沢)の提案で報国同盟の積極支持を満場の 賛成で決議し、寄付3円あまりを集めています。エスペラント報国同盟は竹内藤吉(1895〜1964)、 藤沢親雄(1893〜1962. 国民精神文化研究所員,のち大政翼賛会幹部、戦後、日大教授)らが中心と なって、エスペラントを国策協力のために使おうと、12月17日に結成されたものです。それに 先だって多くのエスペランティストにタイプ謄写2ページの手紙が送られ、その中で菊沢は地方 委員を依頼されていたようです(諾否は不明)。菊沢は報国同盟に近い立場であろうと目されていた 訳で、それに応えて提案したのでしょう。菅原は「万歳の声にわきかへる ekstera mondo の南京 陥落祝賀行列に呼応するものがあった」と付け加えていますが、この時代の多くの日本人の感覚を 反映した行動だったのでしょう。同様のザメンホフ祭での報国同盟への寄付集めは静岡でも あったとのことです。


島崎の日記の一部 (1938.1.19-21)

記事の実物が確認できませんが、RO 1938.5には『東京朝日新聞』(宮城版, 1938.3.12) に 「事変にもこの認識 ”防共”が結ぶ親善・両訓導 エ語の日独交驩」として、島崎とドイツの 小学校教員との文通について、写真入りで4段の記事が掲載されたことが、仙台支部からの報告と して伝えられています。

二つの新聞記事からすると、島崎が当時の国際情勢の中での日本の立場を宣伝していたかの ようです。この記事は、エスペランティストにみられた戦争協力的活動の一つとしてエスペラント 運動史で取り上げられることがあります。しかし、それほど大げさなものではなかったでしょう。 彼の活動は、エスペラント報国同盟のような組織的な活動ではなく、個人的な文通の一環に すぎなかったと考えられます。

むしろ、島崎がエスペラントを通じて親交を結んでいた相手が同じ小学校教員であったことに 注目すべきでしょう。ここで紹介されている主な文通相手は、ドレスデン近郊に在住していた、 オットー・ライヒェルト(Otto Leichert)です。島崎は、ライヒェルトとの間で30年にわたって 文通を続けていたとのことです。島崎の主目的は、政治的な意見の交換というより、同じ職業の 相手との交流だったと考えてよいでしょう。

戦後になって、島崎は教育分野でのエスペラントの活用を再び目指したようです。彼の名前は 「日本教育者エスペラント連盟住所録」(1953)に記載されています。

また、島崎は死の前日まで30年間にわたって、エスペラントで日記をつけ続けていました。 空欄のままになっている時期もあるようですが、日々の行動や感想をかなり克明に記録した 中身のこい日記です。これには、自分のための覚書という日記本来の目的のほかに、孤立した 環境で語学力を維持するためという意味もあったのでしょうか。いずれにせよ、なかなかまねの できることではありません。

島崎は、長く勤めた小学校を定年退職してから一年ほどで、急逝してしまいました。 RO 1956.6の追悼記事によれば、退職後は、エスペラントをほとんど唯一の生活として、 「わたしが死んでも、そのあとで、エスペラントがほんとうの国際語になるときがかならず やって来る」との強い確信を家族に語っていたとのことです。

参考文献


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このサイトの内容は、後藤斉著『エスペラントを育てた人々』(創栄出版, 2008)の改訂増補版に相当します。



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