1883年2月17日 | 愛媛県伊予市生まれ |
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1901年 | 海軍兵学校、日露戦争に従軍後に退役 |
1909年 | 東京帝国大学哲学科選科入学 |
1912年 | 東京帝国大学哲学科卒業 |
1929年 | 東北帝国大学 |
1936年 | 文学博士(東北帝国大学) |
1944年 | 退官 |
1953年 | 東洋大学教授 |
1972年5月24日 | 死没 |
久保は愛媛県生まれ。安倍能成(1883年〜1966年)とは松山中学校時代の同級生で、晩年に至るまで友人関係にあった。久保の事績に関しては、東京帝国大学で哲学を講じていたR・ケーベル(Raphael von Koeber:1848年〜1923年)との交流がよく知られている。久保がケーベルに親しく師事するようになったのも、安倍の仲立ちと、同じく交流のあった魚住折蘆(1883年〜1910年)の引き回しによるところが大きかったようである。安倍の記憶によると、久保は1911年から3年に渡ってケーベル家に寄寓した。その後、師が横浜のドイツ領事館に向かうと自らも後を追って横浜に居を移し、23年6月14日のケーベル死没の日までその身辺を世話したようである。久保はその後、25年にドイツへ向かい、ハイデルベルク大学やベルリン大学に留学。3年後の28年に帰国すると、29年には東北帝国大学に職を得て当地で西洋哲学と古典語を教授した。哲学第二講座の主任教授であった石原謙が東京女子大学に去った40年以降は、44年の退官までその任を引き継ぐことになる。
久保は東北帝国大学着任以前から在職中にかけて、ギリシャ哲学に関する仕事を多く残した。たとえば、仙台で同僚となる阿部次郎(1883年〜1959年)との共訳により、プラトンの『ソクラテスの弁明・クリトン』(1921年)、『饗宴』(1934年)の翻訳を岩波書店から出版。また、『プラトン国家編』(1936年)や『プラトン』(1939年)といった著作もおおやけにした。このうち前者は国家編に関する解説、後者はプラトンの教育論に関する検討である。特に後者の「序」では久保自身の教育に関する見解が開陳されており、興味深い。彼にとってプラトンが重要であったのは、この哲学者が「精神史上乃至道徳政治思想発達史上の地位から観て現代文化諸国に酷似せる同時代の祖国アテナイのために、当時の個人主義や民主主義の病弊を痛感した」ためであったという。世界戦争のあとに生じた「現代の思想的混乱と不安」「何が人生の究極目的であるかについて、人々の間に意見の一致が認められぬ」ことを考えると、ペロポネソス戦争以降の時代と現代とには共通点が認められる、ここから生じた教育における欠陥を補うためにこそ、プラトンは役立つだろう、というのが久保の見立てであった(久保『プラトン』、2頁以下)。
これに加えて注目すべきは、やはりケーベルの随筆集の編纂と翻訳であろう。19年には早くも深田康算(京都大学、1878年〜1928年)とともに作業をはじめている(『ケーベル博士小品集』『続小品集』『続々小品集』、岩波書店)。東北帝国大学任官中も、久保はケーベルの縁者を集めて会を開いていたようである。退官後、『ケーベル先生とともに』を出版。師の記憶をくまなく顕彰した。