1884年3月20日 | リヒテナウ生まれ |
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1924年5月 | 東北帝国大学招聘 |
1929年7月 | 東北帝国大学退職 エアランゲン大学正教授 |
1930年3月3日 | 博士論文“Die metaphysische Form1. Band der mundus sensibilis”で 文学博士号取得(東北帝国大学) |
1955年4月18日 | 死没 |
1884年生まれ、1955年没。
ヘリゲルはリヒテナウに生を受け、故郷に近いハイデルベルク大学で神学を、ついで哲学を学んだ。新カント派の影響の下で研究活動をはじめ、後年には師であるエミール・ラスクの全集を編纂することになる(Emil Lask Gesammelte Schriften Bd. 1-3, J.C.B. Mohr, 1923-24)。第一次世界大戦に従軍したあと、ハイデルベルク大学で私講師に就いていたが、東北帝国大学に招聘されて1924年5月に来仙。その後、あしかけ5年にわたって当地で哲学と古典語を教授した。ヘリゲルの弟子である稲富栄次郎(1897年〜1975年:広島文理科大学、上智大学)の回想によれば、ヘリゲルは講義でもっぱらロッツェ、ラスクらの議論を取り上げる一方、コーヘンやナトルプといったマールブルグ学派のひとびとを徹底的に批判していたようである(稲富「ヘリゲル先生の想い出」、153頁以下)。ドイツへの帰国は29年、翌30年3月には「Die metaphysische Form 1. Band(「形而上学的形相 第一巻)で東北帝国大学から博士号を取得した。
ヘリゲルの仕事のうちとりわけ日本でよく知られているのは、柴田治三郎の翻訳により岩波文庫に収められた『日本の弓術』であろう。これはもともと、1936年2月にベルリン独日協会で行われた講演Die ritterliche Kunst des Bogenschiessens(「弓に関する騎士的なわざ」)の原稿であった。柴田は早くも同年には、「弓術に就いて」というタイトルで『文化』第三巻第九号(東北帝国大学文科会)に翻訳を掲載していた。同著の冒頭では、ヘリゲルが弓道に励むようになった経緯について語られている。それによると、機縁となったのはドイツ神秘思想、わけてもマイスター・エックハルトについての研究であったらしい。来仙後のヘリゲルは、ハイデルベルク時代からの知己であった石原謙とエックハルト研究を進めており、研究対象について理解を深めたいと考えた。そのため、ドイツ神秘思想との同様の精神性を示すものとされた弓道の鍛錬に関心を持ち、弓道家の阿波研三に師事したようである(仙台時代の交流については、石原の項目を参照)。なお、『日本の弓術』を敷衍したのが『弓と禅(Zen in der Kunst des Bogenschiessens)』であり、前述の稲富と彼の同学であった上田武によって翻訳された。
なお柴田は1982年に『日本の弓術』に改めて付したあとがきで、ヘリゲルを評して、戦闘の技としての弓を精神的に昇華する「深淵高邁な精神の哲人」としつつ、同時にその哲人が武士道や愛国心を無限定に称揚していることを不可解としている(柴田「新版への訳者後記」『日本の弓術』岩波書店、1982年、110頁)。現在では、ヘリゲルがドイツ帰国後に国民社会主義の支持者となったことがある程度よく知られているが、柴田の疑念はこうした事情と関連づけて捉えられるべきかもしれない。