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『エスペラント』(La Revuo Orienta) 第76巻(2008)10月号, pp.6-7. 掲載

『エスペラント日本語辞典』の使い方(8) エスペラント語法

後藤 斉


「エスペラントには文化がない」という誤解をしている人がいます。確かに、エスペラントが 特定の国家や民族、地域と結びついておらず、特定の民族文化、地域文化に基礎を置いていない ことは、エスペラントの存在理由であって、指摘してもらうまでもないことです。

しかし、同時に、エスペラントが言語を異にする人々の間でのコミュニケーションのために 120年以上にわたって実際に使われてきたこともまた、だれにも否定できない事実です。自分の 母語に加えて、特定の民族集団に属さない言語を意識的に選択した上で学習して使用するという 行為は、エスペランティストを特徴づけるものであって、エスペラントの言語共同体はそのような 共通の行動によってゆるやかに結ばれています。そのような行動様式を基礎にしてエスペラントの 文化が成立していると捉えることは、十分に可能です。

言語としてのエスペラントにも、他の言語とは違った独特のパターンが見られることがあり、 これもまたエスペラントの文化の一部と捉えることができます。このようなエスペラント特有の 語法を、広い意味で、エスペラント語法ということができるでしょう。

その最もわかりやすい場合は、特定の単語にみられる派生的な語義でしょう。形容詞verda 「緑の」がその好例です。緑はエスペラントのシンボル・カラーであるため、この語は 「エスペラントの」という派生義を帯びるようになりました。verda standardo 「緑星旗」は 実際に緑色ですが、「verda familio 緑の家族〔全員がエスペラントを話す家族〕」では、すでに 色は無関係になっています。krokodilo「クロコダイル〔アフリカのワニ〕」から派生した動詞 「krokodili 〔エスペラントで話すべき場面で〕母語で話す」にも、独特の語義の展開が見られ ます。これらは目立つ例ですので、これまでの辞書でも扱われてきました。

もう一つ目立つ場合として、エスペラントの歴史の中の出来事やエスペラントの活動の中で 発達した独自の制度を指す表現が挙げられます。「Pasporta Servo パスポルタセルボ〔国際民宿 サービス〕」などがそれにあたります。主要なエスペラント団体名、雑誌名など、エスペラント 史上の人名も同様です。「Kabe カーベ〔エスペラントの辞典編纂((へんさん))者・翻訳者の筆名; 本名 Kazimierz Bein カジミェシ=ベイン〕」がその一例です。

これらの語句は、エスペラント独特のものですから、単に日本語の訳語を挙げるだけでは 足りないことが多いため、例に挙げたもののように、補足的な説明をけてあることが普通です。 また、専門分野と同様の扱いとして、分野記号【エス】が表示されています。

地名に関しては、国名をはじめとして、世界の多くの主要地域名、都市名はもともと記述の 対象ですが、特にエスペラントに関連して顕著な活動が行われている場合には、エスペラント分野 として記述されます。「Grezijono グレジヨン〔フランスの町オージェにある, 城を利用した エスペラント研修施設〕」などがそれに当たります。エスペラントの分野記号はつけなかった ものの、関連した補足説明をつけた例もあります。「Montevideo モンテビデオ〔ウルグアイの 首都. 1954年, 第4回ユネスコ総会でエスペラント支持の決議が採択された〕」などです。

このような知識は、大部分のエスペランティストの共有となっているものであって、 エスペラントで読み書きや会話をする際に有用であり、時として必要でもあります。エスペラント 文化の一部をなしていると言ってさしつかえないのです。

ただし、『エスペラント日本語辞典』は百科事典ではなく、言葉の辞典ですので、重要なものを すべて挙げているわけではありません。Kabeの名前を挙げているのは、動詞「kabei 〔活発に活動したのち, Kabe のように〕突然エスペラント界から姿を消す」を派生させている ことも大きな理由です。初期エスペラント史の上での評価としてであればGrabowskiの名前も 落とせませんが、この名前の場合には派生語や比喩的な語義の発生が見られないため、言葉の 辞典としては項目を立てるに至らないという判断になりました。

事物の知識以外に、言葉のレベルに属する共通知識もあります。この連載の「語義」や 「用例」の回でも触れましたが、単語や語義によっては特定の文への強い連想を伴うものが あります。「voko 呼びかけ, 呼び声」は基本動詞からの派生名詞ですが、Tra la mondo iras forta voko.という、エスペラント賛歌“La Espero”の一節への連想があります。このような 連想も、エスペラント語法と言えます。

エスペラント語法は、もう少し広く見ることもできるかもしれません。エスペラントは、 地域に基礎を置いていないことから、従来、使用の場面として、日常生活に比べて大会参加や 国際文通、団体への加入、雑誌購読、図書購入などの比重が大きかったことは、良くも悪くも 事実です。その結果、このような場面で使う単語や文の重要度が他の言語の場合より相対的に 高かったと言えます。この事実はこの辞書の用例の選択にも反映されているのですが、「aboni 〔前金で〕<雑誌・新聞などを>定期購読している」、「kotizi 会費を払う」などの見出し語が ランクの上で比較的高く扱われ、それに応じて、用例や副見出し語も多くなっていることにも 現れています。

周知のように、エスペラントの使用場面は、コンピュータネットワーク利用の方向にシフト しつつあります。この辞書では、この分野の用語も広く拾ってありますが、それらが急速に 日常化しつつあるという、世間一般でも成り立つ自明の理由の他に、エスペラントの使用にとって 大きな比重を占めている領域だからという理由もあるのです。

エスペラントの文化の一部とも言える実際の言語使用の研究はまだあまり進んでいないため、 十分にカバーできたと言えない面も残っていますが、『エスペラント日本語辞典』はその方面に できるだけ配慮しようとしたのです。

klarigo de la traktado de esperantismo en Esperanto-Japana Vortaro.


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