東北大学大学院文学研究科哲学研究室に残された肖像。
(東北大学文学研究科哲学研究室所蔵)
1886年11月28日 | 山形県東置賜郡上郷村上新田生まれ |
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1907年7月 | 東京帝国大学文科大学哲学科入学 |
1910年7月 | 同上卒業、大学院進学 |
1921年3月 | 東北帝国大学理学部助教授 |
1924年3月 | 同法文学部 |
1925年11月 | 文部省在外研究員としてヨーロッパ留学、リッケルトやフッサールの教えを受ける |
1928年2月 | 法文学部教授、哲学第一講座担当 |
1937年8月 | 法文学部長 これ以後、三度法文学部長 |
1948年4月 | 東北大学退職、「包弁証法」で文学博士号取得(東北大学) |
1949年4月 | 第九代東東北大学学長、三選 イールズ事件(1950年)の処理に当たる |
1957年6月 | 東北大学総長辞任 |
1964年5月6日 | 死没 |
1886年生まれ、1964年没。近現代ドイツ哲学の研究者、第九代東北大学学長。
高橋里美が日本哲学史に残した最初の事跡といえば、西田幾多郎に対する批判であろう。高橋(里)は大学院進学間もない1912年に発表した「意識現象の事実とその意味』を読む」で西田『善の研究』を取り上げ、特にその純粋経験概念について批判的な検討を加えている。これに対して西田は、「高橋(里美)文学士の拙著『善の研究』に対する批評に答ふ」で応答し、以降両者のあいだで交流がはじまることとなった。
21年になると高橋(里)は東北帝国大学理学大学に奉職。24年には法文学部へ移籍。翌25年、文部省在外研究員としてヨーロッパ留学に向かい、フライブルク大学でフッサールの教えを受けることになった。彼が出席したフッサールの講義は、26・27年冬学期「現象学入門(Einführung in die Phänomenologie)」、27年夏学期「自然と精神(Natur und Geist)」。このとき学びえたことをもとに執筆した諸論文は、31年に『フッセルの現象学』としてまとめられ、日本へのフッサール現象学導入にとって端緒をなすものとなった。
28年に帰国、ただちに哲学科第三講座(のち第一講座と改称)の主任教授に就任。理論哲学の体系的な彫琢につとめる。高橋哲学の姿がある程度かたまりはじめた時期の著作としては、32年の『全体の立場』が挙げられるだろう。同著序文は、西田批判論文以降の二十年間に、みずからの哲学においてなにが保存され、なにが放棄されたかを事細かに検討したものである。高橋(里)の見るところ、西田批判論文には「発展を自らのうちに包む発展全体としての静止という思想や、これを内容的には「愛」と見なす感情―実在の思想」(『高橋里美全集』七巻、251頁)という、自らの哲学体系を特徴づける基本的要素がすでにして含まれていたという。ここで言及されている発展的全体としての静止や愛についての思想は、『体験と存在』(36年)、『歴史と弁証法』(39年)、『包弁証法』(42年)といった代表的著作を貫くものであり、現象学・新カント派・西田哲学との対決を潜りぬけることで徐々に完成へと至ったものであった。
対立を対立として捉えるよりも、和のための対立として、全体の立場のうちに「包越」しようとする高橋(里)の主張は、彼の思想ばかりでなく、個人的な人柄と関連づけてしばしば回顧の対象となった。彼の思い出を書くひとびとは、議論における粘り強さ、学内行政における意見聴取の手厚さだけでなく、その「村夫子」らしい包みこむような温かい人柄に言及することが多い。現在、東北大学史料館には学長時代の高橋(里)の訓示を録音した音声データが残されているが、一聴すると訛りの強い朴訥たる語り口からそのひととなりがよく察せられるようである。なお、仙台空襲での喪失を免れた蔵書の一部は、56年に山形大学に譲渡され、現在では山形大学附属図書館小白川図書館に「高橋文庫」として収蔵されている。